第3章 ゴ−ルドコ−ストでの生活



アパ−ト

 アパ−トは、10ケ月間の滞在ということで、家具無しのアパ−トでは、到着後すべて1つ1つ揃えねばならないし、帰国する時の処分方法の苦労を考えて、研究先や子供の幼稚園に近く、家具や生活用品備え付きのタウンハウス(通常2つのユニットが2つの車庫を挟んで建てられているスタイルのもの)というアパ−トを予約した。1階がキッチン、ダイニング、リビング、1台分の車庫とトイレがあり、裏庭へのドワ前には洗濯機と乾燥機があった。その裏庭には時折さまざまな鳥たちが姿を現したが、子供が飛びつきそうな珍しい鳥も突然やってきたこともある。野鳥園などでしか本来見られないような笑いかわせみ(kookaburra)が目の前に現われた時の感動は、子供にとっては忘れえない思い出の一つとなったと思われる。実際、筆者も2階へかけ上がり、カメラや8ミリビデオを持ってきては貴重な瞬間を記録した。再度やってきた時には、手元にあったミニトマトを庭に転がしてやると、慣れているのか近づいてきて、くちばしで挟みながらコンクリ−ト部分へ叩き付け、小さくして食べた。なんともかわいらしい様子で、こんなことが自然にできるものとは夢にも見なかった。動物園などで見かける笑いかわせみは、ず〜と木に留まって動かないでいるだけのものであったから、筆者自身も大変感動した次第である。2階は、ダブルベッドの主寝室が1つ、シングルベッドのある部屋が2つ、そして洗面所とシャワ−付きバスとトイレがあり、洗濯物を干せたベランダがあった。各部屋の照明器具などは西洋的な発想で工夫はされていたが、日本の大変明るい照明を持つ部屋で生活をしているのとは違って、大変暗く感じた。その暗さにも次第に慣れていったのであるが、できるだけ明るい所でとなると1階のダイニングであるので、全ての証明器具を使ってダイニング・テ−ブルで本を読んだり、持参したコンピュ−タで作業した。

 実は、現地に行ってから分かったことなのであるが、住んでいたアパ−トの隣に真新しいタウンハウス群が作られており、高級家具付きで、設備も最新のものであり、さらに割高であるけれど、素晴らしい環境のところへも住むことが可能であったのである。しかし、滞在したタウンハウスとの長期契約をした後であったので、契約を取り消すことはほとんど不可能であったため、断念した。ちなみに北向きの家(北半球ならば南向きで南半球はその逆)の価格は少し割高になっている。

 管理人も日本人のホ−ムステイを何度も世話した経験のあるよい人たちで、いろいろと助言や情報提供をしてもらったり、アパ−トも基本的には申し分ない住環境であったので、深刻な問題にはならなかった。実際、ごく一般的なコンクリ−ト・コ−トで、やや狭いのではあるがテニスコ−トが1面あり、管理人事務所の前にある使用予定者欄に名前を書いて予約しておけば簡単に使用できた。また、それほど大きくはないがプ−ルもあり、温水のスパとバ−ベキュ−設備もあった。夏の暑い時期にはプ−ルやジャグジ−・バスを子供と一緒に時々利用したが、そこで出会った他の住l達とのコミュニケ−ションもなかなか面白いもので、それなりの異文化交流ができた。

 ここでの生活に問題が全くなかった訳ではない。家具や生活用品備え付きのアパ−トということで、すべて揃っていて、始めから快適な生活ができるものと考えていたが、それは甘かった。ベッドカバ−しか上にかぶせるものがなかったので、到着した当時は、亜熱帯気候のゴ−ルドコ−ストとはいえ、初冬でもあり、朝夕の冷え込みには十分対応できないものであったので、すぐに厚手の毛布やふとん、ヒ−タ−を購入せざるを得なかった。しかし、このヒ−タ−がなんと1ケ月半ほど使用して壊れてしまった。購入した店に交換に行くと、すでに同じ商品はなかったので、返金してもらうはめになった。その結果、スト−ブなしの状況になったが、幸いにやや暖かくなりつつあったので、再度購入することなしに過ごせた。電気代を除けば、ヒ−タ−をタダで使用できた結果となったので、ちょっと得をしたと言える。

 また、子供がこぼした甘いお菓子などを目指してか、小さな蟻たちが、どこからとなく集まってきた。すぐに殺虫剤などを使って処理したが、管理人曰く、「オ−ストラリアでは蟻が家の中に入ってくるのは当たり前さ。」と、全く気にしない様子であった。へたをすると、夏は大きなごきぶりが飛んで入ってくるそうであるが、それは幸いにも経験しなかった。


自動車関連

 バスなどの公的輸送手段があるとはいえ、一家に1台以上の自動車は不可欠なものである。日本車を含む輸入車が多く走っていたが、日本の価格と比べるとかなり割高である。また、日本のように資金力のない若者が新車を乗り回すという光景は、少数の金持ちを除いて、通常見られないので、中古車市場が大変活況である。信じられないくらい古い車が走っている。渡豪前に廃車にしてしまった妻の車は、11年目を迎えた車とはいえ、10万キロも走っていなかったので、持ってくればよかったと思ったが、その輸送コストや手続きの複雑さを考えると現地で調達した方が得である。したがって、適当な中古車を探すのが結構大変であった。出発前にいろいろとアドバイスをいただいたが、滞在が10ケ月間ということもあり、A$7,000-8,000ドルくらいのオ−トマチックでエアコン付きの1,500cc前後の日本車を探したが、なかなか見つからなかった。子供が通園した幼稚園関係者の紹介で、信頼できるという中古車デイ−ラ−に頼んで探してもらったが、これが結構時間がかかったのと日本車への評価が高いので希望するタイプの車が入手できなかった。事実、そのデ−ラ−は、「近くのブリスベンのオ−クションで400台の車を見たが、オ−トマチック車は3割程度、ましてやエアコン付きの小型車は更に確率が低くなり、値段も希望通りの価格では無理で、なかなか良い車が見つからない。」と言っていた。しかし、幸いにも割合整備されたフォ−ドのレ−ザ−という1,600ccの中古車を購入できたので、待ったかいがあったのではあるが、一般に中古車デイ−ラ−の評価は低く、情報を収集して、信頼できる方を知人や友人に紹介してもらうか、全く知らないのなら、2人以上の中古車デイ−ラ−にお願いして探すことをお薦めする。こういった状況の結果、到着時からあちらこちらとより安いレンタカ−を借りて過ごさざるを得なかった。マニュアルの小型車は一番安いのであるが、妻も運転をすることも考えて、オ−トマチック車にした。70%くらいの車がマニュアルであるオ−ストラリアの現状を考えると、レンタカ−会社もオートマチック車よりもマニュアル車を用意した方が営業的によいようで、格安のレンタカ−はマニュアル車ばかりであった。筆者自身はマニュアル車でも問題はなかったのであるが、妻はオートマチック車しか運転できなかったので、限定されてしまった。実際のところ、適当な車が見つかり購入するまで3週間以上かかり、結構レンタカ−の賃貸料金がかさんでしまったが、マニュアル車で問題のない方には筆者よりもかなり安く利用できたはずである。


日常生活一般

 ショッピングの中で、食料品の購入は、当初は道路事情もよく分からなかったため、かなり遠くの大きなショッピング・センタ−へ出かけたが、次第に近くのショッピング・センタ−を見つけ、そこでまとめ買いをした。あるス−パ−マ−ケットでは、日本でも行なわれている所があるように、利用者会員になると購入金額に応じて、点数が付けられ、毎月の集計点が合計されていき、ある程度の点数(基本的に1,000点を越えた点数以上)になると、オリジナル・グッズなどがもらえたり、1,000点につき15ドルの割引(いわゆるキャッシュ・バック)というサ−ビスをしていたので、どうせならと思い、参加して恩恵を受けた。また、別のショッピング・センタ−内にある日本の魚屋で働いたこともある日本語が流暢な女性のいる魚屋で、割合生きのよい魚貝類が入手でき、格安の値段でマグロなどの刺身も時々食べられた。肉類はもちろん「え、信じられない!」と何度もつぶやかせられたくらい安く、100%ビ−フで作ったハンバ−グやステ−キなどのおいしかったこと。と言っても、日本の品質管理が行き届いた高級牛肉などの美味しさとは比べられないので、「値段の割には」という意味である点ご注意を。ファ−スト・フ−ドでの食事は一度行くと、「しばらくは行きたくないなあ」と思わせるくらい美味しいとは思えないものであったが、子供がテレビなどの広告で、おもちゃ付きのセット・メニュ−を欲しがったりしたので、たまに外出ついでに行った程度である。また、子供が熱を出し、急に氷が必要になった時や夜に何か特別に必要なものができると、車で数分の場所にあるガソリン・スタンドに付属した24時間営業のコンビニアンス・ストアで買い物をした。ただし、アルコ−ル類はきちんと許可を得た酒類販売店でないと購入できなかったので、多少不便さを感じたが、晩酌などしないタイプの者であるから、それほど深刻な問題ではなかった。

