知事リレー講義
ライン
   2009年 12月 24日   奈良県 荒井 正吾 知事

 

   「 日本と東アジアの交流 
          -平城遷都1300年の奈良とアジアをまたいで- 」
 

 

【 奈良の歴史から学ぶ 】

日本の歴史を振り返るとき、奈良には3つの大きな意義がある。1)律令国家が成立した場所である、2)日本に仏教が伝来した時の中心地であった、3)国際交流が盛んに行われていた、この3つである。これらは、「reference frame」を提供するものである。

奈良の国際性は、正倉院の収蔵物を見ていただければご理解いただけると思う。

 

遣唐使が派遣されていた当時、唐の首都である長安には様々な国から人が集まっていた。それらの人々の中には奈良まで来た人もいる。

菩提僊那というインドの僧は、東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師を務めるため来日している。吐火羅人(ペルシャ人)の乾豆波斯達阿も奈良に来た。彼はその後帰国するが、その妻や子どもたちは日本に残った。

万葉集の中に持統天皇の句で「燃ゆる火も 取りてや包みて 袋には 入るといはずや 面智男雲」という句がある。長い間、最後の「面智男雲」を何と読めばいいのかということは謎であったが、最近「面智男雲(メニシルガクモ)」と読むのではないかという説が挙がっている。メニシルガクモとは、ゾロアスター教の中心人物を意味する。乾豆波斯達阿の妻と子ども達がペルシャ語やゾロアスター教について、持統天皇に伝えたのではないかと考えられている。

このような交流は、今日のグローバル化を考える上で意味がある。

 

銅貨の和同開珎は、秩父で銅が出たことを契機として製造された。私が長安の博物館を訪れた時、和同開珎とペルシャの銀貨が並んで展示してあった。当時の長安では日本の和同開珎とペルシャの銀貨が共存していたことを表すものである。

奈良の中宮寺にある弥勒菩薩半跏思惟像には、朝鮮文化の影響が感じられる。

 

この世には、グローバル、ナショナル、ローカルという3つの世界がある。これら全てにおいて通用する人にならなければならない。日本人は特にグローバルな面が苦手である。

 

奈良の文化と京都の文化は対峙するものである。京都で栄えたのは内向きの国風文化であるが、奈良で栄えたのは国際色豊かな天平文化である。

平城京の大極殿の大極とは、北斗七星の北極星のことを指し、その北極星から精霊が地上へ降りてきて、国を守るという意味がこめられている。

 

昨日は天皇誕生日であった。天皇制というフレームができたのは奈良時代である。私は終戦の年(1945年)に生まれた。この年は、大化の改新(645年)からちょうど1300年にあたる。大化の改新は平城京遷都の65年前に起きた。大化の改新は、中大兄皇子(後の天智天皇)が当時の有力豪族であった蘇我氏を滅ぼし、天皇中心の政治を目指したものであった。

天智天皇が亡くなった後、大海人皇子(後の天武天皇)と大友皇子による後継者争いが起こった。大海人皇子はこの争いに勝利し、さらに強権な天皇中心の中央集権制を推し進めた。

しかしこの流れは、後に、藤原不比等が天皇の側近としての役職を利用し、政治を動かしたことにより途絶えてしまう。藤原氏は一時期衰えるが、平安時代に復活し、政治を取り仕切った。立命館の学祖である西園寺公望も藤原ゆかりの人である。

 

明日香という字は、明日に明けるという当て字である。当時の日本で使われていた名称に漢字をあてたもの。その当て字が今まで残っているのはおもしろい。当時の唐を中心としたグローバルスタンダードと日本のナショナルモードをどう融合させるのか。取捨選択が行われた。漢字はそのまま受け入れ、それに加えて、カタカナ、ひらがなを作り訓読みを発展させた。

 

中国の王朝とは冊封をあえて結ばなかった。なぜなら、冊封を結ぶということは、名目的とはいえ、中国王朝の皇帝と君臣関係を結ぶことを指すため、「どちらが上か」ということがはっきりする。当時の日本はそのことをあいまいにすることで、上手く立ち回った。

 

稼ぎと務め(意義のあることをする場)を一致させるというのは人生の課題である。グローバル、ナショナル、ローカルの緊張関係に対し、奈良がどのように対処していったのか。

日本書記を中国の人に見せると、彼らはすらすらと読む。しかし、古事記も漢字をあてているものの、中国の人は全く読むことができない。日本書記をグローバル、古事記をナショナルにあてたのではないかという説もある。

当時の知識人には、漢語ができる人が多かった。例えば、聖徳太子も漢語の訓練を受けている。しかし、漢語ができる国際性のある皇子はすべて殺されている。国際性と国内性を調和させることは、昔から難しかったということだ。

 

