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唐 詩 と 日 本

 

 二 日本に残存する『全唐詩』未収録の詩――平安時代将来の資料を中心に――

本題に入る前に唐詩がどのように集成されたかについて、『全唐詩』以前に遡り、あらましを述べておこう。また『全唐詩』編纂の概略を説明し、その後の補訂に関する業績として、近年の中国の編著と我が江戸時代の市河ェ齋『全唐詩逸』を紹介してみたい。以下、節に分けて叙述する。

1 『全唐詩』以前の唐詩集成書

古く唐詩は同時代の人々によっても編集されている。陳尚君「唐人編選詩歌総集叙録」(一九九七年『唐代文学叢考』)によると、唐・五代間に編集・選録された詩歌集は一三七種あり、このほか書名のみ知られるものが五二種あるという。それらの殆どが亡佚したなかで、唐詩の選集に現存するものが一〇種ある。編者未詳『捜玉小集』などで、それらは「唐人選唐詩」としてまとめられている(一九五八年『唐人選唐詩十種』、一九九六年『唐人選唐詩新編』。なお、そのうちの殷璠『河岳英霊集』には平安時代の写本の断簡がある)。唐人による唐詩選集で最も浩瀚であったのが晩唐の顧陶『唐詩類選』二〇巻である。一二三二首を収める選集であったが、今は序文だけを留め、本文は散佚してしまった。

唐詩の大規模な集成が行われるのは宋代になってからである。南宋の洪邁(一一二三〜一二〇二)の『万首唐人絶句』一〇〇巻(明万暦改編本四〇巻)が現存では最古とされる。ただし、これは書名の通り絶句に限定した集成であった。唐詩すべてを収録するほどの規模を有したのは、南宋末の趙孟奎『分門纂類唐歌詩』一〇〇巻である。その序文によれば一三五三家、四〇七九一首を収めたというが、今に伝来するのが僅か一一巻であるのは甚だ惜しまれる。なお宋初に編纂された『文苑英華』一〇〇〇巻も唐詩研究の重要な資料源になっている(刊刻は南宋の嘉泰四年〈一二〇四〉になされた)。本書は六朝末の梁から五代までの詩文を類聚したもので、唐代の作品が全体の九割強を占め、詩歌は巻一五一から巻三五〇に収録されている。

明代に下っては、高棅(一三五〇〜一四二三)の『唐詩品彙』九〇巻(所収五七六九首、続編の『唐詩補遺』一〇巻は九五四首)が収録に富む。その後、万暦年間には張之象(一五〇七〜一五八七)の『唐詩類苑』二〇〇巻が「詩は数万を渝(こ)え、人は千餘に至る」と規模の大きさを取り戻すに至った(二八二四五首所収、万暦二九年一六〇一刊)。また黄徳水・呉琯『唐詩紀』も「有唐一代の業を彙編」せんと企図したものであった。ただし初唐・盛唐の一七〇巻で終わり、中・晩唐に及ばなかった(万暦一三年一五八五刊)。こうした先駆的な編書の上に立って、唐詩を網羅集成しようとしたのが胡震亨(一五六九〜一六四五)の『唐音統籤』(北京故宮博物院所藏本一〇三三巻、二〇〇一年海南出版社「故宮珍本叢刊」、二〇〇三年上海古籍出版社影印本、また「四庫全書存目叢書補編」所収)である。さらに明末から清初にかけて、銭謙益(一五八二〜一六六四)の業績を継承した季振宜(一六三〇〜?)も唐詩の大規模な集成を行い、稿本を留めている(台湾の国家図書館所藏本が『全唐詩稿本』として影印され、また北京の故宮博物院の浄書本『全唐詩』七一七巻も二〇〇一年海南出版社「故宮珍本叢刊」に影印された)。胡・季の両書は後の康熙帝勅編『全唐詩』の編纂に大きな利便を与えた。

