第2章-4-4へindexへ第2章-4-6へ

 

第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(五) 『文選』編纂時に於ける昭明太子集團の情況

天監八、九年の頃に太子に仕えていた主な有力文人は、久しからざる間にそれぞれ他職に轉任している。それに加えて、太子の年齢が八、九歳となお幼かったので、いくら早熟の才子であるとは言え、この頃に既に著名な才學の士であった文人たちとまともに篇籍を討論し、學士と對等に古今を商榷することなどとても無理であっただろう。當時、劉孝綽・王筠はともに二十八、九歳。陸は三十九から四十歳。到洽は三十二、三歳。張率は三十四、五歳であった。それ故、『梁書』本傳の「才學の士を引納し、賞愛倦く無し。恒に自ら篇籍を討論し、或いは學士と古今を商榷し、間あれば則ち繼ぐに文章著述を以てする。率ね以て常と爲す。時に東宮に書有り、幾三萬巻に幾し。名才並びに集ひ、文學の盛なること、晉宋以來未だ之有らざる也。」という生活は、太子の元服(十五歳)後、上記の有力文人たちが再び東宮職に就き、太子の坐に顔をそろえた天監十四年以後の生活ぶりを記したものに違いない。

このような宴坐において側近の有力文人たちと常に篇籍を討論したり、古今の經籍を商榷したりしていたという昭明太子の日常生活は、確かに『文選』選録の場として非常に相應しいものである【注11】

それ故、從來の論者の多くは、恐らくこの『梁書』の記載を見て、『文選』は、この昭明太子を中心とした宴坐において、古今の詩文の優劣を討論して得られた結果を實際に側近文人が整理編纂して作り上げたものであると確信したのであろう。この先入觀が『文選』は昭明太子の「主持」の下に編纂されたという説を生み出し、固定化してしまうのである。その結果、昭明太子の著述から彼の文學觀を歸納さえすれば、それがとりもなおさず『文選』の選録基準に一致するものと考え、上述の結論を得て満足してしまったのであろう。それ故、劉孝綽などの有力文人を中核として『文選』の實態を究明しようとする方法や『文選』の收録作品から選録基準を歸納しようとする究明法は全く等閑に付されたまま放置され、『文選』の實像究明は實質的には閉塞状態に陷ってしまっていたのである。

昭明太子を中心とした上述のような宴坐は確かに『文選』選録の場として適當に違いない。しかし、實際にはこのような日常生活は、天監十四年の元服以後ずっと繼續して行われていたわけではない。だから、この時期を全く調査檢討することなく、いきなり『文選』の編纂と直結させてしまうのはやはり早計に過ぎよう。

『梁書』ではこうした才學の士を集めて、學問・詩文に對して商榷・討論していた時期について明確に特定はしていないが、昭明太子傳・劉孝綽傳・王筠傳のその部分の記載がすべて天監十四年の太子の元服から普通六年の劉孝綽の免職にかけての時期と讀み取れる位置に配置して記されている。

更には『梁書』各列傳の記載によって、主な側近文人の經歴を一々調査してみると、殆どの文人が『文選』の編纂された時期(陸卒年の普通七年以降)より以前に既に東宮を離れ、こうした宴坐に列席できなくなっていることが分かる。それ故、太子の宴坐での討論・商榷を直接『文選』の編纂と結び付けて考えるのはおよそ誤解であると判定してよかろう。しかし、それは決してこの宴坐での討論・商榷の結果が後の『文選』編纂の際に、多大の影響を及ぼしたことまでをも否定するものではない。

昭明太子文學集團の中心的存在であった劉孝綽は、天監初に著作佐郎に起家して後、間もなく太子舍人になっている。それ以來、安成王の記室として地方に出たり、免職になったりすることはあったものの、殆んどの期間、東宮職にあって常に太子の宴坐に列席していた。しかし、普通六年には、御史中丞到洽により、前年の廷尉卿任官の際に、妾を攜えて官府に入り、母親を私宅に停めておいた件を彈劾され、裁判の結果、免職となり、蟄居を餘儀なくされている【注12】

そして、その後間もなく荊州の湘東王府に出仕し、遠く都を離れているので、普通六、七年の二年間は、昭明太子の宴坐に列席することは不可能な状態であった。

もう一人の太子集團の有力文人であった王筠は、天監初に臨川王行參軍に起家して後、間もなく太子舍人に遷っている。以來、太子洗馬・中舍人を累遷し、東宮管記を掌り、殆ど常に太子の宴坐に列席していたようである。しかし、彼も普通元年から三年間、母の喪に服した後、服喪の無理がたたって罹病し、普通六年まで療養につとめている。當然、この期間は宴坐に參加することはできない状態にあった。

到洽は、天監七年に太子中舍人に遷り、陸とともに東宮管記を掌ったのを始として、太子家令・太子中庶子などを歴任、ずっと太子の禮遇を受け、宴坐に列席していたようである。しかし、彼も普通二年より三年間、母の喪に服して後、一旦太子中庶子に復職するはずであったが、拜さず。そのまま尚書左丞、御史中丞を歴任している。その後、尋陽太守として地方に赴任し、大通元年にはその地で卒している。だから、結局到洽も普通二年以後、殆ど太子集團の宴坐に列席していない。

は、太子中舍人となり、東宮書記を管掌したのを皮切りに、太子庶子・太子中庶子を歴任、長年、太子側近として仕えている。その間宴坐にも列席していたが、普通六年には、太常卿・揚州大中正となり、翌七年に卒しているので、この頃にはもう列席できない状態にあった。その上、彼の「新漏刻銘」・「石闕銘」の二作が『文選』に採録されている以上、陸が直接『文選』編纂に關與したとは考え難い。

張率は、梁書本傳の「俄に太子家令に遷り、中庶子の陸・僕射の劉孝綽と東宮管記を對掌す。黄門侍郎に遷る。出でて新安太守と爲り、秩満ちて都に還る。未だ至らずして、所生母の憂に丁ふ。大通元年、服未だ〓けざるに卒す。時に年、五十三。」という記事から見て、普通六、七年には新安太守として地方に赴任しており、その後は太子の宴坐に參加していない。

殷鈞は、普通五年から、陸襄は普通六年から、それぞれ生母の服喪のため、ともに東宮職を離れ、宴坐に列席していない。

その外、「十學士」に名を連ねていた謝擧(普通六年、左民尚書・吏部尚書・侍中から晉陵太守に出ている。)・王規(普通六年、侍中となっている。)・張緬(普通六年以降、豫章内史として地方に赴任している。)・王錫(普通三年、二十四歳の時、給事黄門侍郎・尚書吏部郎中に遷ったが、疾と稱して拜せずに斷った後、「賓客を拒絶し、扉を掩して覃思し、室宇蕭然たり」という生活を送っていた。)・張纉(普通初に、大尉諮議參軍・尚書吏部郎となり侍中を兼ね、大通元年には寧遠華容公長史として地方に出ている。)の四人についても、同樣に昭明太子の宴坐に列席する状態になかったと言える。

このように普通六年以後は、主な側近文人は殆んど東宮職を離れ、地方に出たり、喪に服していたり、免職にあって屏居したりしており、とても宴坐には列席できる状態になかった。つまり、『梁書』に言うような、昭明太子が東宮の宴坐に才學の士を集めて、學問・詩文に對して討論・商榷するような生活はもうできなくなっていたのである。


次へ