第6章 現地での交流



筆者の友人・知人達

 筆者の研究生活環境から自ずと大学関係者たち、アパ−ト関係者、そして家族関係者との交流が中心になったのは否めない。友人となった者は、必ずしもオ−ストラリア国籍の者だけとは限らず、様々な国籍を持つ者から構成されている。オ−ストラリア人はもちろんのこと、ニュ−ジ−ランド人、マレ−シア人、ポ−ランド人、中国人、そして在豪日本人等である。

 オ−ストラリア人では、若い頃日本に3年いたことのある筆者のアドバイザ−である大学教授とその家族、4人の子供達が皆日本に1年以上滞在したことのある大学教授夫妻、きめ細かく助言や情報をくれたアパ−トのマネ−ジャ−夫妻、お世話になった人文・社会科学部の秘書達等である。秘書達を除いた友人達とは特に家族ぐるみで昼食ないし夕食に招待したり、一緒にドライブに出かけたりして交流した。大学教授達は学期中の教育と研究で大変忙しく、こういった食事を一緒にする回数は残念ながら数度づつであった。いずれの友人達も日本びいきではあるが、典型的なオ−ジ−気質の持ち主ばかりである。話をする機会がある度に、特定の話題について、「日本人(あなた)の考えはどうなの?」「日本ではどんな風?」といった日本人(個人)としての意見を求められた。

 その他の国籍を持つ友人・知人達とは、主として共同休憩室でのコ−ヒ−・ブレイクを利用したり、非常勤講師室でのおしゃべりや一緒に昼食をしながらの交流が中心で、専門的な研究などが話題となった。英語力や知識量の不足を改めて認識し、「まだまだ未熟者の域を脱していないなあ。」と自己反省した次第である。

在豪日本人とは当然のことながら子供達を中心とした家族ぐるみの交流が中心で、後述する妻と息子の関係者が多かった。筆者中心の交流では、学会で知り合った方も含めた日本語教育関係者が中心で、研究情報交換を主としてした。

 帰国後もオ−ストラリア滞在で知り合い交流を深めた友人・知人達とは、通常の手紙(Snail mail)や電子メイルで情報交換をしている。現地あるいは日本への帰省時での再会を願いながら。


妻と息子の友人・知人達

 妻の友達は大きく2グル−プに分けられる。一つは、彼女が滞在後半の約4ケ月間通学したボンド大学の付属英語学校で知り合った日本人、韓国人、スイス人、ブラジル人などの外国人留学生たちとオ−ジ−教師である。もう一つは、息子が通園した幼稚園を通じて知り合った在豪日本人のご婦人たちである。前者については、それなりに人生経験豊かなの先輩としての妻を頼ってくる若い日本人学生たちや、一方で日本文化と似たような文化背景を持つ韓国人学生が主体であった。それらの日本人学生の年令は20代が中心であったが、ボンド大学へ進学し、学位取得を目指すなどの目的意識がしっかりとしている少数の真面目な者たちと、サ−フィンがしたいために、あるいは日本の教育環境になじめなかった(「落ちこぼれ」という言葉は使いたくないのであるが、それに近いような背景を持つケ−スもあるようであった。)ために、英語学校に入学した大多数の不真面目な者たちに更に分けられる。クラスメイトを中心に交流をしたが、年令の差はあれ、妻はそれまでの妊娠、出産、育児といった縛られた過去5年間のウップンを晴らすかのように、生き生きとした日常生活を送っていたようである。特に韓国人の友人が数人でき、スポ−ツなどの授業以外の活動を通して、それまで「遠い隣国」の感が否めなかった韓国人とその文化を学ぶよい機会ができたようである。実際、それら友人たちが持つ強い家族の絆といった韓国文化の伝統的な風習へかなり驚きと戸惑いを感じたようだ。同じ儒教文化圏であり、似たような身体特徴を持つ韓国人たちは、その行動パタ−ンから「よき懐かしき昔の日本」を思い起こさせた。また、前述のように家族と一緒に韓国レストランへ行って、食文化の理解を深めたりもした。その結果、それまで筆者は好んで食べていたが、妻はそれほど食さなかった「キムチが食べたい」などと時折言うようになったのは驚きである。

