知事リレー講義
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    2008年5月15日         
 


「自分と未来は変えられる〜"共汗"地域主権時代を拓く京都の挑戦!」

 門川市長は、1959年生まれ。堀川高校を卒業後、京都市教育委員会へ入り、その1年後、立命館大学の二部へ入られた。その間は、仕事と学業を両立する生活をすごされた。そして、この2月に市長になられたのである。










T.母校の教壇に立てて


 立命館大学は私の母校であり、このように教壇に立ってお話できる機会に感謝したい。私は高校を卒業して教育委員会に入ったが、それは家から近かったから選んだ職場としての市役所に配属されたからである。しかし、働く中で勉学の必要性を痛感し、立命館大学の二部の法学部に入ることにした。非常に忙しい生活であったが、周囲の理解があったから可能だった。また、両親にも感謝したい。私は教育で大切なことは、
@比べないこと(狭い意味での学力、知名度で比べない)
A退屈させない(年齢、段階に応じて教える)
B落ちこぼれさせない(基礎を学ばせる、学ぶ機会を与える)
だと考えている。
 私は、立命館大学の二部に行って、チャレンジできる仕組みのあったことを有難いと感じている。私の父は、「人生に無駄なし」と教えてくれた。実は、私は7年前に胃がんになって緊急手術をしたが、父は「100人の聖人の話より、1つの病気から教えられることがある」と言ってくれた。父の言葉もそうだが、私も究極のプラス思考で、物事をとらえることにしている。京都市長選に、出たのもそう。よく「なぜ立候補したのですか?」と聞かれるが、それは迷ったら困難なほう、体のしんどいと感じるほうを選ぶようにしてきたから。結果としてたとえ失敗しても、学びになる。避けたら失敗しないかもしれないが、後悔しか残らない。だから、あえて困難な道を選んだ。
 若い人たちも、ぜひ前向きな思考でいってほしい。問題は、捉え方によってどうにでもなる。それで、突破していってほしい。


U.京都における「竈金(かまどきん)」の精神


 明治維新は、実は京都にとって危機だった。天皇は東京へと行かれ、人口もかなり減少した。しかし、京都の人々はまちづくりとして、子供をしっかりと育てれば大丈夫と考え、そして地域に学校をつくるようにした。その時、かまどの数に応じて、学校を建設するための費用を出し合ったのである。時に、1869(明治2)年のことで、明治政府が学校制度をつくる1872(明治5)年よりも早かった。そして、私が思うに、この精神が京都を支えてきたのだと思う。
最近の風潮として、自己中心的ではないだろうか。親としてわが子によい教育を受けさせたいと考えるのは当然としても、明治時代の親たちは地域で育てようとしていた。京都は1200年もの間、都であった。したがって、明治になったからといって、それまでの封建制の名残や差別もあったろうに、地域で身分をこえて子供を育てていったのである。
 京都市では、現在、学校の統廃合が起こっているが、ここでも「竈金の精神」が生き残っている。私は教育委員会で、PTAの方々や学校の方々ときちんと議論をした。統廃合の問題点から、小規模校の良さまで徹底して情報を出し合って話した。そして、統合のモデル校となる取り組みを行っている。そういう意気込みで、取り組んでいる。


V.京都からの近代化


 世界に歴史都市は多いが、1200年も都として続いた上に、現在も都市性をもちながら、先端・伝統が一緒になって発展しているところは、京都しかない。これは、「平安」というかつての建都のコンセプトのお陰ではないだろうか。「平」は平安・平等、「安」は安心・安全・安寧を意味している。
 1185年に平家が壇ノ浦に滅亡して以来、日本では武力で政治をおさえるようになった。しかし、京都では永きに渡り、武力による政治とは無縁であった。そこから、文化都市としての京都が生まれたのである。今、世界では様々な問題が起こっているが、そこにこそ京都で培われてきた文化性を、それも京都で学んだ若者に広めていってほしいと願っている。


