第4章 家族旅行



 滞在中に家族と共にできるかぎりオ−ストラリアあちこちを旅行して見聞を広めたいと考えていたので、財政上許せるかぎりの旅行をした。その中で最長期間の旅行をしたのは、到着約1ケ月後の7月に学会参加を兼ねて出かけた南および西オ−ストラリアへの12日間の旅行であった。訪れた都市はビクトリア州の州都メルボルン(Melbourne)、南オ−ストラリア州の州都アデレ−ド(Adelaide)、そして西オ−ストラリア州の州都パ−ス(Perth)であった。ニュ−・サウス・ウエ−ルズ州北東部の州境近くにあり、ゴ−ルドコ−ストの空港であるク−ランガッタ(Koolangatta)からメルボルンへは飛行機で約2時間、メルボルンからアデレ−ドへも約1時間かかった飛行機で移動し、アデレ−ドからパ−スへは、あの有名な大陸横断鉄道列車で36時間かけ、パ−スからゴ−ルドコ−ストへはシドニ−(Sydney)経由で飛行機で約4時間の旅という行程であった。

 その後は、妻の友人と家族一緒の10月のケアンズ(Cairns)の3泊4日の旅、筆者の父が12月に1週間訪れた時、帰路の出発点シドニ−を1泊した観光だけの旅と1月の学会参加を兼ねたシドニ−への家族自動車旅行をした。


メルボルン(Melbourne)

 メルボルンは歴史のあるビクトリア州の中心都市であるから特に南地区はかなり古い建物がある一方、近代的な新しい建物もかなりあり、新旧入り交じった環境を持つ所である。4日間滞在したホテル(All Seasons Welcome Hotel)は、有名なデパ−トのマイヤ−(Myer)やデ−ビッド・ジョ−ンズ(David Jones)に隣接し、少し歩くと真新しい大丸百貨店メルボルン店がある新しいショッピング・センタ−のメルボルン・センタ−(Melbourne Centre)や華やかな中華街のある中心地にあったため、東西南北に走る有名なトラム(tram)で動き回わったり、歩いて回るのに大変便利であった。そのメルボルン・センタ−内にある大きなセイコ−のからくり時計やナショナルの大画面テレビは、訪れる者の足をしばらく止めさせるほど人気のあるものであった。トラムは1日乗車券を購入して乗り回したりしたが、どこかへ2回往復以上する方なら、これは大変お得なものである。乗車したトラムにはほとんど車掌がいて、乗車券を購入したり、チェックをしていたが、その多様な人種に、メトロポリタンなメルボルンの雰囲気が感じられた。しかし、日本で見かけるような歩き回って集金をするスタイルではなく、専用の席に座って、乗車客の要望に応えるというものである。何とも偉そうな感じがしたが、応対の仕方はまあまあであった。

 筆者が参加したオ−ストラリア応用言語学会(Australian Association of Applied Linguistics)の年次研究大会が開催されたのは、学生数約17,000の伝統ある総合大学の一つであるメルボルン大学(The University of Melbourne)であった。宿泊したホテルからはトラムで10分ぐらいの所にあり、大変便利であった。家族連れで参加した関係で、参加できた講演、セミナ−、ワ−クショップの数には限りがあったが、そこで活躍する日本語教育関係者(特に日本人女性)に多く出会い、そのパワ−に圧倒された。日本でもめったに会えない遠方の知人(沖縄県から参加していた知人)や日本で知っていた外国人などにもばったりと会ったこともあり、世界は狭いということを実感した。

 学会の合間をぬって、家族と市内観光をした。子供の要望で、米国のサンジエゴ動物園につぐと言われるメルボルン動物園へトラムを乗り継いで出かけたり、シテイ・エクスプロア−(City Explorer)という定期観光コ−スを走っていて、乗り降り自由な真っ赤な二階建(doubledecker)市内観光バスを利用して主な観光名所へ行ったりした。その一つのクイ−ンズ・マ−ケット(Queens Market)は、様々な格安の食料品、おみやげ品、衣料雑貨が売られており、多くの人でごった返していた。しかし、優先順位の高かった動物園での半日滞在を除いて、思ったほどゆっくりと各所を見て回るほど時間的な余裕もなく、バスの立ち寄る時間を考えながら駆け足の観光といってよかった。オ−ストラリアの歴史上重要な犯罪人であり、ブッシュ・レンジャ−(Bushranger)として悪名高いネッド・ケリ−(Ned Kelly)が処刑されたメルボルン・ボウル(Melbourne Boal)は、その一つであったが、残念ながら訪れることができなかった。本数も多く縦横に走っているトラムを利用する方が便利であったかも知れない。冬の時期であったため寒く、天候もあまりよいとは言えなかったので、かなり歩いて見て回る必要があった所では、子供連れということもあり、途中で引き返した。どこの観光地への訪問でも言えることであるが、家族連れの観光では特に時期を選んでいくべきであろう。


アデレ−ド(Adelaide)

 アデレ−ドもヨ−ロッパ調の色彩が強い歴史ある南オ−ストラリア州の中心都市である。滞在したホテル(Barron's Townhouse)はショッピングの中心街である商店街(Mall)からやや離れていて、カジノや飲み屋やレストランの多いやや夜の繁華街に近い所にあった。しかし、空港から乗ったタクシ−のユ−ゴ系移民の運転手から聞いたステ−キの美味しいレストラン(Hog's Breath)の近くで、到着した夜に開店時間を待って味わった。特別のオ−ブンで18時間も焼いたという脂肪分の少ない分厚いステ−キの美味しかったこと、今でも強く印象に残っている。マネ−ジャ−も大変親切で、ゴ−ルドコ−ストにある系列店の情報を提供してくれたのみならず、記念にとお願いしたメニュ−もくれた。翌日の夕食は、ちょうどサッカ−のワ−ルドカップUSA'94の決勝で、イタリアがブラジルに敗れた後で閑散としていたが、ホテル近くのイタリア・レストランでパスタ料理を楽しんだ。ここも思っていたより手頃な値段で美味しかった。イタリアが勝っていたら、祝勝会会場の一つとなり、人でごった返していたに違いないので、逆にラッキ−だったのかも知れない。

 アデレ−ドでもご多分にもれず、子供のリクエストに応え、歩いてもそれほど遠くないアデレ−ド動物園やショッピング・モ−ルの中心にあるマイヤ−・デパートの4〜5階にあるダズルランド(Duzzleland)という遊技場へ足を運んだ。その1階にあるインタ−ナショナルな食べ物が味わえる食堂街では、モ−ニング・テイを楽しんだ。子供が小さいこともあり、強行スケジュ−ルで動き回るカンガル−島への1日ツア−など一般的なツア−には参加できなかったが、キャンパスを散策し昼食を食べたアデレ−ド大学(Universsity of Adelaide)やその近くの南オ−ストラリア博物館(South Australia Museum)などを歩き回って楽しんだ。


