知事リレー講義
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   2010年 12月 4日           静岡県 川勝平太 知事


   「 日本の理想郷 「ふじのくに」  」 




○「坂の上の雲」の上の富士山

「日本の理想郷ふじのくに」というテーマに戸惑われるかも知れないが、理由がある。

「坂の上の雲」という小説を読まれたことがあるだろうか。日露戦争で大きな功績を挙げた主人公の秋山兄弟、そして正岡子規、夏目漱石といった明治の若者たちが時代を駆け抜けていく青春ドラマだ。同時に明治時代の日本の姿を描いている。

当時、開国直後の日本は、欧米列強がアジアの諸地域を植民地化していく中で、そうならないように、万国に対峙する一等国、すなわち「坂の上の雲」を目指した。日清戦争での勝利を認められた日本は、当時の覇権国であった大英帝国との間に日英同盟という対等の条約を結び、さらに日露戦争で大国ロシアに勝った。こうした日本の姿や日露戦争をつぶさに描いた小説だ。今TVドラマ化もされている。

「坂の上の雲」を目指した日本は、西洋と対等になるという「坂の上の雲」に達したのだろうか。現在、たとえば経済力でヨーロッパのどの国も日本にはかなわない。私は、日本は明治以来の目標を達成した、すなわち「坂の上の雲」に達したと思っている。

では、「坂の上の雲」の上の、さらにその雲の上にあるのは何であろうか。それは「頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろして、かみなり様を下に聞く」富士山だ。私は、「坂の上の雲」に到達した後、富士山を軸にすれた「ふじのくに」という国づくりをすることが、今の日本の課題であると考えている。





○都道府県制度と知事の仕事


さて、都道府県はいつできたか。明治4年に廃藩置県が行われ、府県制という今日の都道府県制の原型ができた。その目的は、徳川の幕藩体制を廃止して、中央政府に権力を集中することであった。そのために府知事や県令は中央政府が任命した。当初の3府302県は、明治20年代の初めに今日と同じ47府県に整理統合された。

初代内務卿の大久保利通のもとで、日本の内政はことごとく統括されることになり、中央政府の政策を通達、命令して実施するために府県をつくった。つまり、府県とは中央政府の下請け機関であり、最近の言葉で言えば国の出先機関である。

ただし、戦前と戦後では違いもある。戦前の知事は中央政府が任命した。戦後日本はアメリカ主導の民主主義制度を採り入れ、知事は民選になった。では、民選になって知事はどういう仕事をしてきたのか。

国会議事堂のすぐ近くに都道府県会館という大きなビルがあり、都道府県の事務所が入っている。それが国会議事堂や霞ヶ関官庁街のすぐそばにあるのは、補助金に関わる仕事を地元出身の国会議員や関係省庁の官僚に説明して、仕事をもらうために便利だからだ。「仕事をください」と言う陳情が、基本的に知事の仕事であった。あるいは国の仕事を地方に持っていくのが「族議員」といわれる国会議員の仕事だ。要するに、国に対して従属的な下請けであり、出先である。

国の一般会計予算80兆円くらいのうち、20兆円を占める補助金行政を、今までは内政に関わる中央省庁が決めていた。これを、地域が決めた方が良いと言ったのが小泉首相であり、首相は地方にどの程度の仕事ができるのか「丸投げ」をした。丸投げされた当時の全国知事会は会長の梶原拓岐阜県知事が新潟に全国知事会議を招集し、3兆円分の財源と権限をよこせというリストをまとめた。ところが各省庁はことごとく反対し、陳情を受けて官庁組織に行って仕事を取ってくる「族議員」も、仕事がなくなるので、真っ向から反対した。その頃から中央政府と知事会とがケンカをする構図ができ、官僚と知事会との間にも溝が生じた。闘う知事、改革派知事という言葉が生まれ、その結果、今では、地方自治、地域主権のいちばんの担い手は自分たちだと思っている知事がいる。







○国の出先機関廃止の前に都道府県の廃止を


 

そして現在の全国知事会は、国の出先機関の原則廃止を求めている。国の出先機関とは、例えば国土交通省は日本全国を八つの地域に分けて、それぞれの地域を管轄する八つの地方整備局を置いて、広域行政をしているが、そうした政府機関のことを指す。これらを廃止して、俺たちにその仕事をまわせというのが全国知事会の言う「国の出先機関の廃止」である。