アジアの多様性の中で日本はどうやって生き残るのか。

アメリカに留学した時、私が強く感じたのは「日本の大学に対する違和感」であった。アメリカの大学は外国人にも普遍的に教育をしてくれた。また、日本の大学では「先生の言うことを理解する。」ということに重きが置かれるが、アメリカではオリジナルが評価された。私の経験からすると、国際的な場所で必要とされるのはロジック(論理性)と寛容性である。

民主党の小沢一郎幹事長は、キリスト教は排他的であると発言したが、それは違う。日本人は異なる人を排除する。しかし、キリスト教徒は意見が違っても感情的にならない。

 

平城京遷都から1300年前は枢軸時代、つまり色々な考え方が現れてきた時代である。ゾロアスター教、ソクラテス、儒教などがこの時代に登場してきた。

平城京は国際性が高く、それらが持ち込まれてきた。最近『日本辺境論』(内田樹著)がヒットしているが、辺境の国であるからこそ、外から持ち込まれたものに対し、「とりあえず置いておこう」という発想になる。政治学者の丸山眞男は、白黒決着せずにおいておくから、後にそれが復活してしまうと述べた。

 

学ぶと考えるというのは異なる思考であると考えると、学ぶ(模倣)というのは日本人のおおきな特徴である。例えば奈良時代は、外国の優秀な文化と出会い、それらを自分の文化とどう併存させるのかという問題を抱えた時代であった。

文字に関しては、日本人は音だけカナを当てることで、音読み・訓読みを併存・発展させた。思考と現実を調和させる。客人を大きな財産として考える。これが日本の手法である。

 

技術と思想ということで考えると、物部氏と蘇我氏の争いを思い出す。最近の研究によると、曽我氏は、新しい製鉄技術と仏教をセットで受け入れようとしたらしい。しかし、物部氏は、一族の主要な産業である製鉄産業が減退することを恐れ、蘇我氏の考え方に反対していたらしい。 

 

模倣が学習のすべてだとすると永久に先生を超えることはできない。先日亡くなったアメリカの経済学者ポール・サミュエルソンを面接した大学教授たちはその天才ぶりにおどろいた。彼らは「私たちの真似をどれだけ正確にできるのかということではなく、どれだけ深く考えたか」ということを基準にサミュエルソンを評価した。こういう点が、アメリカやアングロサクソンの強さである。この点は企業でも同じであり、アイデアの幼児を育てようとする会社は大きく育っている。

 

日本には多くのペルシャガラスが残っている。これは、ペルシャ人が長安の都に持ってきたものを留学生が銅銭で買い、それを日本の支援者に送ったものではないかと考えている。ペルシャはその後、幾多の争いが起こり、それらのほとんどは破壊されるか、土の中に埋もれていった。

道昭という僧が、遣唐使で唐に渡り、玄奘三蔵に師事して法相教学を日本に持って帰った。現在、世界のほとんどの地域でその教えは滅びたが、日本では法相宗の経典が残存している。保存ということも辺境の地だからこそできることである。

 

舶来物の中には、良いものも悪いものもある。それをどうやって分別し、保存するのかということこそが辺境の知恵である。奈良時代に、天然痘の流行によって藤原4兄弟が全員死ぬという事態が起こった。「天然痘を持ち帰った」という批判が留学生に集まり、留学僧たちが失脚した。

空海はその少し後で帰国する。最澄は、仏教の都である明州に行ったが、空海は長安に直行し様々な分野で学んだ。帰国後は留学生に対する風当たりを考え、博多から都の政治情勢を観察し、自分自身を庇護してくれる有力者を探した。また、空海は「運のいい人に寄り添い、悪い人に近寄らない」というスタンスで生きた人である。この教訓は人生にも通じることである。

 








【 日本と大陸の交流 】

最初の交流(第一波)は、隋・唐文化の受容である。日本が国際的な交流を一番行っていた時代が隋・唐文化と接した奈良時代であった。

日本国家形成の基盤もそのような時代に作られた。交流を示すものとして、例えば、満州から朝鮮半島北部ロシアの沿海地方までを領土とした渤海という国から、33回も日本に使者が来ている。

円仁という僧が書いた「入唐求法巡礼行記」という日記は、世界三大日記として有名であるが、それはすべて漢文で書かれている。

 

次(第二波)は、南宋文明の受容である。よく日本人の基礎は鎌倉以後に作られたというが、その過程に影響を与えた。内向きの平安時代が壊れ、鎌倉時代に入るとバイタルな時代に入る。日本は当時、銀・銅の世界最大の輸出国であった。日本はその銅を南宋に輸出し、宋銭を輸入していた。つまり、お金の原料は出すが、その権利は放棄していたということ。

今、アジアの通貨圏が話題となっているが、仮に日本円がアジアの共通通貨となった場合、いろいろ考えないといけない問題が出てくる。例えば、安全保障や金融機関の能力などである。金融技術という面では日本は後れをとっている。こういうナショナルモードの内部にある問題をどうやって解決していくのか、それを考えないといけない。