<妻のおかしなエピソ−ド>

 マイヤ−・デパ−トのダズルランドで子供を遊ばせている時に、トイレに行きたくなった妻は、すぐ近くのトイレ/非常口というサインのあるドアを開けて、用を足しに行った。ドアを開けると、さらに2つドアがある。その一つがトイレで、もう一つは非常口のドアなのであるが、戻る途中に間違って非常口の方のドアを開けて、出てしまった。その結果、ドアはトイレを出た側からは開けられるのであるが、内側からは開けられないということを理解せず、必死に開けようとしたが開かずじまい。結構、焦ったそうであるが、仕方無しに非常階段を降りながらも、各階のドアを開けようとしたが、いずれもできずに最終階まで降りてきてしまった。「このドアも開かなかったらどうしょう。」とかなり心配させられたが、幸いにもドアは開いてくれた。ところが出た所は道路であり、多くの通りがかりの人達が不思議そうに突然出てきた妻の顔を見ていたという。「なんとも恥ずかしい気持ちになった。」と話していたが、非常口から飛び出してきたのであるから、何がしか起こったかと不思議がられるのは致し方あるまい。そもそもサインを見落とした結果でもあり、そういった異文化におけるトイレの設置の仕方を理解していなかったからでもある。もちろん、そういったスタイルのトイレだけではないのであるが、トイレの利用ではよく注意した方がよい。


パ−ス(Perth)

 パ−スはその歴史の古さにもかかわらず、新しいビル群が建ち並び、近代的な都市である。観光名所は、日本からの南極観測船も立ち寄るという近くの港町であるフリ−マントル(Freemantle)を除いて、壮大な自然が造りだしたウエイブ・ロック(Wave Rock)などのユニ−クな所があるが、そういった名所へは丸々1日あるいは数日の日程で動かないと行けないので、ここでもやはり近場への観光だけで終わった。滞在した場所がインド洋に面するサンセット・ビ−チ(Sunset Beach)の1つスカボロ−(Scarbrough)であったため、レンタカ−を借りて、パ−スとその周辺を走り回った。到着した日は早朝であったため、市内を少し走り回り、その後ホテルのあるスカボロ−へ行って、海岸などで休息した。2日目は、地理に疎いこともあり、パ−スを発つのが早朝で空港への道を確認する必要があったため、国内線のタ−ミナルまでドライブし確認した後、歴史ある港町フリ−マントルで丸1日を過ごした。インフォメ−ション(観光案内所)で入手した「歩いて回る順路」に従って、船の博物館へ最初に行った。といってもそれほど大きくもなく、めぼしいものもない倉庫の中にある小さな博物館であった。入場料は寄付的なスタイルで「大人2ドル、子供無料」と書かれていたので、2人分を箱に入れ、一通り見回った。それから、早目の昼食を取るため、列車旅行中に知り合った地元のオ−ストラリア人がお薦めのカイルス(Kyles)という海鮮レストランへ行った。目的にしていたロブスタ−の丸かじりはシ−ズン・オフ(ベスト・シ−ズンは11月から6月初旬であるとあるオ−ジ−に言われた。)のため、できなかったが、ロブスタ−弁当とシ−フ−ドのミックスフライを食べ、一応の満足感を得られた。その後、子供の要望に応え、すぐ近くのワニ・センタ−(Crocodile Centre)へも行った。そこではワニの肉料理も食べられたが、興味もなく、塩素の臭いが鼻につく中、ただじっと動かないワニたちのいるセンタ−内を見て回っただけであった。それでも息子は、金網越しに覗き込んでは、「すごい!大きいね!」などと声をだし、楽しい一時を過ごしたようであった。

 残念ながら、最後の日は雨模様の天気であったため、宿泊したホテルから車で約45分東へ走らせて、ミッドランド(Midland)にある西オ−ストラリア最大の生産量を誇るワイン製造会社のホイヤ−・ワイン(Hoyer Winery)へ行ってワイン・テイステイングをしたり、西オ−ストラリアでしか入手できないワインをおみやげに購入した。10時には試飲ができる売店がオ−プンするはずなので、早目についてしまったので辺りを歩き回りながら待っていたが、実際にドアが開かれ、試飲ができる準備ができたのは、その開店時間より約10分後であった。必ずしも時間通りには始まらない営業はオ−ストラリアだけではないと思うが、なんとのんびりしているのであろうか。

 その後は雨の中、高速道路を南へ30分程下り、途中ファ−スト・フ−ドのレストランで早めの昼食を取った後、ファ−ム・ショ−やアボリジニ−・ショ−を看板とする観光農場のタンバルガム農場(Tumbulgum Farm)へ行った。そこの農場を訪れたのは午後12時半頃で、天候も悪い状況であったし、訪問者はなんと我々3人だけであったので、午後1時からのファ−ム・ショ−は中止になるだろうし、雨で外を散歩することもできないし、午後2時半からのアボリジニ−・ショ−まで待つのもつらいし、見ないで帰ろうとした。ところが、帰りかけて車に戻ろうとしたところ、その農場主がやってきて、「ご関心があるなら、3人だけでもファ−ム・ショ−をするから見ていきませんか?」と誘われた。あいにくの雨模様の天気で、どこへ行っても楽しくないだろうから、そこに留まって楽しむことにした。それにしても多人数で開催するのとは違い、大人2人分の料金しか支払っていないので、もうけなど出ないのではと思ったが、申し出を断らずにすんだ楽しい経験ができたのである。すでに筆者は1993年11月にニュ−ジ−ランド旅行をした時に、同じようなファ−ム・ショ−を見ていたが、初めて見る家族のためにと思い、再度見ることにした。我々家族だけにも拘わらず、心暖まる扱われ方にオ−ジ−たちの心意気を感じたのは言うまでもない。息子は怖がりながらも羊の毛苅り、牛の乳搾り、鞭の使い方の実演に興奮していた。筆者もトライしてみたが、鞭で音を鳴らす時に、最初うまくいかず、自分の首に巻き付けてしまい、家族から大笑いされてしまった。考えているほど易しくはなかったが、これも練習次第であろう。午後2時半からのアボリジニ−・ショ−には旅行会社と提携している関係で、ツア−・バス1台が到着し、新婚さんと思われた日本人カップルを含めた多国籍の観光客で人数もかなり増えた状況の下で、氷河時代にかなりの年月をかけてアジア(中国南部やインドネシア)から移ってきたと言われるアボリジニ−たちの文化の一部を知ることができる自然と動物に密接に関係したデジリドウ(didgeridoo)による音楽とそれに合わせて動物や鳥類の格好で踊るダンスを楽しんだ。息子の印象に強烈に残ったものの一つであったのか、その後もテレビのニュ−スなどでアボリジニ−・ダンスをする場面を見る時に、そのアボリジニ−たちが披露してくれた伝統的なダンスを真似て踊ることもあった。


