『漢書』揚雄傳所收「揚雄自序」をめぐって
(原載 『學林』28・29合併号 1998年3月)

嘉瀬 達男

は じ め に
一、揚雄自序の範圍
二、揚雄自序の檢討
三、揚雄自序の性質
終 わ り に
餘論 『漢書』揚雄傳贊の檢討

は じ め に

揚雄は前漢末から王莽の新にかけての文學者・思想家として名高い。その傳記は『漢書』卷87に收められ、正史【注1】の體例どおり傳と贊とで構成されているが、顏師古によって上下卷に分けられる程の長文である。この揚雄傳は揚雄自身による自序と言われているのだが、未だ定論にはいたっていない。班固の贊に「贊曰、雄之自序云爾(贊に曰ふ、【注2】雄の自序に爾云ふ)」とあることを根據に揚雄の自序と考えられるのだが、實際は揚雄自序の範圍をどう定めるか論者によって一定していない。すなわち班固が「雄の自序にそう言う」と言う「そう」とは、「贊曰」の前なのか後なのか、また顏師古が「自法言目之前、皆是雄本自序之文也(法言の目の前より、皆な是れ雄の本と自序の文なり)」と注に言うのは、「法言の目の前より」どこまでなのか、といった點で説が分かれているのである。その結果『漢書』揚雄傳は揚雄の自序として十分に論じられたことはなく、これまでにこの自序に關して論じられて來たのは、揚雄の【注3】姓を揚とするか楊とするかという問題ばかりであった。そこで小論は揚雄自序の範圍を確定し、その上で揚雄自序とはいかなる作品なのかを考えてみたい。

一、揚雄自序の範圍

既に述べたように『漢書』揚雄傳は自序と考えられているが、自序の範圍が論者によって一定していない。そこでまず、管見の及んだ限りにおいてこれまでの意見を整理してみると、大きく以下の4種類に分けられる。ただし、自序の範圍を論じた先學は少なく、その殆どは自序の引用である。例えば「揚雄の自序に次のように言う」と述べた後、傳もしくは贊の文を引用していることによって、その論者が自序と考える範圍が傳の部分であるか、贊の部分であるか、それ以外なのかが判明するのである。

1.傳を揚雄自序とするもの

歐陽詢『藝文類聚』【注4】、張溥「揚侍郎集」【注5】、段玉裁『經韻樓集』【注6】、楊樹達『漢書窺管』【注7】、徐復觀『兩漢思想史』【注8】、錢鍾書『管錐編』【注9】、張岱年「揚雄」【注10】、陳福濱『揚雄』【注11】、張震澤『揚雄集校注』【注12】、狩野直喜「楊雄と法言」【注13】、御手洗勝「楊雄の處世觀」・「楊雄と太玄──作者の傳統」【注14】、鈴木由次郎『太玄經』【注15】、岡村繁「揚雄の文學・儒學とその立場」【注16】、橋川時雄『漢書』解説【注17】

2.法言の目の前までを揚雄自序とするもの
汪榮寶『法言義疏』【注18】

3.贊を揚雄自序とするもの
李善『文選注』【注19】、高木友之助「法言の研究──その著作の動機について」【注20】

4.傳・贊ともに揚雄自序に本づくとするもの
王利器「『漢書』材料來源考」【注21】、町田三郎「揚雄について(一)、(二)」【注22】

以上のように多くは傳の部分を自序とするが、それ以外に2・3・4のような説もある。このように説が分かれるのは、既述の通り班固の言う「贊曰、雄之自序云爾」という文と、顏師古の言う「自法言目之前、皆是雄本自序之文也」という文の解釋が分かれているからである。順序として班固が「贊曰、雄之自序云爾」と言う意味を考えなければならないが、この問題は容易に解決できる。問題を解くための手掛かりが『漢書』の司馬遷傳に見出せるからである。『漢書』司馬遷傳に「遷之自敍云爾(遷の自敍に爾云ふ)」という文があり、この文以前には『史記』の太史公自序が引用されている。そこで「雄之自序云爾」も「遷之自敍云爾」と同じ句形を用いていることから、揚雄傳も「自序云爾」以前を自序と見なせるのである。『漢書』司馬遷傳と揚雄傳に「自序〔敍〕云爾」という同じ表現が存在していることは、既に劉知幾『史通』【注23】や錢大昕『廿二史考異』【注24】・汪榮寶『法言義疏』【注25】に指摘され、錢鍾書『管錐編』はこれによって揚雄傳に自序の原文が採録されていると考えている【注26】。このように班固の「雄之自序云爾」という文によって、傳の部分が揚雄自序であり、贊は自序ではないことが判る。