しかし、私の考えは違う。明治4年以来、国の出先機関としての仕事を誠実にしてきたのが知事であり、戦後になってからは陳情をして国の下請け機関として仕事をしてきたのが知事である。国の出先機関の最たるものが都道府県である。ゆえに、明治以来中央集権制度になった日本が新しく地域分権をしていくには、都道府県制度の廃止が不可欠である。それが私の立場である。真に中央集権体制に疑義を投げかけるならば、国の出先機関の廃止をいう前に、あるいはそれを言うとともに、自らが立脚する都道府県制度体を廃止するという勇気が必要だ。だが、府県制を廃止し、みずからの知事職を失う「都道府県制の廃止」を言う者は私を除いて一人もいない。






○脱官僚よりも活官僚を

 

なぜ、そのように私がいうのか。まず、47都道府県といっても、経済力も人口規模もバラバラだ。そのような県がおなじように国の仕事を引き受けられるわけがない。また、一番肝心なことだが、都道府県の職員が、他府県のことに関心を持っているかといえば、残念ながら、ない。持つ必要がないような仕事しかしてこなかったからだ。知事諸氏が、自分たちは府県の枠をこえた広域行政を国の出先機関に代わって担うと言っても、実際に担うことのできる職員はいないといってよい。官僚として府県の枠をこえた広域行政をになえるのは、国の官僚しかいない。国の官僚は数年ごとに任地を変えながら、広域行政を徹底的に仕込まれてきた。

京都の洛星高校、兵庫県の灘高、鹿児島のラサールといった高校の出身者が東京大学に行って官僚になって国の仕事をする。中には知事になって帰ってくる人もいる。そもそも東京大学の法学部は、そこを出れば無試験で官僚になれるということで創設された。反対があって高等文官試験、今の上級公務員試験になったが。日本の国力を上げるために全国から優秀な人材を集めて官僚をつくるために、つくったのが東京大学だ。明治の初めから今日までの蓄積があるから、いわば最高のシンクタンクであり、そこに情報が集中しており、それを活用できる人材、官僚たちがいる。

それを敵に回して、地方が国と闘うというのは、国民には百害あって一利なしだ。双方が補わなければならない。だから私は民主党の掲げる「脱官僚」にも反対であり、官僚を活かす「活官僚」というスタンスをとっている。






○日本における時代区分と地名

 

さて、日本の国を変えようとするとき、新たな国づくりにおいて、踏まえておくべきことがらがある。それを歴史的観点と地理的観点から申し上げたい。そうすることで、なぜ「ふじのくに」というコンセプトが出てくるのかが分かるだろう。

日本の国はどのように時代区分をするか。今は一世一元で、明治・大正・昭和・平成となっているが、私はこれを東京時代と一括する。なぜならば、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸と、すべて地名で区分するのが日本の歴史区分だからだ。地名による時代区分は何でもないことのようだが、地名で時代区分するのは、世界広しと言えども、日本だけである。

710年に奈良に平城京が築かれ、今年は平城遷都1300年。隋や唐の長安や洛陽という都をつくった思想を勉強した人たちの知識を生かして、本格的に当時の最先端の都づくりをした、その最初が平城京だ。平城京がおかれた奈良時代は、聖武天皇が大仏を造ったことで有名だが、光明皇后が東大寺に寄贈した聖武天皇の遺品を見ると、ペルシャ、ギリシャ、ローマからの品があり、シルクロードの終着点が平城京であったことがはっきり分かる。大仏開眼のときにはインド人が式典を執り行い、中国人、東南アジア人、韓国人、おそらくイラン人、ペルシャ人も来ていた、当時の奈良はまさに国際都市であった。






○東洋文明を移入し終わった京都時代 

奈良に始まり、平安、鎌倉、室町時代までの中心地は京都であり、大きくくくれば「京都時代」だ。京都時代とはどういう時代であったか。

学問の神様とされ天神になった菅原道真が、生前に遣唐使を送る必要はないと言ったのが894年。中国から学ぶものがなくなったということだ。つまり平安時代の京都は、奈良時代から採り入れてきた中国の唐の文化を受容し終わって、国風化した。すなわちマスターし、自らのものとした時代だ。