 生活必需品で一つ困ったことは、持参した変圧器(日本の電気製品を使用するためには、240ボルトから100ボルトへ電圧を下げて使用する必要がある)が電気釜を使用した後、壊れてしまったのであった。出発前に出入りの電気屋さんに頼んで購入したものであったが、長期海外滞在用とだけあり、詳しい説明書もないものであったため、最大どの程度の使用電圧に対応できるのか分からなかった状況で電気釜に使用してしまった結果、壊れてしまったのである。その電気釜は最大650KWの電力を消費するので、その電圧に対応できなかったのが原因であった。あちらこちらと捜し回ったが、こういう特殊なものは普通の電気屋には置いていなく、Money Exchangeなどという質屋も訪れ聞いたが置いていなかった。仕方なしに日本の実家に電話連絡し、日本から航空便で取り寄せたが、その郵送料金を加えると高価な買い物になってしまった。容量の大きなものは結構高価なので、使用する目的に応じて、変圧器を購入し、あまり過度な使用をしないようにした方がよい。メ−カ−によっては、安いからといって購入するとすぐに壊れてしまうものもあるので十分に注意されたい。また、住宅の電気容量も問題になることもある。私の滞在したアパ−トもいくつかのブレイカ−が車庫の所にあり、場所によって分けられていたが、1,600VAの変圧器を使用したら、その場所にあたるブレイカ−が上がってしまった(offの状態)。それぞれの場所での容量が20アンペアしかないのが原因と思われたが、それ以上に容量を高くすることはできなかったので、同じような配線にある物の使用を控え、変圧器だけを利用することによって、うまく問題解決ができた。日本であったら電力会社にお願いして、多少基本料金が高くなっても、それ以上にアンペアを高めてもらい対応できるのであるが、不便であった。結局のところ、1,600VAの変圧器は約10kgもあったので、あちらこちらと持ち歩くこともできず、旅行用や2階において8mmビデオ電池や電気髭剃りの充電のために、高価なオ−ストラリア製の200VAの変圧器を1台購入するはめになった。お米は現地の米が十分美味しいので、毎日のように御飯が欠かせない人は電気釜などは持参するよりは現地で購入した方がお得と言える。もっとも日本の電気釜の謔、な多機能なものは現地でも結構高いので、御飯を炊くだけの機能のものなら、けっこう安いものがあるので購入するか、あるいは鍋や圧力釜を購入し御飯を炊けばよい。ただし、日本のようにガスは利用できなく、基本的にすべて電気であるので、スイッチを切っても余熱がしばらく残るので十分注意されたい。筆者の妻も最初慣れるまで少し時間がかかった。残り御飯は冷凍しておくなどして、食べたい時に普通常備されている電子レンジなどで暖めればよい。ただし、購入して使ったオ−ストラリア製の炊飯器は日本へは持ち帰らない方がよいと思われる。それは、日本で使用する場合、電圧が違うので100Vから240Vに電圧を変更する変圧器が余分に必要になるばかりでなく、それが結構高価なものであるからなのである。帰国前のサヨナラ・セ−ルなどで売ってしまうのが得策と言えよう。

 日常生活で不可欠なのは、水である。飲料水としてオ−ストラリアの水は飲めるのであるが、硬水なので、日本のまろやかで美味しい軟水とは雲泥の差である。沸かして飲むお茶の中で、日本茶はその渋みが多少消されてしまう。水道水を沸かして入れた緑茶を初めて飲むオ−ストラリア人に試飲してもらったら、アルファルファの味と臭いがしたと言っていたが、まさしくその通りであった。購入したナチュラル・ウオ−タ−でお茶を入れると、日本のお茶らしい渋みが出て、美味しかった。しかし、それでは高くつくので、結局は水道水を沸かしたお湯でお茶を入れて飲んでいたが、慣れてしまうと、その渋みも感じるようになり、違和感がなくなった。慣れとは恐ろしいものである。朝などの食事時には紅茶を主として飲んでいたが、普段の飲料水としては高いとはいえ、日本に比べればまだ安い方なので、ほとんどナチュラル・ウオ−タ−を購入して飲んだ。改めて日本の水の美味しさを思い知らされた経験であったとも言える。


テレビとビデオ

 テレビとビデオはアパ−トへ入居したすぐ後にレンタル契約を結んだ。購入することも考えたが、金額的に大きいし、最後に売ることの面倒さを考慮し、アパ−トのマネ−ジャ−からもらった資料にあった会社へ電話をして6ケ月間の基本的契約をした。これはそれ以後も1ケ月単位で契約を更新できるスタイルのものだった。もちろん、こちらから連絡をしなければ自動更新されていく。テレビは最新の20インチのもので、ビデオは日本や米国で採用されているNTSCのものと、連合王国やオ−ストラリアなどで採用されているPALのもの両方が見られるもの(自動的にデジタル・トラッキング機能が働き、どちらも再生できるタイプ)にしたので、どちらか一方のものより若干割高であった。もちろん、どちらも日本製品(世界のナショナル製)であった。

 テレビ番組は、主としてニュ−スで世界の動きを知ったり、娯楽番組やドキュメンタリ−を見ることであった。ニュ−スはもちろん朝夕が中心で、朝は6時から7時半まで、夕方は5時から7時半までの時間帯に放送されるのが普通であったので、各放送局の特色を考えながら、できるかぎり見るように心掛けた。もちろん、この時間帯には子供が好きな漫画番組もちょうど入っており、いつも全部のニュ−スを見た訳ではなかった。ニュ−ス内容としては、経済の株や為替の動向、東京の気温の情報を除いては、日本についてのニュ−スは少なかった。平和な日本はニュ−スを発進する力がないのであろうか。それともオ−ジ−にとって、日本の情報はあまり関心を高めないからであろうか。しかし、朝の6時半から7時半までのABC(Australian Broadcast Company)のニュ−スでは、夕方のニュ−スより日本についてのニュ−スが多かったように思えたので、平日はそちらを見るようにした。夜の8時半を過ぎると映画番組が圧倒的に多く、やや古めの映画が多かったようである。日本の映画もたまにあったが、かなり古いものであったので、見なかった。また週末はスポ−ツ番組が多くカバ−されており、我々日本人にはなじみの薄いスポ−ツ(例えば、ネットボ−ル(net ball)やオ−ストラリアン・フットボ−ルなど)は関心がなくあまり見なかった。滞在始めた当初は、ちょうどサッカ−の世界選手権が米国で開催されていたので、早朝にかなり見てしまった。しかし、それが終わると、冬のシ−ズンということで、オ−ストラリアン・フットボ−ル、ラクビ−などが多く放送されていたが、それほど興味がなかったので、ほとんど見なかった。しかし、興味のあるバスケットはちょうど8月に世界選手権がカナダで行なわれていて、衛星放送で送られてくる生放送やハイライトの番組を時々楽しんだ。オ−ストラリアの代表チ−ムも活躍していたので、余計に熱が入ったのかも知れない。その他はテレビを見る代わりに、外出する機会が多かったように思う。日本のようにチャンネル数が多く、選択肢が多い場合とは違うので、夜の時間帯では、ビデオに切り替えたり、テレビを消してしまって、この本の原稿を作りや手紙を書いたり、その他の読書などをすることに費やした。