次に、汪榮寶『法言義疏』が自序から除外する法言の目について考えたい。法言の目とは「贊曰」の直前におかれた『法言』各篇の序文と目録を指している。この法言の目をどう扱うかという問題は、顏師古注の「自法言目之前、皆是雄本自序之文也」という文より生じている。師古注は「法言の目の前から皆な雄がもともと自分で序した文である」という意味であろうが、「法言の目の前から」どこまでが「皆な」なのかが明確にされていない。その結果、汪榮寶は揚雄傳の冐頭から法言の目の前までを揚雄自序とし、法言の目を自序から外してしまった。ところが楊樹達『漢書窺管』は、顏師古注を法言の目の前まで揚雄の自序とすると讀んだ上で、この顏注を誤りとしている。【注27】このように法言の目を揚雄自序とするかどうかという問題は、顏師古注によって發生している。だが、注よりは『漢書』本文にこそ從うべきであろう。班固が「自序云爾」と言うのだから、「自序云爾」の直前までを揚雄自序とし、法言の目も自序に含ませるべきである。汪榮寶は顏師古注にとらわれ過ぎているように思う。そして顏師古注も「法言の目の前から」「自序云爾」の直前部分まで「皆な雄がもともと自分で序した文である」と讀めば解決できる。

以上、班固の「贊曰、雄之自序云爾」という文や顏師古注を檢討した結果、揚雄自序は、揚雄傳の卷頭から「贊曰」の前までと考えられた。次に、この自序とはいかなる性質をもつ作品なのかを檢討したい。【注28】

二、揚雄自序の檢討

前章で確認できた揚雄自序では、辭賦や「解」「解難」などの文と『法言』の目の引用が多くの紙幅を占めている。本章では引用された作品は題名を示すに止め、自序として書かれた部分を問題としたい。底本は中華書局標點本を用い、11段に分けているのを内容の上から大きく4つに分け、順に檢討を加えることとする。

(1)揚雄の出自と性格

『漢書』卷87上「揚雄傳」は次のように始まる。

1.揚雄、字は子雲、蜀郡成都の人なり。其の先、有周の伯僑なる者より出で、支庶なるを以て初め采を晉の揚に食み、因りて焉れを氏とするも、伯僑は周の何れの別なるかを知らざるなり。揚は河・汾の間に在り、周衰へて揚氏或いは侯と稱し、號して揚侯と曰ふ。晉の六卿權を爭ひ、韓・魏・趙興りて范・中行・知伯弊るるに會ふ。是の時に當たり、揚侯に偪り、揚侯楚の巫山に逃れ、因りて焉に家す。楚漢の興るや、揚氏江を遡り上り、巴の江州に處りて、揚季は官廬江太守に至る。漢の元鼎の間、仇を避け復た江を遡り上り、山の陽の郫と曰ふに處り。田一廛有り、宅一區有り、世世農桑を以て業と爲す。季より雄に至るに、五世にして一子を傳へ、故に雄に它揚の蜀に亡し。
2.雄少くして學を好み、章句を爲めず、訓詁通ずるのみ。博覽にして見ざる所無し。人と爲り簡易佚蕩、口吃にして劇談すること能はず、默して深湛の思ひを好む。清靜亡爲、耆欲少なく、富貴に汲汲とせず、貧賤に戚戚とせず。廉隅を修めて以て名を當世に徼めず。家産十金に過ぎず、乏しくして儋石の儲無きも、晏如たり。自ら大度有り、聖哲の書に有らずんば好まず。其の意に有らずんば、富貴と雖も事へざるなり。顧って嘗に辭賦を好む。

冐頭の第一段は揚雄の出自について述べられる。姓名、字、出身の次に祖先の來歴を續ける書き方は、『史記』の他の傳と變わりない。【注29】出自について周の伯僑から始め、雄の五世の祖の揚季に至っているが、ここに説かれている以上のことは他の資料で確認できず、揚雄の語を信じるほかはない。第2段では揚雄の性格が語られる。自序であるから揚雄による自畫像と言えようが、その分些か誇張や理想が込められている可能性がある。このように性格を述べるのも他の傳ではしばしば行われる。つまり第一段と第2段で述べられていることは、これまでの傳と形式上大差ないと言えよう。揚雄自序の特色は以下の段に顯著なのである。

(2)辭賦・文と序

内容から4つに分けた中で最も分量の多いのが、この部分である。まず初めの第3段を見てみよう。

3.是の時に先んじ、蜀に司馬相如有り。賦を作ること甚だ弘麗温雅なり。雄心に之れを壯とし、賦を作る毎に、常に之れに擬し以て式と爲す。又た屈原の文の相如に過ぐるに、容れられざるに至り、離騷を作り、自ら江に投じて死するを怪しむ。其の文を悲しみ、之れを讀むに未だ嘗て流涕せずんばあらざるなり。以爲へらく君子時を得れば則ち大行し、時を得ざれば則ち龍蛇す。遇不遇は命なり、何ぞ必ずしも身を湛めんや。乃ち書を作り、往往離騷の文を摭ひて之れを反し、山より諸れを江流に投じて、以て屈原を弔ひ、名づけて反離騷と曰ふ。又た離騷に旁り一篇を作り重ね、名づけて廣騷と曰ふ。又た惜誦より以下懷沙に至るまでに旁りて、一卷を名づけて畔牢愁と曰ふ。畔牢愁・廣騷、文多く載せず、獨り反離騷を載す。其の辭に曰ふ。《反離騷》