韓国はこの当時、李氏朝鮮が支配しており、足利幕府とは同等の立場であった。中国・韓国に行き、平城遷都1300年祭の話をすると、100年前の歴史は忘れるのかと聞かれる。1300年前の歴史も100年前の歴史も忘れるわけにはいけない。どちらも同じ歴史である。しかし見方によって歴史は異なる。

歴史認識についてどう考えていくのかという事がグローバル化の課題である。その際、国家のアカウンタビリティが重要になってくる。日本の見方をどう作るのか、そこを言えたらもう少しいいお付き合いができると思う。奈良が言えるのは、中国・韓国の文化を受け入れ、保存したということである。

 

次(第三波)は、明文明の受容である。江戸幕府は明王朝に対し朝鮮通信使を派遣し、交流を図った。儒学者の雨森芳洲は通信使の歴史をめぐって政府と対立し、朝鮮方佐役を辞任した。墓が対馬にあり、私も墓に参ったことがある。この時代は、本居宣長によって古事記伝が作られたり、政府によって朱子学が奨励されたりした時代であった

ところで、刑法犯の発生件数、中学の暴力件数と藩校の有無が関連しているというデータがある。奈良は中学生による暴力行為の1000人あたりの発生件数が全国ワースト2位である。

 

最後(第四波)に、西洋文明との出会いがある。西欧列強は西からやってきたが、もし東からやってきていたら、日本がアジアで初めての植民地になっていてもおかしくはなかった。当時の日本は、鎖国をしながら、窓口を狭くして情報を収集していた。








【 今後の課題 】


 

今後は様々な面で中国と交流していかなければならない。まず経済に代表される現象面での交流がある。次に若い世代の交流も重要である。また、環境・ITなどテーマを同じくする交流が必要である。

 

先日、コペンハーゲンで行われた気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)ではイギリスと中国が喧嘩をした。排出権取引の40%がイギリスであり、イギリスとしては、経済的な理由から何としても排出権取引の中に中国などの新興国を含めたいようだ。

 

中国では農村住民は都市に住めないため、現在深刻な地域間格差が起こっている。人口の7割を占める農民をどうするのかというのが中国最大の問題である。こういう面は日本と中国で、共同で考えることができるのではないか。

 

アジアを考えると、日本はどのようにしてアメリカのグローバル化と付き合うのかという問題が出てくる。アメリカは、日本がアメリカの思想の貯蔵庫になってくれることを期待している。

東アジアにおけるグローバル化の中で、心配なのは安全保障である。安全保障の面では中国・韓国・ロシア・日本・アメリカが中心となり、リスクとしては台湾・北朝鮮が考えられる。

 

中国の地方政府には優秀な人がいる。中国では、共産党青年団(胡錦濤など)と有力者の子弟達(太子党)が対立している。中国の地方政府のリーダーは、その中の競争に勝ってきた人たちばかりである。

奈良に胡錦濤が来たが、すごい権力者だと実感した。日本の知事は選挙で選ばれれば誰でもなることができるので、能力の保障がない。中国では共産党の中で認められないとその地位につくことができない。

 

韓国は民主主義国家であり、知事や市長の任期は3選までと決まっている。その一方で、大統領が金銭問題で訴追されるなど、金の流れが未だに問題となっている。

 

グローバル化の中で東アジアモデルや農業の位置づけが非常に大切になってきているが、最も大切なのは東アジアのネットワークを作れるかである。日本には第二次世界大戦と言う負の遺産があるが、東アジア諸国の共通のフェーズが出てきている。

 

かつて、中江兆民は「日本の歴史は、恐怖と侮蔑の振幅の間で外交が続いていた」といった。明治時代において西洋列強は恐怖の対象であり、アジアは侮蔑の対象であった。

この2点を脱却するには、情報、知識、友人が必要であり地方政府も情報源となる知識が必要となる。

 

情報知識、情報源となるお付き合いをすることで地方政府も生き抜いていくことができると思っている。平らな気持ち(尊敬するときは尊敬する)でお付き合いをすればうまくいくと思う。 

その時に大切なのは歴史観。韓国で出会った方が「相手の立場に立つことが大切であり、日本は歴史を封印している。」と言った。

歴史を国家資源としてみることが大切である。この1300年でグローバルが強くなり、ナショナルが心もとなくなっているが、もう少しユーラシアの人々や東欧の方々の歴史観を学ぶ必要があると思う。そして、日本の歴史にも興味を持って欲しい。













 


Copyright(c) Ritsumeikan Univ. All Right reserved.
このページに関するお問い合わせは、立命館大学 共通教育推進機構(事務局:共通教育課) まで
TEL(075)465-8472