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蘆北先生遺事

白川 静 

 

VII

 

先生の学術は、学術のための学術ではなく、実に先生自らの身世を、その学術に託して吐露されるような、自己表現的なものであったように思う。そしてこれは、学問の領域・分野に関することであるけれども、少くとも文学の研究においては、それは最も本質的な、いわばその原点ともいうべき問題である。自己のうちに問題意識をもたないものに、文学はおそらく、何らのことをも答えることはできないであろう。文学は、自己にとって最も誠実な語り相手であり、自分の影であり、ときには自己自身ですらあることができる。また同じ様式の表現を試みることによって、その世界を追体験することもできるかも知れない。

先生は、あまり多くは詩を作られなかった。古人と全く条件の異なる今の時代に、古人のような詩作をなしうるものではない。詩作については、先生は自ら詩才に乏しいといわれ、「父は詩文ともに、才能のある人であった」と話されたことがある。詩酒徴逐を日常のこととする明治の文人には、実際に詩に工な人が多かった。たまたまそのような話の折に、先生は奥の一室でしばらくものを探しておられたが、筐底から一枚の半截をとり出して、「鴻斎が父に贈った詩です」といって、私に下さった。しばしば来遊したことのある石川鴻斎が、書き残していったものだということであった。かなり蠹蝕のはげしいものであったが、表装を加えると見易いものとなった。

群経雑史素無涯  米語欧言耳亦譁
恥我蘆間繆卜宅  羨君藤陰別営家
畢生熟友詩書画  莫逆嘉賓雪月花
二頃不蕪清福足  引縄静坐惜残葩
「清福老台、賦一律見寄、秀麗高雅、頗備晩唐調、率爾歩其韻贈之 鴻齋居士」という贈辞がそえられている。鴻斎は明治初年に活躍した文章家で、『日本文章軌範』などに評点を加えており、当時著名な文人であった。この詩によると、先生の厳君は漢籍のみならず語学をも修め、詩書画を深く嗜まれ、また花卉の類をも愛好された方のようである。先生も京都大学に居られたときは、よく語学を修めておられたことを伝聞したことがあり、それならば先生の厳君は、先生そのままの方であったらしい。先生の風姿も、よく似ておられるように聞いたことがある。

先生の詩文には、先生の文学研究に対する姿勢と同じようなものが、そのままにあらわれているように思う。詩にはしばしば詩的な誇張や、甚だしい潤飾が加えられがちなものであるが、先生の詩文にはそれがない。先生は自ら詩才がないといわれたが、先生の詩は実事実景に即して、虚飾のことがなく、措辞はすべて穏妥にして確当、一字をもかえがたいという趣がある。世には虚誕幻惑を以て巧と為し、自注を加えてもなおわけのわからぬような盤屈の詩を作って、自ら一代の詩宗のように振舞う人もあるが、まことに笑うべきことで、獺祭魚にも及ばぬ話である。詩の世界においては情を主とし、詩格は平遠なるを以て最も高しとするのである。

先生は、ことにふれてはじめて詩を作られた。私が先生の詩に接したのは、宝塔寺塔頭で先生の「江浙游覧記」を読み、そこに収められている六篇の詩を拝見したのが最初であった。その文は昭和九年秋になって追記されたものであるが、この江南の遊には、もっと多くの詩が作られているのではないかと、私は推想していた。先生の居室には、楣間によく江南の風景らしい古い写真などが掲げられていて、先生は晩年に至るまで、その曾遊の地を懐しんでおられたのではないかと思う。

先生の晩年に、お宅にお伺いすると、よく応接間の襖などに、新しく書かれた書画の類が、かりに貼り出されていることがあった。旧知の人に贈る送別の詩、新得の花卉を写した絵に自ら賛の詩を加えられたものなど、折々のものであった。先生の詩は、そのようにつねに実事に即したもので、そのまま人に与えてしまわれることもあり、先生自身もあまり整理をされていないのではないかというおそれがあった。それで昭和五十六年の春ころであったか、門下の者が相謀って、先生の詩草を戴きたいとお願いした。はじめはなかなかよいお返事がなくて、これは計画倒れに終るかと危惧したが、ようやくお許しがあり、ともかく手許のものを出そうということになり、詩稿を戴いた。受業の一人で、書を学んでいる小林靖幸君が清書をし、そのまま附印して、約一年がかりで宿願を果たした。先生の自序にいう。

余素無詩才、而嗜作詩、暇則且作且棄、且書且破、以自楽、是以未有足博雅客之一粲者、亦以為憾焉、頃者二三知人、来勧余以編次成集、附於剞劂、余顧笑而固辞焉、不聴、乃竟捜聚残篇賸句於筐底故紙中、以応勧誘、為慙汗殊甚、惟知人慇懃之誼、感銘不禁、所以深表謝忱也   昭和壬戌莫春

この『蘆北山人詩草』は、所収の詩約二百十篇、予算のこともあって三百部を作り、関係者の間に配布した。附印のことは、すべて加藤貞雄君の斡旋によった。

先生の詩は実事実景に即するものであるから、この『詩草』によって、折々の人との往来や、先生の当時の生活の状況などもよく表現されており、読むにつれて懐しい想い出にみたされている。しかし先生は、その一見平易にみえる詩の表現についても、随分と苦心推敲を重ねられているところもあって、一字をも苟くもすることのないという研究の態度が、またそのまま詩作の上にもあらわれているように思う。たとえば『游記』六首のうち、他の五首はほとんどそのままであるが、うち金陵懐古の一首

春夢難成燭影揺  游程為客秣陵宵
笛中何処竹枝曲  淡月軽煙又六朝
の詩は『詩草』にみえず、おそらく推敲して二首に改作されているものではないかと思う。
江城一夜枕頭潮  客夢難成情易消
六代縁誰尋故事  只看春月印青霄」
柳緑花紅駅路迢  江南春色豈堪描
遊程今夜金陵客  明月呉歌又六朝
この二首中に、いくらか旧作の表現が残されている。
 江南詩の中では、「草樹は鬱然として、崇阜広水、城中に類せず。水に沿うて微径を雑花修竹の問に得たり」としるされている蘇舜欽の「滄浪亭記」のあとに逍遥して、春風秋雨九百年の古を懐うて作られた「蘇州滄浪亭」の一首を録しておきたい。
半邱古木淡雲籠  竹裡石橋途自通
春老旧庭人不見  滄浪亭北落花風
高倉正三氏の『蘇州日記』によると、このあたりは「野趣多し」としるされており、先生が遊ばれた約七、八年前も、おそらく同様の状態であったのであろう。その蘇舜欽流謫のあとに、深い感慨を寄せられたものである。

 

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