第3段では同郷の司馬相如を慕って辭賦を作り、屈原に思いを寄せその作に倣って「反離騷」「畔牢愁」「廣騷」を作ったという。そして最後に「反離騷」を600字以上に亙り採録する(以下の段でも二重括弧で作品名を示すにとどめ、作品本文は省略する)。この段で揚雄が記そうとしたのは、相如や屈原に影響を受け辭賦を作ったことよりも、「反離騷」を作成するに至った經緯とその執筆意圖であろう。屈原の死に方に疑問を感じつつも弔意を表して「反離騷」を江水【注30】に投じたこと、そして「君子時を得れば則ち大行し、時を得ざれば則ち龍蛇す。遇不遇は命なり、何ぞ必ずしも身を湛めんや」という主題【注31】を示すことが、この第3段の眼目であろう。そうでなければ第3段の4倍以上にもなる「反離騷」を掲載する意圖は説明しがたい。【注32】そして第4段以降も同樣に作品作成までの經緯や執筆意圖を述べた後、その何倍にも及ぶ長篇の辭賦や文を掲載することが繰り返される。第4段から第9段までをまとめて檢討したい。

4.孝成帝の時、客に雄の文、相如に似たりと薦むる者有り。上方に甘泉の泰畤・汾陰の后土を郊祠し、以て繼嗣を求めんとし、雄を召し承明の庭に待詔せしむ。正月、從ひて甘泉に上り、還りて甘泉の賦を奏し以て風す。其の辭に曰ふ。《甘泉賦》
5.甘泉は本と秦の離宮に因り、既に奢泰なり。而るに武帝復た通天・高光・迎風を増す。宮外の近きは則ち洪厓・旁皇・儲胥・弩阹、遠きは則ち石關・封巒・枝鵲・露寒・棠・師得あり、遊觀は屈奇瑰瑋、木の摩して彫らず、牆の塗りて畫かざるは、周宣の考す所、般庚の遷す所、夏の宮室を卑め、唐虞の棌椽三等の制に非ざるなり。且つ爲すこと其れ已に久しく、成帝の造る所に非ず。諫めんと欲すれば則ち時に非ず、默さんと欲するも則ち已む能はず。故に遂に推して之れを隆む。乃ち上帝室を紫宮に比へ、此れ人力の爲す所に非ず、黨いは鬼神のみ可なりと曰ふが若し。又た是の時、趙昭儀方に大いに幸あり、甘泉に上る毎に、常に法從し、屬車の間、豹尾の中に在り。故に雄聊か盛に車騎の衆、參麗の駕の、天地を感動し、三神を逆釐する所以に非ざるを言ふ。又た、玉女を屏け、宓妃を卻くと言ひ、以て齊肅の事を微戒す。賦成り之れを奏するに、天子焉れを異とす。
6.其の三月、將に后土を祭らんとし、上乃ち羣臣を帥ゐ、大河を横ぎり、汾陰に湊く。既に祭り、行きて介山に遊び、安邑を回り、龍門を顧み、鹽池を覽、歴觀に登り、西岳に陟り以て八荒を望み、殷周の虚を迹ね、眇然として以て唐虞の風を思ふ。雄以爲へらく、川に臨み魚を羨むは、歸りて罔を結ぶに如かず、と。還りて河東の賦を上り以て勸む。其の辭に曰ふ、。《河東賦》
7.其の十二月羽獵あり、雄從ふ。以爲へらく昔在二帝三王、宮館・臺榭、沼池・苑囿、林麓・藪澤、財かに以て郊廟に奉じ、賓客に御め、庖廚に充つるに足るのみ。百姓の膏腴穀土、桑柘の地を奪はず。女に餘布有り、男に餘粟有り、國家殷富にして、上下交々足る。故に甘露其の庭に零り、醴泉其の唐に流れ、鳳皇其の樹に巣くひ、黄龍其の沼に游び、麒麟其の囿に臻り、神爵其の林に棲む。昔者禹は益を虞に任じて上下和し、屮(古草字)木茂る。成湯田を好むも天下用足り、文王の囿百里なるも、民以て尚ほ小と爲し、齊宣王の囿四十里なるも、民以て大と爲す。民を裕かにすると民を奪ふとなり。武帝廣く上林を開き、南のかた宜春・鼎胡・御宿・昆吾に至り、南山に旁ひて西し、長楊・五柞に至り、北のかた黄山を繞り、渭に瀕して東し、周袤數百里なり。昆明池を穿ちて滇河に象り、建章・鳳闕・神明・馺娑を營み、漸臺・泰液は海水の方丈・瀛洲・蓬莱を周流するに象る。游觀侈靡にして、妙を窮め麗を極む。頗る其の三垂を割き以て齊民を贍すと雖も、然れども羽獵に至りては田車戎馬、器械儲、禁禦の營む所、尚ほ泰だ奢麗誇詡、堯・舜・成湯・文王三驅の意に非ざるなり。又た後世復た前好を修め、折中するに泉臺を以てせざらんことを恐る。故に聊か校獵賦に因りて以て風す。其の辭に曰ふ。《校獵賦》
8.明年、上將に大いに胡人に誇るに禽獸の多きを以てせんとし、秋、右扶風に命じ民を發して南山に入らしめ、西のかた襃斜より、東のかた弘農に至り、南のかた漢中を敺(驅)け、羅罔罝罘を張り、熊羆豪豬、虎豹狖玃、狐菟麋鹿を捕らへ、載するに檻車を以てし、長楊の射熊館に輸る。罔を以て周阹と爲し、禽獸を其の中に縱ち、胡人をして手ら之れを搏ち、自ら其の獲ものを取り、上親ら臨觀す。是の時、農民收斂するを得ず。雄從ひて射熊館に至り、還り、長楊賦を上る。聊か筆墨の文章を成すに因り、故に翰林を藉りて以て主人と爲し、子墨もて客卿と爲し以て風す。其の辭に曰ふ。《長楊賦》
9.哀帝の時丁・傅・董賢事を用ひ、諸々の之れに附離する者、或いは家より起こり二千石に至る。時に雄方に太玄を草し、以て自ら守りて泊如たる有り。或ひと雄をるに玄の尚ほ白きを以てす。而して雄之れを解し、號して解と曰ふ。其の辭に曰ふ。《解

