『科学主義工業』解題 第4章


4.総力戦体制のふかまりと『科学主義工業』

戦時下において、総力戦体制が全社会的につくられていくにつれて、『科学主義工業』誌に掲載される論文も、論説的、時評的なものが減少して、総力戦遂行のための技術的、方法論的なものが増えていった。すなわち、労働力の再編成のための研究論文、資源開発に関するもの、代用品生産について、配給機構の形成の仕方についてなどを扱った論考などが目だつようになった。

また、昭和4年6月号に、「日本の資源を語る」と題した座談会が組まれてからは、しばしば、座談会が企画され、『科学主義工業』誌が、学者、ジャーナリスト、官僚、軍人、一般人らの交流の場としても機能するようになる。同年10月号には、司会・野崎龍七(ダイヤモンド社)、出席者・秋永月三(企画院第一部・陸軍歩兵大佐)、正木千冬(企画院第四部)、木村禧八郎(外務省通商局)というメンバーによる「戦乱勃発の日本産業に及ぼす影響」と題された座談会が開かれ、戦争が国をリードするのではなくて、国の産業が国の運命を開いていくという観点から、世界戦争にいかに対処するかについて討論が行われている。

一方、産業の現況を検討する特集や、各地からの生産便り、各現場からの技術開発や経営改善についての報告が増えてくるのも一つの特徴的な傾向であった。これらの記事によって総力戦体制の下での生産現場の実態をうかがい知ることができる。

近衛新体制が発足した直後、昭和5年8月号の「編集後記」には、科学主義工業の理念が全面的に新体制運動に没入していくさまが見てとれる。

*新体制の確立!この呼ぴ声を聞いて已に一ケ月。再編成されんとして、下の方はその盛り上がる力のやり場に困っている形ではなかろうか。
*新政治体制は新経済体制に依り、新経済体制は新産業体制に依り、新産業体制は新科学・技術体制に依り、これを裏付けられねばならない。
*新科学・技術体制とは何を云ふか。敢て、科学主義工業を基底とする科学・技術陣の挙国・一致的体制と、云いたい。

同年10月の大政翼賛会の発会以降は、『科学主義工業』誌上への翼賛会関係者の登場もめだってくる。以前からの常連執筆者が、翼賛会や産業統制団体に動員されている例も多い。戦時のふかまりとともに、『科学主義王業』への軍人の寄稿も徐々に増えでいった。昭和15年11月号には、巻頭論文に陸軍省経理局監査課長・陸軍大佐、永井茂三郎の「国防経済に於ける産業経営」がおかれており、産業分野への軍の発言の強まりがうかがわれる。こうして『科学主義工業』は、初期のような幅広い思想的潮流を包含するという特徴を失い、戦時動員を技術的、精神的に支援していく役割を果たす雑誌となっていった。

1941(昭和16)年12月8日、日本海軍がマレー半島に上陸を開始し、同日、ハワイ島真珠湾を奇襲すると、日本全国は決戦ムードー色となった。「科学主義工業』も、1942年l月号を「決戦特集」と題して、328ページの特大号を組んだ。編集後記には、次のようにその決意がのべられていた。

*国民総決起のとき、今ぞ職分奉公の実をなすとき、われらまた天皇の赤子ー前線に恥ずるなき態度を持すべきである。即ち時局に便乗ー美名に匿れ、米・英的利己本意の非国民的出版屋を葬ること。況やその戦時言論・思想の重大性を省みるときに於いておやである。
*本号を決戦特集号としたる所以もまたここにある。政治も経済も産業もー各個人の生活ー公私を問わずーは勿論のこと、挙げて「戦争」に集中すべき秋である。
(中略)
*全編すべて「戦争」に運なるものであり、それが一面総合雑誌的色彩を帯ぶると雖も、かかる大事に際してはこれまた必然なりー而も、自づから小誌の使命の奈辺に存するやは一読瞭!これを諒とせられることと思う。

「今や科学技術の時代」では遅いー「世はすべて科学であり技術である」からである。総力戦体制への人的、物的資源の動員が進められるなかで、『科学主義工業』は、あくまで、おもに科学や技術の面から、国家的要請に応えようとした。アジア・太平洋戦争の最終盤を迎えるまで、『科学主義工業』に発表されたさまざまな論説や、座談会の発言には、「自由で閲達な」(あくまでも総力戦体制に積極的に協力するという枠のなかで、しかも、乏しい人的・物的資源をいかに活用するかという限定された目的のために、であるが!)意見や議論をみてとることができる。

総力戦体制のなかで「最高度」の「能力」や「自発性」の「発揮」、「高揚」、あるいは「発揚」がうたわれていたことや、社会の大きな編成替えが進んだことは否定できないが、間題はその内容をどう評価するかであろう。近年、山之内靖氏は総力戦の時代を「階級社会からシステム社会への」移行の時代ととらえる見方を打ち出し(山之内靖「方法論序説ー総力戦とシステム統合」、山之内・コシュマン・成田編『総力戦と現代化』柏書房、1995年)、ある程度の影響力を持つようになっているが、『科学主義工業』誌面には、このあたりの問題を検討するための素材も溢れている。とくに、企画院や商工省の宮僚、統制団体の責任者らによる政策にかかわる論説や、産業人たちの現場からの発言、シャーナリストの時論などが同じ雑誌の上で見られ、座談会などで、それぞれの意見のやりとりや、ニュアンスを読みとることができることは有益である。

たとえば、昭和9年10月号では「生産責任を達成せよ」という座談会が企画されている。出席者は木村橲一郎(経済評論家)、郷司浩平(重要産業協議会調査部長)、菱山辰一(読売新聞論説委員)、大橋静市(精密機械統制会労務課長)の4人であり、そこでは、軍需会社法による生産責任制の下での生産現場の混乱ぶりが、各出席者から赤裸々に語られている。菱山は、戦時下の日本の計画経済のあり方を振り返って「これだけ大きな計画経済を運営するのに、本当に経済科学の学問をやっている人、また事業の経験ある人、さうした経済専門家を動員して日本の計画経済の大綱を打ち樹てたかというとそうではなかったのですからね。日本の本当の専門的な智能を動員して事に当るという点では非常に欠けているところがある」とのべ、これを受けて、大橋は、「そういう点では、日本の企業は統制経済前期の様な気がするときがあるのです。(中略)何かの計画を樹てるための調書をとっても、企業家が正直な数字を出してくれればいいが、大抵は政略数字やよい加滅な数字を出してくる。従って役所の方でもそれを一々査定するために複雑になり書類の数も多くなってくる」といった現場の問題点を指摘している。大橋は座談会の結ぴで「物的力による勤労意志の強制には限度があり、かつまた決戦下の今日では失敗をすれば大変なことになりますから、やっばり本来の日本的勤労管理精神に還ってもらいたいと思います。生産責任者の燃ゆるような生産意志と勤労者の一人一人に沁み込む温情こそが勤労者の勤労意志を興起するものであることを忘れてもらいたくない」とのべ、「温情的」な伝統的労使関係への復帰を叫んでいた。

戦時下日本の実態にそくして、はたして山之内氏のように「総力戦時代を経過することにより、国家と市民社会、家族と市民社会の間の境界線は曖味化し、相互浸透が進行した」(山之内、前掲書、47ページ)と評価できるのかは、大いに検討の余地があると思われる。



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