『史記』子貢遊説説話の成立について
(原載 『學林』27号 1997年9月)

嘉瀬 達男
序 言
一、『史記』子貢遊説記事の檢討
二、『史記』子貢遊説記事の成立
結 語

序 言

孔門の弟子子貢【注1】は孔門十哲の1人である。言語に秀でるとされ、外交家、貨殖家としても多く論じられてきた。その名は『論語』『左傳』の外に、『禮記』『大戴禮』『韓詩外傳』や、『孟子』『墨子』『莊子』『荀子』『韓非子』、更には『史記』『漢書』など先秦兩漢の書物の多くに見える。しかしながら從來の子貢研究では、『論語』『左傳』以外の記事について、殆ど言及されていない【注2】。それは『論語』『左傳』以外の記事が、子貢を論じる資料としての信憑性に缺けていることに起因するらしい【注3】。だが今後、子貢の傳記・思想研究を更に進めるためには、『論語』『左傳』以外の書物に見える子貢記事も檢討の對象とすべきであろう。もちろん愼重に考證を重ね、十分に吟味する必要はある。愼重な吟味を行ない、それぞれの資料がもつ意味を明らかにしていくことが、子貢の傳記・思想の研究を新たな段階へ進めることになると思われる。

小論では『論語』『左傳』以外に種々ある記事の中でも、『史記』仲尼弟子列傳に見える子貢が諸國に遊説する記事を取り上げ檢討を加えたい。この記事は、子貢が齊の侵略から魯を救うために齊・呉・越・晉の四箇國に遊説し、齊と呉、呉と晉、呉と越を次々に戰わせることによって、小國魯を守るという内容である。

この子貢遊説の記事は史實との矛盾が多く、『史記』の註釋者からは戰國遊説家の妄説、後人の説入と非難されてきた【注4】。例えば梁玉繩『史記志疑』は12もの疑義を提示し「即ち其の言ふ所は、了に一實無し」と結言し、「妄談」とまで言う【注5】。しかし史實として認められない記事であるから「妄談」と斷言する見方は、一面的であるし速斷に過ぎる。それに對して高橋均「仲尼弟子列傳について」(東京教育大學文學部紀要・國文學漢文學論叢第15輯 1970)は『史記』子貢遊説記事に關し、「やや大胆な想定をすれば、周公の後ではあるが弱小國であった魯國を守る英雄を孔子の弟子の中から見つけようとし、一方で韓非子や説苑【注6】にみられるような游説家的側面をもった人物をさがし出してきて合成すると、史記の傳に近いものが出來るのではなかろうか」と説かれる。高橋氏の「想定」は子貢の「遊説家的側面」に着目した卓論である。しかし『史記』仲尼弟子列傳全體を論じることを目的とした論文であるため、殘念ながら子貢遊説記事に對する檢討が十分には盡くされなかった。そこで小論は高橋氏の「想定」に導かれつつも、この遊説記事に對して今少し詳細な檢討を試みたいと思う。そして『史記』子貢遊説記事が史實と矛盾することを妄談と批判し、讒入と切り捨てるのではなく、史實と矛盾するような記事が如何にして作り上げられたのか、また作り上げられた記事は如何なる意味をもつのかを改めて考えてみたい。




一、『史記』子貢遊説記事の檢討

まず『史記』子貢遊説記事とはどのような文章であるのかを見てみよう。この記事は先述した通り、子貢が魯の危機を救うために齊・呉・越・晉の四箇國に遊説し、魯を守るというものである。子貢の魯を守るための行動は、全て哀公期のこととして記述されているので、『春秋』及び『左傳』で確認できる事件も多い。そこで『史記』子貢遊説記事に見える事件を『春秋』や『左傳』等と對比し檢討を試みたい。そうすることによって『史記』子貢遊説記事のどの部分が他書に確認でき、どの部分が他書では確認できないのかが明らかになるであろう。そして他書に確認できない作爲された部分を檢討することによって、この記事が如何にして作り上げられたのかを考えて行きたい。

以下に『史記』子貢遊説記事の書き下し文を8段に分けて示し【注7】、子貢遊説記事の内容を確認できる『春秋』や『左傳』などの資料と對比し檢討する。

まずは記事の發端となる第一段【注8】と、子貢が齊へと赴く第二段を見てみたい。

1〔發端〕
田常亂を齊に作さんと欲するも、高・國・鮑・晏を憚り、故に其の兵を移し以て魯を伐たんと欲す。孔子之れを聞き、門弟子に謂ひて曰く「夫れ魯は、墳墓の處る所、父母の國なり。國の危ふきこと此の如きに、二三子何爲れぞ出づること莫きか」と。子路出づることを請ふも、孔子之れを止む。子張・子石行くことを請ふも、孔子許さず。子貢行くことを請ふに、孔子之れを許す。
2〔子貢、齊の田常に説く〕
遂に行き、齊に至り、田常に説きて曰く「君の魯を伐たんとするは過てり。夫れ魯は、伐ち難きの國なり。其の城は薄く以て卑く、其の池は狹く以て淺く
【注9】、其の君は愚にして不仁、大臣は僞にして無用、其の士民も又た甲兵の事を惡む。此れ與には戰ふべからず。君、呉を伐つに如かず。夫れ呉は、城高く以て厚く、池は廣く以て深く【注10】、甲は堅く以て新しく、士は選ばれ以て飽き、重器精兵、盡く其の中に在り。又た明大夫をして之れを守らしむ。此れ伐ち易きなり」と。田常忿然と色を作して曰く「子の難しとする所は、人の易しとする所、子の易しとする所は、人の難しとする所なり。而るに以て常に教ふるは、何ぞや」と。子貢曰く「臣之れを聞く。憂ひの内に在る者は彊きを攻め、憂ひの外に在る者は弱きを攻む、と。今君の憂ひは内に在り。吾聞く、君の三たび封ぜられ三たび成らざるは、大臣聽かざる者有ればなり、と。今君魯を破り以て齊を廣むるは、戰ひ勝ち以て主を驕らせ、國を破り以て臣を尊くして、君の功焉れに與からず。則ち交はり日に主に疏からん。是れ君、上は主の心を驕らせ、下は羣臣を恣にす。以て大事を成すを求むるは難し。夫れ上驕れば則ち恣、臣驕れば則ち爭ふ。是れ君、上は主と卻有り、下は大臣と交々爭ふなり。此の如くんば、則ち君の齊に立つこと危ふからん。故に曰く、呉を伐つに如かず、と。呉を伐ちて勝たずんば、民人外に死し、大臣内に空し。是れ君、上に彊臣の敵無く、下に民人の過無く、主を孤にし齊を制する者は唯だ君のみなり」と。田常曰く「善し。然りと雖も、吾が兵、業に已に魯に加へたり。去りて呉に之かば、大臣我を疑はん。奈何せん」と。子貢曰く「君兵を按じ伐つ無かれ。臣請ふ、往きて呉王に使ひし、之れをして魯を救ひて齊を伐たしめん。君因りて兵を以て之れを迎へよ」と。田常之れを許し、子貢をして南のかた呉王に見えしむ。