第4段は成帝に從い「甘泉の賦」を作成するに至った經緯を説明し、第5段で甘泉宮の華美と趙昭儀への寵愛ぶりを諷諫する意圖【注33】が「甘泉の賦」に込められていることを明らかにしている。第6段は河東に赴き聖王に思いを馳せる成帝に對し行動あるのみと「河東の賦」によって勸めたと言う。【注34】第7段は成帝の獵の奢侈を諷諭するために「校獵賦」を作成したと言い【注35】、第8段では成帝の遊獵のために農民が收穫できない状況を訴えるために「長楊賦」を作成したと言う。【注36】最後の第9段は『太玄』を作り「自ら守る」姿勢を或る人に批判されたため、「解」によって辯解したことを説いている。そして揚雄の行動として判るのは、成帝の時に待詔し「甘泉の賦」を奏上したこと(第4段)、皇帝に從い汾陰に至った後「河東賦」を奏上したこと(第6段)、羽獵に從い「校獵賦」を奏上したこと(第7段)、翌年射熊館に從い「長楊賦」を奏上したこと(第8段)、哀帝の時に『太玄』を草し或る人のために「解」を作ったこと(第9段)程度である。第3段もそうであったが、行動のはっきりとした年時や當時の官名が語られず、自身の作品を説明することに筆を費やすばかりである。第3段から第9段は殆どが自身の作品作成の經緯や執筆意圖であって、辭賦・文それぞれの序文と言いうる。實際に「甘泉の賦」「校獵の賦」「長楊の賦」「解」について書かれた第4・7・8・9段は、『文選』に各作品の序文として收録されている。

また、もう一つ見逃してはならないのは、小論では省略した辭賦や文などの作品の引用が非常に多いことである。「反離騷」「甘泉の賦」「河東の賦」「校獵の賦」「長楊の賦」「解」の字數は、第3段から第9段の文の6倍を越えている。【注37】このような點からも第3段から第9段までは、傳記と言うよりは作品と序文の色あいが極めて濃い文章と言える。

第3段から第9段までに似て、辭賦の原文とその執筆經緯や意圖を説明した文が多くを占める傳に『史記』の司馬相如傳がある。【注38】傳中に採録された作品を列擧してみると、「天子游獵の賦」「巴蜀に喩す檄」「蜀の父老を難ずる文」「疏を上り獵を諫む」「秦の二世を哀れむの賦」「大人の賦」「封禪の文」と計7篇にもなる。これらの作品には揚雄自序に録されていたのと同じように、それぞれ作品の作成經緯や執筆意圖を説く文が附されている。例えば「天子游獵の賦」の場合、次のような文が賦の前におかれている。

居ること之れを久しうするに、蜀人楊得意狗監と爲り上に侍す。上子虚の賦を讀み之れを善しとして曰く、朕獨ぞ此の人と時を同じうすることを得ざるや、と。得意曰ふ、臣の邑人司馬相如自ら此の賦を爲ると言ふ、と。上驚き乃ち召し相如に問ふ。相如曰ふ、是れ有り。然るに此れ乃ち諸侯の事、未だ觀るに足らざるなり。天子游獵の賦を爲り、賦成らば之れを奏さんことを請ふ、と。上を許し尚書をして筆札を給せしむ。相如以ふ、子虚は虚言なり。楚の爲めに稱す。烏有先生は烏ぞ此の事有らんなり。齊の爲めに難ず。無是公は是の人無きなり。天子の義を明らかにす。故に空しく此の三人を藉り辭を爲し、以て天子諸侯の苑囿を推す。其の卒章之れを節儉に歸し、因りて以て風諫す。之れを天子に奏するに、天子大いに説ぶ。

