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第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(三) 梁簡文帝・元帝の文才と「總集」編纂の關係

『梁書』本傳においては、上記の如く、昭明太子の學問や詩文に對する傑出した才能と愛好ぶりが明記されている。從來の論者は、この記事を根據に昭明太子が自ら企圖した總集編纂を側近文人に委任するはずはないと判斷したのである。史書の記載や遺存する著述から見て、昭明太子が文學を愛好し、傑出した才能を有していたことは確實であり、問題はない。

しかし、『梁書』簡文帝紀(巻四)及び元帝紀(巻五)には、下記のごとく昭明太子の同母弟簡文帝蕭綱・異母弟元帝蕭繹に對しても、太子のそれと類似した褒辭表現があり、決して特に昭明太子一人だけを傑出した文人として記述しているわけではない。史書は三兄弟とも同等に傑出した才能を有し、學問や詩文に對して深く愛好していたことを明記している。現存している三兄弟の詩文集を見ると、量的にも質的にも、むしろ簡文帝や元帝の方が昭明太子をはるかに凌ぐ才能を有し、注目すべき作品を多數遺している。

◎太宗幼而敏睿、識悟過人、六歳便屬文、高祖驚其早就、弗之信也。乃於御前面試、辭采甚美。高祖歎曰、此子、吾家之東阿。既長、器宇寛弘、未嘗見慍喜。方頬豐下、鬚鬢如畫、眄睞則目光燭人。讀書十行倶下。九流百氏、經目必記。篇章辭賦、操筆立成。博綜儒書、善言玄理。自年十一、便能親庶務、歴試蕃政、所在有稱。在穆貴嬪憂、哀毀骨立、晝夜號泣不絶聲、所坐之席、沾濕盡爛。(中略)及居監撫、多所弘宥、文案簿領、纖毫不可欺。引納文學之士、賞接無倦、恒討論篇籍、繼以文章。高祖所製五經講疏、嘗於玄圃奉述、聽者傾朝野。雅好題詩、其序云、余七歳有詩癖長而不倦。然傷於輕豔、當時號曰、宮體。所著昭明太子傳五巻、諸王傳三十巻、禮大義二十巻、老子義二十巻、莊子義二十巻、長春義記一百巻、法寶連璧三百巻、並行於世焉。(簡文帝紀)
◎太宗幼くして敏睿、識悟人に過ぐ。六歳便ち文を屬る。高祖其の早就に驚き、之を信ぜず。乃ち御前に於いて面試すれば、辭采甚だ美し。高祖歎じて曰く、此の子は、吾家の東阿なり。既に長じ、器宇寛弘にして、未だ嘗て慍喜を見はさず。方頬豐下、鬚鬢畫の如し。眄睞すれば則ち目光人を燭らす。讀書十行倶に下る。九流百氏、目を經れば必ず記す。篇章辭賦、筆を操れば立ちどころに成る。博く儒書を綜べ、善く玄理を言ふ。年十一自り、便ち能く庶務に親しみ、蕃政を歴試し、在る所稱する有り。穆貴嬪の憂に在りては、哀毀骨立し、晝夜號泣して聲を絶やさず、坐する所の席、沾濕して盡く爛す。(中略)監撫に居るに及んでは、弘宥する所多し。文案簿領、纖毫も欺く可からず。文學の士を引納し、賞接して倦む無し。恒に篇籍を討論し、繼ぐに文章を以てす。高祖の製る所の五經講疏、嘗て玄圃に於いて奉述せしとき、聽く者朝野を傾く。雅に題詩を好み、其の序に云ふ、余七歳にして詩癖有り、長ずれども倦まずと。然れども輕豔に傷ひ、當時號して宮體と曰ふ。著はす所、昭明太子傳五巻、諸王傳三十巻、禮大義二十巻、老子義二十巻、莊子義二十巻、長春義記一百巻、法寶連璧三百巻、並びに世に行はる。

◎世祖聰悟俊朗、天才英發。年五歳、高祖問、汝讀書何書。對曰、能誦曲禮。高祖曰、汝試言之。即誦上篇、左右莫不驚歎。初生患眼、高祖自下意治之、遂盲一目、彌加愍愛。既長好學、博總羣書、下筆成章、出言爲論、才辯敏速、冠絶一時。高祖問曰、孫策昔在江東、于時年幾。答曰、十七。高祖曰、正是汝年。賀革爲府諮議、敕革講三禮。世祖性不好聲色、頗有高名、與裴子野・劉顯・蕭子雲・張纉及當時才秀爲布衣之交、著述辭章、多行於世。(中略)所著孝徳傳三十巻・忠臣傳三十巻・丹陽尹十巻。注漢書一百一十五巻・周易講疏十巻・内典博要一百巻・連山三十巻・洞林三巻・玉韜十巻・補闕子十巻・老子講疏四巻。全徳志・懷舊志・荊南志・江州記・貢職圖・古今同姓名録一巻、筮經十二巻、式贊三巻、文集五十巻。(元帝紀)
◎世祖、聰悟俊朗にして、天才英發たり。年五歳たりしとき、高祖問ふ、汝、何なる書を讀みしやと。對へて曰く、能く曲禮を誦すと。高祖曰く、汝試に之を言へ。即ち上篇を誦す。左右驚歎せざるなし。初め生れしとき眼を患ふ。高祖自ら意を下して之を治さしむるも、遂に一目を盲しい、彌いよ愍愛を加ふ。既に長じて學を好み、博く羣書を總ぶ、筆を下せば章を成す、言を出だせば論を爲す、才辯敏速にして、一時に冠絶す。高祖問いて曰く、孫策、昔江東に在り、時に年幾さいなるや。答へて曰く、十七なり。高祖曰く、正に是れ汝の年なりと。賀革、府の諮議爲り、革に敕して三禮を講ぜしむ。世祖、性聲色を好まず、頗る高名有り、裴子野・劉顯・蕭子雲・張纉及び當時才秀と布衣の交を爲し、著述辭章、多く世に行はる。(中略)著はす所、孝徳傳三十巻・忠臣傳三十巻・丹陽尹十巻。注漢書一百一十五巻・周易講疏十巻・内典博要一百巻・連山三十巻・洞林三巻・玉韜十巻・補闕子十巻・老子講疏四巻。全徳志・懷舊志・荊南志・江州記・貢職圖・古今同姓名録一巻、筮經十二巻、式贊三巻、文集五十巻あり。

この「傑出」した才能を有した詩文愛好家の簡文帝及び元帝は、上述の通り、「正史」に自身の「撰」であると明記されている多くの「總集」を實際には有力な側近文人に委任して編纂させている。

この事實から見る限り、『梁書』本傳にいくら昭明太子の詩文の才能や愛好が記述されていようとも、これを以て太子自らが『文選』編纂を「主持」し、實質的編纂を實行したと斷定する根據とはなり得ない。つまり、『文選』編纂の實態を究明するに際して、『梁書』本傳に記された太子の文學的才能や愛好は、直接選録を「主持」したかどうかを決定すべき與件とはなり得ないのである。この結果、從來の昭明太子「主持」説は全く確實な立論の根據を失ったことになる。


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