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4日目

湖州市呉興区から徳清県乾元鎮へ移動。

清河橋

明嘉靖年間の『徳清県志』によると、北宋に建設された橋。街中の細い川の上にこじんまりとかかる小さな橋で、趣がある。現在は道路の傍らにあるので、実際に橋としてはほとんど使われていないようだ。










文廟

『文物地図集』によると、文廟は清河橋の近くにあり、宋代に建てられ、清代に改修されたという。街の人に聞いてみたところ、場所を教えてくれたので行ってみると… こちらも改修中であった…
管理人らしきおじさんの説明によると、今外側がちょうど新しくなったとのこと。内部はまだからっぽだった。

ついでに徳清城址について訊いてみると、今は全く残っていなくて、おじさん(60~70歳くらい?)が子供の頃はまだ城壁が残っていてよく遊んだとのこと。町をぐるっと囲む幹線道路が昔の城壁があったところで、道路を建設する時にすべて取り壊してしまったとのことであった。『文物地図集』には一部が残っているようなことが書かれていたが…調査・編集に時間がかかるものだし、出版されてからも時間が経っているので仕方がないか…残念。その後念のため前に城壁があったという小学校付近まで行っておじさんがいろいろ訊いてくれたが、やはり残っていないとのことだった。親切に教えてくれたおじさんたち、ありがとう。


その後、街の入り口にある、複数の川が合流する地点の閘門などを見学。今回行ったところは合流地点が多かったので、閘門をよく見たよ。運河や水門が好きな人には浙江省は見どころが多いね。









寿昌橋

清の道光年間に書かれた『武康県志』の記載によると、南宋の咸淳年間にかけられたものだという。『文物地図集』によれば保存状態が良いそうで、石材は現地で有名な武康石を使用しているとのこと。現存する宋代の橋として貴重なものだ。

ところが…何故かカーナビやGoogle、百度の地図だと謎の地点を指しており、それに従って車を走らせたところ、何もない地点に出てしまった。いろいろ聞いたり地図を見直したりして、ようやくたどり着いたものの…
高速道路のすぐ横なのだけれど、一般道からは畑の中にあって近寄れない!つまり橋に行く道が無いのだった。遠くから見つめるだけ…。船だったら行けたかも。

このあたりでちょうどお昼になったので、そばにあった食堂で昼食をとろうとしたが、麺が無いので却下に。トイレだけ貸してもらった。
この後、湖州市から杭州市余杭区へ。


南湖

杭州市余杭区余杭鎮に位置する湖。 この辺りは古代から洪水に悩まされていたそうで、南湖付近からは古代の文物が多く出土しているとのこと。春秋時代には呉・越あたりに属し、戦国時期には楚に属していたという。秦以降は会稽郡、唐以後は杭州に属し今に至る。以前は洪水時に杭州手前で水を受け、杭州中心部に水が大量に流れ込まないようにするという役割も担っていたそうだ。
事前にネットで見て、リゾート開発が進んでいるかと思いきや、のどかな感じだった。後ろの山々がいい。遠く水牛が草を食んでいるのが見えた。





その後太湖から流れる東苕溪に続く南苕溪を見に行ったら、通済橋という大きな橋がかかっていた。この橋の歴史は古く、後漢の熹平年間(172~178)にかけられたのが最初だという。明代に再建され、清代の修復を経て、1937年日本軍に一部壊されてしまったが、1950年~1980年代にかけて修復されたそうだ。なかなか珍しい造りの橋である。
漢代に使われていたという石が橋の真中にある亭のところに置いてあった。亭のところでは近所の人たちがおしゃべりをして楽しんでいた。風流でいいね。






晩い昼食をとった後、杭州市拱墅区へ。

拱宸橋・京杭大運河杭州段遺存

拱宸橋は杭州運河の終点だそうだ。はじめ明の崇禎4年(1631)に建てられ、現存するのは清の光緒11年(1885)に再建されたもの。このあたりの運河は年間を通じて100トン級の船舶が通行できるという。
この辺りも観光地化されていて、たくさんの観光客で賑わっていたよ。






その後、公共の水上バスに乗った。観光船ではないから、一人3元と大変お値打ち。ただ、勢いで乗ったもののどこまで行くのかわからず、とりあえずはしゃいで写真を撮りまくったあと、次の停留所で下りた。


