第1章 出発前の準備期間



事務手続き

 出発前の準備の中で、期限付きで書類を用意しなければならなかったものの多くは、事務手続き上でものであった。文部省への予算請求をする上で必要なのは、特に往復航空運賃であり、最初の見積書は、在外研修が可能であることが分かってから数日中に準備せざるを得なく、地元の旅行会社に電話連絡をして、作成してもらった。しかも航空運賃は、1993年7月時点でのものであり、為替相場の変化など考慮できず、約1年後となる出発時点の実際の価格とはかなり違い、実情に合わないものであったが、致し方なかった。

 さらに、必要な書類の1つは、受け入れ大学からの正式な招聘状であった。しかし、前述のように、これが結構時間と労力がかかったのである。手紙を書いてもすぐには返事をもらえないということは分かっていたが、かなりイライラさせられた。というのも当初の計画では、米国へ6ケ月滞在してからオ−ストラリアへ移動し、3ケ月余滞在する予定で交渉していたため、10ケ月間まるまる滞在する計画への変更については、受け入れを大学は確証できないという手紙が最初きていたこともあり、何度もファックスを送り、研究室の条件など大きく譲歩して、ようやく招聘状を受け取れたのである。それほどの負担とはならなかったが、それらの招聘状は当然のことながら英語で書かれていたので、日本語訳を作成し、添付することも必要であった。


ビザ申請

 ビザ申請については、当初から旅行会社などを介さず、筆者自身で書類の準備をし、申請しようと考えていたし、手順を理解していたので、ほとんど問題はなかった。しかし、唯一の問題は、現地の幼稚園へ通園する予定であった子供のビザ申請時に必要な健康診断書の作成であった。筆者の住む愛知県を含む中部地区では、当時名古屋市にある指定病院一つしかオ−ストラリア政府が認めていなかったため、診断書作成に丸一日がかりで出かけなければならなかった。便利な地元の大きな病院でも英語で健康診断書が作成できるのに、なぜこの一つの病院しかだめなのか、理解に苦しんだが、それはオ−ストラリア政府の政策の一つであるからなんとも致し方ない。1994年に移民法が簡素化されたこともあり、いろいろと変更されているが、日豪政府の同意を得た数ケ月以内の観光ビザそのものの廃止やこういった指定病院の枠拡大もされるように願うものである。

 ビザ申請そのものは、愛知県までが西日本地区に入るため、大阪にあるオ−ストラリア総領事館へ提出したが、担当者が非常に親切で、その他の関連情報についても電話やファックスにて、いろいろとアドバイスをいただいた。この方はその後退職されてしまったが、大変感謝している。


滞在先(大学・アパ−ト)

 滞在先の中で研修をする大学は、前述したように時間的に制約があったため、知人の大学を含めて、あちらこちらへファックスや手紙で接触をした。しかし、ちょうど冬休み中(北半球の日本とは季節が逆)の大学も多く、返事はほとんどもらえなかった。しかし、幸いなことに私費でちょうど1年間の研修に出かけていた同僚の日本語教育者の研修先であったオ−ストラリアでの最初の私立大学(この原稿を書いている時点では、2つしか私立大学はなく、他は公立大学である。)であるボンド大学が受け入れをしてくれることになった。この大学は1994年でようやく創立6周年目を迎えた新設大学であったが、エネルギッシュに活動をして実績作りをしており、筆者のような未熟な研究者も受け入れてくれる余裕があったようである。また、筆者のもう一つの研究テ−マ(コンピュ−タの外国語教育への利用)に有益なアドバイスをしてもらった著名な若手の研究者がいたことと通信ネットワ−ク環境も整っていたことが、この大学を選んだ理由の一つでもあった。

 また、最後の2ケ月間だけではあったが、そのアドバイザ−が転職をした関係もあり、ゴ−ルドコ−ストから北へ90kmほど離れたブリスベ−ン郊外にあるクイ−ンズランド大学(The University of Queensland)へも客員研究員の資格を取り、週1〜2回ほど通った。

