白居易の墓誌自撰
『學林』28・29合併號 1998年3月

芳村 弘道
は じ め に
一 風疾前の白居易
二 開成4年冬の風疾
三 風疾後の佛教信仰
四 香山寺奉納『白氏洛中集』の序文
お わ り に

 

は じ め に

いわゆる紹興本『白氏文集』71卷(文學古籍刊行社影印北京圖書館所藏南宋刊本)の大尾(補鈔頁)に549字(序文492字、銘文57字)からなる「醉吟先生墓誌銘并序」(以下「墓誌」と略稱)が收められている。紹興本の系統に屬し、明清兩代に通行した馬元調本も同樣にこれを收載する。また「墓誌」は『全唐文』卷679・白居易24に收められているほか、つとに宋初の『文苑英華』卷945に「自撰墓誌」と題して選録されている【注1】。歴世、「墓誌」を白氏自撰として見做してきたが、1947年に岑仲勉氏「《白集・醉吟先生墓誌銘》存疑」【注2】が「墓誌」の記載に十條の疑點を指摘し、この一篇は僞作であると論じて以來、岑氏の僞作説に贊同する研究者が多い。

ところが近年、耿元瑞・趙從仁兩氏は「岑仲勉《白集醉吟先生墓誌銘存疑》辨」(1983年「唐代文學論叢」總第4輯)を著わし、岑氏に眞っ向から反駁して僞作説を斥けた。また川合康三氏の『中國の自傳文學』(1996年創文社)にも岑説を補正するところが見られる。しかし遺憾にも耿・趙、川合諸氏は「墓誌」が開成4年(839)に制作されたことを示す資料に何ら言及しない。そこで最近、筆者は「墓誌」の傳來をたどり、また制作時點などを勘案して岑説の再檢討を試みた(拙論「白居易『醉吟先生墓誌銘』の眞僞」1998年10月『日本中國學會創立五十年記念論文集』P1399〜P1412日本中國學會創立五十年記念論文集編集小委員會、汲古書院)

「墓誌」の制作時期を示す資料とは、一つは内閣文庫所藏の『管見抄』所載の本篇題下に附された「開成四年、中風疾後作」という注記であり、いま一つは『舊唐書』白居易傳の「(開成)四年冬、風病を得、枕に伏すこと累月。乃ち諸妓女樊・蠻等を放ち、仍りて自ら墓誌を爲る」という記事である。『舊唐書』は『管見抄』本と同樣の題注をもつ「墓誌」を用いたと思われるが、先の拙稿ではこの注を自注と見做し得るか論及できなかったので、ここにこの問題を取り上げ、開成四年前後數年に亙る白居易の足跡を窺い、彼が風疾の大患を契機として「墓誌」を自撰した可能性が充分に考えられることを論じてみたい。

一 風疾前の白居易

白居易は、大和3年(829、58歳)の3月に刑部侍郎から太子賓客分司東都(正三品)に轉じ、四月に着任して以降、會昌6年(846)8月の薨去にいたるまでの18年を洛陽に暮らした。この間、官人としてはさらに河南尹(大和4年12月28日任、從三品)、太子賓客分司東都(同7年4月25日任、正三品)、太子少傅分司東都(同9年10月23日任、從二品)を歴任し、會昌2年(842)に刑部尚書(正三品)をもって致仕したが、一方、私人としては履道里の第宅園林を據點とする閑適の喜びに滿ちた生活を送ることがほとんどであった。

その愉適の心境は、大和3年(829)春から8年(834)夏に及ぶ滿5年の吟詠432首を編集した際の序文「序洛詩」(卷61・2942)【注3】によく表わされている。白居易は、この序の冒頭に「序洛詩は、樂天自ら洛に在りての樂しみを敍ぶるなり」と記し、「今壽は耳順を過ぐるも、幸ひに病苦無し。官は三品に至り、飢寒に罹ふを免れたり。此れ一樂なり」と前半を結び、老い永らえても病苦をおぼえず、官秩が高く衣食の心配がないというように、惠まれた健康と經濟的に保障された生活を樂しみの第一に擧げている。そして後半の一節に、

