『科学主義工業』解題 第3章


3.戦時体制と『科学主義工業』

雑誌『科学主義工業』が創刊された直後、日本は日中全面戦争へと突入していく。理研コンツェルン傘下の各社は、化学、機械など軍需関連産業の比重が高く、戦時の「生産力拡充」運動の展開は、理研グループにとって、経営拡大のチャンスとなった。

また、大河内正敏は、もともとは物理学徒であり、東京帝国大学で砲兵学者として職業的研究者としての営為を開始しており、そのために軍事と工業経営を結ぴつけることに積極的であったのだとみる見解もある。経営史学者の斎藤憲氏は、前褐『新興コンツェルン理研の研究』「第2章 大河内正敏における経営理念の形成」の結論部分で、「造兵学者であった大河内正敏は、工業を常に銃後の問題として捉え、その発展を国防という視角から把握していた」( 109ページ)のであり、「国防上必要でありながら国産化できない製品を理化学研究所で研究、開発、理研傘下の企業で王業化していった」( 107ページ)ことも、造兵学者として一貫したものであったという視点を提示している。

このような理化学研究所をとりまく状況もあいまってか、『科学主義工業』の編集方針は、一貫して戦争遂行に協力的であった。1937(昭和2)年10月号(第5号)では「特集・戦時体制下の日本経済」という大特集を組んで、そこに、阿部勇(法政大学教授)の「戦時経済と非常時財政の相貌」をはじめとする10本の論文を掲載した。ほかに、社会大衆党代議士の三輪寿壮、企画院の出弟二郎をはじめ大学教員、金融機関の調査部員、経済評論家らがこの企画に執筆している。

以後、「資源涸渇対策特集」(同年11月号)、「特集・生産力拡充問題再検討」(同年12月号)、「特集・北支技術建設」(1938年1月号)、「特集・戦時産業政策」(同年2月号)、「特集・大陸進出」(同年3月号)、「特集・経済封鎖突破」(同年4月号)、「特集・戦後経営」(同年5月号)と、戦争遂行と植民地支配の道を模素する特集が連続して組まれ、そこに、科学者、評論家、ジャーナリスト、政治家、政府関係者、軍人らの論説が集められた。

国家に対する批判的な言論が許されない時代状況の下にあったとはいえ、『科学主義工業』誌は、戦争という目的自体に対して、あるいはアジアヘの帝国主義的な侵略に対しては、あまりにも無批判であり、いやむしろ、積極的でさえあった。一方、国内体制の編成や、生産組織の問題、産業経営の問題などに関しては、徹底して科学技術の導入による合理化を進めていこうという立場を鮮明にしていた。

そもそも、科学主義工業の理念が批判の矢を向けていたのは、目先の利潤にとらわれて、自国の科学技術の振興や長期的な資源開発に力を入れず、外国の新技術の輸入に頼っていた、当時の日本の資本家たちのあり方に対してであった。このような考え方は、戦前期(平時)においては、当時の日本資本主義の欠陥を衝き、新しい科学技術や産業の振興に資するという積極的な役割を果たした。しかし、この「理念」には「手段」はあるが、普遍的な「目的」を欠いていたうらみがある。

日中戦争が長期化し混沼化の様相をていしているころ、「一周年記念特大号」(昭和3年6月号)が発行された。その編集後記には、次のような時局認識が示されていた。

*われわれは今日この事態に於て、特に痛切に消極資本主義の潰滅を見出すと共に、日本産業機構の健全なる転換を冀はざるを得ない。
*その意味に於て、科学主義工業への黎明が、全日本の産業界に訪れてゐることを覚えるのである。

資本主義工業と対抗するものとして導き出された科学主義工業は、戦時における体制の再編成に、資本主義を超える可能性を見いだしていった。このような図式の認識枠組みは、戦前期に社会改良をめざした人々の、戦時中の言説にしばしば見られるものである。

労働科学の提唱者、暉峻義等は『科学主義工業』に、戦時下における熟練工の養成や、労働力再編成についての論説を寄せている。彼の労働科学も、戦前(平時)においては、資本家的な「合理化」(人問の軽視)に対抗して、最適な労働を通じて産業の合理化と労働者の利福の増進をめざすものであったが、戦時には、国家の要請に応えて生産能率を最高度に高揚するための学問となっていった。たとえば、裴富吉氏は『労働科学の歴史一暉峻義等の学問と思想』(白桃書房、1997年)において暉峻義等の労働科学について体系的に論じ、暉峻の戦争責任についてきぴしく追求している。

また、『科学主義王業』には、河上丈大郎、河野密、三輪寿壮ら、旧日本労農党系の無産政治運動家も多くの論説を寄せている。若きころ民衆の解放をめさして政治活動に足を踏み出した彼らは、戦時には翼賛体制への積極的な協力者となっていった。河上は、昭和3年2月号に「戦時経済断想」という小論を寄せているが、そこで、戦時経済=計画経済と同一視し、それを資本主義経済と対抗するものととらえ、その枠組みから、計画経済に抵抗する財閥に批判を加えている。かつて資本主義に対抗するものとして、打ち出した社会主義的な社会改良のイメージは、戦時経済の積極評価、戦争協力へと乗り換えられていった。

一方でまた、『科学主義王業』は、左翼的傾向を持つ雑誌の発行がきわめて困難になっていたこの時期に、長谷川如是閑らの『社会思想』誌のグループや、岡邦雄、三枝博音、戸坂潤、相川春喜ら唯物論研究会のグループの人々、『日本社会政策史』で知られる風早八十二らに、論説や時評を発表する場を提供した。厳しい弾圧の下で、『科学主義工業』は、彼らが文筆活動を継続するための重要な舞台ともなった。『科学主義工業』誌に掲載された当時の左翼的/自由主義的知識人の諸論文には、その後の全集・著作集や各種アンソロジーに掲載されていないものも多く(前掲、佐々木「解説」、3ページより)、彼らの戦時下の思想的営為をさぐるための有効な素材を提供してくれる。

このように、『科学主義工業』誌の論調や執筆者の陣容は、積極的に戦争遂行に邁進した人々から、ねばり強く抵抗の陣地を守ろうとした人々までを包含しでおり、きわめて多面的で重畳的なものである。「改造」の時代には、民衆本位の社会をめざし、広い意味で同じ方向に向かっていった人々が、戦時下に様々な方向にベクトルを変えでいったその位相は、現在のところまだまだ解明が不十分である *。近現代日本の思想的文化的潮流について探るためにも、『科学主義工業』誌を、さまざまな角度から再検討することが不可欠であろう。また、『科学主義工業』には、「大阪商大事件」や「企画院事件」で弾圧された人々の戦時下の論説も数多く掲載されているので、丹念に読めば、当時の言論弾圧のあり方を逆照射することもできると思われる。

* 大河内正敏の「科学主義工業」の考え方と、「科学主義工業」の主要な執筆者でもあった唯研グループ各研究者たちの技術論とのアンビバレントな関係については、中村静治氏が「新版・技術論論争史』(創風社、1995年)の「第3章 『科学主義工業』と相川の転向」で詳細に描きだしている(同書の旧版は、1975年に青木書店から、上下2巻で出版されている)。

(補足)1998年7月にこのページを開設して以来、2003年6月3日まで『労働科学の歴史一暉峻義等の学問と思想』の著者である裴富吉先生(中央学院大学商学部教授)のお名前をを間違えて表示しておりました。ご本人の裴先生より先日メールでご指摘いただきまして、訂正いたしました。裴先生、本当に失礼いたしました。また、ご指摘をありがとうございました。



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