子貢遊説記事は齊の大夫田常(陳恆・田成子)が齊で叛亂を起こそうとしたことから始まる。しかし田常は當時齊で權勢のあった高氏・國氏・鮑氏・晏氏を憚り、齊で叛亂を起こすのをやめ魯に兵を向けようとする。それを耳にした孔子は、墳墓がある父母の國を守るために弟子の決起を促す。子路・子張・子石が名乘りをあげるが、孔子は許さず、子貢にのみ齊へ赴くことを許諾する。

孔子の許可を得た子貢は第二段で齊に赴き、田常に「魯を伐っても功にならないが、呉を伐てば田常が齊の實權を握ることが可能である」と巧みに呉討伐を勸める。田常は贊意を示すが「兵は既に魯に向いている」と討伐の無理を訴える。それに對して子貢は「田常が兵を押し止めていてくれれば、呉が齊を攻撃するよう仕向けましょう(呉が齊を攻撃してくれば、齊の兵が魯に向いていても呉を討伐する理由ができる)」と言い、田常の許しを得て呉に向かう。初めに子貢は「亂を齊に作さんと欲した」大夫田常に説いたと子貢遊説記事にある。このような子貢と田常との對面は、『左傳』哀公15年の次の條にのみ見える。

哀公十五(前480)年:冬、齊と平らぐ。子服景伯、齊に如き、子贛、介爲り……陳成子、客を館し曰く、寡君、恆をして告げしめて曰く、寡君、願はくは君に事ふること衞君に事ふるが如くせん、と。景伯、子贛を揖して之れを進ましめ對へて曰く、寡君の願ひなり。昔、晉人、衞を伐つに、齊、衞の爲の故に、晉の冠氏を伐ち、車五百を喪ひ、因りて衞に地を與ふること、濟より以西、・媚・杏より以南、書社五百たり。呉人敝邑に加ふるに亂を以てし、齊、其の病に因り、讙と闡とを取る。寡君、是を以て寒心せり。若し衞君の君に事ふるに視ふるを得ば、則ち固より願ふ所なり、と。成子之れを病へ、乃ち成を歸す。公孫宿其の兵甲を以て贏に入る。

これは、子貢が子服景伯の副使として齊に出掛け、子服景伯と子貢が旅舍で陳成子(田常)に會ったという記事である。魯は齊と講和した後、離叛した成を齊から取り戻すために子服景伯と子貢を齊へ派遣したのである。この『左傳』の記事では子貢が田常(陳成子)に巧みに説いた結果、成を取り戻している。他に田常との繋がりを示す資料も子貢が齊に行った記録も『左傳』にはないが、この記事は子貢が田常に面識のあったことを表しており、『史記』子貢遊説記事のように子貢が田常に説いた可能性をも示している。

一方、「田常亂を齊に作さんと欲す」という事件は、「作さんと欲す」とあるように『史記』子貢遊説記事中で實際に起きた事件ではない。だが『春秋』『左傳』の哀公十四年に田常は次のような事件を引き起こしている。

經:哀公十四(前481)年、夏四月、齊の陳恆、其の君を執へ、舒州に寘く。……(六月)齊人、其の君壬を舒州に弑す。
傳:(六月)甲午、齊の陳恆其の君壬を舒州に弑す。孔丘、三日齊して齊を伐たんと請ふこと三たびす。公曰く、魯、齊に弱めらるること久し。子の之れを伐つに、將に之れを若何せんとするか、と。對へて曰く、陳恆、其の君を弑す。民の與せざる者半ばなり。魯の衆を以て、齊の半ばに加ふれば、克つべきなり、と。公曰く、子、季孫に告げよ、と。孔子辭す。退きて人に告げて曰く、吾、大夫の後に從へるを以て、故に敢へて言はずんばあらず、と。

この事件は田常(陳恆)が、齊の簡公(壬)を執らえ弑したというのである。重要なのは『左傳』後半部に記される孔子の心情である。孔子は田常の事件を知り、不可能と解っていながら齊を伐つべきことを魯の哀公に進言している。田常が主君簡公を弑したと聞き、孔子は行動を起こさずにはいられなかった。孔子は「吾れ大夫の後に從へるを以て、故に敢へて言はずんばあらず」と言い譯するかのように嘆く。この孔子の嘆きは、『史記』子貢遊説記事の發端で田常が魯を攻めようとしているのを知り「國の危ふきこと此の如きに、二三子何爲れぞ出づること莫きか」と弟子達に決起を促した心情と通じるのではないだろうか。『左傳』は齊討伐を主張し、『史記』は齊の攻撃より魯を守ることを求めるという具合に孔子の要求は異なる。しかし田常の亂に對して齊を押さえ、魯を救いたいと願って行動した孔子の心情は、間違いなく共通している【注11】