<異文化衝突その3>

 パ−スで滞在したホテルは、冬のシ−ズンの限定期間ではあったが、2泊すると3日目が無料で滞在できるという特別料金のものであった。ところが、パ−スを去る日は、早朝の一番便しか予約できなかったため、ホテルを午前5時頃チェック・アウトしなければならなかった。フロントへチェック・アウトしに行くと、警備を兼ねたようなおじさんがおり、請求書を渡された。しかし、よく見ると3日分が請求されていた。宿泊条件を説明し、訂正をしてもらうようにお願いしたが、よく分からない様子で、その時点ではできないので、後日余分に取る1日分を返金する手続きをするからと、約束の文とサインを領収書に書いてもらった。しかし、すぐに問題を処理したかどうかの連絡もなく、1週間経てど2週間経てど何の連絡もなかった。日本のサ−ビス産業の対応などと比べて、考えられない程時間がかかったのである。金銭にかかわる問題であるので、素早い処置がされるものと思っていたが、「オ−ストラリアでは通常2週間以上かかるのが当たり前だよ。」ということをオ−ストラリア人の友人に聞いて、「なるほどのんびりしているなあ。」と感じた次第であった。しかし、しびれをきたし、ファックスを送って、どういう処理がされたか尋ねると、「すぐに支払ったクレジット・カ−ド会社への請求分へ返金手続きをしたので、ご心配なく。」という連絡を受け取った。これでようやく一安心といった経験であった。


ケアンズ(Cairns)

 9月下旬から妻の友人が京都からやってきて、3週間ほどアパ−トに滞在していた関係で、その友人が帰国する直前の10月中旬の時期に、ケアンズまで3泊4日の旅行に行った。ケアンズは昔からの砂糖の集積地であり、現在は北半球などからの航空路線の北の玄関口でもあり、世界最大の珊瑚海(Coral Sea)として有名なグレイト・バリア・リ−フ(Great Barrier Reef)への基点としてのリゾートである。しかし、いくつかのリ−フやグリ−ン島(Green Island)やフィツロイ島(Fitzroy Island)などへのクル−ズ船などの港はあるが、街には美しい海岸はない。1994年時点での人口は約11万人で、それほど大きな町とは言えない。

 決断が遅かった関係で、この旅行をしようと動き出したのが希望出発日のちょうど1週間前であった。従って、通常の旅行会社を通してのフライト予約はできなく、直接航空会社のゴ−ルドコ−スト支店へ出向いての手配となった。旅行会社で手配してもらう場合には、1週間以上前までに申し込み、航空券を発券してもらう必要があるので注意されたい。利用したのはホテル宿泊付きの航空券パッケ−ジである。これは選ぶホテルによって値段が異なるので、資料をよく吟味して好みの部屋や施設をチェックしてからベストのものを選択した方がよい。遅い予約ということで、希望する時間の便を利用することができなく、出発は朝8時45分であった。しかも、住んでいたゴ−ルドコ−ストからは車で約1時間のブリスベ−ン国際空港からであり、その結果国内旅行では必要ないパスポ−トを持って行かねばならなかった。国際線の一部区間を利用するのであるから致し方ないことではあった。帰路の到着空港は、すこし離れたブリスベ−ン国内空港であったので、車は空港近くの送迎付きの民営駐車場へ預けた。一日10ドルというのは空港内の駐車場と変わらないので、どちらかの空港内駐車場に置いていこうとも考えたが、送迎付きで盗難防止・管理がしっかりしていたので、移動が簡単と考え、民営駐車場にしたのである。目的地のケアンズへは空路2時間の旅である。人数が大人3人、子供1人ということもあり、いわゆるエアポ−ト・ライナ−(Airport Liner)と言われる空港とホテルを結ぶバスを利用せず、タクシ−で宿泊ホテルとなったツナ・タワ−・モ−テル(Tuna Tower Motel)へ行った。その日は、市中心街を歩き回った。滞在したホテルで予約を取ってもらい、2日目は世界最大規模の珊瑚礁海のグレイト・バリア・リ−フの中でも有名な所の一つノ−マン・リ−フ(Norman Reef)とグリ−ン島へ、カタマランという大型の高速船で出かけた。この高速船での行きの1時間半の旅は、妻と子供にとって最悪の旅となった。それはかなり猛烈なスピ−ドで飛ぶように進行するため、船酔に悩まされたのであった。船酔止めの薬をもらったが、妻は特にひどい船酔をしてしまった。息子は幸いに途中で寝てしまい、軽かったようである。船酔の薬は出港30分くらい前に飲んでおくとよい。船酔いになりやすい方は、乗船したらすぐに酔止めの薬をもらい飲むことをお薦めする。ノ−マン・リ−フでは、やや肌寒い気候であったので、スノ−ケリング(snokeling)などせずに、高速船が両側に接岸できる特別に設置された大型デッキでの食事を楽しんだ後は、半潜水艦から水中を見て30分の散歩をしたりした。期待していた程、透明度が高くなく、ややがっかりさせられたが、それでも様々な色とりどりの熱帯魚や美しい珊瑚が身近に見られ楽しめた。息子はどうしても水に浸りたく、少し水に入れてやったが、冷たさもあり、長居はしなかった。

 再度の船酔いを経験するのではとの多少の不安を残しながらも、30分くらいで帰路の途中にあるグリ−ン島へ立ち寄った。しかし、わずか2時間しか滞在できないことが分かり、我々は島全体の探検をするより、海岸で泳いだりしてリラックスした。この島は日本のリゾ−ト開発業者(大京)によって再開発された所の一つである。海岸で時間を取り過ぎたのが悪かったのか、船乗り場先にあるアンダ−・ウオ−タ−観覧室へは終了時間5分前ぐらいに到着したので、残念ながら入れてもらえなかった。このグリ−ン島では、お土産品や食事類も結構高いこともあったが、欲しいものもなく、飲み物と子供のアイスクリ−ムだけで済ませた。その後はそれほどの船酔いもせず、なんとか無事桟橋に戻った。