2 『全唐詩』について

さて『全唐詩』であるが、本書は清の康熙帝が康熙四四年(一七〇五)彭定求ら臣下一〇名に命じ、唐・五代の詩をあまねく収録せしめたものである。編集および刊刻には揚州詩局を設けしめて当たらせた(詩局を司ったのが『紅楼夢』の著者、曹雪芹の祖父にあたる曹寅であった)。これが揚州詩局本『全唐詩』といわれるもので、全一二函、各函一〇冊からなる(現在、北京の中華書局が九〇〇巻に改編した活版本が通行する)。所収詩人二二〇〇余人、延べ詩数四九四〇三首(残句一〇五五)を誇り、唐詩の網羅集成はここに一応の完結を見た。本書は、帝王后妃・宗室子孫・郊廟楽章・楽府・各朝詩人・名媛・釈道・仙・神・鬼・怪・夢・諧謔などに分類排次して最後に補遺・詞を付し、詩人には小伝を添え、作品には校勘を加え編集されている。

『全唐詩』は一大編纂書であったにもかかわらず、わずか一〇人(康熙四五年七月初の時点では彭定求・楊中訥・汪士メ・徐樹本の五名に減じていた)によって実質一年八ヶ月の間に完成している。季振宜『全唐詩』を基礎にし、胡震亨『唐音統籤』を参考にしたことが、編纂を容易ならしめたとはいえ、誤謬遺漏は免れ難かった。その顕著な例としては、六朝人の作を収めたり、戴叔倫の詩に宋の王安石や元の丁鶴年、明の劉菘の作を入れたりした誤りや、『文苑英華』や南宋の計有功『唐詩紀事』といった翻閲容易な書籍に見られる詩を漏らすなどの杜撰さが挙げられる。さらに重出の混乱も著しく(佟培基「全唐詩重出誤收考」は三一五七首、残句一五三を数えている)、所収作品の出処を注記しない点も欠陥とされている(『全唐詩』の編纂については周初「叙《全唐詩》成書経過」〈『文史探微』また『周初文集』所収〉が詳しい)。

3 中国における『全唐詩』の補遺

中国においては、二〇世紀以降、劉師培、岑仲勉、聞一多が『全唐詩』の誤りを指摘し、補正に向けての先駆的な研究を行い、その後、現在に至るまで増補修訂の研究が多くの学者によって積み重ねられている。とりわけ『全唐詩』の遺漏を補う業績に見るべきものがある。その一つが一九八二年、中華書局出版の『全唐詩外編』二冊である。本書は王重民『補全唐詩』『敦煌唐人詩集残巻』・孫望『全唐詩補逸』二〇巻・童養年『全唐詩続補遺』二一巻を合編したものである。王氏は敦煌文書という清人が見ることのできなかった新資料から佚詩を収録している。孫氏も敦煌文書を用いて王梵志詩一一一首を採録した。そのほか新出の宋版『張承吉文集』一〇巻を利用し張祜詩一五二首を加えた点にも価値がある。童氏は地方志や『古今図書集成』などに基づくところが多い。王氏『補全唐詩』一〇四首・『敦煌唐人詩集残巻』七二首、孫氏『全唐詩補逸』に八三〇首・残句八六、童氏『全唐詩続補遺』には一〇〇〇余首・残句二三〇余、『全唐詩外編』全体で二〇〇〇首余が収録された。なお『補逸』『続補遺』には新羅・日本人の詩を収めている。

『全唐詩外編』の輯佚は大きな成果といえるが、しかし誤收が少なくなく、またその後に発見された資料(例えば王勃の五巻本『王無功文集』や張錫厚『王梵志詩校輯』)もあって、これの修訂増補が望まれた。この要望に応えたのが上海復旦大学の陳尚君氏の『全唐詩補編』三册(一九九二年、中華書局)である。本書は、上冊が『全唐詩外編』の重複誤收の詩六一四首・句二六九を削除した校訂本とその考証を記した「《全唐詩外編》修訂説明」、中・下冊が陳氏輯佚の四三〇〇余首・句一一〇〇余を収める『全唐詩続拾』六〇巻からなる。『全唐詩補編』は、中国の既存・新出の資料のみならず日本など海外伝存の資料にも及ぶ文献博捜と緻密な考証が生んだ労作と絶賛されている。現在、中国ではこうした諸家の業績の上に立ち、「全唐五代詩」の再編集が進んでいると聞く。

4 市河寛斎『全唐詩逸』の編集と刊行

中国における『全唐詩』の補訂は上述の如く、清末・民国の学者、劉師培の論文がその最初とされ、二〇世紀になって始めて論じられるようになった。清朝の統治が厳しかった時代には、勅編書に疑義を呈することが敬遠されたのであろう。こうした事情もあって『全唐詩』の補遺は、中国よりも我が国の学者が先んじた。江戸時代の学者、市河寛斎(ェ延二年一七四九〜文政三年一八二〇)がその人である。