更に田常の亂に對して齊を押さえ魯を救うために、『史記』子貢遊説記事で子貢が選ばれた理由を考えてみよう。『史記』子貢遊説記事では齊を押さえ魯を救うために、武力ではなく子貢の辯舌が用いられている。子貢の辯舌に關して『左傳』は、子貢が言葉巧みに外交交渉を進めた樣を幾條か記している。例えば哀公12年に次のような記事がある。

哀公十二(前483)年:公呉に槖皐に會す。呉子、大宰嚭をして盟を尋めんことを請はしむ。公、欲せず。子貢をして對へしめて曰く、盟は信を周にする所以なり。故に心以て之れを制し、玉帛以て之れを奉じ、言以て之れを結び、明神以て之れを要す。寡君、以爲へらく苟くも盟有らば、改むるべからざるのみ。若し猶ほ改むべくんば日に盟ふも何の益かあらん。今、吾子曰く必ず盟を尋めん、と。若し尋むべくんば、亦た寒からしむるべきなり、と。乃ち盟を尋めず。

魯の哀公が呉と槖皐(安徽省)で會合し、呉子は大宰嚭に魯と以前の盟をあたため直させようとしたが、哀公はそれを望まなかった【注12】。そこで子貢を使わしその辯辭によって説得し、盟をあたため直さずにすんだという記事である。更には哀公二七年に越王の使者によって魯と邾の境界を定められた折、その盟を不服に思った三桓氏が、子貢をその場に呼んでいたら、その手腕によって不滿足な盟約を結ばずに濟んだであろうと後悔した記事もある。次に擧げる『左傳』の記事である。

哀公二七(前468)年:春、越子、舌庸をして來聘し、且つ邾田を言ひて、駘上に封ぜしむ。二月、平陽に盟す。三子皆從ひ、康子之れを病ひ、言、子贛に及ぶ。曰く、若し此に在らば、吾、此に及ばざるか、と。武伯曰く、然り。何ぞ召さざる、と。曰く、固より將に之れを召さんとす、と。文子曰く、他日請ふ念へ、と。

この哀公27年の記事には、もし子貢が外交手腕を振るっていたらと述べられている。もし子貢が外交手腕を振るっていたら、魯は危機から逃れられたと三桓氏が考えたことを、『左傳』は記しているのである。これら哀公12・27年の記事から、子貢が辯舌をふるえば魯を救えると考えても不自然ではあるまい。

以上『史記』子貢遊説記事第1・2段落について、『春秋』『左傳』と比較した結果を整理しておこう。初めに『左傳』哀公15年の記事によって子貢と田常のつながりが確認できた。更に田常の亂に際し、孔子は齊を押さえ魯を救いたいと強く願っていたことが、『春秋』『左傳』哀公十四年の記事に見えた。そして子貢は辯舌によって魯を外交危機より救っており、子貢の辯舌が高く評價されていたと『左傳』哀公十二年や二七年の記事から窺えた。これらの記事を總合すると『史記』子貢遊説記事の第1・2段落で、齊を亂した田常を鎭めようと孔子が考え、田常を鎭めるために辯舌に秀でた子貢が選ばれ、子貢が田常を説得するという粗筋ができあがる。『史記』子貢遊説記事第1・2段落の粗筋は『春秋』『左傳』を組み合わせることによって作成可能なのである。

しかし裏返せば、『史記』子貢遊説記事第1・2段落は話の粗筋が『春秋』『左傳』に見出せるのみであり、子貢が『史記』子貢遊説記事のように、孔子の許可を得て齊に赴き、田常に呉を攻めるよう説得したということは、全く確認できないのである。他にも田常が「高・國・鮑・晏を憚り、故に其の兵を移し以て魯を伐たんと欲した」ことや、子路・子張・子石が魯を救うために名乘りをあげたことは、他の書物では確認できない。つまりは話の粗筋だけが『左傳』等に見えるということになる。

冒頭から些か檢討が長くなったが、『史記』子貢遊説記事に戻ろう。『史記』子貢遊説記事の1・2段で、子貢は齊の田常に魯を伐つのをやめるよう説得した。齊は魯ではなく呉と戰うべきと子貢が主張したのであった。その結果、子貢は呉が齊を攻撃するようにしむけることを請け負う。そして齊を離れ呉へと向かったのが次の第3段である。

3〔子貢、呉王に説く〕
説きて曰く「臣之れを聞く。王者は世を絶たず、霸者は敵を彊くする無し、と。千鈞の重きも銖兩を加へて移る。乘の齊を以て千乘の魯を私し、呉と彊きを爭はんとす。竊かに王の爲に之れを危ぶむ。且つ夫れ魯を救ふは、なり。齊を伐つは、大利なり。以て泗上の諸侯を撫し、暴齊を誅し以て彊晉を服さば、利の焉れより大なるし。名は亡魯を存し、實は彊齊を困しむ。智者は疑はざるなり」と。呉王曰く「善し。然りと雖も、吾嘗て戰ひ、之れを會稽に棲ましむ。越王身を苦しめ士を養ひ、我に報ゆる心有り。子、我の越を伐つを待て。而子を聽かん」と。子貢曰く「越の勁きは魯を過ぎず、呉の彊きは齊を過ぎず。王齊を置きて越を伐たば、則已に魯を平げん。且つ王方に亡を存し絶を繼ぐを以て名と爲すに、夫れ小越を伐ちて彊齊を畏るるは、勇にるなり。夫れ勇者は難を避けず、仁者は約を窮しめず、智者は時を失はず、王者は世を絶たず、以て其の義つ。今越を存し諸侯に示すに仁を以てし、魯を救ひ齊を伐ち、威晉國に加ふれば、諸侯必ず相ひ率ゐて呉に、霸業成らん。且つ王必ず越を惡まば、臣請ふ、東のかた越王に見え、兵を出だして以て從はしめん。此れ越を空しくし、名は諸侯を從へ以て伐つなり」と。呉王大いに説び、乃ち子貢をして越に之かしむ。