 いったんホテルに戻った後、再び夕食のために市街中心地に出かけ、ミ−テイング・プレイスイズ(Meeting Places)という国際食堂街のラ−メンを看板にしている日本食店で久しぶりにラ−メンと餃子を食べた。しかし、期待したほど美味しくはなく、がっかりさせられた。広告にだまされたと言った感じであった。異国の地では材料などに制限があるので、致し方ないことなのかもしれないが、後日ゴ−ルドコ−ストのある日本料理店で食べたラ−メンの方が日本のものと同じように美味しかった。食後の散歩をしようと、海岸沿いを歩き始めた途端、ラジソンホテル(Raddison Hotel)とショピング・センタ−のあるザ・ピア(The Pier)の前から花火が打ち上がった。しばらくその場に立ち止り、夜空に描かれる美しい芸術を楽しんだ。日本の夏の花火大会を思いださせられ、なんともラッキ−な一時であった。

 翌日は、やはり宿泊したホテルで予約しておいた鉄道とバスを利用するキュランダ(Kuranda)観光一日ツア−に出かけた。100年以上の歴史を持つ観光登山鉄道として利用される場合の多いキュランダ鉄道の8時半発便を利用し、1時間半の山上りをして、「熱帯雨林(Rain Forest)の村」と呼ばれるキュランダ村へ出かけた。途中でケアンズ国際空港や市内を見下ろせる地点や景色のよい所は写真撮影にはもってこいの場所であった。キュランダ駅から指定の観光バスに乗って、可能な訪問先を確認しながら中心街へ移動した。時間的な制約もあったので、最初に訪れたのはオ−ストラリア・バタフライ・サンクチュアリ−(Australian Butterfly Sanctuary)であった。2,000種類以上の蝶々がいて、世界で一番大きいサンクチュアリ−であると言われているが、見て回れる所は建物内のみで、思ったほど大きくは感じなかった。しかし、ガイドの説明を聴きながら、色とりどりの蝶が観察でき、特に息子は大喜びだった。次に訪れたのは、すぐ隣にあるキュランダ・マ−ケットであった。いわゆるフリ−・マ−ケットであり、特に珍しいものもなく、一通り回ってから、その中心部付近でクレ−ンを使ったバンジ−・ジャンブをやっている近くでモ−ニング・テイをしながら、その勇気あるジャンプを見て楽しんだ。たまたま若い日本人観光客が数人やっていたが、私どもには挑戦する勇気を持っている者はいなかった。昼食は指定された小型バスに乗って、10分ほど離れた熱帯雨林の中で食べた。ガイドの説明を聴きながら、列車風の電気自動車で数分中の方へ入った所が昼食場所であったのであるが、夜になると夜行性動物たちが動き回るという所で、熱帯雨林らしい植物が何種類も茂っていて、やや薄暗い所であった。午後1時半のジャブガイ(Tjapukai)という部族のアボリジニ−・ダンス・ショ−が予定に入っていたため、昼食はゆっくりというわけにはいかなかった。しかし、同じツア−に参加していたアメリカ人の親子といろいろ話をしながら一時を楽しんだ。その後、急ぎその劇場へ戻り、ショ−を楽しんだ。このショ−は大変コミカルで、迫力もあり、滞在中見たアボリジニ−・ショ−の中では一番良かったと思う。また、主旨からしてアボリジニ−たちとその古代文化を理解するのに役立つ内容であったと言える。唯一残念な出来事は、8ミリビデオで録画していたこのショ−がバッテリ−不足で途中までしか録画できなかったことである。しかし、これは筆者自身の単純確認ミスに過ぎないものであるし、致し方ない。なお、このダンス・ショ−中でのフラッシュ撮影は禁止されている。フィナ−レで歌われた「アボリジニ−であることに誇りを」の一節を引用すると、


I learn from you

You learn from me

We can't afford another blunder

Together we can live in harmony

Be as brothers in the land down under

Proud to be Aborigine

We'll never die, Tjapukai

Always be our identity

Proud to be Aborigine


私はあなたから学び

あなたは私から学ぶ

我々には失敗する余裕はないのだから

調和して一緒に生きて行ける

オ−ストラリアで兄弟のようになろう

アボリジニ−であることに誇りを

我々は決して死にはしない、ジャブカイ

いつもアイデンテイテイを持とう

アボリジニ−であることに誇りを

(日本語は筆者訳)


 ショ−の後は少し土産物店やカフェに立ち寄ったりと歩き回り、帰路に着いた。帰りはバスで山道を下りながら、美しい山あいの景色を楽しみながらホテルへ戻った。その夜は夕食を早めに済ませ、2日間の強行スケジュ−ルの疲れを取るため、早めにベッドに入った。翌朝チェック・アウト後に数時間の余裕があったため、荷物をホテルに預け、市街の散策をした後、本人が非常に気に入っていたホテル前にある児童公園で息子を遊ばせ、空港へ向かうまでの時間を過ごした。ケアンズからブリスベ−ンへの飛行も、ブリスベ−ンからゴ−ルドコ−ストへの車の旅も順調であったが、やはり皆疲れたようでイネムリをしていた。アパ−トへ戻ったその日の夜は全員早めに床についたのは言うまでもない。


シドニ−(Sydney):最初のシドニ−旅行

 オ−ストラリア最大の都市シドニ−への最初の訪問は、筆者の父親が平成6年12月に1週間訪れ滞在した後に実現した。父にとっては初めてのオ−ストラリア旅行であり、海外旅行経験が過去に豊富とはいえ、ほとんどが添乗員付きの団体旅行であったため、一人旅で英語力もないことを考えて、平成6年11月からブリスベ−ン・シドニ−・東京間のル−トが認可された全日空の便を利用してきた。到着はブリスベ−ンでも、帰国の際はシドニ−が出口というスタイルであったので、同伴していってやる必要があった。実際に計画がはっきりしたのが遅かったため、ゴ−ルドコ−ストのク−ランガッタ空港からシドニ−のキングス・フォ−ド・スミス(Kingsford Smith)空港への片道及び往復航空券がそれぞれ1人分づつ必要であったので、スケジュ−ルを確認後、よく利用したカンタス・オ−ストラリアン航空の国内線窓口へ急いで行った。しかし、12月16日以降は全部予約済みで帰国予定の18日朝の便を含めて、特に16日から18日は全然席を確保できなかった。仕方なしに急ぎ、今度はライバル会社でもあるアンセット航空の事務所へかけつけ、何とか希望通りの便を確保でき、ホットさせられた。12月16日以降に飛行機を利用する場合はホリデイ・シ−ズンの時期なので、早めの予約をしておくことをお薦めする。

