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(講演)京都の支那學と私

白川 静 

 

II

大體私が勉強をしますときには、その後の勉強の仕方におきましても、この人と思うような研究者の學問の全容を、全體系においてうかがうというようなことを致したいと思いまして、なるべく全集を買いました。もちろん湖南先生の全集も持っておりますし、京都學派の支那學の關係の方の全集はほとんど持っております。東洋學・國文學併せて、大體全部で20全集ぐらいございます。そして私は時々そういう人たちの一代の業績を垣間見ながら、いろいろなことを思うのです。

特に内藤先生のはときどき出して讀んでみました。全集がでるまでにもいろんな書物を、單行本で出ましたものは買い求めまして、そういうものを讀んでおったんでありますが、學問をする上に、單に學問をしたいからする、というようなことではなくて、學問をせざるを得ないというような、そういうその人自身にとっての内部衝迫的な、内から突き出てくるというようなものが、それぞれの研究者の中にはある、ということを感じるようになりました。そういうものを受け取りたい、そういう氣持ちで全集を時々出して、いろいろ眺めてみる、というようなことをしたのであります。

内藤先生のことは、そういうふうに私が一番最初に、いわゆる私淑ですね、『孟子』がいうところの私淑である。直接にその人の教えを受けることはできんけれども、ひそかにそれに習うて自らをよくするという、そういう私淑という氣持ちで先生の著作に接しておった。大體全集を出されるほどの人の研究業績というものは、それなりの體系を持ったものでありますから、それぞれ魅力的なものであります。だから私は時々そういう方々の書物を眺めてみるのです。それで内藤先生の書物は、私もいろいろ讀みましたのです。まだ全集が出るより前に、單行本をかなり讀んでおりました。

その中で大變感銘を受けた書物がありますが、それは『關西文運論』という初めの題であったかと思います。内藤先生は御承知のように、あんまり正規の學問をなさらんで、もちろん大學なんか出ておられんのです。ほとんど獨學、或いは人についてそれぞれのことを學ばれる、というようなことをやりまして、何しろ明治になる前の、私より45歳年上でございます。だから慶應2年ぐらいになるのではないかと思いますんですがね、ほとんど學歴のない方なんです。

經歴によりますと、12歳の時に『日本外史』をお父さんから讀みを教わった。しかし17歳の時には祖父の方の墓を展墓する時に、その御祭の文章をもう漢文で書いておられる。18歳の時には小學校の訓導になり、20歳の時には校長になっておられる。昔であるから學問のできる人は出世が早かったんでありましょうけれどもね。それから新聞記者になって、毎年社が變わっておりますが、28歳の時にはもう朝日新聞の主筆になっておるんです。28歳です。弱冠28歳にしてもう主筆になっておられる。そして主筆になって直ちに書き出されたのが、今申しましたその『關西文運論』であります。そして先生が30歳ぐらいの時に、それはもう出版されておる。

その書物は後に『近世文學史論』という題になっておりますように、江戸期における日本の文學の歴史を書かれたものです。その書かれとるものをずっと讀んでみておりますと、どうにも大變引っ掛かるところがあるんです。ことごとに關東をくさして、ことごとに上方を襃めるというね、そういうなにかがあるんです。どうしてそういう風なことになるのか、それはまあ事實關係において確かにそれに違いがない。論述をみておりますと、確かにそれに違いないんです。そこに出てきますものは、富永仲基や、山片蟠桃であるとか、三浦梅園であるとかね、そういう關西の方の非常に特殊な研究をした人たちのことを稱揚して、關東のことを江戸の戲作調子でくさしてある。

どうも私はそれが腑に落ちなかったのですけれども、いろいろ考えてみますと、あの方は青森の南部藩の人ですね。南部藩の人で、南部藩は會津に與して江戸幕府に抗戰をして、そのために維新以後皆士族の籍を失うて、非常に悲慘な生活に追いやられた藩です。反薩長のいわば急先鋒であったわけですね。だから薩長の連中が出てくる前に、江戸のそういうふうなものに對する一種の慷慨の心、志というようなものがあったのではないかと思う。それから薩長の政府ができましてから、あの明治の元勳といわれるような人たちに對して、あの人はいろんな評論を書いておりますけれどもね、實に嚴しい調子で批判を加えておる。伊藤博文のごときは、もうこんなにまで言ってよろしいのかというような調子の評論をしておるんですね。だからそういうところからみますと、やはりそういう生い立ちの中から、自分の中に自然に育ってきた一種の感情、氣持ちというようなものがあって、そういうものが學問のうえにも、それから評論のうえにも、また生き樣のうえにも、表れてきておるのではないかと思う。