ところが中国は大きい国で、南の揚子江という大河の流域に北から漢人が追い込まれ、宋という国をつくる。宋の時代に隆盛した禅は、自力本願で仏像を拝まない、それまでとはまったく違う仏教文化だった。南宋には朱子という人も出て、後に朱子学といわれる新しい学問をつくった。この南宋がモンゴルに滅ぼされるときに、学者が日本に逃げてきたところを、素晴らしい学問だ、文化だとして採り入れたのが鎌倉幕府で、南宋の都杭州の周りにあった五つの帝国大学を真似て、鎌倉五山をつくった。それは京都から見れば新しい文化だ。これを欲しいと思った後醍醐天皇の遺志を入れて、足利尊氏が、京都にも五山をつくった。中国の南の文化が全部京都に入ったのである。

つまり、平安京都の時代には中国の北の文化が入ってきて、それが入り終わった後、中国の新しい南の文化が鎌倉を経由して室町京都に入った。これで、中国のものがすべて入った。その後、茶の湯、能、狂言、日本庭園、数寄屋造り、日本料理、懐石料理、着物、日本の行儀作法、生け花など、現在日本の伝統が出てくるのは、室町時代の終わりの頃である。つまり、江戸時代の直前には、中国の文化を全部入れ終わった後に出てきている。つまり、京都時代とは、奈良、平安、室町と場所を変えながら、中国の文明を京都に入れ終わった時代であると総括できる。







○東洋文明から自立した江戸時代

 

次の江戸時代には、江戸城が中核になって、日本中に城下町ができた。城下町文化には外国にモデルがない。日本独自のものだ。城下町文化がもっとも色濃く残っているのは、加賀藩の中心であった金沢だ。金沢は京都に似ていると思われがちだが、それは違う。よく見れば、例えば兼六園など実に日本独自の庭園である。辰巳用水、武家屋敷、宝生流の謡曲、野村流の狂言、加賀料理、加賀漆器などはことごとく江戸時代に確立した日本の文化の粋であり、中国文明から卒業した姿である。すなわち、江戸時代とは中国文明から自立した時代であり、その典型的な姿は金沢にある。

そして黒船来航があり、冒頭で申し上げたように人々は「坂の上の雲」を目指したわけである。東京時代とは西洋文明を東京にとりいれ、東京が変電所となって全国各地にミニ東京ができた。東京時代とは西洋文明を受容し、取り入れた時代のことだ。東洋文明は、今も京都に、皆さんの周りに生きた形で、すなわち人々の生活や仕事とともに存在している。中国では文化大革命で寺院仏閣を壊した。いまは観光で儲かることがわかって建て直しているが、そこに生活はない。ここ京都には生きている。しかもこの小さな空間の中に、平安京がつくられた時代から今日に至るまで中国から入れたものがすべて揃っている、東洋文明の生きた博物館が京都だ。いくつかの建造物が世界文化遺産になったのは当然のこととして、京都の景観全体が生きた博物館的な本質を持っているということを見落としてはいけない。








○西洋文明を移入し終わった東京時代

 

一方、東京はどうか。例えば、赤坂の迎賓館は、東京大学工学部を最初に卒業した片山東熊という建築家が造った見事なロココ風の宮殿建築だ。これはヨーロッパの真似であるが、日本が自分でつくった。それは、明治期の終わりには、そこまで追い付いたことを意味している。それが今や、東京ディズニーランドは本物のディズニーランドよりも洗練され、スカイツリーも、エッフェル塔の真似であった東京タワーとは違うコンセプトで、しっかりとした設計とデザインで造られている。明治時代までは欧米の模倣であったが、今日では欧米の水準を抜いている。言い換えれば、西洋の文明が、シカゴ的なもの、ニューヨーク的なもの、パリ、ロンドン的なものが、東京のあの狭い空間の中に全部ある。東京は西洋文明の生きた博物館だと言える。つまり東京時代というのは、京都時代が東洋文明を入れ終わった時代であったように、西洋文明を採り入れて入れ終わった時代なのだ。







○ポスト東京時代

 

