プロロ−グ



 大学に奉職して以来、12年目を迎えた1993年7月に、人文・社会工学系の教官としては初めて、在外研究員(長期)に選ばれ、文部省(現文部科学省)に推薦された。当時創立15年目を迎えていた新構想の大学であるのに、一度も人文・社会工学系の教官が公的な費用で長期在外研修ができなかった状況の中でである。しかし、長年の貢献と不断の努力が実ったかどうかは分からないけれども、大学上層部の理解を得て、思いもかけていなかった長期在外研修の機会が得られたのである。応募はしたものの、認められるとはほとんど期待していなかったこともあり、研修先の決定には、その時間的な短さもあって、かなり苦労した。当初の計画では、筆者の研究分野でリ−ダ−シップを取っている米国へ最初の6ケ月間、そして一度も訪問する機会のなかったオ−ストラリアへ移動して4ケ月間の予定で学内応募をしていた。事前に米国の希望していた東部地区のある州立大学の副学長レベルの関係者(一度日本で直接会っている一人)にきちんと手紙で連絡した。「それは大変よいことなので、国際交流の担当責任者へ連絡しておく。」との返事をもらってから、しばらく待ってもその担当者からは全く返事をもらえず、ファックスや電話で何度か催促したが音なしであった。ある学会の理事をしていて知り合った学部長(当時)の知人のいる他の大学へも連絡をしたが、これもかなり遅くなって担当者から連絡が来て、「受け入れられる分野の助言者がいないので、現段階では無理である。」との結果となった。その他の大学へも急遽ファックスを送信してが、何の回答も得られなかった。結局のところ、第一希望の米国行きは断念せざるを得なかった。「それでは致し方ない。」と判断し、初めて訪れる国ではあるが、それなりに活躍する学者たちのいるオ−ストラリアの大学を幾つか選び、連絡をしてみた。しかし、ちょうど前期と後期との間の休みの期間(セメスタ−・ブレイクであった時期でもあり、思っていたほどの返事をもらえず、結局のところ同僚の一人が前年度1年間滞在していたクイ−ンズランド州ゴ−ルドコ−スト(Gold Coast, Queensland)にあるオ−ストラリア最初の私立大学のボンド大学(Bond University)に連絡をして、滞在先が最終的に決定したのである。いずれにしても、家族同伴ということもあり、1箇所で安全な国に滞在し、じっくりと腰を落ち着けて、研究をした方がよいと考え決断した。親日色が強く多文化多民族主義のオ−ストラリアだけで研究留学をしたのは結果的によかったと思う。滞在期間は、1994年6月11日から1995年4月8日までのわずか10ケ月間であり、通常3年以上にわたって滞在する企業などが派遣する海外駐在員などの長期滞在型の体験とは違って、筆者とその家族が体験したことはごく限られたものであると言える。しかし、異文化コミュニケ−ションが1つの研究テ−マである著者自身ならではの実体験に基づいた情報をできるだけ盛り込んだつもりでいるので、オ−ストラリアに関心のある一般の読者、これから長短期間の旅行や滞在を計画している読者、そして関連の研究者にも少しは役に立てるものがあると願っている。


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