先生が京都大學の教授になられるとき、京都大學ができましたときにね、文部省は先生に學歴がない、學問的な業績がないという理由で、教授に任用することを拒んだのです。どうしても講師でなければいかん、例えば儒教の開祖である孔子のごとき方であるとしても教授にはできんというのが、文部省の主張であったそうであります。そういう話が殘っておる。内藤先生は2年待たれてそれから後に教授になられるんです。そして初めて學問的な文章を書かれる。それまで新聞記者などをしておられて、評論的な活動をなさっておって、そしていきなり學問の世界に入られた。その仕事がこれまた實にすばらしい。清朝の考證學を十分に理解した上で、そのうえに展開するであろう學問的な方法というものを發揮して、珠玉のような論文を書かれた。

たとえば「爾雅の新研究」という、『爾雅』という古い字書があるんでありますけれども、それの成立の過程を睨みながら、古典の成立の過程を逆に組み上げていく、という實にすばらしい論文であります。短い論文でありますけれどもね、私は大變感銘をした論文であります。それからまた『易』についての「易疑」、『易』についての疑いという「易疑」という論文がございます。これも簡單な論文でありますけれども、『易』は現在六爻を一卦として組織されておるけれども、本來はそういうものではなかったのではないか。『易』の爻辭の組み立て方をみますと、六爻あるうち五爻が同じような表現をとる組み合わせになっておるけれども、大體六爻揃うたというようなものはほとんどない。五爻一組という組み合わせが中心になっておる。だからこれは本來は五本一組の籤のような、寺や神社なんかでよくおみくじとして引きますね、あの籤のような形のものであったのではないか、というような論を立てられる。

『易』について他にまだ發言がございましたけれども、とにかく『易』の全構成、その構成の仕方というものを視野において、その中で矛盾とすべきような點、疑問とすべきような點があれば、そういうものを的確につかみ出して、そしてそこから自分の推論を展開していく、というようなそういう方法をとられる。方法論が非常にしっかりしておるんでおります。

それからまた從來の學問の傳統に捉われない、新しい方法、新しい學問の分野というようなものを、常に意圖しておられたんではないかというふうに思います。だから先生が書かれた本は、たとえば繪畫のことにしましても、『支那繪畫史』という大變すぐれた書物がございます。從來日本でも中國でも、これを一つの歴史的な分野として、歴史觀の上に立って、その展開を整理したというものはありませんのですが、これを初めてやられた。また史學史というようなものも書かれた。これも從來になかった分野である。或いは清朝史という新しいものもまとめられる。また滿州のいろんな研究というものをなさるというふうに、先生の仕事はほとんど獨創であり、しかもその方法もまた獨創である、という大變すぐれた研究をなさった。先生の生涯のそういう學問を、こうしてずっと通じてみますと、新聞記者時代までの學問のやり方というものは、先生が南部藩出身であったという、その出身に直接に關わるものであった、というふうに私は考えることができると思うのです。

それから京都大學教授になられた後の學問は、これは京都大學は東京大學のいわば對抗的な學問の場所として、官學ではありますけれども、しかし官學一尊の立場を許さんという、東京大學に對する批判的な學問の場所を提供するという意味で、京都大學は創られたというふうに聞いております。これは私の大學の中川(小十郎)總長が設立の責任者として、その事務を擔當されたので、私も先生からそういう話を聞いておるんであります。東京に對する一種の批判的な學問的な基盤、據點というふうな意味で京都大學が設立されたというふうに聞いておるんであります。

當時の東京大學の東洋學の傳統というふうなもの、御名前を挙げますと服部宇之吉であるとか、宇野哲人というな人であるとか、大體どちらかといえばあまり自己主張のない學問であります。服部先生は禮學には非常に深かったけれどもね、それ以外のことにはあまり口を出されなかった。宇野哲人さんの『支那哲學史講話』は、哲學をやった人の目から見れば、これは哲學史と言い得るのかというふうな批判を受けるというふうな學問であった。そういうものに比べますと、京都學派の學問は方法論的にもしっかりしておりますし、その體格において誠に優れた、世界に誇るに足る東洋學であるということが言えたかと思うのであります。私は京都大學には直接何の關わりもありませんけれども、幸いにもその學風を眼の當たりに見ながら學問をすることができた。

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