W.これからの京都


 私は京都から地域主権の時代を切り拓きたいと考えており、市長選ではそれをマニフェストとした。しかし、地味だといわれてしまった。なぜかというと、通常マニフェストとは「〜政策をどうするのか」といったものであり、私の場合は少し違ったから。
 しかし、教育委員会の仕事で東京と往復する中で、東京への一極集中と行政のタテ割りを痛感した。だから、マニフェストには、あえてヨコ軸となる「いのち・環境・知恵・ひと・刷新」を取り上げた。そのお陰で、選挙に勝てたと私は考えている。
 私は市長になってまだ80日ちょっとでしかないが、ずっと教育の世界でやってきて痛感したのは「現場に神宿る」ということ。いま制度改革が盛んだが、それだけではないと思っている。現状の枠の中で頑張って、壁があれば突破する。それも大事だと思う。
 堀川高校のことが改革の事例として話題になるが、これは先生を意図して集めたわけではない。意識と行動の結果であり、人事に頼った訳ではないのである。もちろん、生徒たちの学ぶ意欲もあった。「人間の能力の差は5倍までで、やる気の差は10倍にも100倍にもなる」という言葉も支えになった。
 そして、私が心がけているのは、現場でやっている取り組みを引き上げていくこと。つまり、ボトムアップとトップダウンの仕組みである。
言い換えれば、「自治と統括」の緊張関係である。組織内の分権、権限の以上は大切であり、前提である。その上で、単に現場に任せるだけではなく、支持待ちでなく自主的に取り組んでもらうために、統括もする。それは、現場で生じた差をうめるため。調整とは違う。なぜなら、現場での進んだ取り組みを全体に広めて取り組むには、トップが緊張感をもって現場とぶつかりあいながら、それを通して全体を高めていくことが必要だと考えているから。


X. 「共汗(きょうかん)」という考え方


 「共汗」とは、足りないところについて批判するのでなくて、足しあう、高めあう関係につなげることである。現在、何かと批判ばかりする風潮があるように感じる。しかし、たとえ現状では70点の出来だとしても、この考え方に基づけばマイナスの30点を批判するのではなくて、親や地域と足しあう関係が生まれ、100点以上、200点の結果を生むことが可能になる。
 連携という言葉も最近、話題になるが、それは相手に何かを求めるだけでは成り立たない。まず、自分を変えていく自己変革から始まるのである。それは、教育の世界でいえば「参観」から「参画」するということ。親や地域に学校を開放するようになると、最初は批判がどうしも多くなるが、そこから補う、足しあう関係が生まれる。
 どの親も自分の子にきちんと育ってほしい、と考えている。ただ、どうしたらよいのかわからない場合はある。だから、学校、家庭、地域が重なり合って役割を補完していくことが必要となる。かつて、伏見の日野小学校で悲しい出来事があった。しかし、その後、京都は地域、親のボランティアによって「見守り隊」が生まれた。学校を守るのか、子供を守るのかという立場で、京都は地域、親によって子供を守ろうとしているのである。


Y.最後に


 「うさぎとかめ」の話は、もちろんご存知だと思う。しかし、私はこの話の教訓というのは、「競争の時、どこを見ていたのか」「どこを見て、努力するのか」という話なのではないかと思う。うさぎはかめを見ていたのだが、かめは目標を見ていたからレースに勝てたのではないだろうか。


質疑応答


 会場の学生より、次の質問があった。
@昔の京都には、地縁による連帯感があったように思う。しかし、最近は住むところは京都でも仕事は大阪などと、職住が別になっている。これでは、自分の地域で頑張って、あとでその地域から戻ってくるものがなくなり、連帯感はますます弱まるのではないか?
→人間というのは、自分の損得だけで単純に動く存在ではないと思う。:河合隼雄先生によれば、「人間の深層心理と行動とは51:49」だという。つまり、それほど微妙なもので、単純なものでないのである。ある人が行動することで、周囲もついていくという動きが生まれると信じている






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