第3段で子貢は呉王に「もし齊が魯を奪えば齊は呉の脅威となるが、呉が魯を救うために齊と戰うなら、呉は小國を救うという名譽を得るとともに齊を苦しめることができる」と齊征伐を勸める。呉王は贊意を示しつつも「越が呉に報復する機會を窺っているから、先に越を伐ってから齊を伐つことにしたい」と答える。そこで子貢は「先に弱小の越を伐ち、後から強大な齊を伐つのは霸者の道ではない。越に派兵を要請して無力化し、越とともに齊を伐てばよい(そうすれば呉に攻めて來ることはない)」と説き、越に派兵を要請しに向かう。

ここでは呉と子貢の繋がりを見てみよう。第2段で、哀公12年槖皐(安徽省)の會盟において、子貢が魯の一員として呉と交渉し、魯の希望を適えたことは既に記した。このほか左に引用するように、『左傳』哀公7年に艾(山東省)でも槖皐と同じく呉の大夫大宰嚭と會見しており、また哀公11年には艾陵(山東省)で叔孫武叔とともに呉王(夫差)と話している。

哀公七(前488)年:夏、公、呉に鄶に會す。呉、來りて百牢を徴す。子服景伯對へて曰く、先王も未だ之れざるなり、と。……呉人聽かず。……乃ち之れを與ふ。大宰嚭、季康子を召す。康子、子貢をして辭せしむ。
哀公十一(前484)年:將に戰はんとす。呉子、叔孫を呼びて曰く、而の事は何ぞ、と。對へて曰く、司馬に、と。王、之れに甲・劍・鈹を賜ひて曰く、爾の君事を奉じ、敬みて命を廢することなかれ、と。叔孫、未ふること能はず。衞の賜進みて曰く、州仇、甲を奉じて君に從はん、と。而して拜す。

上のうち哀公7年鄶の盟は、第2段で言及した哀公12年槖皐の盟で呉があたため直したいとした盟である。呉は魯に對して、百牢(百膳)という分不相應な料理を要求し、魯は應ぜざるを得なかった。この時子貢は大夫季康子の使者として、季康子が會盟に缺席することを大宰嚭に傳える役目を果たしている。哀公11年の記事で子貢は「衞の賜」と記されている。呉王の禮をわきまえない態度【注13】に窮した叔孫に代わり、子貢は呉王に返答をしている。この哀公11年の記事は、子貢遊説記事の後半第七段に見える呉が齊を敗ったという艾陵の戰に、子貢が參加していたことを裏付けている。

こうした記事から子貢と呉に繋がりのあることが確認できよう。だが第三段にある子貢が呉に赴き、呉王に説いたとされていることは『左傳』などに見えない。ただし哀公7年と12年に子貢と對面している大宰嚭は、『史記』子貢遊説記事と深く關わっていると思われる。これに關しては後に詳述するとして、次の第四段に進もう。

4〔子貢、越王(勾踐)に説く〕
越王道を除ひ郊迎し、身ら御し舍に至り、問ひて曰く「此れ蠻夷の國なり。大夫何を以てか儼然と辱くも之れにる」と。子貢曰く「今者、吾呉王に説くに魯を救ひ齊を伐つを以てす。其の志之れを欲すれども而れども越れ、『我の越を伐つを待たば乃ち可なり』と曰ふ。此の如くんば、越を破ること必せり。且つ夫れ人に報ゆる無くして人をして之れを疑はしむるは、拙きなり。人に報ゆるの意有りて、人をして之れを知らしむるは、なり。事未だ發せずして先に聞こゆるは、危きなり。三者は事を擧ぐるの大患なり」と。句踐頓首再拜して「孤嘗て力を料らず、乃ち呉と戰ひ、會稽に困しみ、痛み骨髓に入る。日夜唇を焦がし舌を乾かし、徒だ呉踵を接して死せんと欲するは、孤の願ひなり」と。遂に子貢に問ふ。子貢曰く「呉王人と爲り猛暴、羣臣堪。國家數々戰ふに敝れ、士卒忍びず、百姓上を怨み、大臣内に變ず。子胥諫を以て死し、太宰嚭事を用ゐ、過に順ひ以て其の私を安んずるは、是れ國を殘ふの治なり。今王誠に士卒を發し之れを佐け以て其の志を徼重寶以て其の心を説ばしめ、辭を卑くして以て其の禮を尊くせば、其の齊を伐つこと必せり。彼戰ひて勝たば、王の福なり。戰ひて勝たば、必ず兵を以て晉に臨まん。臣請ふ、北のかた晉君に見え、共に之れを攻めん。呉を弱むること必せり。其の鋭兵齊に盡き、重甲晉に困しみて、王其の敝を制すれば、此れ呉を滅ぼす必せり」と。越王大いに説び、許諾す。子貢に金百鎰、劍一、良矛二を送るも、子貢受けず。遂に行く。

第4段で子貢は越王に「越が呉に報復しようとしていることは、既に呉に知られており成功し難い。それでも呉を伐とうとするなら、呉に兵と寶物を獻じて呉王の暴政を煽り齊を伐たせ(呉の國力を弱め)るべきである。もし呉が齊に負ければ越王にとって幸運なことであるし、呉が齊に勝てば更に晉へと向かうだろうから、そうなったら越は晉とともに呉を攻めればよい」と進言する。越王は子貢の説を聞き、喜んで承諾する。