 一方、日本同様、朝早くからアグロの漫画番組(Agro's Catoon Series)など子供向けの番組がやっていて、その中でも日本でも人気のある「タ−トルズ(Turtles)」や数年前に日本で作られた番組「ジュウ・レンジャ−」を米国で作り直したもの「パワ−・レンジャ−(Power Ranger)」や「ピンク・パンサ−(Pink Panser)」、「ザ・シンプソンズ(The Simpsons)」、「ラッグラッツ(Rugrats)」、「土曜デイズニ−(Saturday Disney)」などを当時4歳だった息子は楽しんでいた。この中で、パワ−・レンジャ−は、寛大すぎる傾向のある日本ではごく普通の正義の戦士と怪獣との戦いであり、それほど問題とはならないのであるが、隣国のニュジ−ランドでは「あまりに暴力的」ということで放映禁止となり、オ−ストラリアでも多少話題になったが、時間帯をずらし放送され続けられた。家族で楽しんだ主な番組は、月曜日の「ロイスとクラ−ク:ス−パ−マンの新しい冒険(Lois & Clark - The New Adventures of Superman)」、火曜日の「オ−ストラリアのおかしなホ−ムビデオ集(The Australia's Funniest Home Videos)」や「ほんの悪戯(Just Kidding)」(これは後日月曜日に変更され、見なくなった。)、土曜日のゲ−ム・ショ−の「マン・オ−・マン(Man o Man)」(これも1994年までで終了)、日曜日の「世界の面白テレビ広告集(The World's Greatest TV Commercials)」などであった。筆者自身が興味のあった番組でよく見たものは、火曜日のドキュメンタリ−番組である「最前線をいく(Cutting Edge)」、水曜日のコンピュ−タ関連番組「ホット・チップス(Hot Chips)」、木曜日の科学技術の最先端を報告する「ビヨンド2000 (Beyond 2000)」やドキュメンタリ−番組の「ビック・ピクチャ−(Big Picture)」の一部などである。

 ビデオは、主として子供番組の録画や録画したものを再度見ることであったが、時々日本のビデオ番組をレンタル・ショップから借りてきて見ることにも使用した。しかし、安いとは言え、回数が増えると負担も大きくなるので、最少限に留めた。また、筆者の専門研究に役立つような番組(例えば、ABCやSBSの放送教育番組(中学・高校向けのものや大学・大学院向けのものがある)やドキュメンタリ−番組などはオ−ストラリアの人々やその文化を知るのに役立つ番組)の録画にも時々使用した。


新聞及び雑誌類

 新聞購読は、日本のように早朝に配達してくれるスタイルではないため、ショッピング・センタ−などに必ずあるニュ−ズ・エ−ジェント(news agent)で購入しなければならなかった。平日は、研究中心の生活のため、大学の共同休憩室にあるThe Australianという新聞などを読んでいた。時折、日本の特集記事があったりと、日本についての情報提供はテレビやラジオよりも新聞の方が多いという印象を受けた。しかし、週末は、通常よりも情報量が多く、別に小冊子のテレビ番組がついてくる日曜版を購入し、読むようにしていた。最も詳しい番組内容が分からないので、土曜日から金曜日までの情報が分かり、2ドル(エ65-75 x $2 = エ130 -150)のTV Weekも購入した。また、新聞というべきか雑誌というべきか判断しにくいが、カラフルな日豪プレスや豪日新聞(この新聞は平成6年11月号で休刊してしまった。)など、日本食料品店やスポンサ−となっている会社などに置いてある無料の日本語月刊情報誌を入手しては読んだが、これを一番楽しみにしていたのは日本語情報に餓えていた筆者の妻だったかも知れない。また、ス−パ−マ−ケットの出口近くやアパ−トの管理人事務室の前に置いてある無料の新聞(Gold Coaster, The Gold Coast Mali, Robina Sun)も読んで安売り広告や週末行事についての情報を入手した。

雑誌については、時折専門研究に不可欠なコンピュ−タ関連のものを購入して読んだ。しかし、より豊富な情報を提供してくれる米国の雑誌は約1〜2ケ月遅れで入荷してきたようで、その情報の遅さが気になったが致し方なかった。

<異文化衝突その2>

 滞在中にニュ−スとして話題になったものの一つに、サ−ファ−ズ・パラダイスにおける日本語看板などのサインがあった。基本的には英語と日本語のバイリンガルで書かれているものなのであるが、店によっては日本語のサインしか書いていなかった所もあった。ある州議会議員の一人が「日本語サインの氾濫は豪州らしさを失わさせるし、観光客は日本人ばかりでなく、韓国人、香港人、台湾人、シンガポ−ル人なども多いのだから問題だ!」と論議をかもしだしたのである。一方、地元の観光担当の議員は、「実際、日本人観光客を対象に商売をするのは訪れる人数や落としてくれる金額を考えると、決して大きな問題とはならないし、サ−ファ−ズ・パラダイスの実情を理解していない人が言うことだ!」と反論した。亜熱帯の安定した気候と美しい自然環境を持っていて、先進諸国より安全で物価も安いクイ−ンズランド州の代表的な観光地であるゴールドコ−ストの中心地のサ−ファ−ズ・パラダイスでは、観光客相手のビジネスが大きなウエイトを占めている。特に日本人観光客は年々増加してきているのである。英語の不得意な日本人観光客相手のビジネスでは、購買力を高める手段として、日本語表示をして、自然と安心感を売る努力をするのは当然かも知れない。いくら日本語教育の重要性を認識し、小学校から外国語としての日本語を教えているクイ−ンズランド州であっても、多分、ワ−キング・ホリデイなどで働いている若者の呼び込み屋の存在も含めて、日本語の侵入に不快感を示した例とも考えられる。多民族多文化社会の促進も国家的政策として推進し、特にアジア、オセアニアに焦点を絞って、同胞国として国家建設をしている豪州なのにである。やはり、50年前に撤廃されたとはいえ、主たる民族である欧州からの移民白人の白豪主義の一端が見え隠れしている例ではないだろうか。


幼稚園

 当時22ケ国あるいは地域からの子供達を預かる国際幼稚園ということで、やや高い園費が限定された生活費をそれなりに圧迫はしたが、滞在したアパ−トから車で5〜6分の近距離にあったこともあり、日本人の先生や日本語が少し分かるオ−ストラリア人の先生もおり、日本語授業も毎日1回20分くらいあったし、その幼稚園の教育方針も賛同できたので、その他の公立幼稚園とあまり比較検討せずに決めてしまった。預かってもらえる時間が週5日の午前7時半から午後6時半までであったのも大きな要因であった。無料とはいえ、週3日で午前9時から午後2時までの公立幼稚園より長く、便利であったからである。最初は午前9時過ぎに連れていき、午後3時頃迎えに行くパタ−ンであったが、次第に午後5時過ぎまで預けるようになった。当初は、すでにかなり前から通園していた日本人の子供でさえ、泣いて通園してくる姿を見て、筆者の息子は大丈夫だろうかと心配していたが、何の問題もなく、毎日通園していたので、ホッとする思いであった。しかし、後述する子供の病気の原因をいろいろ考えてみると、この安堵感は最初だけのものであったと言える。