では、いつ日本は欧米に追いつき終わったのか。それは本日の学生諸君が生まれる少し前、1985年、昭和60年のプラザ合意ではなかったか。戦後最強だったアメリカ資本主義の牙城、ニューヨークのど真ん中のプラザホテルにおいて、当時の先進5か国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本のリーダーが集まり、アメリカが、日本の製品を為替操作によって締め出さないことにはアメリカ製品が太刀打ちできないということを認めて、為替を人為的に大きく円高・ドル安に操作することに合意した。1985年に日本は「坂の上の雲」の上に出た。それに続くバブルは、「追い抜いた!」ことを祝うお祭りだった。

かつて一度だけ、バブルと同じような時代があった。それは安土桃山だ。信長が安土城を造り、秀吉が黄金の茶室を造って贅を尽くし、北野で大茶会をやった。秀吉は、明を滅ぼして中原をねらい、朝鮮半島を荒した。そういう桃山時代というのは、日本が中国から学ぶものは最早なくなり、傲慢になって、東洋文明から自立した京都においてお祭り気分の花が咲いたのだ。家康は、それとは決別し、さっと江戸に首都機能を移した。

東京においても、日本の円は強い、アメリカの不動産は何でも買えるというバブルがあって、そして1990年、平成2年に、東京から首都を移そうと国会議員全員で議決をした。東京に集中しすぎているから外に移そうという、いわゆる首都機能移転だ。ではどこに移すかということで9年かけて調査をし、栃木県と福島県の県境、那須野が原がいちばん良いという報告書が出された。しかし、結局は総論賛成、各論反対で決められないことが決まった。宙ぶらりんになっているが、学生諸君が生まれた頃から、首都機能の移転が議論になると同時に、東京一極集中を是正し、中央主権から地域分権、地域主権という時代にしようという動きが出て、今日に至っている。我々が面しているのは、東京時代の次の時代、ポスト東京時代を開くという課題だ。中心を変えて他の地域が中心になることが、日本の国家的課題として、地域分権とか地方主権という言葉で語られている。

かつては日本の中心が京都であり、京都の最高の文化が全国各地に広がって、小京都ができた。同じように、海外に欧米、戦前はイギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ、戦後はアメリカに、日本人が憧れた素晴らしい文明があったが、それらの受け入れ窓口の東京に、人々は憧れた。日本中に東京への憧れがしっかり根づいて、全国各地にミニ東京ができた。その結果、現在、日本各地には、京都的なもの、東京的なものが日常生活に入り込んでいる。京都的なものとは東洋文明を生活の中に入れ込んだもの、東京的なものとは西洋的なライフスタイルを生活の中に入れ込んだものである。そうした東西両方の文明を入れ込み終わって、我々は21世紀を迎えている。







○静岡県は東西文明が調和する場所


 

東京に入った西洋的なものと、京都に入った東洋的なものが往来するのが東海道だ。東海道五十三次というが、その宿場がいちばんたくさんあるのが静岡県で、22宿ある。東海道新幹線の駅は、京都府には一駅しかないが、静岡県には6つの駅がある。正に日本の中心で、京都の皆さんがひかりに乗れば、1時間で静岡県の西の中心都市浜松、東京からひかりに乗れば、1時間で静岡県の東の中心都市静岡だ。

昔から奈良や京都の都の文化は東海道を下っていった。在原業平しかり、さかのぼれば山部赤人という素晴らしい歌人が、富士山を仰いで「田子の浦ゆ打ち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」という素晴らしい歌を作った。また、日本で一番古い竹取物語には、月に帰るかぐや姫が帝に置いていった不老不死の薬を駿河にある一番高い山で燃やした、不死の薬を燃やしたということで、その煙が富士山の煙であり、「ふじ」という名前の由来だと書かれている。

鎌倉時代には北条家が京都の文物を入れた。今川義元は駿河に素晴らしい京都文化を入れた。東京からも近いので、東京文化も入っている。東海道を擁する静岡県は、東西文化の交流する場所、東西文明が調和するところだと言える。







○静岡県は日本の縮図

 

日本を象徴するものといえば、かつては「富士山・芸者・桜」だった。今では芸者さんが少なくなって、「富士山・桜・新幹線」ということになっている。

日本人は昔から、日本でいちばん高い富士山を眺めて、故郷に帰って、それぞれの故郷にある山を富士山に見立てた。いわゆる「見立て富士」が全国に340もある。日本はまことに「富士の国」であり、富士山は日本の象徴だ。桜は、日本人が大切にする春夏秋冬の四季の象徴で、新幹線は日本の技術の象徴。そして静岡県にはこの3つがそろっている。