 毎日の生活をするタウンハウス(Townhouse)と呼ばれるアパ−トは、大学から歩いてでも行けるような距離にある場所を探した。それは、滞在費などを考えて、基本的に購入する車は1台だけであると計画していたこともあったからである。ボンド大学の学生課の住宅関係担当者へ手紙を送って情報提供を求めたところ、1ケ月後であるが推薦するいくつかの詳細な住宅情報が送られてきた。その中から普段の運動不足を少しでも解消するために歩いて行き来できる所がよいと考え、一番キャンパスに近い所を選び、直接管理人と連絡をし合って、決定した。また、短くもあり、長くもある家族同伴の10ケ月間の滞在であるから、家賃は割高になるが、家具付きのアパ−トにすることにした。その管理人とのコミュニケ−ションもうまくいって、予約をした。唯一問題となったのは、出発1週間前に連絡を受け、管理人自身の交替と当初のアパ−トのユニットの変更が一方的にされた。もちろん、管理人の交替は問題とはならなかったが、ペンキを新しく塗り替えられ、家具類も新しくなったアパ−トへの変更とはいえ、突然の変更によって、すでに準備してあった滞在先住所を知らせる葉書の訂正や出発前に開設してもらった銀行への住所変更届など余分な労力と時間を強いられた。


子供の幼稚園

 子供(到着当時3歳11ケ月の息子)の幼稚園は、日本でも4月に入園した後、わずか2ケ月しか通園していなくて休園し出かけることが当初から分かっていたため、現地のオ−ストラリア人児童だけから構成され、英語しか通じない幼稚園よりは、日本語が話せる教師がいるか、日本語の授業も一部取り込まれているような国際幼稚園を考えていた。幸いに、前述の同僚の息子さんも通園していた同じ国際幼稚園へ連絡したところ、受け入れてくれることになり、書類を取り寄せ、提出し、予約をした。実際、住んでいたアパ−トから車で5〜6分の距離にあり、送り迎えにも便利であったので、基本的にはよかったと思う。


旅行会社

 航空券を購入する旅行会社の選定は結構時間を取られた。というのも、私自身の旅費はエコノミ−正常料金が出せる額が支給されたが、家族分は私費であったので、3人分の航空運賃を支払わねばならなかったからである。当然のことながら、できるだけ安全度が高い航空会社で安い航空運賃であることや、同伴するものの一人がまだ幼い子供であることもあり、飛行時間ができるだけ短い方がよいと考えた。地元の旅行会社に加え、東京、名古屋、大阪の幾つかの旅行会社に情報提供をお願いし、最終的には大阪の旅行会社に決めて、出発前1ケ月を切って1年オ−プンの往復航空券を注文した。もちろん、安い航空券といっても利用する航空会社や期間によって、その価格や条件はまちまちであるので、よく情報収集をして選んだ方がよい。筆者の場合は1年オ−プンのものを購入したのであるが、同じ日の同じ航空会社の便でも、旅行会社によってかなり購入価格が違うので驚いた。さらに家族分を含めた3人分であるので、この違いは大きかったのである。実際に航空券が届いたのは出発10日程前であったので、若干気がきでなかった。しかし、正規の旅行代理店でもあり、実績もあり、担当者も大変親切にしてくれた旅行会社であったので、その心配を除けば、何ら問題はなかった。子供の分は正常料金の方が安かったので、格安航空券にはしなかった。これもその旅行会社のよきアドバイスからであった。


その他

 家をしばらく留守にするということで、留守中の管理については、同じ時期に住宅を購入した同僚の一家族が自宅前に住んでいることもあり、窓を開けて空気の入れ替えなどを適当にやってもらうだけをお願いしておいた。もちろん、手紙や時折の電話連絡をして自宅の情報を提供してもらった。

 また、郵便物の処理については、郵便局で保管する期間が1ケ月であるとのことであったので、転居届けを出し、筆者のものはその数が多いので勤務先に転送するようにしておいた。家族のものは妻の実家に転送してもらうようにした。別々の転居先にしたので、他人から見れば、別居したのか、離婚したのかと思われたかも知れない。


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