寛斎は上州の人、本名を世寧、字を子静といい、中国人風に河世寧と修姓することがあった。彼は詩に長じ、「江湖詩社」の盟主となって天明から文政に及ぶ漢詩壇に重きをなしたが、また好古の癖を有して考証に秀でた。安永二年(一七七三)二十五歳の時、初唐の李嶠『雑詠集』を得て、『全唐詩』や『唐詩紀』を参考にして校正を加えた。李嶠『雑詠』は、唐代に張庭芳の注を加えた本が『李嶠百詠』『李嶠百二十詠』とも呼ばれて平安中期以降、我が国に風行した。ところが中国では張注本は元明の頃に散佚した。林述斎が寛政一一年(一七九九)から文化七年(一八一〇)にかけて日本残存の漢籍を編集刊刻した『佚存叢書』中に李?『雑詠』も加えられている。若き日の寛斎が、この佚存書の一つを校読したことは注目すべきである。後年、彼は「此の邦所傳の古書」をもって、『全唐詩』所収の李?「雑詠」に欠文が見られる六首を『全唐詩逸』に補正しており、『全唐詩』輯佚の基礎資料がすでに二十五歳頃から準備されていたことが分かる。

市河ェ斎は安永五年(一七七六)二八歳の時、江戸に出て林家の門人になり、天明三年(一七八三)より七年まで湯島聖堂(昌平黌、後の昌平坂学問所)の学頭に任ぜられたが、寛政二年(一七九〇)異学の禁により教授を辞し、翌年、富山藩儒になった。昌平黌時代に寛斎は平安以前の漢詩を集成する『日本詩紀』(初版一〇巻、後に五二巻に増補。自筆稿本が内閣文庫に蔵される)を編纂した。国書を博く翻閲したその編纂過程において、「唐人の詩を載するもの有るに遇へば、則ち必ず抄録して以て冊を成せり。後康熙の全唐詩を得て對讎すること數次。その逸亡を存する者三卷を得て」(市河三陽編『ェ齋先生餘稿』頁一〇一「與川子欽」)『全唐詩逸』を完成させた。そして寛斎は、これが清国に伝えられることをひそかに望んだ。

その願いを実現させたのは嫡子、米庵(名三亥)であった。彼は享和三年(一八〇三)、『全唐詩逸』の稿本を携えて西遊し、伊勢に客寓していた菊池五山(寛斎の弟子)やその社中の援助を得て、翌文化元年二月に京都で本書を出版した。それより長崎に至り、通事の頴川仁十郎を介して清商張秋琴に舶載を託した。かくして寛斎の夢がかない『全唐詩逸』は清国に渡った。後に翁広平(『吾妻鏡補』の著者)が本書を入手して鮑廷博に贈り、道光三年(一八二三、文政六年)鮑は『知不足斎叢書』に編入して刊行した。これによって『全唐詩逸』は中国に広まった。『知不足斎叢書』の翁広平の跋文は「それ全唐詩多きこと數萬篇に至る。必ず平時盡く胸中に熟して而る後群書を博觀し、方めて某人の某篇某句は捜罷未だ盡さざるを知り、乃ち摘録して之を纂成す。此れ豈易事ならんや。然らば則ち河世寧の好學深思從ひて知るべし」と記すが、その讃辞は本書を閲覧した清人の共通するところであろう。

寛斎没後、八年経った文政一一年(一八二八)、『知不足斎叢書』が舶載され、林述斎のもとにもたらされた。その中に『全唐詩逸』を見出した述斎はこれを米庵に授け、米庵はこれをもとに翻刻本を出版した。『全唐詩逸』の編集刊行は、まことに江戸時代における日中学術交流の佳話というにふさわしい。

5 『全唐詩逸』の資料源

『全唐詩逸』は、日本伝存の文献から『全唐詩』未収録の詩六六首を拾い、欠文のある詩を六首補う以外に、残句二七九を収める。所収作者は一二八人を数え、うち八二人は『全唐詩』に見えない。佚篇および新出の詩人を録するに際し、寛斎は『全唐詩』の欠点に鑑みて逐一出処を注記し、また時に作者考証も加えている。この学問的厳密性は高く評価されてよい。その出典注記には次のような文献が挙げられている。