 当初は、幼稚園で用意する昼食を頼んで食べさせていたが、その内容を知った結果、子供の好みや健康管理面を考えて、手間はかかっても、やはり弁当を持たせることにした。もちろん、母親である妻の負担は少し増えることになったのであるが。日本のように送迎バスなどなく、各自が車で送り迎えしなければならないのが面倒であったが、それはそれなりに利点(アメリカなどと違って、犯罪などの発生率は低いが、やはり子供の誘拐などの事件への予防策としてもよい。)もあり、直接先生たちにお話しをして情報交換をしたものであった。しかし、すべて直接的なコミュニケ−ションがうまくいったとは限らなかった。些細な問題であったが、例えば、子供の昼食を幼稚園が用意する給食から持参する弁当に変更した時、口頭で事務担当者に告げ、了解したものと思っていたら、子供が「今日は幼稚園の給食も食べたよ。」と言って驚かされ、翌日別の事務担当者に確認したところ、取消されてなかったことが分かり、すぐに訂正してもらった。事務担当者はパ−トで働いている場合もあり、日によって交替するため、引き継ぎがうまくいかず、きちんと処理されないこともあるので、二度三度と念を押しておいた方がよかったのかも知れない。幸いにもその食べてしまった給食代金は請求されなかった。月1回発行されるニュ−ズレタ−である程度の情報は入手できたが、日本の幼稚園のように、きめ細かな指導や情報交換をするために毎日のように持ち帰ってくる「お便り帳」のようなものがなく、どのように一日を過ごしてきたのか、あるいはどのような問題が起こったのかなどを知るには、関係者に直接話を聴いたり、時折出席簿近くに張り出されている個人情報(「今日の昼食は美味しく食べた。お母さんに感謝。」や「昼寝はしないで静かに休んでいた。」など)を見て知る以外に方法はなかった。事実、持たせた果物やジュ−スなどが誰かに飲食されてしまった時もあるようで、いろいろと聴くと少なからず不満があったようであった。

 それにしても私立の国際幼稚園ということで、送り迎えの車は大半が輸入高級車ばかりで、筆者の中古小型車がみすぼらしく見えたのは否めない。その高級車の乗ってくる日本人の中には、バブル経済破綻の前にかなりの資金も持って移住してきた方もいたようで、過去5年間無職で大きな住宅に住んでいるような方がいたのには驚いた。「子は親の背を見て育つ」と言われるが、感受性豊かな子供が、特に父親が働かないでブラブラして高級車を乗り回している姿を見て、どう思っていたのであろうか。他人には知らない世界とはいえ、同じ日本人ゆえ気になるところでもあった。


キャンパスライフ:その1

 私が研究生活を送った静かで、そのデザインの美しいキャンパスと情報ネットワ−ク環境を持つボンド大学(Bond University)は、当時の学生数は約1,850人くらいで、そのうち約30%ぐらいがアジア諸国を中心とした国からの留学生で構成され、国際色豊かな雰囲気のあるオ−ストラリアで最初に設立された私立大学である。午前8時から午後8時までの時間帯で授業が開講され、年3学期制を採用して、通常3年で卒業のところを約2年半(8学期)で卒業できる新しいシステムの大学である。学部は法学部、商学部、人文・社会学部、情報科学部の4つがあり、学士号、修士号、博士号を授与している。人文・社会科学部には付属の英語学校(BUELI - Bond University English Language Institute)があり、多くの日本人学生を含むアジア中心の外国人留学生が英語を学習していた。博士号を持つ教員の数は、オ−ストラリアの中で最も多く、海外での教職経験の豊富なプロばかりである。教育E研究へのその勢力的な取り組み方は非常に参考になったし、日本の高等教育機関にて同じような境遇にいる者として、大変勉強になった。

 国際デザイン・コンテストの結果を基に、当時約270億円をかけて造られた、その美しいキャンパスは、訪れた者を魅了する。4学部の入っている建物と図書館から見下ろせるように人造湖が広がり、コンベンション・センタ−とホテル、オリンピック・プ−ルや公式試合ができるバスケット・コ−トが二面取れる体育館などのスポ−ツ施設、2つの食堂や書店のある厚生施設と学生課や庶務課などに加えて、コンピュ−タを利用した講演会や演劇ができる劇場などがある大学センタ−、メデイカル・センタ−や薬局と売店を合わせたストア、学生寮などが主たる施設である。さらに、営業時間は限定されてはいるが、郵便局、銀行やIBM系とAppleのコンピュ−タや周辺機器などを販売する会社も3つある。新構想に基づく創立6周年目を迎えていた私立大学だったため、いずれの建物もまだ新しく、所謂インテリジェント・ビル化しており、学内LAN(Local Area Network、キャンパス情報ネットワ−ク)が利用できる素晴らしい情報通信システムを持っている。ボンド大学のノベルテイ・グッズも売っている案内所(Informationというサインがある所)がキャンパスの一角にあるが、そこで働く、どちらかというと老後を過ごしている人達は、基本的にボランテイアであるという。その大半は、見知らぬ人との会話を楽しんだり、お客の来ない時間は静かに読書をすることが好きなタイプの人達のようであった。筆者が当初情報収集目的で訪れた時に応対してくれた人は、数年前に英国から移住してきたという話し好きな婦人であった。

事情により独自の研究室を与えられなかったため、非常勤講師などが利用する共同利用研究室(Adjunct Office)の一部を利用させてもらった。もちろん、頻繁に利用した電子メ−ル(E-mail)の送受信やワ−ドプロセッサなどが使用できるコンピュ−タや多少の制限はあるもののキャンパス内外にもかけられる電話もあり、その隣には休息できる共同休憩室(Common Room)もあって、インスタントのコ−ヒ−や紅茶は自由に飲めたし、幾つかの新聞も読め、不便さは特に感じなかった。しかし、時折問題もあった。それは、そういった非常勤講師も学生とのカウンセリング(tutoring)をする義務があったため、学生が質問や指導を受けるためにその研究室をたびたび訪れてきたり、電話がかかってきたりして、若干うるさい時があったことである。さらには、中には学校が休みで、子供を連れてきて勉強させていた場合もあったが、ごたぶんにもれず、おとなしく勉強だけをしているわけもなく、ガタガタうるさくすることもあり、不愉快な気分にさせられたり、集中できなくて困った時もあった。そんな時は息抜きに出かけたり、図書館に調べものに出かけたりした。こういったことは共同利用の研究室では仕方のないことだったと言えよう。


図書館

 滞在したボンド大学の図書館は、当時創立6年目ということから蔵書数はそれほど多くはないものの、当然のことながら、頻繁に利用した。あちらこちらにコンピュ−タがあり、検索や資料閲覧ができる体制ができていた。また、コピ−をするのに便利であったのは、現金を入れてコピ−をする方法ではなく、ユニカ−ド(UniCard)というカ−ドを購入し、欲しいだけの金額分の現金を入れて、そのクレジットを得て、使用するというスタイルのものであった。A4サイズ1枚が9セント(約7円)で、OHP用紙1枚は70セント(約55円)でコピ−できた。ただし、コピ−機は利用頻度が高いせいか、時々故障していて、利用したい時に利用できない場合もあった。もちろん、急いでする必要のあるものは少なかったので、しばらく待って、修理後にコピ−をするというパタ−ンで十分であった。

 また、いわゆる持ち出し禁止資料コ−ナ−(Closed Reference Section)にある幾つかのファイル・キャビネットに収納されていた各コ−スの必須資料は、聴講していたクラスのものばかりでなく、その他の興味あるクラスについても自由に見られ、必要ならコピ−もできた。

 新聞閲覧コ−ナ−は、残念ながら日本の新聞の購読が1993年度までで中止されてしまっていたためと、地元の新聞は研究室の隣にある共同休憩室のものや自宅で購入したものを読んでいたこともあり、ほとんど利用しなかった。

 日本の大学図書館でもそうであるが、週末の開館時間(平成6年度は試験週間を除いて、土日の午後1〜5時までの4時間のみ)であったが、その後学生などの要望が認められ、土日とも午前10時〜午後5時と利用時間が拡大された。当初は不便さを感じていたが、仕事はできるだけ平日にするように心掛けていたので、それほど大きな問題とはならなかった。また、土曜日に仕事をする必要があった時は、警備担当者から許可を得た暗証番号とカ−ドで建物への出入りができるIDカ−ド認識システムを利用し、研究室を利用した。ただし、冷房が効いていないため、研究室の中は蒸し暑く、長時間にわたって仕事をすることはあまりなかった。


スタッフからの援助

 所属した人文・社会科学部のスタッフ(主として秘書達)は大変優秀で、テキパキと仕事をし、必要なものの手配や情報提供によく協力してくれた。日本では、欧米や豪州でのこういったスタイルと違って、事務部門は別組織であり、所属部門などでもその人的資源は不足しているし、個々の教員を十分にサポ−トする体制にはなっていない。豪州でのスタイルは大変羨ましいサポ−ト体制であると思う。日本でも研究予算さえ十分にあれば、秘書的な役割をしてくれる人を雇えるが、筆者など非実験系であるので、予算も少なく、すべて自分でしなければならない状況に置かれているので、大変羨ましく思えた。いつの日が大きく改善されんことを望んでいるが...。


