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蘆北先生遺事

白川 静 

 

I

 

私が立命館大学専門部文学科に入学したのは、昭和八年の春のことであった。普通の課程を進んだ人ならば、旧制の大学を卒業するほどの年齢で、私はこの夜間の専門部の門をたたいた。昭和八年といえば、その前年の満州国建国、五・一五事件につづいて国連脱退など、物情のすでに騒然たるときであった。そのようなことごとしいことでなくても、水上勉氏の『雁の寺』の冒頭の文を、思い起こされる方が多いのではないかと思う。
鳥獣の画を描いて、京都画壇に名をはせた岸本南嶽が、丸太町東洞院の角にあった黒板塀にかこまれた平べったい屋敷の奥の部屋で死んだのは昭和八年の秋である。
私はその前年の秋から、その「黒板塀にかこまれた平べったい屋敷」より二・三軒下の西側のある事務所に、住み込みで働いていた。いくらかの学資の用意もできて、八年の春に、専門部の門をたたくことになった。そしてそこで、私は橋本先生に遭遇する機会をえたのであった。何ごとも、なりゆきまかせの遇然の中で、そのような機縁が生まれた。人の一生とは、すべてそのような偶然の連鎖に過ぎないのであろうが、その連鎖が、無限の可能性の中の、ただ一つのものに過ぎないことを思うと、それをまた必然とよぶこともできるし、運命とよぶこともできるように思う。
先生は私より丁度二十歳年長であるから、当時四十を少し過ぎておられたはずである。黒い口髭をたくわえておられたように思う。口の重い方であった。先生は予科の教授であったので、専門部の方は兼務であった。専門部国漢科では、漢文の主任は加藤盛一教授、国語の主任は小泉苳三先生であった。加藤先生は中江藤樹の研究者で、藤樹全集の編集者として知られ、小泉先生は短歌の結社ポトナムを率いて、現実的新抒情主義を掲げ、京都で新風をうち立てようとされている歌人であった。
夜間の専門部であったが、先生方には忘れがたい人が多かった。文学科長ははじめ吉沢義則博士であったが、まもなく宋学の大家である高瀬武次郎博士が代られた。私学の夜間部であるというので、教室には随分と気楽な雰囲気があり、先生方もかなり寛いで余談などもされ、その余談の方が聞きたくて出席するという学生もあった。
学生は昼間働いている人であるから、年齢も職業も生活も、それぞれ異なる状況にあった。年齢でいえば、すでに六十に近い老人もおり、また中学を出たばかりの人もいた。私が親しかった友人では、浜田青陵博士の門下にあって考古学を修め、『ドルメン』などに縄文土器の研究などを幾篇も発表している三森定男君がいた。三森君は私より数歳年長であったように思う。今はもう故人となった。最も多いのは、小学校の教員をしながら、さらに上級の資格をえたいと考えている、師範出身の人たちであった。
私たちのクラスは、入学時には百名をかなりこえていたように思う。しかし卒業者はその三分の一にも足らぬ三十二名ほどであった。病気や経済的な事情のため、挫折する人が多かったのであろう。平常の出席者は概ね二十名前後であった。私もあまり熱心な受講者ではなかった。学校までは徒歩で十五分ほどの距離であったが、働きながら夜学に通うことは、若いときでも実際に容易なことではなかった。
国漢科の教科には習字もあり、担当は中野越南先生であった。先生は王羲之の法帖などのことを話されており、折々に大書されるその字がすばらしくて、見ほれるほどであった。しかしその科目は、受講のむつかしい最終の時間に組まれているのが、いかにも残念なことであった。
寒い季節には、先生方には酒を召して出講される方が稀ではなかった。『礼記』の講読をされる浦川源吾先生や、唐詩の講義をされる鷹取岳陽翁などは、酒が入っていることが多かったし、またそのときの講義が至って楽しく、その博学と洒脱とに、学生たちも疲れを忘れるという風であった。
橋本先生は、あまり冗談もいわれず、余談に興ずることもされなかった。どちらかといえば、至って真面目な授業をされた。私たちは、漢文講読で『史記』の列伝を読んで頂いたが、先生は当時刊行されたばかりの『史記会注考証』を手にしながら、講義をされた。その初版本は、かなり持ち重りするほどの本であったが、先生はその注の文を按じながら、講義をされている様子であった。それで自然、ことばをえらんだ、口数の少い講義をされた。
先生は、教室をめぐりながら、時々立ち止まって、傍の学生に、出身地や出身校、いまの勤務などについて、質問をされた。私が福井市の出身であると申し上げると、先生は「そうか。わたしは武生です」といわれた。そして学校は夜間の商業学校を出ましたと答えると、「それでは漢文は辛いだろう」といわれた。夜間の商業学校には、漢文の教科がないのが普通であった。
先生は真面目な方であったが、格別厳しいわけでもなく、ことば数は少いが、どことなくやさしさを感じさせるところがあって、いかにも北陸の人であるという思いがあった。しかし先生の授業は少く、また当時専門部が直面している焦眉の問題があって、われわれは否応なく、それへの対応を急ぐほかなかった。
私たちは、第七回の入学生であった。当時、教員資格の免許状交付を申請するためには、学校がその認定の試験を受け、それに合格することが必要であった。これまでに、漢文科についてはその認定を取得したけれども、国語科の認定試験は、すでに二回にわたって失敗を重ねており、これまでの卒業生は、国語科の免許状を取得することができないままであった。もし三回目の認定試験に失敗することがあれば、文学科は廃止することが、すでに定められていた。国語科の主任として小泉苳三先生が迎えられたのも、その強化対策ということであった。苳三先生は、歌人として情感のゆたかな人であったが、また国語科の高等教員資格を独学で取得された力行の人でもあり、すでに他校で、認定試験を成功に導いた実績をもつ人でもあった。国漢科の全生徒は、この人に率いられて、従来の検定試験の全問題集にとりくんだ。日曜も祭日もないというはげしい訓練であったが、試験の結果は、男子校としてはかつてない好成績を収めて、文学科の存続が決定した。
これよりさき、私は卒業生二人、再入学した上級生一人とともに、個人として受験することを要請された。個人としての資格取得者をもつということも、認定の際の参考的な条件として考慮されるからである。都合よく四人とも目的を達し、そのことも当局に好感を与えたということであった。このときの受験者は、法橋理知、岡本彦一、白木直也の諸君であった。予備試験を受けたのは私一人であったが、漢文の問題で高点をえたことが、幸したようである。法橋・岡本両君は、のち中学で、一時同僚として勤めたことがある。

 

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