静岡県は、西を浜名湖、東を箱根、北を富士山と南アルプス、南を505kmの海岸線で囲まれ、天竜川、大井川、富士川、安倍川、狩野川を擁する山あり川あり谷ありの地だ。日本のいちばん北は稚内、北緯45度の亜寒帯で、いちばん南は与那国島、北緯24度の南、亜熱帯であるが、静岡県にはその両方がある。亜寒帯的なものは富士山や南アルプスにあり、もともとフィリピン海沖にあった火山島がプレートに乗り日本列島にぶつかってできた伊豆半島には亜熱帯的なものがあって、1月には梅が、2月には河津桜が咲く。実に自然が多様であり生物が多様であり、だから日本でいちばんたくさんの食材、海のもの山のものが219品目もある「食材の王国」だ。また、日本はお茶の国だが、お茶を最もたくさん生産するのも、お茶を最もよく飲むのも静岡だ。一方、スズキ、ヤマハ、河合、ホンダ、ホトニクスといった日本を代表する世界的な工業ブランドも静岡から出ている。

今、その静岡に飛行場ができた。富士山空港という大井川のそばのお茶畑の大地の上にある空港だ。その真下には新幹線が走っていて、駅ができれば東京にも京都にも行ける。日本のへそともいうべき中心性の高い空港だ。







○静岡から「日本の理想郷 ふじのくに」づくりを

 

静岡の人々は、プラザ合意のあった1985年に「ふじのくに」という雑誌を出した。これは静岡県の別名だ。山梨県の人が「甲斐の国」と、新潟県の人が「越後の国」と言うように、静岡の人々は自分たちの地域の名前として「ふじのくに」と言う。富士山は日本の象徴であるが、「ふじのくに」とは静岡県であると同時に日本のことだ。ローカルにしてナショナルなアイデンティティである。

私は、京都で生まれ育ち、東京で人生の波風を受けて、その後、50歳になったとき、京都の国際日本文化研究センターに招かれ、日本の国際的・学際的。総合的な研究をした。それを通して、日本の文化を世界に発信する時期が来ていることを自覚するに至った。そう考えていたときに、歴史的、地理的、文明史的観点からすると、日本を象徴するものが静岡にあり、そこは東の文明と西の文明が出会う、自然と文明が調和するところであるということに気づかされた。

私は、静岡県知事として、国の出先機関の最たるものである都道府県制度を自己否定し、コミュニティづくりを基礎自治体にあずけて自治を励ましながら、新しい日本を、東西両方の文明を入れ込んで環境と調和した新しい日本のモデルを、日本のど真ん中である静岡の地から創り上げていこうとしている。それを理想郷と表現して、「日本の理想郷 ふじのくに」づくりと言うのである。






 質疑応答

<問> 今後の基礎自治体のあり方についてどのような見解ですか。

<答> 基礎自治体である市町村は、ついこの間まで三千数百あったが、現在は半分以下になった。静岡県には35市町ある。その中には特別に強い政令市として浜松市と静岡市があるが、それ以外の33市町はまだまだ弱い。

だから、自らの地域に求心力を働かせると同時に、他の地域との連携を図るということがこれからの課題だ。また、できることは住民が自分たちでやっていく、できないことは税金を使って市町村がやる、そこでもできないことはより大きな行政単位で、というように補完性の原理というものに基づいてやっていくのがいいと思う。

もう一つ、日本列島は災害に直面しているから、常に防災に心しておかなくてはいけない。東海地震が予想される静岡県では、いつ何時災害が起こってもいいように用意ができている。知事が京都に行っていて不在でも、大地震が起これば、あっという間に指揮系統ができるようにシステムができている。中国との防災会議で、静岡県では毎月のように防災訓練をしていると紹介したところ、中国からたくさんの人が県の防災センターに訪れるようになった。この間の台風で道路が崩壊し、全半壊の家が出ても死傷者が一人もなかったのは、コミュニティができているからだ。

基礎自治体というのは、単に行政単位でなく、生活共同体としても考える必要がある。そして、若い人が防災などの危機管理について意識を高めることが大事である。共同体のいちばんの基礎は、住民一人ひとりの自立心にあると思う。自立をする、そのために聴講生の皆さんも今勉強をしているのではないか。









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