キャンパスライフ:その2

 最後の2ケ月間余ではあったが、クイ−ンズランド州ではトップ・レベルの教育・研究実績を誇るブリスベ−ン市セント・ルシア(St. Lucia)にあるクイ−ンズランド大学(University of Queensland)の言語教育研究センタ−(Centre for Language Teaching and Research)へも客員研究員の資格を得て、研究交流をした。住んでいたゴ−ルドコ−ストからは車で片道1時間20分くらいの道のりであったので、週1〜2回通ったのである。子供を幼稚園に預けてからの車の旅は、朝の渋滞時間も過ぎた頃であったし、帰りも子供を迎えにいく5時までに戻るため、帰宅のラッシュ時間前で、事故や工事などによるスピ−ド制限がない限り、割合スム−ズなものであった。

 クイ−ズランド大学は、1901年創立の伝統ある公立大学で、オ−ストラリアに37ある大学の中で、ベスト4に入る規模と質の高い教育・研究を提供する大学である。主たるセント・ルシア・キャンパスは、ブリスベ−ン市の西に位置し、ブリスベン川が曲がりくねった場所に沿ってある114ヘクタ−ルの広大なキャンパスで、522の建物がある。文学部、教育学部、美術学部、音楽学部、社会福祉学部、法学部、農学部、商・経済学部、応用科学学部、理学部、建築・計画学部、工学部、歯学部、獣医学部、医学部の計15学部から成る麹大wである。学生総数は約25,000人で、約5,000人の教職員がいる。大きな大学だけに、様々な設備が整っており、それなりに便利ではあったが、逆に、行く度ごとに、駐車場所を探す苦労があった。また、ブリスベ−ンから西へ車で1時間ほど走ると、別のキャンパスのガトン・カレッジ(Gatton College)があるが、そこへは行く機会はなかった。

 生涯教育コ−スや他言語話者のための英語教育プログラムなどもある建物の中の4階に言語教育研究センタ−があり、筆者はその共同研究室の一角の机を与えられ、共同利用のコンピュ−タ数台も使える環境であった。しかし、筆者が主として利用するマッキントッシュは、そこに毎日いる博士課程の中国人学生が使用していたため、自由に使えず、また持参した自分専用のコンピュ−タもネットワ−クにつないで利用できなかったので不便さを感じた。このビルの1階には古いスタイルのLLと新しいコンピュ−タ、ビデオなどが混在しているラボラトリ−やオ−デイオ・テ−プやビデオ・テ−プの貸し出しを取り扱う事務室などがあった。

大きなキャンパスなので歩き回るだけでも大変であったし、授業間に移動する学生達の多さにウンザリもした。また、昼時のカフェテリアの混雑ぶりにも嫌気がしたが、大きな大学ならではの宿命か致し方なかった。さらに、子供を幼稚園に送った後、約1時間のドライブ後に研究室に到着する時間が午前10時前後であったため、学期中はどこの駐車場も一杯で、駐車スペ−スが空くまでいつも数十分は待たされた。


余暇

 滞在した10ケ月間の前半の土日の週末には、動物好きな子供のために前述のドリ−ム・ワ−ルド、ム−ビ−・ワ−ルド、シ−・ワ−ルドといったテ−マ・パ−クや自然保護団体が管理運営するカランビン・サンクチュアリ−(Currumbin Sanctuary)などには何度も足を運んだ。滞在していたロビ−ナ(Robina)地区からは、いずれも車で20〜30分の所にあったからでもある。入園料を支払えば、乗り物は乗り放題といったお得な環境であることも原因であった。中・長期滞在で3回以上訪れる予定の場合は、1年間有効のパス(Yearly Pass/Family Passと呼ばれる自由入園券)を購入すると大変お得である。子供も3歳以下ならば無料である。筆者と妻が3つのテ−マ・パ−クと自然保護団体の年会員になった時、子供はまだ3歳であったため、各テ−マ・パ−クの担当者は「その子は無料でいいよ。」と言って、年会費は支払わずに済み、その後も日本のように厳しくチェックするわけでもないので何回も入場できたのであった。「なんともオ−ストラリアらしい、大雑把なシステムだなあ。」と思った。どこへ行っても日本からの新婚旅行中のアツアツカップルやオバタリアンのグル−プなど団体旅行客も少なからず見かけた。

 ドリ−ム・ワ−ルドは、ゴ−ルドコ−スト(サ−ファ−ズ・パラダイス)からブリスベ−ン方向北へ17km(車で約20分)、ブリスベ−ンからはゴ−ルドコ−スト方向南へ48km(車で約40分)にあり、広大な駐車場を完備している。12月25日(クリスマス休日)以外の毎日午前8時から午後5時まで年中開園している。デイズニ−ランドなどを思い出させる10ケ所のテ−マ・ワ−ルド(セントラル・プラザ、カントリ−・フェア、ビレッジ・グリ−ン、ゴ−ルドラッシュ・カントリ−、コアラ・カントリ−、ブル−・ラグ−ン、リバ−・タウン、ガムツリ−・ガリ−、ロッキ−・ホロ−、マ−ケット・プレイス)があり、名前に恥じないワクワク、ドキドキの体験ができる所である。3種類の2日間パスや1年間パスがあり、再訪問者やリピ−タ−にはお得な入場券と言えよう。時期により期間限定の特別なショ−があり、私たちは高飛び込ショ−(High Jump Show)や海賊ショ−(Duelling Pirates)などを楽しむことを中心に出かけたこともあった。

 ム−ビ−・ワ−ルドは、ドリ−ム・ワ−ルド近くにあり、ゴ−ルドコ−スト(サ−ファ−ズ・パラダイス)からブリスベ−ン方向北へ車で約20分、ブリスベ−ンからはゴ−ルドコ−スト方向南へ車で約50分のパシフィック・ハイウエイ(Pacific Highway)沿いにあり、広大な駐車場を完備している。同様に、12月25日以外の毎日午前8時から午後5時まで開園している。米国のユニバ−サル・スタジオに似たこのワ−ナ−・ブラザ−ズ・ム−ビ−・ワ−ルドはマジカルな映画の世界に入ったような感覚を覚える所である。永遠のヒ−ロ−のバットマンの世界が堪能できるバットマン・アドベンチャ−・ザ・ライド(Batman Adventure the Ride)の乗り物、映画撮影現場を肌で感じるスタジオ・ツア−、野外円形劇場での愉快な、しかも迫力あるスタント・ショ−(我々が見たのは西部劇ショ−(Western Show)とポリス・アカデミ−・ショ−(Police Academy Show)である。)などが楽しめる。映画ファンにとっては見逃せない所と言える。ここでも3種類の2日間パスや1年間パスがあり、再訪問者やリピ−タ−にはお得な入場券がある。

 シ−・ワ−ルドは、ゴ−ルドコ−スト(サ−ファ−ズ・パラダイス)から一番近く、北へ3km(車で約5分)に位置している。イルカやあざらしのショ−、サメと潜水技術の歴史的発達を理解する映画と水中ショ−(Shark Encounter)、幻想的な海の世界を理解する3D映画などシ−・ワ−ルドらしいアトラクションや各種の乗り物、そして夏の間は特に活況であった大きなプ−ルなどがある一方、一日2回のユ−モアと迫力溢れる水上スキ−・ショ−があって決して訪問者を飽きさせない。クリスマス日閉園後の12月26日からの1ケ月間に限って、特別なレ−ザ−と花火を効果的に使用しながら、水上寸劇ショ−が繰り広げられた時には、それを見るだけの目的で息子の友達も連れて家族で出かけた。もちろん、子供たちは大喜びであったが、そのショ−が始まるや否や、その大きな効果音に驚いて、怖がってしまった。しかし、次第に目はレ−ザ−光線によって演出される興味ある映像と音の共演に夢中になっていたようである。園内は、モノレ−ルやミニ蒸気機関車が回りを走っていたり、空中ケ−ブルから全体が見渡せるようになっている。さらに別料金を支払う必要があるが、3つのコースを選んで空中散歩が楽しめるヘリコプタ−に乗ることもできる。ただし、これは相当の費用がかかるので我々は利用はしなかった。ここでも同様に3種類の2日間パスや1年間パスがあり、再訪問者やリピ−タ−にはお得な入場券がある。