越と子貢の繋がりを確認できる資料は全くない。ただこの第4段で子貢が越王に言う「夫無報人之志而令人疑之、拙也。有報人之意、使人知之、殆也。事未發而先聞、危也」という諺のような言葉が、『戰國策』燕一に「(蘇代)曰、夫無謀人之心而令人疑之、殆。有謀人之心而令人知之、拙。謀未發而聞於外、則危」と見えていることだけを指摘しておく。

『史記』子貢遊説記事で越王を説得した子貢は、道すがらになるからか再び呉に立ち寄る。そして呉王に再會し、越に赴いた結果を報告するのが第5段である。

5〔子貢、呉王に越王には復讐心がないことを報告
呉王に報じて曰く「臣敬みて大王の言を以て越王に告ぐ。越王大いに恐れ、曰く『孤不幸にして、少くして先人ひ、内自ら量らず。罪呉に抵たり、軍敗れ身辱められ、會稽に棲み、國虚莽と爲る。大王の賜に頼り、俎豆じて祭祀を修むるを得。死すとも敢へて忘れず。何の謀か之れ敢へて慮らん』」と。後五日、越大夫種をしてし呉王に言はしめて曰く「東海の役臣孤句踐の使者臣種、敢へて下吏を修め左右に問ふ。今竊かに聞く、大に大義を興し、彊きを誅し弱きを救ひ、暴齊を困しめて周室を撫す、と。請ふ、悉く境内の士卒三千人を起ん。孤請ふ、自ら堅を被、鋭を執り、以て先じて矢石を受けん。越の賤臣種に因り先人の藏器、甲二十領、鈇
【注14】、屈盧の矛、歩光の劍を奉じ、以て軍吏を賀す」と。呉王大いに説び、以て子貢に告げて曰く「越王身ら寡人ひ齊を伐つことを欲す。可か」と。子貢曰く「不可なり。夫れ人の國を空しくし、人の衆を悉くし、又た其を從ふるは、不義なり。君其の幣を受け、其の師を許して、其の君を辭せよ」と。呉王許諾し、乃ち越王に。是に於いて呉王乃ち遂に九郡の兵を發し齊を伐つ。

子貢は呉王に「越王が復讐心はないと言っていた」と報告する。5日後、越の大夫種が使いして、呉王に甲、矛、劍などを獻じ、越王自身も共に出陣する意志のあることを傳える。しかし子貢は呉王に「越王の出陣は遠慮し、兵と贈物のみ受けるように」と述べる。呉王は了承し齊討伐の兵を擧げる。

この第5段で越が呉に兵とともに寶器を贈ったことは『左傳』に見える。哀公11(前484)年の「呉の將に齊を伐たんとするに、越子、其の衆を率ゐ以て朝す。王より列士に及ぶまで皆な饋賂有り」という條である。しかしこの『左傳』の條と子貢の關係はない。

子貢遊説記事ではさきの第4段で、呉が齊を攻めて敗ったならば、次に晉を攻めるだろうと子貢は越王に語った。第六段ではこの豫想に基づき子貢は晉に出掛け、晉に呉が攻めて來た時の用意をさせる。

6〔子貢、晉君に説く〕
子貢因りて去り晉に之く。晉君に謂ひて曰く「臣之れを聞く、慮りの先に定まらずんば以て卒に應ずべからず、先に辨ぜずんば以て敵に勝つべからず、と。今夫れ齊と呉と將に戰はんとす。彼戰ひて勝たずば、越の之れすこと必せり。齊と戰ひて勝たば、必ず其の兵を以て晉に臨まん」と。晉君大いに恐れて曰く「之れを爲す奈何せん」と。子貢曰く「兵を修め卒を休ませ以て之れを待て」と。晉君許諾す。

子貢は晉に行き「呉が齊と戰い、もし呉が勝ったならば晉に進攻してくるだろうから準備すべきである」と説く。この段に説かれる晉と子貢の關係を示す資料もない。

7〔子貢、魯に歸る〕
子貢去りて魯に之く。呉王果たして齊人と艾陵に戰ひ、大いに齊師を破り、七將軍の兵を獲るも歸らず。果たしを以て晉に臨み、晉人と黄池の上りに相ひ遇ふ。呉晉彊きを爭ふ。晉人之れを撃ち、大いに呉師を敗る。越れを聞き、江を渉り呉を襲ひ、城を去ること七里にして軍す。呉王之れを聞き、晉を去りて歸り、越と五湖に戰ふ。三たび戰ふも勝たず、城門守らず。越遂に王宮を圍み、夫差を殺して其の相を戮す。呉を破りて三年、東向して霸たり。

子貢が魯に歸ると、呉は齊を艾陵に敗った後、子貢の豫測通り晉へ進攻する。しかし黄池で呉は晉に敗れる。越王はそれを聞き呉に兵を進める。呉王は晉より戻り越と戰うが勝てず、遂に五湖で越に敗れ、呉王夫差は殺される。そして3年後、越王は霸を唱える。

この第7段には第2段から第6段で、子貢が各國に行った遊説の結果が簡潔に記されている。子貢に説得された齊・呉・越・晉の4箇國は、子貢の思惑通り互いに攻め合い、最後に越が霸者となる。この段落に記された艾陵の戰、黄池の會、呉の滅亡と越の霸といった事件は以下の資料に見える。

まず初めに呉が齊を破った艾陵(山東省)の戰は、『春秋』『左傳』の次の條にある。

經:哀公十一(前484)年五月、公、呉に會し齊を伐つ。甲戌、齊の國書、師を帥ゐ呉と艾陵に戰ふ。齊の師敗績す。齊の國書を獲。
傳:甲戌、艾陵に戰ふ。展如、高子を敗る。國子、胥門を敗る。王卒之れを助け、大いに齊の師を敗り、國書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書、革車八百乘、甲首三千とを獲、以て公に獻ず。