ここでは同郷の楊得意なる人物が司馬相如を武帝に紹介したことが述べられ、「天子游獵の賦」を作成した經緯や「子虚」「烏有先生」「無是公」の意味が説明され、最後に「節儉」を主張する旨が説かれている。このように作品の前後に作成經緯や執筆意圖が附されるのは、傳の中に作品を採録する以上自然なことではある。だが『史記』に司馬相如傳ほど多くの作品を採録した傳はない。そして「天子游獵の賦」に附された文は『文選』李善注(卷7、子虚賦)に題注として採られ、また「巴蜀に喩す檄」「蜀の父老を難ずる文」「封禪の文」に附された文もそれぞれ『文選』李善注に引かれ【注39】、作成の經緯や執筆意圖を理解するのを助けている。更に揚雄は自序の第3段で、司馬相如のことを同郷人として「蜀に司馬相如有り。賦を作ること甚だ弘麗温雅なり。雄心に之れを壯とし、賦を作る毎に、常に之れに擬し以て式と爲す」と述べており、揚雄の辭賦に司馬相如の影が色濃いのは衆目の一致するところである。これらのことから、司馬相如傳が揚雄自序に與えた影響は極めて大きいと考えられる。とりわけ自作の作成經緯や執筆意圖を著わした序文は、司馬相如傳に見える作品の作成經緯や執筆意圖を述べた文を參考にしていた可能性が高い。

その他に辭賦の序文として作品の作成經緯や執筆意圖を述べた文には『文選』卷16に司馬相如の「長門の賦」の序があり、『文選』卷19に宋玉と題される「高唐の賦」「神女の賦」「登徒子好色の賦」序があるが、それぞれ作者自身によるものかどうか問題があろう。序の作者が明らかなものに「鵩鳥の賦」の序があり、『文選』卷13に收められているが、『史記』屈原賈生列傳の「鵩鳥の賦」の前に附された司馬遷による執筆經緯を賦の序として收めている。つまり司馬遷の文を「鵩鳥の賦」の序としているのである。したがって揚雄以前に確實に辭賦の作家自身が著わした序は殆ど殘っていないことになる。その點でも揚雄自序の存在は貴重であろう。

(3)『太玄』「解難」序

第10段は構成が些か複雑である。底本は一段にまとめているが、内容から更に3つに分けると理解しやすいので、分段しておく。

10.雄以爲へらく賦は、將に以て風せんとするなり。必ず類を推して言ひ、麗靡の辭を極め、閎侈鉅衍、人をして加ふる能はざらしむるを競ふなり。既に乃ち之れを正に歸さんとするも、然れども覽る者已に過てり。往時武帝神仙を好み、相如大人の賦を上り、以て風せんと欲するも、帝反つて縹縹として雲を陵ぐの志有り。是によりて之れを言へば、賦の勸めて止めざること明らかなり。又た頗る俳優淳于髠・優孟の徒に似、法度の存する所、賢人君子の詩賦の正に非ざるなり。是に於いて輟めて復た爲さず。
而して大いに潭く渾天を思ひ、參して之れを四分し、八十一に極む。旁に則ち三九据し、之れを七百二十九贊に極むるも、亦た自然の道なり。故に易を觀る者、其の卦を見て之れを名づけ、玄を觀る者、其の畫を數へて之れを定む。玄の首の四重は、卦に非ず、數なり。其の用天元より一晝一夜、陰陽數度、律暦の紀を推し、九九にして大いに運り、天と與に終始す。故に玄に三方・九州・二十七部・八十一家・二百四十三表・七百二十九贊あり。分かちて三卷と爲し、一二三と曰ひ、泰初歴と相ひ應じ、亦た顓頊の暦有り。之れを成ふるに三策を以てし、之れを關すに休咎を以てし、之れを絣ふるに象類を以てし、之れを播すに人事を以てし、之れを文るに五行を以てし、之れを擬ふるに道徳仁義禮知を以てす。主無く名無く、要は五經に合ひ、苟くも其の事に非ずんば、文虚しく生ぜず。其れ泰曼漶として知るべからざるが爲に、故に首・衝・錯・測・・瑩・數・文・・圖・告十一篇有り。皆な以て玄の體を解剥し、其の文を離散す。章句尚ほ存せず。玄の文多く、故に著はさず。
之れを觀る者知り難く、之れを學ぶ者成し難し。客に玄の大だ深く、衆人の好まざるを難ずる有り。雄之れを解し、號して解難と曰ふ。其の辭に曰ふ、……。《解難》

まず「雄以爲へらく賦は、將に以て風せんとするなり」から「是に於いて輟めて復た爲さず」までは辭賦の定義と辭賦の筆を折るに至った經緯を説いており、「而して大いに潭く渾天を思ひ」から「玄の文多く、故に著はさず」までは辭賦を止め天文に思いをめぐらせた結果が『太玄』となったのであり、その構造が正當で奧深いことを述べている。最後の「之れを觀る者知り難く、之れを學ぶ者成し難し」より「解難」の引用までは、「解難」作成の經緯とその作品である。この中で最後の部分は第3段から第9段までと同じように序とその作品と考えられるが、その前の2つの部分があることによって第3段から第9段までと區別した。