 カランビン・サンクチュアリ−は、サ−ファ−ズ・パラダイスからゴ−ルドコ−スト・ハイウエイを南へ18km(車で約20分)、クイ−ンズランド州とニュ−・サウス・ウエ−ルズ州の境に近いク−ランガッタ空港の北7km(車で約10分)の所にある。3つのテ−マパ−クと同様、12月25日以外の毎日午前8時から午後5時まで開園しているが、午後4時まで色鮮やかなロリキ−トの餌づけやその他の動物による様々なアトランクションが行なわれている。クイ−ンズランド・ナショナル・トラスト/天然記念物保護団体(Queensland National Trust)が所有するだけあって、そのほとんどが動物保護や環境保護の問題を基本とした考え方で運営されており、子供達を対象とする自然環境学習ツア−や野生動物についてのガイダンスもあったりして、訪問者は、ここで自然の大切さと自然に対する優しい気持ち、そして未来へのビジョンなどの、創設者アレックス・グリフィス(Alex Griffith)の精神を学ぶことになる。大変オ−ストラリアらしい所の一つと言える。

 カランビン・サンクチュアリ−とは少し違った特徴のあるクイ−ズランド州環境・財産部所有のフリ−ズ野生動物公園(Fleays Wildlife Park)へも訪れた。ここはゴ−ルドコ−ストにおける「自然保護の父」と言われ、カモノハシ(Platypus)の人工受精に初めて成功したデ−ビッド・フリ−ズ(David Fleays)博士によって約50年前に創設された自然保護地区である。住んでいたロビ−ナからは車で約10分くらいだったが、バ−レイ・ヘッズ(Burleigh Heads)の海岸から2キロ程西へ入った所にある。我々が特に関心を持ち、出かけた理由は、オ−ストラリアの動物たちの3/4が夜行性動物と言われているが、その夜行性動物がまじかに見られるからであった。夜行性動物であるから、夜の散歩が良いわけであるが、個人的には通常入場できない。20人以上の団体であれば、予約して夜のツア−を設定してくれる。あるいは、ほとんど毎晩のように日本人観光客を対象にホテルからの送迎、デイナ−、アボリジニ−・ショ−を組み合わせたワクワク・スポットライト・ツア−(Wakuwaku Spotlight Tour)という日本語による特別ツア−があっで、それを利用する。ただし、かなり高額であるので注意されたい。我々はその特別ツア−の存在を知っていたのであるが、個人でも入場できると思って出かけて、不可能なことがその場で分かった。しかし、その時に丁度ワクワク・スポットライト・ツア−が始まったばかりのところへ行ったので、関係者にお願いして、特別の格安料金で便乗させてもらった。なんともラッキ−だったと言える。残念ながら、珍獣のカモノハシは、どこに姿を隠しているのか分からず見られなかったが、フル−ツ蝙蝠、ポッサム、ムササビなど様々な夜行性動物をまじかに見られ、息子は大喜びであった。

 年会員となったとはいえ、こういった遊園地へは毎週末行くこともできないので、その美しい海岸線で著名なゴ−ルドコ−ストの主たるビ−チやあちらこちらにある大きなショッピング・センタ−やフリ−・マ−ケットへも出かけた。その中でも車でわずか7〜8分の所にあるパシフィック・フェア(Pacific Fair)へは、そこでの便利さゆえ頻繁に出かけた。パシフィック・フェアは260を超える各種の店があり、美しいショッピング街となっている。その中では代表的なデパ−トのマイヤ−(Myer)、雑貨が主体のス−パ−マ−ケットのケ−マ−ト(K-mart)やタ−ゲット(Target)、銀行なども利用したが、行くと必ずというほど寄ってきたカフェがある。ラッフルズ(Raffles)というカフェで、少し値段は高いが、美味しいカプチ−ノと30分毎に焼き上がるスコ−ンが楽しめた。このカプチ−ノとホイップ・クリ−ムと苺ジャム付きのスコ−ン2個で3ドル(\65-75 x 3 = \195-225)なのである。また、10時半までに注文すると、わずか2ドル(\130-150)でベーコンと卵の入った手軽なマフィンが食べられるのも魅力だった。これは、もちろん、筆者の子供が注文するものだったのであるが。そこにはまた雀が足元に寄ってきて、「餌となるスコ−ンなどの端くれを頂戴!」と言いたげに首を上げながら動き回るのである。日本の雀は結構用心深いのに、なんとも人に慣れているのには呆れ返った次第である。

 中央ステ−ジには週末を中心に、時々それなりに有名な歌手やグル−プが来て、歌やパフォ−マンスをして来客者たちを楽しませた。また、9月のスク−ル・ホリデイの時期には、その場所が一転してアイス・スケ−ト場になり、ゴ−ルドコ−スト周辺の子供達は、その温暖な気候ゆえ全く味わえない冬のスポ−ツのスケ−トを、限定された時間(一人通常30分)ではあったものの格安の値段で楽しんでいるようであった。食事などをする所としては、1階に各種のサンドイッチ店やカフェがあり、2階のあるコ−ナ−には、日本食を含めて様々なファ−スト・フ−ドの店がある。筆者の経験からは特別美味しいとは言えないが、ハラペコの人には安く量の多いものが多いので、お薦めである。

 このショッピング・センタ−もごたぶんにもれず、6月の3〜4週間と12月25日以降の2週間が半期に一度のバ−ゲンが行なわれるので、ブランド商品など良いものを安く購入したい人にはその時期が最適と言える。ただし、バ−ゲンの時期により、冬物と夏物の量にかなりの差があるので注意されたい。また、マイヤ−やケ−マ−トなどの協賛グル−プでは、当時「買い物をして航空券をもらおう!(Fly Buy!)」というキャンペ−ンをしていて、それ相当の買い物(最低150万円くらい)をすると、国内航空券1人分がもらえるというサ−ビスをしていた。入会するのは無料であったので、筆者と妻も早速入会をしたが、もちろん滞在中に目標額に到達することなどは出来なかった。買い物好きなお金持ちの読者にはお薦めである。

 車で10分ほど走り、土日にカララ(Carara)という所で開催されるフリ−・マ−ケット(Flea Market)へも時々出かけた。新品から中古のものまで様々な種類の物が売られており、格安の物も多く、大変賑わっている所である。筆者たちが購入したものの中には、パシフィック・フェアなどでは10ドル以上で売られていたサングラスを半額以下の5ドルで得られたり、子供用の帽子や衣類、妻用のアクセサリ−、写真フレ−ムなど、幾度ごとに結構楽しみながら買い物をすることができた。もちろん、質的に良い物を求める方にはお薦めできないが。食事する所も幾つかあるが、特にサンドイッチの美味しい店も中にあって、食べる方も少し楽しんだ。オ−ストラリア産のお土産や古本を買う場合に、掘り出し物が見つけられるかも知れないので、お薦めの場所の一つと言える。

 夫婦としての余暇はいくつかあったが、まず一つは滞在したアパ−トの共同利用設備としてあるテニス・コ−トやプ−ルを利用した。残念ながら筆者の得意とするテニスは妻では相手不足であり、対等にできる相手がいなかったため、回数は少なかった。それでも韓国からの留学生と友達になり、一緒に楽しんだこともある。あの名プレイヤ−だったケン・ロ−ズオ−ル(Ken Roseall)が所有するテニス・クラブなどがあちこちにあり、どこかのクラブに所属して楽しめばよかったのであるが、忙しさも手伝って、所属するまでにはならなかった。