『春秋』では魯が呉と共に齊を敗ったとし、『左傳』には齊の五將軍が捕獲されたことが記されている。『史記』子貢遊説記事の魯は艾陵の戰とは無關係であり、子貢遊説記事が「七將軍の兵を獲る」と言うのとも小異がある。

子貢遊説記事において齊を敗った呉は、黄池(河南省)に赴き晉と會する。子貢遊説記事には「(呉)兵を以て晉に臨み、晉人と黄池の上りに相ひ遇ふ。呉晉彊きを爭ふ。晉人之れを撃ち、大いに呉師を敗る」と呉と晉は黄池で會った後、干戈を交えているが、『春秋』『左傳』では會盟をとり交わすのみである。ただし呉と晉のどちらが盟主となるか、外交上のかけひきが演じられている。更に子貢遊説記事で、呉と晉が戰っているその隙に越が呉を攻めたことと、越が呉と3度戰ったことも『春秋』『左傳』は黄池の會と同年のこととして記録している。哀公13年の條である。

經:哀公十三(前482)年、公、晉侯と呉子とに黄池に會す。……於越、呉に入る。
傳:六月丙子(11日)、越子、呉を伐つ。……乙酉(20日)戰ふ。……丙戌(21日)復た戰ふ。大いに呉の師を敗る。……丁亥(22日)呉に入る。呉人、敗を王に告ぐ。王、其の聞えんことを惡み、自ら七人を幕下に剄す。……秋、七月辛丑、盟す、呉晉、先を爭ふ。……乃ち晉人を先にす。

『春秋』では黄池の會の後に越が呉に攻め入る事件を記しているが、『左傳』は越の呉征伐は6月、會盟が7月と逆にしている。

また、黄池の會で呉と晉のどちらが盟主となったのかは資料によって記述が異なる。『左傳』では「晉人を先にす」と晉が先に血を歃ったとしている。ところが左に引くように『公羊傳』『國語』は呉が盟主として先に歃ったとしている。

公羊傳:哀公十三年、公、晉侯と呉子とに黄池に會す。呉、何を以て子と稱するか。呉、會に主たればなり。
國語(呉語):以て晉公午に黄池に會す。……呉公、先に歃り、晉侯、之れに次ぐ。

黄池の會の盟主が呉であったのか、晉であったのかは記録の上で二分しており判然としない。しかし『史記』子貢遊説記事が「晉人之れを撃ち、大いに呉師を敗る」と述べるのは、晉が呉よりも優位に立ったことを意味していよう。『史記』子貢遊説記事が晉を呉よりも優位に立ったとするのは、即ち『左傳』で晉が盟主となった記録と合致し、呉を盟主とする『公羊傳』『國語』の記録とは合わない。

そして子貢遊説記事では呉が晉と彊きを爭っている隙に、越が呉を攻める。この呉越の攻防の結末は「越遂に王宮を圍み、夫差を殺して其の相を戮す。呉を破りて三年、東向して霸たり」と結ばれる。『史記』子貢遊説記事で呉の滅亡は黄池の會に際し、越が呉を攻めたてた結果のように記述されている。しかし『左傳』に據れば黄池の會は哀公13(前482)年であり、呉が滅亡するのは哀公22(前473)年である(『左傳』哀公二二年:冬十一月丁卯、越滅呉)。そして『左傳』では哀公13年の黄池の會の折の呉越の戰で呉は一旦「越と平らい」でいる(『左傳』哀公十三年:冬、呉及越平)

最後に子貢遊説記事で越が呉の滅亡に際し「其の相を戮した」ことと「霸」を唱えたことは、『左傳』には見えない。ところが『史記』の越王句踐世家には次のようにある。

越王、乃ち呉王を葬りて、太宰嚭を誅す。……越の兵、江淮の東に横行し、諸侯、畢く賀す。號して霸王と稱す。

この記事で越王は呉王を葬った後、呉の大夫であった太宰嚭を戮し、諸侯が越王を霸王と稱したというのである【注15】

以上で『史記』子貢遊説記事の子貢の辯舌によって魯が守られる顛末は語り終わっているのだが、最後に結びの語がある【注16】

8〔結び〕
故に子貢一たび出でて、魯を存し、齊を亂し、呉を破り、晉を彊くして越を霸とす。子貢一たび使ひして、勢をして相ひ破らしむ。十年の中、五國各々變有り。

本章で『史記』子貢遊説記事を『春秋』や『左傳』等と對比した結果、『史記』子貢遊説記事中の事件で『春秋』や『左傳』等で確認できたものと全く他の資料に見えないものが明らかになった。確認できたのは、田常が齊に亂を作したこと、孔子が齊を伐とうとしたこと、子貢と田常の繋がり、子貢の辯舌に秀でたこと、呉と子貢の繋がり、越が呉に兵と寶器を贈ったこと、艾陵の戰、黄池の會、呉の滅亡、越の霸である。こうしてみると『春秋』や『左傳』に見える事件が『史記』子貢遊説記事には多く織り込まれている。むしろ齊呉が戰い、呉晉が強きを爭い、越が呉を滅ぼすという『史記』子貢遊説記事に見える事件の流れは『左傳』等でほぼ確認できた。しかし子貢自身については、辯舌に秀でていたことと齊・呉との關係が確認されたが、越・晉とは繋がりが見出せず、『史記』子貢遊説記事のように、魯を守るために齊・呉・越・晉の四箇國に赴き説を述べたことは全く確認できなかった。では子貢が魯を守るために齊・呉・越・晉の四箇國に遊説し、互いに戰わせたという『史記』子貢遊説記事は、如何にして形成されたのだろうか。




二、『史記』子貢遊説記事の成立

『史記』子貢遊説記事が如何にして形成されたのかを考えるために、子貢遊説記事の前身とも思われる記述を幾つか擧げてみたい。まず『韓非子』五蠧篇に次のような記述がある。