自大和三年春、至八年夏、在洛凡五周歳、作詩四百三十二首、除喪朋哭子十數篇外、其他皆寄懷於酒、或取意於琴、閑適有餘、酣樂不暇、苦詞無一字、憂歎無一聲、豈牽事強所能致耶、蓋亦發中而形外耳、斯二樂也、實本之於省分知足、濟之以家給身閑、文之以觴詠絃歌、飾之以山水風月、此而不適、何往而適哉、茲又以重吾樂也【注4】
大和三年春より、八年夏に至るまで、洛に在ること凡そ五周歳、詩を作ること四百三十二首。朋を喪ひ子を哭する十數篇を除いて外、其の他は皆懷ひを酒に寄せ、或いは意を琴に取る。閑適餘り有り、酣樂暇あらず。苦詞一字も無く、憂歎一聲も無し。豈事に牽かれ強ひて能く致す所ならんや。蓋し亦た中に發し而して外に形はるるのみ。斯れ二樂なり。實に之を分を省み足るを知るに本づき、之を濟すに家給り身閑なるを以てす。之を文るに觴詠絃歌を以てし、之を飾るに山水風月を以てす。此にして適せずんば、何くに往くとして適せんや。茲に又た以て吾が樂しみを重ぬるなり。

と述べ、琴酒の喜びを通して味わう「閑適」や「酣樂」の思いを詠ずる詩作を樂しみの第二としている。さらに今一つ樂しみを重ねるものとして、愉適にいざなう諸條件に及ぶ。内的には「分を省み足るを知る」心構えを根本とし、外的に補完するものとして家計の充足と閑暇を擧げ、生活の彩りには飮酒・吟詠(詩)・音樂(琴)・「山水風月」を加えている。ここに彼が「朋を喪ひ子を哭する」詩をことさらに除外し、内面から自然に湧き起こる愉適の詩を強調したのは、悲しみより寧ろ積極的に樂しみを詠おうとした白居易後半生の文學の特色が表われたといえるが、これに關してはすでに川合康三氏の卓論「白居易閑適詩攷」(1991年3月「未名」第9號)に考察されている。なお後述するごとく「序洛詩」は部分的な修補が加えられ、開成5年(840)11月、香山寺に奉納した『白氏洛中集』十卷の序文としても用いられている。序文の襲用は、白居易がその頃においても洛陽の閑居に喜びを得ていたからこそ可能であったといえよう。

上の「序洛詩」の引用に明らかな通り、白居易にとって詩・酒・琴は缺くことのできない樂しみであり、彼を愉適の境地に導くのもこの三つであった。大和8年(834)の「北窗三友」詩(卷62・2985)には、詩・酒・琴を「三友」とまで親しげに呼び、「三友游び甚だ熟し、日として相隨はざる無し」と日々それらの樂しみに耽っていたことが詠われている。

開成年間に入っても愉適に滿ちた生活が續き、白居易は「性、酒を嗜み、琴に耽り、詩に淫し」、「盃觴諷詠の間に自適する」人物として自らを描いた「醉吟先生傳」(卷61・2953)を撰している。時に開成3年(838)、齡67歳、洛陽閑居ちょうど10年目であった。傳中、「詠懷詩」と題して插入された詩句(もと大和8年作「洛陽有愚叟」卷63・3005)の一節に「知らず天地の内、更に幾年活くるを得るかを。此より身を終ふるに到るまで、盡く閑日月爲らん」とある。白居易は、餘命幾年か分からないが、終焉を迎えるまで閑適の日々が續くものと信じた。また「醉吟先生傳」の結びには「今の前は吾適せり。今よりして後は其の興何如なるかを知らず」と記す。そうした言葉どおり、彼の飮酒吟詠の喜びに溢れた自適の生活はその死に至るまでくりひろげられている。

「醉吟先生傳」は白居易の自傳ではあるが、67年の生涯をつづった記録ではない。彼が一つの理想としてきた愉適の人生が洛陽の閑居において實現したところから、「觴詠の興」に明け暮れる「醉吟先生」と號する人物に託し、現實化した理想的生活の喜びに浸る自分を描いたものである。行き着かんとした境地に行き着いたという滿足感が白居易に「醉吟先生傳」の筆を執らせたのであろう。後述するごとく彼は、死後において神道碑を建てず、この傳を石に刻して墓前に建てるだけでよいとの遺命を「墓誌」に記している。この遺言には、詩酒の樂しみを通して愉適の人生を送り得た人物が中晩唐の時代に存在したことを後世にまで傳えようとした意圖が窺われる【注5】