 一方、ゴルフは一人で都合のいい時にできるので、ゴ−ルドコ−スト地域にある20ものゴルフ場のうち幾つかのゴルフ場へも足を運んで楽しむことができた。子供が通った幼稚園へ行く途中にも日本とオ−ストラリアの企業が共同経営するゴルフ場であるパラダイス・スプリングス・ゴルフ・クラブ(Paradise Springs Golf Club)があり、日本に比べて格安のグリ−ン・フィ−(約1/4)であったので、正式なゴルフ・クラブの会員ではないのであるが、社交会員(social member)になると格安でプレイできるので、その年会員になり、コンペの行なわれる頻度が高い水曜日や週末を除いた週日の時間の取れる日に限り利用した。住んでいたアパ−トのすぐ北隣には、18ホ−ルの名門ゴルフ場であるロビ−ナ・ウッズ・ゴルフ・クラブ(Robina Woods Golf Club)があったが、打ちっぱなし練習やそこのレストランで知人と昼食を取る以外に利用することはなかった。打ちっぱなしの練習場であるドライビング・レンジ(Driving Range)の利用は、その年会員となったクラブで基本的にしたり、車で10分くらいで行けるカララ・パブリック・ゴルフ・クラブ(Carara Public Golf Club)が安かったので、そこを結構利用した。設備などは圧倒的に日本の練習場の方が整っているし、サ−ビスもいいのであるが、広々としたゴルフ場の一角で距離感が分かる練習ができるので気持が良かった。

 また、小さい子供がいるとなかなか夜出かけられないのが普通であるが、子供の面倒を見てくれる設備がある場合、大変便利である。1回だけであったが、その機会に恵まれた。参加した行事の一つは、全日空と全日空ホテル・ゴ−ルドコ−ストがシドニ−直行便開設記念として企画した公開録音を兼ねた桂枝雀一行の寄席であった。わずかな参加費($20/人)で、ちょっとした寿司とお茶の夕食後、2時間も大いに笑えた楽しい寄席、残念ながら何も当たらなかったが、全日空と桂枝雀一門が提供してくれたグッズやホテル食事券などの抽選会、そして美味しいアンパン2個のおみやげ付きというもので、大変お得な行事参加であった。息子は、ベイビ−・シッタ−が2人いて、クッキ−、果物、ジュ−ス、そしてちょっとした遊び道具が準備された専用の部屋で、他の子供達と遊び、楽しかった数時間を過ごせ、親子共々よい思い出の一つとなった。日本でも、こういったサ−ビスがあれば、多少割高でも参加できるのであるが。

 家族としての楽しみとしては、機会あるごとの様々なホ−ム・パ−テイなどの行事に参加することであった。息子の友達の家で開催され、いわゆる数人分の料理や飲物を持ち寄るポットラック(pot-luck)形式が多かったが、お世話になった人や家族を招待する自宅でのものも結構あった。当然のことながら、その材料不足から質的なものはあまり期待できないものの、我家では日本料理をいろいろ工夫して作り、精一杯もてなした。時にはプロ顔負けの腕を持った妻の友人もいて、その方に`ってもらって、レバ−トリ−を増やしたこともあった。また、南半球でしか味わえない年末の夏のクリスマスの時には、息子の友達の家に数家族が集まって、出張サンタ(夫妻)を呼んで、パ−テイをし、かかった費用を割かんにしたケ−スもあった。前もって参加者数を知らせておくのだが、それほど価値あるものではないが、全員の子供達にプレゼントを持参してくれたり、それぞれの家族と一緒に写真を撮ることも喜んでしてくれた。また、大晦日の恒例のNHK紅白歌合戦がTVO (TV Oceania)という衛星放送を通して見られるというので、ある日本人家庭に招待され、年末らしさを感じさせる楽しい一時を過ごした。子供の関係者ばかりでなく、筆者自身の友達の家へも招待されたりして、考えてもいなかったそれなりの有名人と食事と会話を楽しむことができた。その中には、地元で活躍する女医さんや心理学者、州政府の南西部地区保険機構の代表の方、元オ−ストラリア日産社長などがいたのである。

 また、オ−ジ−たちの好むバ−ベキュ−にも出かけた。ある夏の暑い日曜日に友人オ−ジ−夫婦の招待を受け、彼らの子供の一人とその友達、もう一組のオ−ジ−夫婦と車3台に分乗して、バ−ベキュ−を兼ねた避暑ドライブに出かけた。我々も巻寿司を作り、ジュ−ス類を持参して交流をした。40分くらいでゴ−ルドコ−ストの水源となっているヒンズダム(Hinz Dam)へ到着した。バ−ベキュ−ができるように設備が整っており、笑いカワセミも木にとまって鳴いてはくれなかったが歓迎してくれたり、模型飛行機を飛ばして楽しめる十分な空間があるような環境であったので、多くのオ−ジ−たちが来ていた。公園などにはガスが引かれていて、利用できるようになっている場合が多いが、ここは山の中であるので、燃せる木々が豊富に置いてあり、各自が火をつけて、鉄板を熱して調理するスタイルである。近くには水道もあり、ブッシュ・ファイア(bushfire)の原因ともなり得る残り火を消すにも全く問題はない。その時は、まずワインやジュ−スを飲みながら、ホステスがちょっとしたつまみ(幾種類かのチ−ズとフランス・パンの組み合わせ)を用意してくれたので、それを食べたり、おしゃべりを楽しんだ。その後、ホストがメインのチキンバ−ガ−肉とパイナップルを焼いて、バ−ガ−を各自に作ってくれた。各自数種類のサラダを取って、一緒に食べた。夏の季節でもあり、風が吹いているとはいえ、多少暑かったが、屋外でのバ−ベキュ−はなかなか美味しいものであった。

 一通りバ−ベキュ−昼食が終わると、国立公園の一つ(Spring Brook National Park)と場所を移動した。駐車場から1キロほど曲がりくねった山道を降りていくと、日本ではよく見かける山の上流部の水たまり場に沢山のオ−ジ−たちが集まって、飛び込みや水遊びを楽しんでいた。水は特別きれいとは言えなかったが冷たく、熱帯雨林に囲まれているため涼しく、避暑にはよい場所ではあった。一緒に行ったオ−ジ−たちは、水泳をしたりして涼んだが、我々は多少熱ぽかった息子に水遊びをさせるだけで終わった。ある程度遊んだ午後2時半頃、今度は戻る途中にある別の州立公園へ移動した。そこではデザ−トとしてホ−ムメイド・ケ−キを食べ、コ−ヒ−あるいは紅茶を飲むためであった。2種類もの大きめのケ−キを食べた後、少し散歩をということで、滝が見える見晴らしのよい場所まで歩いて行った。理由は分からなかったが、下まで降りられる道は閉ざされていたが、別のル−トで1時間ほど歩くとその滝の真下付近まで行けるという。しかし、往復する時間もなく、ちょうど往復してきたカップルの話を聞くと、結構きつい道のりのようで、行く気にもならなかった。例年よりも雨が少なく、乾燥状態が続いている関係で、その滝から落ちる水の量は少なかったのが残念であった。その後、来た時とは別の道を通って、アパ−トに戻ったが、初めての野外バ−ベキュ−であったこともあり、家族ともども楽しい一時を過ごせた。


その他:病気と対応策

 家族連れでの長期滞在となると、病気になる心配があるのは、特に抵抗力が不十分な子供である。私の家族の場合も例外ではなく、当時3歳11ケ月から4歳10ケ月であった息子が持病の扁桃腺が腫れて、高熱を出し、地元の開業医に時々お世話になった。恐らく、長旅後や週末に忙しくあちこちと連れ回したり、毎日国際幼稚園に通園させたりして、目に見えないストレスと疲れがあったのが原因かと思われる。幸いにも滞在したゴ−ルドコ−ストにて開業していた日本人医師が週の半分いたため、詳しく持病を説明し、的確なアドバイスを得られると判断し、通院した。筆者の専門からして英語でのコミュニケ−ションはそれほど問題なかったとはいえ、医学用語には不慣れなことも多く、妻が連れていくことが多いことも考慮したからであるが、日本語で通じる開業医がいたことは幸いであった。その医者が薦めてくれた漢方薬の服用のおかげで息子の扁桃腺も小さくなり、それが原因での熱は出さなくなった。西洋医学だけでなく東洋医学の併用がいかに効果的かを実証するような出来事であった。しかし、別の原因であると思われる風邪と発熱が何回かあった。それは、おそらくカルチャ−・ショックと心身の疲労が主たる原因と思われたものであった。日本でもわずか2ケ月しか通園していなかった集団生活に不慣れな子供が、ようやく生活のリズム慣れた頃、突然に日本語が通じない異文化に連れてこられ、英語や別の言語を母語とする異質な園児たちとそれまでのものとは異なった施設の幼稚園で一日を過ごすことは、大変な環境の変化である。しかも、最初の3ケ月は物珍しさも手伝って、週末の外出や最初から計画していた長期旅行などで、心身共に休まらない日々の連続であったのが病気にさせた間接的な原因ではないかとも思われる。週日は不慣れな幼稚園で、週末は外出で、一見楽しく毎日を送っているように思えたのは表面的なもので、真相はかなり心身共に疲れが蓄積していたのが何度となく発熱を誘発させた原因ではないかと思う。大人でも異文化接触におけるカルチャ−・ショックは大きいものである。ましてや小さな子供は異文化への順応性が高いとはいえ、個人差もあり、詳細に観察をして対応しないと、思わぬ病気になったりするものであるから十分に注意されたい。慣れるまでの週末の外出の頻度は少し控えた方が小さい子供のためにはよいかも知れない。