まず初めの辭賦について述べた部分では「雄以爲へらく賦は、將に以て風せんとするなり。必ず類を推して言ひ、麗靡の辭を極め、閎侈鉅衍、人をして加ふる能はざらしむるを競ふなり」と揚雄の辭賦に對する考えが述べられており興味深いが、後に「之れを正に歸さんとするも、然れども覽る者已に過てり……是によりて之れを言へば、賦の勸めて止めざること明らかなり」と賦の無力さが語られ、「是に於いて輟めて復た爲さず」という結果に陷ったことが告白される。この部分は揚雄の辭賦に對する思いが述べられている。

第10段の中心をなすのが「而して大いに潭く渾天を思ひ」から「之れを觀る者知り難く、之れを學ぶ者成し難し」までの『太玄』について述べられた部分である。この部分は「八十一首」「七百二十九贊」「首・衝・錯・測・・瑩・數・文・・圖・告十一篇」など、『易』で言えば六十四卦・三百八十四爻・十翼にあたる語の解説であり、同時に『太玄』の構造を概説している。即ち『太玄』の序であり、『易』で言えば繋辭傳や説卦傳に近い。『太玄』は『易』を模した書であるから、當然の結果である。

第10段全體の流れをまとめてみよう。初めの部分は辭賦について書かれていたが、辭賦の無力さの自覺と辭賦作成を止めるに至った經緯を説くことに重きがおかれており、その結果が『太玄』へとつながっていた。『太玄』は「文多く、故に著はさず」として引用されないが、この段では『太玄』の序に費やされた分量が最も多く、第10段の中心に『太玄』があることが判る。だからこそ『太玄』の難解さを辯明する「解難」が末尾に添えられたのである。

(4)『法言』序

次は自序の最後の段落である。

11.雄見るに、諸子の各々其の知を以て舛馳し、大氐聖人を詆訾す。即ち怪迂を爲し、析辯詭辭し、以て世事を撓め、小辯なりとは雖も、終には大道を破りて衆を或(惑)はし、聞く所に溺れて自ら其の非を知らざらしむ。太史公の六國を記し、楚漢を歴、麟止に訖はるに及びては、聖人と是非を同じくせず、頗る經に謬る、と。故に人の時に雄に問ふもの有れば、常に法を用て之れに應じ、譔して以て十三卷と爲し、論語に象り、號して法言と曰ふ。法言の文多ければ著はさず、獨だ其の目を著はす。《法言の目》

第11段では諸子が聖人の教えに背き經書と合っていないことを感じ、「是非」を「聖人」「經」と同一にするために『法言』を作成したと記されている。これによると人に尋ねられて『法言』を撰したことが判るが、いつのことかはっきりしない。やはり『法言』作成の經緯や執筆意圖を説明するばかりである。そしてこの文と續く『法言』13篇の目【注40】は『法言』にも序として收められている。この第11段は完全に『法言』という書物の序であって、傳記資料に乏しい。そしてここで揚雄自序は終わり、次には贊が始まってしまう。




三、揚雄自序の性質

以上に檢討した結果を整理してみよう。卷頭第1・2段は『史記』に見える他の傳と大きな隔たりはなかったが、その後の第3段から最後の第11段までが揚雄自序の特色を顯著に示していた。第3段以降で述べられるのは、殆ど自身の作品作成の經緯や執筆意圖であって、傳記資料となる行動については語られていなかった。はっきりとした年時や官歴、交友關係など、揚雄の行動を特定しうる要素が極めて少ないのである。更に小論では省略したが、辭賦や文などの作品が非常に多く採録されていた。「反離騷」「甘泉の賦」「河東の賦」「校獵の賦」「長楊の賦」「解」「解難」「法言の目」などに費やされた文字は、揚雄自序の8割を越える。これまでに檢討してきた文は自序の2割にも及んでいないのである。【注41】

このような特色をもつ揚雄自序をいかなる作品として位置づけるべきであろうか。揚雄自序は傳記資料としての意味あいが薄く、作品と作品作成の經緯や執筆意圖を説くことに多くが割かれている。その點で、作品と序文の色あいが濃い文章であると言えよう。既述の通り「甘泉の賦」「校獵の賦」「長楊の賦」「解」作成の經緯や執筆意圖を説く第4・7・8・9段は、『文選』に各作品の序文として收録され、「法言の目」も『法言』に序として附されている。だが、揚雄自序に收められた辭賦や文が揚雄の著わした作品の全てではない。嚴可均『全漢文』には、『漢書』に收められていない作品が佚文も含め53篇載せられている。その中には「蜀都の賦」や「劇秦美新」などもあり、揚雄が自序に收める作品を選擇していることは明白である。その選擇について自序全體の構成から考えてみると、作品が收められている第3段から第11段に至る自序全體の流れは、揚雄の生涯に沿って語られている。つまり揚雄が作った順に作品が配され、その時々に自分が作った經緯やその作品に込めた意圖を交えながら、自身の生涯を追っているのである。そして班固は揚雄傳贊に「其の意は文章もて名を後世に成すことを求めんと欲す」と述べている。【注42】こうしたことから、選ばれた作品は揚雄にとって自身の生涯を語りうるものであり、なお且つ自分の名を後世に殘すに足ると考えたものであったと思われる。即ち揚雄自序は揚雄によって自作を選録された自選集としての意味をも有していると言えよう。