  1『日本高僧伝〔要文抄〕』 2『東国通鑑』    3大江維時『千載佳句』
  4空海『文鏡秘府論』    5空海「性霊集序」 6『鑑真和上伝(唐大和上東征伝)』
  7「智證大師伝」       8藤原佐理「真跡」(『三国筆海全書』所収)
  9張鷟『遊仙窟』        10李嶠「雑詠詩百二十首」

以上の中で3の『千載佳句』が最も多く用いられている。『千載佳句』は唐・新羅人の七言律詩から一聯を摘録し(所収一〇八三聯)、分類集成した詞華集である。名高い藤原公任の『和漢朗詠集』は本書に依拠するところが大きい。なお金子彦二郎氏『平安時代文学と白氏文集――句題和歌・千載佳句研究篇――』は、『全唐詩逸』が『千載佳句』から得た佚篇二九〇首のうち五首は既に『全唐詩』に収載されていると指摘し、また白居易二七聯・元兢二一聯・皇甫公(『全唐詩』未見)四聯を始めとする計六八聯をさらに補うなどの修正を行っている。

次に多用されたのは4『文鏡秘府論』である。本書は空海が在唐中に蒐集した詩文作法書の類に基づいて帰国後に編集した著作で、六朝・唐代の逸書が多く見られ、文学理論を研究する際の重要参考書として今に尊ばれている。市河ェ齋は引用の王昌齢「詩格」や元兢「詩格」から王・元自作の詩を抽出している。7からは天台山国清寺の僧が入唐僧円珎に贈った詩句を採っている(円珎については後述)。9張鷟『遊仙窟』は、万葉の歌人も愛読した小説であるが、中国では早くに亡び、日本にのみ残存した作品である。『全唐詩逸』は作中の男女が交わした詩を収載している。10の李嶠「雑詠詩百二十首」は、既述の通り寛斎が青年の頃から価値を認め、『全唐詩』と対校していた文献であった。 

6 『全唐詩逸』以後、日本で確認された『全唐詩』補遺資料

市河ェ齋の『全唐詩逸』は、唐詩の遺篇を伝える貴重な資料が日本に残存することを中国の学者に知らしめ、学術交流に大きく寄与した。その後、『全唐詩』未収録の詩を収める文献が幕末から今日至るまで少なからず確認されている。
以上、随分と前置きが長くなったが、いよいよ本題に入り、そうした文献を平安時代将来資料を中心にを取り上げてみよう。

a『翰林学士集』
名古屋の真福寺(宝生院、大須観音)所蔵の国宝零本一巻。幕末の澁江全善・森立之等編『経籍訪古志』に紹介されて存在が明らかになった。もと東大寺東南大院の蔵本。全巻数や編者については不明で、巻首を欠き書名は後人が付したものである。本巻に収める詩人の数は一九名、初唐、太宗皇帝時代の君臣唱和の詩すべて六一首を収載する。『全唐詩』に見えるものは一二首に過ぎない。うち許敬宗の作が一二首で最も多く、太宗の九首がこれに次ぐ。翰林学士の呼称は玄宗の開元二六年(七三八)に始まるので、書名は太宗朝の実態に即して「弘文館学士詩集」あるいは「唐太宗御製及応詔詩集」とするのがふさわしいという意見がある(中田勇次郎先生編『唐鈔本』福本雅一氏解説)。また『許敬宗集』の零巻と見る向きもある(『唐人選唐詩新編』陳尚君氏「前記」)。本卷は明治初期に日本を訪れた陳矩が影鈔し『霊峰草堂叢書』に模刻して以来、中国にも知られるようになった(民国一四年刊『六訳館叢書』にも収録。我が国では大正年間に「汲古留真」に影印され、昭和五六年同朋舎出版『唐鈔本』や一九九二年和泉書院出版の村田正博氏『翰林学士集・新撰類林抄本文と索引』にも収める)。