 さて、シドニ−への最初の旅は、上記のような理由で観光が主体のものであった。シドニ−空港へ到着すると、朝早く到着したこともあり、荷物をホテルに置いてもらうため、タクシ−乗り場を探した。アンセット空港のビル側では、タクシ−乗り場よりもホテルやモ−テルなどへ玄関まで送り届けてくれるエアポ−ト・バス(Airport Bus)という小型バス乗り場が出口近くにあったため、荷物も少なかったし、一人5ドルという安さにも魅了され、それを利用してホテルへ行った。ちょうどその日は、騒音公害問題の点から空港の滑走路(第三滑走路)の閉鎖を求めて、約8千人くらいのデモが計画されており、午前10時から午後4時頃までに発着する飛行機は、キャンセルまたは再スケジュ−ル化されてしまったほど混乱した日であった。幸いに朝早い便で9時頃到着したため、その混乱に巻き込まれなかった。空港を出ていく道路の様子を見たり、バスの運転手の話を聞くまでは、全くそんなことを知らなかった。バスの運転士も「午後4時過ぎまで、仕事ができないので、空港へは戻らないで、どこかで暇をつぶすさ。」と言っていた。その日の夕方のニュ−スによれば、かなり混乱が起きて、3〜4時間くらい旅行者や空港職員などの関係者以外は空港ビルに出入りできない状態が生じて、送迎をする目的で空港を利用するかなりの人たちが迷惑したようであったが、筆者達は幸いに難を免れた。

 ホテルは航空券を購入する際、その担当者からの助言を参考にして予約してもらった。初めてのシドニ−訪問だし、適当な設備を持っていて、それなりに便利な所に位置するホテルということで、ダ−リン・ハ−バ−(Darling Harbour)にあるパ−クロイヤル・ホテル(ParkRoyal Hotel)にした。チェック・イン後は、ホテルで情報を得て、タウン・ホ−ルのすぐ北隣にある著名なクイ−ン・ビクトリア・ビルデイング(Queen Victoria Building)まで歩き、シドニ−・エクプロア−(Sydney Explorer)という市内26箇所の主要観光名所を20分間隔で巡る赤色の目立つ観光バスを利用して動き回った。1日だけの観光であったため、この乗り降り自由なシドニ−・エクスプロア−が便利であると考えたからであった。1日パスの料金は、大人が1人当り20ドル、子供は12歳以上15ドルであった。その1日パスは乗車時に運転手から購入できる。購入と同時に、路線図が入っていて、各名所の案内文とカラ−写真付きのパンフレットがもらえる。

 最初に降りて写真撮影をしながら歩き回ったのはロックス(Rocks)付近であった。著名なシ−フ−ド・レストランなどや北シドニ−市へと繋がっている有名なハ−バ−・ブリッジ(Harbour Bridge)がある所である。その逆方向には、遊覧船の発着場と有名なオペラ・ハウス(Opera House)がある。ちょうど12月〜1月はオペラ、演劇、コンサ−トが幾つもあり、多少興味があったが、オペラ・ハウスの中の見学だけでも1時間半くらいかかると運転手に言われ、時間的に余裕がなかったので入らなかった。近くで韓国人の団体観光客のあるグル−プがバスから降りて大騒ぎで写真撮影をしていたのが印象に残った。日本人団体観光客でも同じようなことであろう。

 次に降りたのは、ハ−バ−・ブリッジやオペラ・ハウスが一緒に見え、左方向にはシドニ−市内の高層ビル群やシドニ−・タワ−(Sydney Tower)などが一望でき、また反対の方向には海軍の戦艦が幾つもつながれている風景が見られるマクアリ−婦人のイス(Ms. Macquary's Chair)という所である。晴天の時と雨天の時に利用できたと言われる2つの岩を削って作られたイスのある所は、大変眺めのよい所である。ちょうどトヨタの車専用運搬船が通りかかるシ−ンに出くわした。ここでも沢山の日本人や韓国人の観光客が次から次へと訪れていた。限られた時間の中で著名な地点へ行くのは観光客なら皆一緒であるから致し方ない。

 しばらく待って、再度バスに乗り込み、次に降りたのは、中華街(China Town)であった。少し歩き回った後、ちょうどおなかもすいてきたところであったので、昼食をとることにした。どこのレストランに入ったらよい分からないので、いろいろな食べものが選べ、安い値段で食べられるフ−ド・コ−ト(Food Court)に入り、なじみのある中華料理のいくつかを食べた。思ったより量が多く、注文した3種類全部は食べ切れなかった。日本人などに比べ、体が大きく、スポ−ツ好きなオ−ジ−たちの胃袋の中には簡単に入ってしまいそうな量ではあったが、筆者と高齢の父の2人には無理な注文であった。

 そこから近く歩いても行ける所と思えたが、再度バスに乗り、数多くある博物館や美術館の中で、父が一番関心があった産業技術の歴史等を学べる電力博物館(Power Museum)を訪れた。膨大な規模の博物館であるので、早足で歩き回るのにも1時間以上費やしたが、そういった分野に興味がある方にはお薦めの所である。入場料は大人4ドルである。子供が遊べる遊具のある空間や実際にコンピュ−タを触りながら学べるコ−ナ−などもある。ここだけでも数時間は楽しめる所と言える。

 次に、シドニ−水族館(Sydney Acquarium)へ行った。思っていたほど良くなかったというのが筆者の第一印象であった。というのも、すでに家族でパ−スへ旅行した時、アンダ−ウオ−タ−(Underwater)の一つに行っていたせいかも知れない。値段は大人14ドルとまあまあの入場料金であり、同様に多くの魚が見られたが、動き回る手順は悪くないにしても、大きな水槽がある所へは上がったり降りたりのやや無駄な歩きが多い場所もあった。

 まだまだ観光をして歩く所は数多くあったが、老齢の父に鞭打って強行スケジュ−ルで動き回ることは問題があったので、その後はとりあえずホテルに戻って休むことにした。そのシドニ−水族館からは歩いて帰れる距離であったので、途中で筆者が興味あるコンピュ−タの販売店に立ち寄りながら、戻った。心配していた通り、父は疲れが出たらしく、お風呂に入ってから、しばらく寝てしまった。夕方7時頃になり、おなかが空いたので、夕食に出かけた。ホテルのレストランでもそれなりに美味しい晩餐ができたが、どうせならシドニ−・タワ−の回転レストランで食べ、高い場所から夜のシドニ−を楽しめたらと考え、予約もせずに行ってみた。ところが、土曜日であるということもあり、結構混んでいた。一時間待たなければならないと言われたので、ほとんどの店が閉まっていたが、近くのショッピング街を歩いて、クリスマスの飾りなどを楽しみながら時間をつぶして待った。実際に食事ができたのは1時間半後ぐらいの9時近くになってしまった。しかし、窓際の席を得られ、クリスマスの夜間照明がきれいな所も幾つかあり、夜景は結構良かった。食事の内容は、典型的な西洋料理であったので、一人35ドルの高い料金の割には、それほど美味しいとは思わなかった。展望台へ上がるだけでも大人1名につき6ドル取られるので、実質の料金は29ドルであった訳であるが。これだけ出せば、もっと豪華なシ−フ−ドが楽しめたかと思ったが、致し方ない。夜景を楽しむだけなら、展望台行きだけのキップを購入した方がよい。それにしても3つあるとはいえ大人10人も乗れないような扇型のエレベ−タ−での昇降時は結構揺れるし、外が見えなかったので何とも不安になった一時であった。恐らく初めて乗る人は、誰でもそういう印象を持つに違いない。