香積寺塔

運よく停留所の近くに塔があったので、探し回らずに見ることができた。

もとの香積寺は北宋の太平興国3年(978)に建立され、当初は「興福寺」だったという。北宋の大中祥符年間に香積寺と改名、元末に戦火で焼失したものの、明代に再建、清初にはあったようだが、その後壊されて残っていない。現在残っている塔は東西あった西の塔のみで、清の康煕52年(1713)に建てられたものである。

…と『文物地図集』にはあったのだが、どうも地元の看板を見ていると近くに「香積寺」が存在するらしい。そこでそれを探して歩いていくことにした。余談だが、野生のリスがいて可愛かったが、すばしこくて写真は撮れなかった。

途中、運河にかかる橋を歩いていると船が通りかかった。住居の設備があり、荷物の運搬をしながら水上で生活しているようだ。








途中で富義倉跡を通った。もとは清代に建設された、倉庫や管理所などの建物だったそうで、民国時代には国民党の軍用倉庫として使用されたこともある。現在はその建築構造を残したまま、内部にはカフェや雑貨店などが入って商業施設になっている。
右の写真はその富義倉跡を通り抜けたところにあった橋。拱宸橋の下にはトカゲのような石像が寝そべっていたが、こちらはカエルがちょこんと座っている。ちょうど苔むしていい感じ。




さて香積寺だが、そこから案内板にしたがって住宅街を抜けて歩いていったところ、ついに見つけた。残念ながら拝観時間を過ぎていたため、中に入れず資料をもらうことは出来なかったが、微妙な日本語も記載された看板によると2009年に再建されたそうだ。
外から見る限り大きくて立派なお寺だった。塔も、さきほど見たのと同じものが東西二つ再建されていた(のか、さきほどのが再建されたものなのかいまひとつ不明)。
ここでようやく晴れて来て、この旅はじめての青空を見たよ。





それからしばらく車が来るのを待って、杭州市内のホテルへ。夕食はY先生のお知り合いの方とその御嬢さんも交えて、盛り上がった。


5日目  

閘口白塔

西湖の南、銭塘江の川ぞいに位置する。この塔はいつ建てられたものなのかはっきりしないそうだが、『文物地図集』では様式等から五代呉越後期に造られたものではないかとしている。現在はこの塔を囲んで公園になっている。白塔を詠んだ詩などが刻まれた石碑なんかも建てられていたよ。
青い空に白い塔が映えるね。





梵天寺経幢

鳳凰山のふもと、少し上ったところにある。梵天寺は残っていないが、二つの塔のみ現存。五代呉越時代のものだそうで、柱の上には仏教に関わる人物とその故事が彫られている。現在は柵に囲まれて入れないようになっている。

ところで、ここに来る間に住宅街の路地を抜けてきたのだが、久々の晴天で洗濯物がたくさん干されていた。何だか運動会の時の万国旗のようで、すがすがしい。この日は適度に風もあったから、早く乾きそうだった。


宝成寺麻曷葛剌造像

宝成寺は『咸淳臨安志』の記載によると、天福年間(937~942)に呉越王妃仰氏により建立され、現存するのは1988年に再建されたものだという。しかし割と設備が新しかったので、或いは近年修復されたかもしれない。麻曷葛剌造像は元代のものとしては国内で唯一保存状態の良いものだそうだ。
また左右に展示室があり、貴重な古い経幢の一部や仏像などが展示してあった。
このお寺は紫陽山の中腹にあり、階段を上ったり下りたりで結構着くまでが大変だった。でも下りたらすぐに住宅地だったけれど… 
紫陽山には他にも遺跡があるようなので、時間があれば行ってみるのもいいね。
夏は虫に刺されるので行く人は虫よけを準備しよう。


昼食をとったのち西湖を見ようと思ったが、観光シーズンでとても駐車できる場所が見つけられず、結局車に乗ったままぐるっと一周して空港へ。台風の影響が心配されたけど、無事帰国できた。
それにしても帰りの飛行機も中国人の団体旅行客でいっぱいだった。昨年も杭州には行ったけれど、随分と中国人旅行客が増えて、代わりに日本人は減ったような気がする。
浙江省も国内旅行の観光客が増え、日本人にはほぼ遭遇しなかった。観光地の整備が進み、トイレも昔に比べるとだいぶ使いやすくなった気がする。でも古いものを全部取り壊して建て直してしまうのは残念… そのあたりは難しいところだね。

今回も5日間とやや短かったけれど、充実した旅でした。次ページはおまけです。良かったら見てね。




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