齊の將に魯を攻めんとするに、魯、子貢をして之れに説かしむ。齊人曰く、子の言、辯ならざるに非ざるなり。吾が欲する所の者は土地なり。斯の言の謂ふ所に非ざるなり、と。遂に兵を擧げ魯を伐ち、門を去ること十里にして以て界と爲す。……子貢辯智にして魯削らる。

これによると齊が魯を攻撃しようとした時に、魯の使者として子貢は辯舌によって齊の攻撃を囘避しようとしたが、齊人は「吾が欲する所の者は土地なり。斯の言の謂ふ所に非ざるなり」と子貢の辯を受け入れず、魯を攻めたてている。この記述は『史記評林』李光縉補引く何孟春や『史記會注考證』も子貢遊説記事の部分に引用しており、後者は「其の言、此の傳と相反す。而らば亦た未だ必ずしも實事ならず」と評する。『會注考證』の評の通りこの記述がそのまま事實である可能性は低い。しかし、前章の第一・二段落で見た『左傳』哀公15年に子貢が田常と齊で會い成を取り戻した記事や、小論が問題とする子貢遊説記事などと併せ考えれば、この『韓非子』の記述は子貢が齊へ魯を救うために出掛けたという傳承があったことを窺わせる。

そして子貢が齊へと遊説に赴くという主題が、『史記』子貢遊説記事のように田常や呉越の攻防と結び付いたのが、『墨子』非儒下篇にある次の文章である。

孔丘【注17】齊に之き景公に見ゆ。景公説び、之れを封ずるに尼谿を以てせんと欲し、以て晏子に告ぐ。晏子曰く、不可なり、と。……是に於いて其の禮を厚くし、其の封を留め、敬見すれども其の道を問はず【注18】。孔丘ち景公と晏子とに恚怒し、乃ち鴟夷子皮を田常の門に樹て、南郭惠子に告ぐるに爲さんと欲する所を以てし、魯に歸る。頃有りて、齊の將に魯を伐たんとするを間ひ、子貢に告げて曰く、賜か、大事を擧ぐるは今の時に於いてす、と。乃ち子貢を遣はし齊に之かしめ、南郭惠子に因り以て田常に見え、之れに勸めて呉を伐たしめ、以て高・國・鮑・晏に教へ、田常の亂を害ふを得るなからしめ、越に勸めて呉を伐たしむ。三年の内、齊呉破國の難ありて、伏尸言術を以て數ふるは、孔丘の誅なり。

この文の前半で孔子は齊での仕官を晏子に妨害され景公と晏子に對して憤る。その後、魯において孔子は「齊の將に魯を伐たんとするを間ひ」「子貢を遣はして齊に之かしめ」「田常に見え、之れに勸めて呉を伐たしめ」「越に勸めて呉を伐たしめる」のである。孔子が子貢を齊に派遣して、齊の田常の矛先を呉へ向けさせ、越に呉を伐たせるという筋書きは、『史記』子貢遊説記事の前半部と完全に一致している。筋書きが一致する點でこの『墨子』非儒下篇の文章は『史記』子貢遊説記事と同根であると判斷できる。

『墨子』非儒下篇は『史記』子貢遊説記事の前半と筋書きは一致するが、『史記』子貢遊説記事とは異なる點もある。まず『墨子』では孔子と齊の關係が主題の中心にある。孔子が仕官の適わなかった齊への怨みをはらすために子貢を用い、齊に呉と事を構えさせ、越に呉を滅ぼさせ、魯を救わせる。齊・呉の混亂は全て孔子の謀なのである。また『墨子』には晉についての記述や、艾陵の戰、黄池の會、越が霸を唱えるなどは記されていない。齊と呉、呉と越で戰亂となった理由も、孔子の謀略と言う以外には何も述べられていない。『史記』子貢遊説記事に比べると、子貢が辯舌をふるって各國を戰亂に導く過程が缺如し、事實關係のみが簡潔に述べられている。このように『墨子』非儒下篇の文が『史記』子貢遊説記事に記す事柄の多くを缺き、簡潔になっている理由は、『墨子』非儒下篇の文が『史記』子貢遊説記事に先行するからであろう。子貢遊説記事に記される艾陵の戰、黄池の會、越が霸を唱えるなどの事件は、『墨子』非儒下篇の後に付け加えられたと思われる。

『墨子』非儒下篇が『史記』子貢遊説記事の前半部を記述しているとすれば、『墨子』非儒下篇が記述を缺いている子貢遊説記事後半部は、如何にして形成されたのだろうか。子貢遊説記事後半部に記される越や晉は、子貢との接點が見出せなかった。それにも關わらず、越と晉は子貢の遊説先となっている。特に越は『史記』子貢遊説記事で子貢が遊説を行った結果、最後に霸を唱えるまでに至っている。ならば子貢との繋がりが見出せない越や晉と關わる人物は、他にいるのではあるまいか。

結論から言えば、その人物は前述した呉の大宰嚭であると思われる。この大宰嚭という人物は呉王夫差に越王勾踐を會稽に許すよう勸めて、會稽の恥のような結果を招く。つまり大宰嚭は呉の滅亡に深く關わり、亡國の王夫差に重用されている【注19】。彼は『史記』伍子胥列傳に「呉王將に北のかた齊を伐たんとす。越王句踐、子貢の謀を用い、乃ち其の衆を率ゐ以て呉を助けて、重寶以て獻じ太宰嚭に遣はす。太宰嚭既に數々越の賂を受け、其の越を愛信すること殊に甚し。日夜、爲に呉王に言ひ、呉王、嚭の計を信用す」と記され、越王が用いた子貢の謀でも越王と呉王の間に立つ役割を演じている。そして呉王に取り入りつつ、越から貨賂をしばしば受け取り關係を保っていたらしいことも【注20】、この記事からは窺える。また『左傳』哀公十三年の呉と晉が盟主を爭った黄池の會にも參加していたらしい【注21】