 翌朝ホテルでゆっくりと朝食を取った後、10時出発予定の父を送りにシドニ−国際空港へタクシ−で行った。筆者のゴ−ルドコ−ストへ戻る国内線タ−ミナルは2キロ離れた所にあり、フライトの時間も余裕をもって予約してあったため、父を見送った後の数時間を過ごすため、前述のエアポ−ト・バスでその後(平成7年1月中旬)に滞在した所のキングズクロス(Kingscross)付近へ戻って、地理を知っておこうと少し歩いてみた。ふと立ち寄ったフリ−・マ−ケットで中古のCDを5ドルで購入したが、少し得したような気がしたが、どこでもそのぐらいの値段で買えるようである。得したか損をした買い物であったかは分からない。そして、市営電車にも乗ってみようと、路線図をもらって、どのように観光名所などを行けばよいのかを検討した後、時間的には国内空港へ戻ってもよい時間になっていたので、その駅から空港に一番近いと思われた駅まで切符を買って、乗り込んだ。日本のように電車は決してきれいとは言えないが、悪名高いニュ−ヨ−クの地下鉄のような汚い電車とは違って、2階建ての電車で、一車両に70〜80人くらい座れる席があった。ところが、ここでもちょっとしたハプニングに遭遇した。切符は自動切符販売機で目的地のボタンを押して購入したつもりでいたが、手前の途中の駅で降りて、タクシ−に乗り換えようとして、改札口を出ようとしたら、係員がこのキップでは料金不足なので、1ドル40セント払って欲しいと言われた。「えっ、切符はちゃんと指示されたように販売機で購入したのに、どうしてですか?」と言ったら、即座に「いや、それじゃ結構。出ていいよ。」と言ってくれたので、好意にすがり出てしまった。いやはや何ともおおらかなシステムであろうか。それとも対応するのが面倒だったのであろうか。いずれにしても規則にうるさい日本ではこうはいくまい。


2回目のシドニ−旅行

 2度目にシドニ−へ出かけたのは、平成7年1月13日から20日まで筆者が参加したニュ−・サウス・ウエ−ルズ州英語教育学会(NSW TESOL)の研究大会への参加を兼ねての車での家族旅行であった。住んでいたゴ−ルドコ−ストとシドニ−の間は約900キロ離れており、単純にハイウエイを平均100キロのスピ−ドで走っても9時間はかかり、基本的には1日半から2日間かかる距離である。まだ子供が小さかったこともあり、あまり無理もできなかったので、第一日目は子供の幼稚園が終わり、夕食を済ましてから出かけた。結局、3時間ほど走って午後10時頃になったので、ニュ−・サウス・ウエ−ルズ州の北部にあるバリ−ナ(Ballina)という町でハイウエイ沿いのモ−テルを見つけ1泊した。夜の走行でどこまで行けるか予想できなかったので、行き当たりばったりの宿泊になってしまったのである。会員になっているとはいえフラッグ(Flag)の提携モ−テルは10%の割引があっても予想以上に高かったので、午後9時を過ぎていて、シャワ−を浴びて寝るだけの目的でもあり、適当な宿泊代であったその隣のモ−テルに宿泊した。

 第二日目は、途中でガソリンの補給や昼食をとるなどの休憩時間を除いて、一日中走りっぱなしのドライブ旅行であった。オ−ストラリアでガソリンが一番安い地区にいたこともあり、それに比べると1リットル当たり10セントから20セントも高く、場所によってガソリンの価格はまちまちであった。できるだけ安いガソリン・スタンドで補給しようと考えていたが、一度通り過ぎてしまうと、30km〜40kmとガソリン・スタンドがない場合もあり、慌てたこともあった。給油する必要が出ても、ガソリン・スタンドはすぐにはなさそうな雰囲気であったので、ハイウエイから離れ、探したこともあった。その結果、数十分の時間的な損失をしてしまった。もちろん、同乗者である家族たちから不満の声が上がったことは言うまでもない。多少余裕をもって補給しておくことをお薦めする。妻が3時間ほど運転をしてくれたので多少は助かったが、後は筆者が引き受けたので、長時間運転が苦にならないとは言え、途中の景色は割合単調なことも加わって、やはり疲れた。予約しておいたキングスクロス(Kings Cross)にあるトップ・オブ・ザ・タウン・ホテル(Top of the Town Hotel)へは午後6時半頃に到着した。このホテルを選んだ理由は、反対側に高級ホテルのハイアット・リ−ジェンシ−・ホテル(Hyett Regency Hotel)があり、そこが研究大会の会場であったのと、駅が近くて中心街に出やすく、飲食店やス−パ−も近くにあり便利だったためである。チェック・インして、荷物を整理した後、夕食に出かけた。疲れていたこともあり、そのホテルの最上階の15階にあり、ダウンタウン側やハ−バ−側への眺めもよく、韓国料理と日本料理が食べられる韓日レストラン(Han-il Restaurant)で食べた。日本では中華料理の方を食べることが多く、韓国料理はめったに食べていなかったので、値段もそれほど高くないこともあり、カルビ肉の定食を食べてみたが、これが大変美味しく量も十分にあり満足できた。メニュ−は英語、韓国語、日本語で書かれていたが、日本語が母語話者によって訳されていないことが明らかな表現が幾つか見つかったが、訂正も不可能そうなメニュ−であったので、あえて誤訳部分の指摘をしなかった。どうも職業柄こういったことが気になってしまう。言葉はできるだけ正しく伝えたいという気持ちがあるからである。キムチや香辛料の強い料理と韓国製のビ−ルにほろ酔い気分で疲れが取れた感じがした。いや、その結果、お酒に弱い筆者は、その夜ドット疲れがでたようで、ぐっすりと寝ることができた。