 筆者の研究生活は、基本的に聴講していた授業時間帯を除いて、時間的に融通がきく状況であったので、できる限りの協力をしたつもりである。もちろん、その結果、妻の友人数も増えて、大のオ−ストラリア・ファンになったのは言うまでもない。

 息子の友人は、英語でのコミュニケ−ションに問題があることから、同じ幼稚園に通うオ−ジ−や他の民族の子供たちとの交流には限界があり、自然と両親とも日本人あるいは母親が日本人で、日本語が分かる子供達に絞られていった。そのほとんどが地元で働く親を持ち、最終的には家族ぐるみの交流へと発展していったのである。その結果、週末に何度となくお互いの家に集まっては、一緒に様々なおもちゃで遊んだり、プ−ルのある家では水遊びを楽しんだ。また、住んでいたアパ−トの反対側に住むオ−ジ−の12歳の男の子が、時折息子と遊んでくれた。オ−ジ−の子供達は年上の子が年下の兄弟姉妹の面倒をよくみる。その男の子には年上の姉がいたが、息子を弟のように感じたかどうかは分からないが、「かわいい。」といって一緒に遊んでくれたのである。息子も大変気に入って、「きゃきゃ」と大声を出しながら、主として外で遊んでいた。


在豪日本人との交流

 一般的に在豪日本人たちは大きく2つのグル−プに分かれる。一つは、それぞれの都市や地域にある日本人会に所属する人達である。もう一つは、そういった形式的なグル−プ意識が強い日本人たちとはあまり付き合わず交流を制限している人達である。前者のタイプも後者のタイプも回りにいたのであるが、わずか10ケ月間の滞在でもあったし、できるかぎりトラブルは避けたいと願っていた関係で、どちらのグル−プとも区別なく交流した。前者の主催した様々な行事に参加したが、その中で面白かったのはゴ−ルドコ−スト・カ−ニバル(Gold Coast Carnival'94)のパレ−ドや兵庫県南部地震救済のためのバザ−ルへの参加であった。ただし、パレ−ドでは、日本でも大人になってからはほとんど経験がない神輿を担いだりしたが、それまで数年続いていることもあり、日本文化を紹介する出しものとしては、伝統的で典型的なものであることは認めるが、「他にないのか?」と疑問に思ったのは筆者ばかりではなかったであろう。いかにも、集団で息を合わせて担がないとうまく運べない神輿は集団主義的傾向の強い日本文化を代表する出し物であると言えるが、担ぎ手が着るハッピは現地に合わせたトロピカルなものであり、多少違和感を持った。バザ−ルに関しては、資金集めという目的もあり、様々な物や日本食が格安で売られていたので、思わぬ幸運にも恵まれた。それは、日本でもなかなか食べられない「大トロ」が妥当な値段で入手でき、味わえたのである。日本で食べたら、一切れ2千円(?)を何切れも食べた結果、ウン万円という額になっていたに違いない。大変得した気分になった。

 滞在後半に入って、息子の幼稚園関係者(特に同じ年令の子供を持つ在豪日本人たち)数組との家族ぐるみの集団交流が特に深まった。いわゆる仲良しグル−プができたのである。週末には子供達の交流が中心という建前でお互いの家などに集まって、昼食やお茶会を楽しみながら、おしゃべりを楽しんだり、一緒にピクニックに出かけたりしたのである。車で30分程で行けるゴル−ドコ−ストの水源になっているアドバンスタウン湖(Advancetown Lake)のヒンズ・ダムの周りでのピクニックではバ−ベキュ−を楽しんだが、その設備の充実ぶりは日本が見習わなければならない。即ち、行政側がそういった市民の憩いの場所を清潔に維持・管理している点である。また、南半球特有の夏のクリスマスには、一つの家に出張サンタクロ−スを依頼して、クリスマス・パ−テイをしたりもした。もちろん、かかった費用は参加者で割かんにして、その会場提供者に負担がかからないようにしたのである。


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