確かに大宰嚭は『史記』子貢遊説記事中で活躍することはない。しかし既に前章の第三段で見た通り、『左傳』において子貢が呉と接觸した3回のうち2回は大宰嚭が呉を代表していた。その上『論語』子罕篇で子貢と對話している大宰は、今問題にしている呉の大宰嚭といわれている【注22】。このように子貢と大宰嚭の關係は極めて深い。更にこの大宰嚭に關して興味深い記述が、次にあげる『呂氏春秋』貴直論・知化篇に見えている。

呉王夫差將に齊を伐たんとす。子胥曰く、「不可なり。夫れ齊の呉に與けるや、習俗同じからず、言語通ぜず。我其の地を得るも處る能はず、其の民を得るも使ふを得ず。夫れ呉の越に與けるや、土を接し境を鄰し、壤交はり通屬なり、習俗同じく、言語通ず。我其の地を得れば能く之れに處り、其の民を得れば能く之れを使ふ。越の我に於けるも亦た然り。夫れ呉越の勢兩立せず。越の呉に於けるや、譬へば心腹の疾の若し。作る無しと雖も、其の傷深くして内に在るなり。夫れ齊の呉に於けるや、疥癬の病なり。苦しみ其れ已だしからず【注23】、且つ其れ傷る。無し。今越を釋てて齊を伐つは、之れを譬へば猶ほ虎を懼れて【注24】を刺すがごとし。之れに勝つと雖も、其の後患未だ央きず」と。太宰嚭曰く「不可なり。君王の令の上國に行はれざる所以は、齊・晉なり。君王若し齊を伐ちて之れに勝ち、其の兵を徙し以て晉に臨まば、晉必ず命を聽かん。是れ君王一擧にして兩國を服するなり。君王の令必ず上國に行はれん」夫差以て然りと爲し、子胥の言を聽かずして、太宰嚭の謀を用ふ。

ここで興味深いのは、越討伐を勸め齊と爭わないよう説いた伍子胥に反對し、呉王に齊討伐を勸め、齊を敗ったなら「其の兵を徙し以て晉に臨む」よう大宰嚭が呉王夫差に進言していることである。『史記』子貢遊説記事では子貢が越王に、呉が齊に勝てば晉に向かうだろうと豫測を語り(第4段)、呉はその通りに動いた。ところが子貢には呉へ赴いた記録も、越や晉との繋がりを示す記録も見出せなかった。『史記』子貢遊説記事で、子貢が呉に齊を伐つよう勸め、齊を敗ったなら晉に向かうだろうと語ったのは、本來大宰嚭の行動であった可能性が指摘できるのである。この指摘については『呂氏春秋』貴直論・知化篇の記述の他に、既述した子貢と呉との繋がりには大宰嚭が深く關わっていることも傍證となろう。また『史記』子貢遊説記事後半で重要な主題となる呉越の攻防に關して、大宰嚭が實際に鍵を握っていた人物だったことも見逃せまい。

結 語

最後に『史記』子貢遊説記事の形成過程を整理しておこう。まず『史記』子貢遊説記事に見える事件の多くは、『春秋』『左傳』等に記述されており、『春秋』『左傳』等の記事を組み合わせることにより、子貢遊説記事の粗筋さえ窺えた。しかし『春秋』『左傳』に見えた殆どの事件では、子貢の活躍が見られなかった。子貢は齊・呉としばしば關係はしたが、齊呉を戰わせ、呉晉に強きを爭わせ、越に呉を滅ぼさせたという『史記』子貢遊説記事に見える行動とは無關係であった。ただし『韓非子』に見えるような子貢が齊に遊説したという傳承は存在したらしい。そして子貢を齊に派遣し、齊・呉を混亂に陥れる『墨子』非儒下篇の記述は、子貢遊説記事前半部を簡潔に述べていた。更に後半部は子貢ではなく、呉の大宰嚭の傳承が關わって形成された可能性を指摘しえた。つまり『春秋』『左傳』等に見えた個々の事件が『墨子』非儒下篇のごとくまとめられ、後に大宰嚭の關わる呉越の攻防や晉に關する記述が付け足されたと考えられた。こうした形成過程のうちに、第4段で擧げた『戰國策』の言葉のような遊説家としての表現が付け加えられたのであろう。このような成立過程を經た『史記』子貢遊説記事であるから、單に事件や傳承を羅列した記事というよりは、遊説家子貢の物語として作成された一篇の説話と呼ぶのがふさわしい。だからこの『史記』子貢遊説説話の中に子貢の傳記に資すべきものは殆どない。子貢の傳記研究に資すべきものがあるとすれば、子貢と田常、大宰嚭との關係が深いものと分かったことであろう。今後子貢の傳記研究を更に進めるには、子貢と田常、子貢と大宰嚭との關係を更に究明する必要があると思われる。

『史記』子貢遊説記事は一篇の説話としてこそ、これからは論じられるべきであろう。仲尼弟子列傳の中で前後から獨立しており、段落構成もはっきりしている。事件の發端を第1段とし、結果を第7段で語り、結びの語が第8段におかれている。子貢の説がそれぞれの國に次次に受け入れられ、思惑通りの結果へと進んで行く展開も、その結果があの艾陵の戰であり呉の滅亡であったという結末も、全て子貢が魯を守るための策略であったという一點に結び付けるこの説話は、物語としてもよくできている。説話としての『史記』子貢遊説記事は、子貢遊説記事第4段で同樣の諺を用いていた『戰國策』との關係や、後に『史記』子貢遊説記事が取り込まれていく『越絶書』内傳陳成恆や『呉越春秋』夫差内傳との關係を明らかにする必要があろうが、そうした問題についてはまた別の機會に檢討することにしたい。




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