 三日目は、筆者が研究大会前ワ−クショップに参加する予定であったためと妻に鉄道の利用方法を説明しながら市街の中心地などへの行き方を理解してもらうために、家族と一緒にタウン・ホ−ル(Town Hall) 駅まで鉄道で出かけ、近くのファ−スト・フードの店で朝食を済ませた後、別行動を取った。筆者は、そこから歩いて行ける2つの会場でのワ−クショップに参加し丸々一日を過ごした。午前中のセッションは、専門学校のユニバ−サル・イングリッシュ・カレッジ(Universal English College)でのコンピュ−タ利用の外国語教育のワ−クショップに参加した。その後、参加者の一部と午後の会場への途中にあった中華レストランで飲茶(ヤムチャ)を食べた。様々な参加者と一緒に飲茶と会話を楽しんだが、美味しいかどうかもよく分からず、やたら飲茶を取って食べるスタイルには少し抵抗を感じた。午後のセッションは、中華街近くのユニバ−シテイ・オブ・テクノロジ−(University of Technology)であり、異文化コミュニケ−ションに関するワ−クショップに参加し、ホテルへ戻った。家族は、シドニ−水族館を見学後、ショッピング・ア−ケ−ド街を歩き回り、多少ショッピングを楽しんでホテルに戻った。

 四日目は、筆者が研究大会に丸一日参加していたが、家族は南半球で一番高いシドニ−・タワ−に行き、そこからの眺めを楽しんだ後、再びショッピング街を歩き回り買い物を楽しんだ。どうも妻の興味が優先されたようである。筆者は、研究大会でのプレゼンテ−ションや教材の展示会で有意義な情報を得たり、日本から参加していた数人の知人との会話やそこで知り合った人々との情報交換を楽しんだ。しかし、あるオ−ストラリア人から思わぬニュ−スを聞き耳を疑った。それは、神戸を中心に家屋への大きな被害と5千人以上の死者を出した平成7年兵庫県南部地震のニュ−スであった。ホテルへ戻った夕方は、24時間休みなく世界のニュ−ス番組を提供し続けるニュ−ズビジョン(Newsvision)に釘づけになった。NHK海外放送やCNNなどの生々しいレポ−トから、そのすさまじい状況が次々と報告され、まるで戦後の廃虚を見ているようで、全く信じられないシ−ンであった。それ以前に北海道や東北北部でかなり大きめの地震があり、70年前に起こった関東大震災での経験のある関東地区や東海地震の恐れのある中部地区ではそれなりの心構えと震災対策が取られていたが、関西地区では過去にほとんどなかったこともあり、震度7.2という大きさもあるが、被害が大きかったようであった。自然の力に対して人間の力ではどうにもならないことを証明しているにしても地獄を見ているような感じであった。ただ神戸付近に住んでいる知人や友人たちが無事でいることだけを祈っていた。

 夕食は、ホテル近くのキングス・クロスの繁華街にあるシ−フ−ドを割り安で食べられるという宣伝文句もあったイタリア料理レストランでパスタ料理を食べたが、これが大失敗であった。夕方の割合早い時間帯であったため、まだ多くの店が開いていなかった。そこで適当な店を見つけ入ったのであるが、お客は我々だけで、白人のウエイタ−が席に案内してくれた。しかし、注文を取りに来たのは愛想のない中国人で、何か嫌な気分であった。案の定、注文したパスタ料理は、予想していたほど美味しくなく、価格の割には量も少なめで、全く期待はずれであった。会計の際も、そのオ−ナ−らしき中年の中国人女性が対応してくれたが、「有難うございました。」の一言も言わず、ぶっきらぼうに対応していた。このような対応の仕方では、お客が再度訪れたいとは思わないし、レストランの経営は決してうまくいかないだろうと感じた。何か損をした気分であったが、行き当たりばったりで入る店にはあまり期待しない方がよいという教訓を得た経験でもあったと言える。

 五日目も、筆者は丸一日学会参加で過ごしたのであるが、家族は数多い博物館や美術館の中で、子供が遊技施設で遊んだり、様々な技術や科学の歴史的な発達を学びながら回れるパワ−・ミュ−ジアムへ行った後、中華街やクイ−ン・ビクトリア・ビルデイングという割合高級品が多いショッピング街やその近くのデパ−トなどの繁華街を歩き回って楽しんだようだ。

 夕食はガイドブックに載っていた韓国料理レストランへ行ったのであるが、その店を見つけるのにちょっと苦労した。それは、道路名を見て探したのであるが、途中の道路案内版でちょうどその道路名が何かのステッカ−に隠れていてよく読み取れない状態であったからである。しかし、汚い路地を少し歩き回り、なんとか見つけることができ、入ってみた。韓国人観光客の団体さんが出入りしていて、賑わっていた。まだ未経験の料理を食べてみようかと注文するのにメニュ−を見たかったが、後から来た朝鮮語を話せる日本人グル−プには持ってきたのに、我々にはすぐに持ってきてくれなかった。忙しそうにしていた中年のおばさんがやっと我々に気づいてくれ、「どうしてメニュ−を持っていっていないの?」というようなことを言い、若いウエイトレスに命じたので、ようやくメニュ−を入手することができた。シドニ−では2度目の韓国料理の体験であったので、要領は得ていたと思ったが、いざ注文するとなると、中身がわからないこともあり、かなり迷った。しかし、韓国製のビ−ルを注文した後、結局、カルビ焼肉定食とビビンバを注文した。味は、最初のレストランでのものより美味に感じた。それにしても、副食はすべてキムチ漬けという感じで、真っ赤な色合いのものばかり、口の回りがヒイヒイしながらも結局食べてしまった。妻は辛い食事に弱かったのであるが、こういった異文化体験をした関係で、韓国料理は気に入ったようである。妻の韓国人の友達が日本食が好きであると言っているということをしばしば聞いていたが、逆に、日本に一番近い外国でありながら、遠い国と言われてきた韓国の食文化が日本人にもよく合うものであることが実体験できたのである。

 六日目の学会参加は、午後は聞きたい研究発表もほとんどなかったので、午前中だけにして、家族がまだ行っていなかったオペラハウスやロックスなどへ出かけた。オペラも1日おきに公演中で、できたら見たかったのであるが、なにせ子供(しかも4歳半の腕白坊主)連れの旅行中であり、同伴しては見られない規則であったし、公演中に子供の面倒を見るシステムもないということで、残念ながら諦めざるを得なかった。その後、ロックスにあるシーフ−ド・レストランで食事でもということで、まだ夕方の早い時間であったが、行ってみた。思っていたよりも混んでいて、反対方向にオペラハウス、ハ−バ−を航行するフェリ−や各種運搬船が見えるレストランがいくつか並んでいる。そこをのんびりと歩いていると、なにか異様な雰囲気を感じた。実は、そのレストランで食事をする人達に、余興を提供していたピエロが我々の後ろにピタリとついて、同じような歩き方をして、笑わせていたのである。すぐには気がつかなかったのであるが、気がついた途端、そのピエロはその場を去り、次の通り客の後ろへ行ってしまった。すぐにビデオカメラを出して、撮影し記念に残したが、考えてもいなかったハプニングであった。結局、今一つ入りたいレストランも見つからず、かなり混んでいたので、そこでの食事はしなかった。