 また、海外旅行保険で病気の時などの緊急連絡先があり、日本語でも事情を説明して、医者などの派遣を要請できるが、必ずしも日本人医師や日本語のできる医者がやってくるとは限らない。筆者も妻も、幸いに現地の医者にお世話になることはなかったが、海外旅行保険に関する連絡で嫌な経験をした。それは、息子が熱を出して、医者に連絡をしたいと考え、日本語の通じる連絡先へ電話をかけた時であった。週末の夜間であったため、緊急連絡先へ連絡すれば違った対応をしてくれたと思うが、いくつか入っていた保険の一つの連絡先へ連絡をしたところ、保険証番号やら名前やらと詳細に契約事項をチェックするのにかなりの時間を取られ、近くのショッピングセンタ−の電話ボックスからかけ、コレクトコ−ルでなかったので、用意したテレホンカ−ドの使用可能度がどんどんなくなってしまった。余分に持っていなかったため、少し焦った。今やネットワ−クされたコンピュ−タ利用の時代である。なぜ保険証番号と名前だけで、すぐに身元の確認などできなかったのであろうか。また、どうして緊急の場合は、同じ日本人同士での電話のかけ方で分かるのであるから、そことは別の緊急時連絡先への電話番号を即座に教えてくれなかったのであろうか。あまりに業務に忠実過ぎる対応に大変嫌な思いをした一時であった。また、子供の診療が終了し、保険料の請求をある保険会社の現地代理店でした時も多少問題があった。きちんと領収書、診療終了書、保険金支払依頼書を送ったにも拘わらず、通常の2週間を過ぎても指定口座に入金されなかったのである。更に1週間待っても入金されなかったので、シドニ−の連絡先へ電話してみると、「今しばらく待ってください。」とのこと。後で聞いた話では、代理店がまだ新しく、プロとは言えないような担当の方が対応しており、何度となく電話やファックスで治療してもらった医者のところへ問い合わせており、その対応の仕方の悪さに、前例もあるせいもあるが、お世話になった医院の事務担当の方が怒っていた。4週間目にようやく入金されたが、シンガポ−ルのワ−ルド・サ−ビスの方へ請求された方がよいとの情報を得たので、その後はそうした。


銀行関連

 日本の取引銀行を介するスタイルで、大きなものの購入やホテル宿泊料金やレンタカ−の使用料支払いなどは、クレジット・カ−ドを便利に使用できる。しかし、購入する車の代金を含めて、一応10ケ月間の生活に必要なお金を持参しなければならなかったので、一番便利と思われたボンド大学キャンパス内にあるウエストパック銀行(Westpac Bank)へ連絡をとり、普通口座を開設してもらった。必要な書類を送ってもらいサインし、パスポ−トのコピ−と共に、送り返すだけで口座が開設できたのである。日本では最低でもいくばくかの預金が必要であるので、一ドルも送金せずに開設できたのは驚きであった。入出金の詳細な情報をATMなどで記入できる日本の通帳スタイルとは違って、通帳は預金などの時に利用し手書きでいれるスタイルのものであった。しかも、送られてきた通帳に印刷された名前のスペルが間違っており、送り返して訂正してもらったが、それは単純なタイピング・ミスであった。日本の銀行では考えられない、なんともいい加減なチェック体制であろうか。日本の銀行員のように高給取りではないらしく、仕事に対する責任感が薄く、仕事内容がズサンになるのであろうか。そうではないではなく、単純なミスであったと思う。銀行カ−ドの作成は現地でしかできなく、それに受け取るまでに1週間以上かかったが、これは日本の銀行でも同じであろう。さらに、そのカ−ドを使用するのに必要な4ケタの数字は、その後数日後にしか届かなく、少し不便を感じた。この数字も日本と違って、自分好みの覚えやすい数字とはならなく、コンピュ−タ処理上指定された番号である。しかし、使い慣れれば問題とはならない。一日に出金できる金額は500ドルまでと制限はあるものの、土日も含めてATMで24時間出し入れができ、大変便利なシステムである。この点、日本の銀行には見習ってほしいと思うが、いつになったら改善されるか疑わしいものである。しかし、ATMでいつでもお金がおろせると思っていたら、やはりオ−ストラリアの技術水準の低さを示すのであろうか、おろしたい時にそのATMが故障をしていたりして、わざわざ数キロ離れた別のATMヘ行かねばならなかったことも何度かあった。さらに、自由金利の世界であるから、銀行によって定期預金などの金利が違っているので注意が必要である。通常1週間から5年までの定期預金があり、それ相当の額を預けておけば、最低レベルの金利を推移している日本の銀行の定期預金とは違って、かなりの利子を生んでくれることになるので、すぐに必要としない資金の有効運用は重要と言える。

 ここオ−ストラリアでは100ドル札が一番大きな額の紙幣なのだが、車を購入する時、現金で支払うよう求められたので、銀行に引き出しにいくと、2,000ドル以上引き出す場合は、48時間前までに銀行に知らせる必要があった。幸いにも、時間的に余裕があったため、大きな問題とはならなかったが、なんとも自分の口座から引き出すのに、2日間前に知らせねばならないとは呆れるばかりであった。これは、大学内にある小さい支店であるから致し方ないのかも知れないと思いきや、どこの銀行もそのシステムを取っているとのことである。さらに、その引き出した現金も、額が額だけに、日本の銀行で入手できるように、その多くが最高紙幣の折り目のないあるいは新しい部類の100ドル札であろうと思っていたら、その時は全額の半分だけで、通常のヨレヨレ紙幣、残り半分も50ドル札であった。ATMで引き出す場合、前述のように1日に500ドルまでしか引き出せないため、2週間分以上を前もって支払うアパ−ト代などの関係で、その後も窓口を通して数百から千ドルといった単位の金額を一度に引き出したが、百ドル札で大半をもらえたことなどほとんどなく、大半が使い古された50ドル紙幣ばかりであった。その銀行の規模の大きさや顧客数にもよるが、基本的には入金されたものから支払っていくので、百ドル札など十分に用意できないとのことだった。日本の銀行とは違った取り扱い方である。

 銀行へ預金した生活費は、持参した額だけという制限があったため、計画的に使用する必要があった。そこで利用したのが、日本に比べて利率のよい定期預金である。相当の金額を預金しておくと、過去には一時期17〜18%といった高利率を誇った時もあったようであるが、私たちが滞在した時は1万ドルを3ケ月間預けると、税金を引かれて約100ドルくらいの利子がついた。5千ドル以上あるいは以下では利率が異なるので注意されたい。定期預金は通常一週間から数年と期間があるのであるが、滞在期間が10ケ月ということで、利用計画に基づいて、1ケ月定期、3ケ月定期、半年定期、9ケ月定期として分けて預金した。注意していただきたいのは、自由競争であるので、銀行などによって少し預金率が異なるという点である。口座を持っている銀行で預金するのが一番便利であるのではあるが、よくあちらこちらの利率を調べて利用するとよい。


Copyright(c)1996-2002 Kazunori Nozawa All rights reserved.