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蘆北先生遺事

白川 静 

 

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先生は、先生の『喜寿記念東洋文化論叢』が発行されてから、しばらくのちに退職された。末川総長が四十四年四月に退任となることが予定されたとき、先生はその前に引退されることになった。名誉教授の称号を末川氏の名で受けておきたいという、先生のご希望からであった。まもなくいわゆる学園紛争が勃発して、学園内に破壊的な行動がつづき、末川氏も大衆団交の中で、憔悴した姿をみせた。
橋本循先生 書

先生が学校を退かれてからの二十年は、清閑と文雅のうちに日々を過ごされた。午前中は概ね読書、執筆にあてられ、午後は休息されたり、興に乗じては詩・書や彩筆の世界に遊ばれた。読書は、中国の文人の晩年が概ねそうであったように、随筆や雑記・紀行の文などを楽しまれ、その訓み下しを試みておられた。紀ホの『閲微草堂筆記』などからはじまって、『筆記大観』所収のものを数多く訓読され、その訳稿は等身に及ぶほどの分量に達していた。先生は晩年に至るも視力が衰えず、小字の石印本を苦にもせずに用いられた。自らはボケどめといわれていたが、神気の精爽はいささかも衰えることがなかった。先生が没せられる数年前のことであったと思うが、あるとき私を顧みて、「どうやら漢文がよめるようになったようだ」といわれたことがある。私はおそろしいことを聞く思いがした。孔子のいう「従心」の境地であろうかと、ひそかに思ったりしたものである。

先生は退隠ののち、訪れる者によく養生の道を説かれた。玄米菜食の説は、その最も主持されるところであった。私も若年のときにはひどく虚弱であったので、数年にわたって玄米食を試みたことがあるが、吸収がわるく、また家族生活の中でそれを継続することはむつかしくて、粗食主義に変更した。粗食は、主義として標榜することがなくても、おのずから私の生活にかなうことであった。

先生は精神的な養生の法として、よく「養拙」「保真」「嬾是真」などの語を挙示され、また時には請われるままに大書して渡された。「養拙」「保真」は陶淵明の詩句からとられたもので、私の室にはその「保真」を篇額として掲げてある。「養拙」は世渡り下手というほどの意であろうが、そのことならば学ばずしてもできそうである。真とは何であろうか。陶淵明が「このうち真意あり」というとき、その真意とは何であろうか。これは私にとって切要の問題であるように思われた。「嬾是真」を、先生は特に陸放翁からとったといわれた。この語は、実は杜甫の集にもある語である。先生は一度も私に話されたことはないが、杜甫を好まれなかったのではないかと思う。また杜甫を好むものをも、あまり好まれなかったのではないかと思う。そして陸放翁の晩年の詩を愛しておられたようである。

私も放翁晩年のいかにも素直な詩が好きなので、先生は私が定年後、桂東にようやく茅屋を構えたとき、放翁の詩一首を書いて下さったことがある。

先生は晩年に、養生の法を、食生活と精神生活の上から、いろいろと説かれることが多かったが、私は先生の長寿の秘訣は、よく歩かれたことにあったと思う。先生は実によく歩かれた。広小路から高辻まで、学校からの帰途には歩かれることが多かった。用件があってお伴をすることもあったが、なかなかの健脚であった。私も若いときには山歩きが好きで、足にはいくらか自信のある方であったが、先生は私との年齢差を感じさせないほど、足早であった。

大学院に博士課程の東洋文学思想専攻を設置するとき、東京から審査委員を迎えたことがあった。和田清、倉石武四郎両先生が着かれたはずであるが、列車番号が分らなくて、みな右往左往しているときに、先生が目ざとく見つけられて、走り寄って行かれた。先生はもう七十近いお年であったが、その敏捷さに、みなが驚いたことがある。

部長・大学院科長時代の先生は、健康そのものであった。心身ともに、極めて充実した状態にあられたように思う。そして退隠ののちは、ひたすら摂養の道を守られ、また詩・書・画など翰墨の世界に、心を遊ばせておられた。人を喜ばれて、お訪ねするとなかなか解放して頂けないほどであった。

先生は久しく市井の間に住まれたが、その晩年は、たとえば陶淵明の「帰去来兮辞」にみえる生活そのままのように思われる。「倚南窓以寄傲」「時矯首而遐観」という眺望はえられなかったとしても、百十余坪のお屋敷は、市中に一つの別天地をなしていた。「怡親戚之情話」というのに代って、故旧門下の者が訪れたし、「楽琴書以消憂」というように、先生は詩・書・画の楽しみを極められた。「聊乗化以帰尽 楽夫天命復奚疑」と淵明はその文を結んでいるが、淵明はときに四十を出たばかりであった。そしてその二十年後、六十二、三で没している。その間に特にいうべき作品もみえない。この二十年にわたる田園帰居に、淵明は果たして鬱々たるものを感ずることがなかったのであろうか。王維もまた、母を喪なったのちに、輞川の別業を改め修めたが、約十年にして没している。その間、安禄山の乱に拘収を受け、のち数年を「園に負き、生を偸み、……私心に自ら咎む」る心情のうちに晩年を過ごした。先生の晩年は、これら高人逸士に比べても、なおまさること数等であったように思われる。

先生が九十歳を超えられたとき、門下の者が請うて、先生の論考を再版し、また詩草の編刊をお願いした。戦後まもなく秋田屋から出された『中国文学思想論考』に、後補の諸論考を加えて『中国文学思想管見』が朋友書店から出版されたのは、五十七年六月であった。松本幸男・清水凱夫・加藤貞雄・中森健二・道上克哉・芳村弘道・藤村浩一・今場正美の諸君が校正に当り、玉田継雄君が拓本や写真などを整えた。朋友書店の土江澄男君は、本学法学部の出身である。そして『蘆北山人詩草』も同じく六月に刊行し、先生のお誕生の日に、併せて贈呈することができた。それからなお数年、先生の清閑の日がつづいた。

昭和六十三年五月二十六日午後七時、先生がにわかに発病されたと聞いてかけつけたが、翌朝七時五十五分、血圧不調となって、溘焉として道山に帰せられた。五月二十九日午後一時、谷岡武雄立命館大学総長が葬儀委員長となり、本葬が執行された。谷岡総長は、先生が予科で教えられた門下の人である。弔辞は総長と、文学部長大沢陽典教授のほか、門下の一同に代って私がよんだ。大沢教授も先生の門下の人である。門下葬ともいうべき葬儀であった。すでに早く退休の生活に入られたにも拘わらず、数百人の方が先生との永訣を惜しまれた。法号は修禅院釈天真。先生がかつて自ら求めておかれた法号である。爾後の経紀のことについては、老夫人を佐けて、多くの門下生が奔走した。

ここに先生の一周忌を迎え、立命館大学においてその追悼号を出されることになり、門下の一人として、先生の行状にかえて、私の知るところの先生の遺事数則をしるし、その流風遺韻の一端を伝えようとするのである。

 

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