それはまた第10段で辭賦の無力さを言い、作成を止めていた揚雄が、5篇もの辭賦を自序に收めそれぞれに序を附している理由とも關係していよう。揚雄は辭賦によって示そうとした諷諫の意圖が、當時に正しく理解されなかったことを痛感していたからこそ、自序に收めたそれぞれの辭賦の序によって正しく諷諫の意圖が理解されるよう望んだように思われる。正しい理解を後世に求めたのである。こうした點でも自序に選録された5篇の辭賦と序のもつ意味は重要なものと考えられる。

また揚雄自序に強く影響を與えたと思われる作品に『史記』司馬相如列傳があった。司馬相如傳も辭賦や文の作成經緯や執筆意圖を説く序文を多く載せ、7篇の辭賦と文を收めていた。そして實は司馬相如傳も作品と序を生涯に沿って配列している。つまり作品と序を生涯に沿って配列し、作品と序によって傳全體を構成したのも相如傳の影響が考えられるのである。ただし揚雄の自序に比べ司馬相如傳は、卓文君との有名な戀愛譚のほか都と蜀の間に立つ使者として働いた話など相如の行動記録に富み、死後のことまで記されている。揚雄自序の方が行動記録は簡單で、作品と序に依存する割合が高い。ではなぜ揚雄はあれ程までに行動記録を省き、作品と序で自序を埋め盡くしたのだろうか。

自序は揚雄が『法言』を作成した後の最晩年に自分の生涯を振り返りつつ著わされたと考えられる。その時、揚雄は自分の官歴や交友關係などよりも、自作の辭賦や文、『太玄』や『法言』をこそ自らの生の證しとして傳えたかったのではあるまいか。その結果揚雄自序は自身による傳記という意味あいは弱まったように見えるが、自作の辭賦や文などを用いて自分の生涯を語ることで、一人の著述家としての傳記を作り出しているように思える。相如傳よりも行動記録が簡單で作品と序に依存する割合が高いのは、行動よりも作品によって評價されるべき著述家と自身を捉え、自序に描き出そうとした結果ではあるまいか。このような考え方に近い意見が、民國の劉咸炘『漢書知意』(揚雄列傳)に見えるので、以下に擧げてみたい。【注43】

自序にして文を載せ、文と事とを相ひ比附せしめ、讀者をして其の撰述の本事本旨を知らしめんと欲するなり。子雲最も得意なるは玄と法言とに在り。故に其の最を録し、録して以て己が一生の精力の注ぐ所を明らかにす。班其の文を用ひて以て其の學を表し、又た逸事を述べて以て自序の闕を補ひ、桓譚の語を録して以て斷と作す。東漢の初め學者皆な劉向・揚雄を祖とすれば、桓・班 固より派を同じくするなり。

劉咸炘は『太玄』と『法言』を中心に据え、思想的な系譜をたどろうとしており、辭賦にはそれほど重きをおいていないが、小論が自作の辭賦や文などによって自分の生涯を語り得ていると考える立場に通ずるものがあると思う。【注44】

終 わ り に

これまでの檢討を通して、揚雄自序は辭賦や文、書といった作品とその序文の意味あいが強く、傳記資料に乏しいことが明らかになった。ただ傳記資料に乏しいとはいえ、自序全體の構成は揚雄の生涯に沿っており、辭賦や文、書物によって著述家としての自畫像を作り出そうとしたようであった。つまり序文の意味あいが高いが、同時に傳としての役割も擔っているのが揚雄自序なのである。これはまた、作品の序文と傳記とがはっきりと區別されていないと言うこともできよう。序文と自傳の境界が區切られていない状態なのである。その理由はまた揚雄が著述家として自身を描き出そうとしたからと思われる。

揚雄自序と同じように作品と序文および傳記が同時に收められている傳に『史記』司馬相如傳があった。章學誠が「文を以て人を傳ふる」と言う【注45】司馬相如傳も、また一人の作家、著述家として相如を描いたものと考えられる。更に言えば『史記』太史公自序や『漢書』敍傳も『史記』『漢書』という書物の序でありながら司馬遷、班固の傳記でもあり、やはり著述家による自序と言うことができる。【注46】それは『史記』『漢書』という作品によって自分の存在を殘そうとした結果であろう。自分が著わした作品によって自己表現を試みるのが著述家であれば、官歴や行動よりも作品とともに記憶されるのを望むのではないだろうか。そう考えれば、後漢に到り王充が『論衡』の末尾に自紀篇を附し、『論衡』という書物の序だけではなく自身の傳記をも記した理由【注47】が理解できてくる。彼らにとって自分の生涯は、作品を作成するに至った經緯に過ぎず、作品の序文に附屬されるものなのである。