b 『新撰類林抄』
これは巻四に当たる一巻(文化庁所蔵国宝)と断簡数種が現存する。解読困難な草書で記され、古く空海筆として伝わった。本巻の首に「新撰類林抄巻第四 第三秩上/春 閑散上」と題しているところから、内容にしたがって分類編纂された類書(詩文作成用の参考書)の一部であったと推測されている(中田勇次郎先生「唐詩研究資料としての新撰類林抄」・『唐鈔本』解説)。第四巻には、玄宗の開元・天宝から徳宗の大暦・貞元ごろ(七一三〜八〇五)に活躍した二〇名の詩人(一人姓名不明)の詩、四〇首を収める。一五首が『全唐詩』に未収録であるのに加え、既收の詩にも字句の異同が甚だしく、平安初期に将来された唐鈔本として極めて貴重である。所収詩人には李白(二首)・王維(三首)・王昌齢(一首)・岑参(一首)・常建(一首)・賀知章(一首)・崔(五首)・錢起(二首)・李頎(七首)・劉長卿(三首)・李端(一首)・皇甫冉(三首)といった大家・名家が並んでいる中に、空海が唐を去るに当たって送別の詩を贈った朱千乗(二首)が見られるのははなはだ興味深い。空海は帰国後、嵯峨天皇に『朱千乗詩集』一巻を献上している(『遍照発揮性霊集』巻四「献雑文表」)。中国の文献上からは全く名前を没してしまった朱千乗の作品を本巻が伝えるのは、空海との関係においても見逃せない(『全唐詩逸』は『千載佳句』から一聯を採録)。

c 「佚名唐詩集残巻」
東京神田の古書店、一誠堂酒井宇吉氏所蔵の唐鈔零本一巻(重要文化財。昭和三三年貴重古典籍刊行会影印)。中唐の陳羽に始まり盛唐の高適に終わる二七首(重複一首)を収める。惜しいことに首尾を欠き、原題は不明であるが、すべて寺院・僧侶に関連する五七言詩ばかりで構成された特徴をもつ。所収詩人には蘇味道や武三思といった則天武后時代の人も交え、その詩に則天文字が用いられている。福本雅一氏は『唐鈔本』の解説において、『全唐詩』未収一〇首、不明五首とされた。今、北京大学の「全唐詩電子検索系統」を利用して調べたところ、不明のうち欠名の三首は『全唐詩』巻二四四に見る韓翃の詩であることが判明した。残りの二首は「王漸」の詩と記名されている。陳尚君氏『全唐詩続拾』は、この残巻によって王漸の佚詩として認めている。したがって本巻から『全唐詩』未収詩が一二首取り出せることになる(ただし郎士元「普門上人蘭若」は『全唐詩』巻二四九に皇甫冉の作として収める)。なお本巻の紙背には『白詩長慶集』巻二二が鈔録されており、これも誠に貴重である。

d 『趙志集』
天理図書館現蔵の鈔本一巻(『天理図書館善本叢書 漢籍之部』第二巻所収)。行書で録された本巻は、初唐期の鈔本に依拠して奈良時代に書写されたという見方が有力である。「興福伝法」の印記を有し、もと奈良の興福寺の蔵本であった。他に伝本を見ない天壌間の孤本で、首に「趙志集一巻 十七張」とあり、すべて一〇首の詩が残存する(巻首に「十七張」とあるが、今は六張のみ留めて一巻に装丁されている)。内容は趙志の作だけでなく、彼と交わした人々の贈答詩も含んでいるが、どれが誰氏の作か断定しがたい。趙志は、この詩集に名を見るのみで詳細が分からない。また贈答相手として詩題に見える張皓・劉長史・鄭司馬・裴草然・張結・徐長史・薩照についてもみな同様である。彼等に付された官職名から推測すると、この残巻は地方官クラスの人々の間でやりとりされた贈答詩を収めたものといえよう。かかる名もなき詩人の作品集までも我が国に伝来したことは、却って興味がもたれる。なお本巻の存在を記録したのは幕末の浅野長祚『寒檠璅綴』巻中が最初であるが、本格的な研究は中田勇次郎先生「趙志集について」に始まり、齋藤茂氏らの訳注が平成七年に完成している。

e 『唐人送別詩并尺牘』
園城寺(三井寺)に入唐の天台僧、智証大師円珎の関連文書が伝来する(国宝「智証大師文書」)。その一つに唐人の七言体の詩一八首(絶句一四首・律詩三首・一首欠字あるも律詩か)を収める文書がある。作者は高奉・蔡輔・李達・・景全・道玄(通訳の新羅僧)で、いずれも本巻にのみ名前を留める人々である。また彼等の多くは地方の吏員や貿易商人であった。作品としては見るべきものが乏しいが、地方の吏員・商人までもが詩作に親しんだという当時の文学状況を窺わせる資料になっており注目に値する(図版・釈文は平成一〇年講談社『園城寺文書』第一巻。論文には平成一四年『日本漢学研究初探』所収の齋藤茂氏「日本に残る唐詩資料について――『趙志集』と『唐人送別詩并尺牘』を中心に――」がある)。