 七日目は、学会の最終日であったが、参加はせず、小雨模様の天気であったので、当初予定していたブル−・マウンテン(Blue Mountain)へ行かず、妻が寄りたいと言っていた食器類の店のピ−タ−ス・オブ・ケンジントン(Peters of Kensington)へ行った。子供のおもちゃやキッチン用品、さらには免税品なども所狭しと置いてある店であるが、我々の目的はウッジウッド(Wedgewood)の食器セットを購入することだった。日本のデパ−トで人気のあるようなデザインのものは避けたが、最新のデザインと色であるものを選んで購入した。やはり6人分のセットとなるとかなりの値段になり、不必要であると思われたコ−ヒ−・ポットなどを除いたセットを購入した。それでもかなりの値段になってしまった。その後、シドニ−を後にして、1号線(パシフィック・ハイウエイからフリ−ウエイを通るコ−ス)を戻るつもりであったが、なぜか正しいル−トから外れ、30分以上の時間ロスをしてしまった。それでも途中でガソリン補給を兼ねて昼食を取り休憩した後、北へ向かって走り続け、タリ−(Taree)まで行って、適当なモ−テルを見つけ一泊した。そのモ−テルの持ち主の紹介によると、その近くではインド料理か中華料理が美味しいということだったので、その日の夕食は歩いて行ける中華料理レストランにした。いざ入ってみると、中華料理店なのに、受付からウエイトレスまですべて白人ばかり、またお客も我々以外は白人、ということでちょっと不自然な感じもした。飲み物は別料金であるが、ちょうどバッフェ・スタイルで食べ放題というスタイルのものがある木曜日であったので、そのスタイルで食べた。妻は、ちょっと食べ過ぎるくらい食べ、モ−テルに戻るや否や胃薬の世話になった。まったく腹八分目とはよく言ったものであるが、それを無視すると胃痛に悩まされる結果となる。読者諸氏も食べ過ぎには注意しましょう。

 八日目は、途中激しく降ることもあった雨模様の中、一日中車を走らせ、ゴ−ルドコ−ストの自宅へ戻った。天気さえ良ければ、途中で見かけた観光地の幾つかへ寄りたかったのであるが、残念ながら雨模様の中ではどうにもならなかった。3時間ほど妻が運転を替わってくれた以外は、筆者がほとんど運転した。自宅に戻るや否やホットして、疲れがドット出たのは言うまでもない。


その他の学会出張/家族旅行

ブリスベーン(Brisbane)

 滞在していたゴ−ルドコ−ストから車でパシフィック・ハイウエイを約1時間北へ走らせると、オ−ストラリアへ出入国した時に利用した国際空港(1995年9月に規模の大きな新国際空港が開港されたため、旧空港は閉鎖された。)もあり、クイ−ンズランド州の政治・経済・文化の中心地でもある100万都市の州都のブリスベ−ンがある。最初に訪れたのはapitite (Asia Pacific Information Technology in Training and Education Conference and Exhibition)'94という教育・情報工学に関する学会に参加するためであった。詳しいプログラム情報が直前まで入手できなかったことやホテルなどを会場としているせいか大会参加費が高かったこともあり、参加したのは開催された5日間のうち1日だけであったが、大変有意義な1日を過ごすことができた。車で行ったので、会場近くの駐車場を探すのに少し時間を取られたが、運よく会場には歩いて5分ほどの所を見つけ、駐車することができた。1時間当り2ドルだったので、計5時間ほど駐車し、10ドル支払った。

 2回目に訪れたのは、滞在生活2ケ月がたった8月のある土曜日であった。ちょうど世界中から集められたフランスの著名な画家ルノア−ルの作品展が開催されていたので、家族と一緒に出かけたのである。ブリスベ−ンとその次の開催地であるメルボルンしか展示されない絵もあり、貴重なもの40数点を見て回り楽しんだ。やはり、風景画よりも人物画の方が印象が強いせいか、人物画に観賞する中心が移ってしまいがちであった。記念に代表的な絵の1つ「うちわを持つ女」のポスタ−やいくつかの絵葉書、そして解説書を購入した。特に熱心な美術愛好家という訳ではないが、著名な画家などの展示会には海外ではできるだけ出かけるようにして、すこしでも本物の良さを観賞したいという気持は以前からあったが、日本ではほとんど出かけたことがなかった。週末ということもあり、会場はかなり混雑していたので、ゆっくりと一つひとつを見て回る余裕はなかったが、それなりに楽しむことができた。ついでながら、市中心地のショッピング街もあちらこちらと歩き回って、主としてウインドウ・ショッピングを楽しんだ。モ−ルのところどころでは、いわゆるストリ−ト・パフォ−マンスでもある男性合唱団の美しい歌声やカントリ−・ミュ−ジックのバンドの演奏をしばらく楽しんだりもした。観光も一つに中心的産業であるから、こういった行事は定期的に行なわれているのである。そこでは日本人の観光客らしき人達もかなり見かけた。


ツイ−ドヘッド(Tweed Head)

 同じ幼稚園に子供を通わせる妻の友達数人が12月のある週末に、サンシャイン・コ−スト(Sunshine Coast)へ行こうと計画を立てた。筆者以外は仕事に忙しい夫どもを除くが、子供達は一緒に遊ばせるというもので、ゴ−ルドコ−ストからは車で4時間半くらい北にある著名な保養地ヌ−サ(Noosa)を考えていたのである。しかし、その中の一人が出産2ケ月前だったため、結局のところ無理をせずに車で1時間ほど走って行けるツイ−ドヘッドのノ−スポイント(North Point)に計画を変更した。そこへの途中では、子供達はカランビン・サンクチュアリ−近くの海辺での遊びに夢中になり、その数えきれないブル−・ソルジャ−という蟹の一種の大群に驚かされたようだ。テレビのコマ−シャルなどでも出てくる鮮やかなブル−色の蟹たちである。ノ−スポイントでは設備の整ったリゾ−トホテルに宿泊し、ゴ−ルドコ−ストとは一味違った雰囲気の海辺を満喫したようだ。翌日は、クイ−ンズランド州とニュ−・サウス・ウエ−ルズ州の境界にあるリゾ−ト地で、車で30分ほどのニュ−・サウス・ウエ−ルズ州側にあるアボカドランド(Avocadoland)へも足を伸ばし、あいにくの雨が降ったり止んだりの天気だったにも拘わらず、気の合った女友達同士でもあり、それなりに楽しんだようである。もちろん、筆者は久しぶりに一人での静かな週末を、本屋へ出かけたり、やり残した仕事を片付けたりと好きなことをして過ごせたので、全く問題はなかった。


Copyright(c)1996-2002 Kazunori Nozawa All rights reserved.