今ここに擧げた中で、『史記』太史公自序、『漢書』揚雄自序、『漢書』敍傳、『論衡』自紀篇は、作品とその序文および傳記が一つにまとめられているという共通點をもっている。それはまた序文・書物の序と自傳が未分化の状態にあると言えた。これらの5篇は現存する自序の中では比較的古いものであるから、自序の古い形には、作品とその序文および傳記が一體化し、未分化な状況が多く見られたことになる。その中の一つとして揚雄自序のもつ性質を小論では明らかにしえたと思う【注48】。今後は書物などの序についてもより廣く檢討されなければならないが、それはまた別の機會に讓ることにしたい。

餘論 『漢書』揚雄傳贊の檢討

揚雄自序がいかに傳記資料に乏しいかは既に述べた。それに對して班固による贊がどれ程豐かな傳記資料を提供し、贊として異例の體をなしているかを簡單に確認しておきたい。そうすることが自序の範圍をより明確にすることへとつながると思うからである。4段から成るが、以下に擧げてみる。

12.贊に曰ふ、雄の自序に爾云ふ。初め、雄年四十餘、蜀より來至して京師に游ぶ。大司馬車騎將軍王音其の文雅を奇とし、召して以て門下の史と爲し、雄を薦めて待詔せしむ。歳餘にして、羽獵の賦を奏し、除せられて郎と爲り、黄門に給事し、王莽・劉歆と與に竝ぶ。哀帝の初め、又た董賢と官を同じうす。成・哀・平の間に當たり、莽・賢皆な三公と爲り、權は人主を傾け、薦むる所拔擢されざる莫きに、雄は三世官を徙らず。莽の位を簒ふに及び、談説の士の符命を用て、功徳を稱し封爵を獲る者甚だ衆きも、雄復た侯ならず、耆老久次を以て轉じて大夫と爲る。勢利に恬たること乃ち是くの如し。實に古へを好みて道を樂しみ、其の意は文章もて名を後世に成すことを求めんと欲す。……心を内に用ひ、外に求めず、時人皆な之れをんず。唯だ劉歆及び范逡のみ敬して、桓譚以て絶倫と爲す。
13.王莽の時、劉歆・甄豐皆な上公と爲り、莽既に符命を以て自立し、即位の後其の原を絶ち以て前事を神ならしめんと欲す。而るに豐の子尋・歆の子棻復た之れを獻ず。莽は豐父子を誅し、棻を四裔に投じ、辭の連及する所、便ち收めて請けず。時に雄書を天祿閣の上に校す。治獄の使者來り、雄を收めんと欲す。雄自ら免るる能はざるを恐れ、乃ち閣上より自ら投下し、幾ど死なんとす。……詔有りて問ふ勿し。然れども京師之れが爲に語りて曰ふ、惟れ寂寞にして、自ら投閣し、爰に清靜として、符命を作る、と。
14.雄病を以て免ぜられ、復た召されて大夫と爲る。家素より貧にして、酒を耆み、人希に其の門に至る。時に好事者の酒肴を載せ從ひて游學する有り。而れども鉅鹿の侯芭常に雄に從ひて居り、其の太玄・法言を受く。……年七十一、天鳳五年卒す。侯芭爲に墳を起て、之れに喪すること三年なり。
15.時の大司空王邑・納言嚴尤雄の死を聞き、桓譚に謂ひて曰はく、子嘗て揚雄の書を稱ふるも、豈に能く後世に傳はらんか、と。譚曰ふ、必ずや傳はらん。顧だ君と譚とは見るに及ばざるなり、凡そ人は近きを賤しみて遠きを貴ぶ。親しく揚子雲の祿位容貌の人を動かす能はざるを見、故に其の書を輕んず。……今揚子の書文義至つて深く、而して論聖人に詭かず。若し時の君に遭遇し、更めて賢知を閲し、善と稱する所と爲らしめば、則ち必ずや諸子を度越せん……と。雄の沒してより今に至るまで四十餘年、其の法言は大いに行はるるも、玄は終に顯はれず。然れども篇籍具さに存す。

第12段では揚雄の官歴と著述家としての生涯が、第13段では天祿閣投閣事件の顛末が、第14段では揚雄の晩年が述べられ、最後の第15段に桓譚の揚雄評が載せられている。揚雄の自序にはなかった年時や官歴、交友關係など、揚雄の行動を特定する材料に滿ちている。段玉裁の指摘【注49】があるように「雄の年壽卒葬」がみな贊に記されるのも異例なことである。そこで錢大昕『廿二史考異』は「『雄の自序に爾云ふ』以下皆な傳文にして贊に非ざるなり。……此の『贊曰く』の二字、後人の妄増にして、班史の本文に非ず」とまで言う【注50】。この説の是非は別にしても、贊が揚雄の自序とは筆が異なるのは明瞭であろう。「雄の年壽卒葬」や死後のことが記されており、自序ではありえない。錢大昕が「皆な傳文」と言うほど傳記資料に富むのも、班固が揚雄の自序に缺けたものとして補ったと考えられよう。




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