f 伏見宮旧蔵『雑抄』巻十四
近頃、住吉朋彦氏によって初めて紹介された資料で(平成一二年三月「書陵部紀要」第五一号住吉氏「資料紹介伏見宮旧蔵『雑抄』巻十四」)、昭和三三年に伏見家から宮内庁書陵部に転蔵された文書類から見出された。巻首に「雜抄巻第十四/曲下」と題し、唐人の歌謡体の詩(楽府)など三六首を収めるものである(岑参「蜀道招北客吟」は文。なお二乃至四句の抄出もある)。所収詩人は令狐公に始まり岑参に終わる二一名で、おおよそ盛唐から中唐前半期に属する人々である。この中に李南・屈晏・鄭遂・劉瓊という従来知られなかった詩人が発見された。また全体の二分の一に当たる一八首が佚詩として確認された。詩人別では李端の作が一三首を収め最も多い。本巻には空海とゆかりの深い朱千乗の「長門詞」一首を存している。そこで住吉氏は本書成立にも空海が関係している可能性を指摘された(ただし本巻の書写は平安後期に下るという)。c「佚名唐詩集残巻」等と同様に本巻も誤写が少なくなく、本文としては精良さに欠けるのが惜しまれる。しかし住吉氏も説かれるとおり、通行本との差異は単なる誤りでなく、当時の作品流布状況から生じた例もあることを視野に置いて考察すべきであろう。巻頭の令狐公と朱千乗の二詩を紹介しておこう。   

    樂府詞      令狐公
秦箏慢調當秋日  玉指頻移碎音律  秦箏慢やかに調べ秋日に當り  玉指頻りに移し音律を碎く
C風分作山水磬  妙曲冷々度華室  C風分れて山水の磬と作り   妙曲冷々として華室に度る
    長門詞      朱千乗
雪澹梅枝御柳風  春鶯何囀妾愁中  雪は梅枝に澹(ただよ)ひ柳風を御す   春鶯何ぞ妾が愁中に囀る
君王寵愛偏前殿  不許長門音信通  君王の寵愛は前殿に偏にして  許さず長門音信の通ずるを

g 内閣文庫所蔵宋版『廬山記』
上記の六種はすべて写本であったが、これは版本の貴重資料である。『廬山記』は、北宋の陳舜兪が江西省の廬山の古籍名勝について実地調査も行って記した五巻八篇の書物である。中国にも伝本があるが前三篇のみの不全本で、我が元祿一〇年刊本が唯一の足本とみなされた。しかしこれも譌脱が多く、徳富蘇峰の蔵本(宋刊・補鈔本)が善本として知られ、辛亥革命を逃れて渡日した羅振玉がこれを影印した(『吉石?叢書』所収)。ところがこれにも欠落があり、戦後、内閣文庫の南宋初年刊本が完璧であることが確認され(昭和三〇年重要文化財)、文庫から昭和三二年に影印された。この貴重本の活用が充分になされないでいたところ、近年、澤崎久和氏がここに唐詩の逸篇を見出された(一九九五年三月「福井大学教育学部紀要」第四四号「内閣文庫宋刊本『廬山記』による『全唐詩』の補訂」および一九九七年一二月同誌第四八号「内閣本『廬山記』所収詩の本文及びその校異と問題点」)。澤崎氏は、佚詩として張又新「遊匡廬」・孟賓于「帰宗寺右軍墨池」・僧応之「西林」の三首、佚句六首を摘録している。また陳尚君氏『全唐詩続拾』が羅振玉本に従い江為の佚詩として収録した「簡寂観」は孟賓于の作に改めるべきであるとの訂正も加えている。なおこの宋版は、江戸時代、小大名ながら優れた蔵書家として高名であった豊後佐伯藩主毛利高標の旧蔵書を文政一一年(一八二八)に孫の高翰が幕府に献納した約二万冊中の一本である。

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