詩酒の樂しみによって展開された洛陽での自適の生活は、當然の結果として詩篇の數を増大させた。そこで白居易は開成4年(839)に文集を自編している。ただしこの時は洛中の作のみならず、今までの全文業を收める編集が行われた。これより先、大和9年(835)夏に「前後著はす所の文、大小合はせて二千九百六十四首」を60卷にまとめて廬山の東林寺に納め(卷61・2948「東林寺白氏文集記」)、翌開成元年閏5月には「七帙、六十五卷、凡て三千二百五十五首」の「白氏文集」を洛陽聖善寺に奉納している(同・2949「聖善寺白氏文集記」)。いずれも今回の編成と同樣に『白氏長慶集』五十卷および以後の作を『後集』としたものであった。

この度はそれらに續く編集で、「七帙、合はせて六十七卷、凡て三千四百八十七首」が收録された。白居易は先と同じくこれを有縁の寺に奉納している。送り先の一つがかつて刺史に任ぜられた蘇州の南禪院であった。その際に撰せられた「蘇州南禪院白氏文集記」(同・2955)に、「家藏の外、別に三本を録せり。一本をば東都聖善寺鉢塔院律庫中に寘き、一本をば廬山東林寺經藏中に寘き、一本をば蘇州南禪院千佛堂に寘く」とあって、前に奉納した東林寺と聖善寺にも改めて送ったことが分かる。またこの「白氏文集記」には「願はくは今生の世俗の文字、狂言綺語の因を以て、轉じて將來世世、讚佛乘・轉法輪の緑と爲らんことを」と記されている。文集につづられた「世俗の文字、狂言綺語」は本來、佛の世界と相反するものである【注6】。しかし作品は彼の生きた證しであり、いわば詩人白居易そのものであった。白居易は我が身を布施するに近い思いを文集奉納にこめ、佛の力にすがって「狂言綺語」の文集が轉換して、未來永劫、衆生に對し佛に成りうる教えを讚え、法を説くよすがとなることを祈願した。先なる東林寺、聖善寺の「白氏文集記」には、これほど篤い歸依が示されていない。年を追うて白居易の佛教信仰が深まったのであろうか。信仰の本格化は彼が次第に強く死を意識していったことを容易に感ぜしめる。思えば詩・酒・琴の樂しみは、死期の近づきを感じて、世にある今をいとおしんでの行いであったともいえよう。

洛陽で飮酒吟詠の喜びに滿ちた閑居を送り、それに伴って増えた詩篇を白居易が自編したことは先にも言及したが、『白氏長慶集』五十卷の後を承ける作品集の編定は大和2年(828)を最初とする。そして7年を隔てた大和9年(835)に二回目が行われ、ついで開成元年(836)、4年(839)、會昌2年(842)と繼續され『後集』二十卷となり、薨去の前年の會昌5年(845)に『續後集』五卷が完成した。大和末以降は1年乃至3年の短い間隔をもって頻繁に編集されている。毎回の編集は、生きながらえた自分を確認し、死の訪れに備える行爲であったと想像できよう。「醉吟先生傳」を撰して愉適の境地に陶然たる自らを描いた白居易は、翌開成4年2月に第4次の編定を終えて67卷の文集を三箇寺に奉納したとき、生涯の一つの區切りをまた成し得たという思いを抱いたに違いない。

二 開成4年冬の風疾

「序洛詩」に「幸ひに病苦無き」ことを樂しみの一つに擧げた白居易であったが、開成4年(839)冬10月6日(甲寅)の朝に中風が彼を襲った。「病中詩十五首」の序(卷68・3408)に「開成己未の歳、余蒲柳の年六十有八。冬十月甲寅の旦、始めて風痺の疾を得たり。體(や)み目眩み、左足支へず。蓋し老病相乘じ時有りて至るのみ」と記されている。今井清氏「白樂天の健康状態」(1964年10月「東方學報」36)は「彼はその原因を老衰に歸しているが、單にそれだけではない。知れたことだが、過度の飮酒による動脈硬化である。右側の腦の血管から出血して左足が利かなくなったのである」と觀ている。今井氏の論文は白居易の全生涯に亙る病氣のありさまを仔細に論じたものであるが、それに「彼の生涯の最大の病氣は中風である」と明言されている。今回の風疾が白居易の心身兩面に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。身體的には左足の後遺症が完治しなかったことが擧げられる。病氣を慮って飮酒を控えるほどであった【注7】。また後述するごとく精神面では大患を契機に死を一層明確に意識し、佛教信者としての姿勢を強めていることが窺われる。

ただし風疾は大患には違いなかったが、吟詠の喜びを妨げるには至らなかった。今井氏が「不幸中の幸いというべきは、運動神經の中樞が侵されただけで、思考・記憶・言語の障害は全く見られない。自己の病氣を觀察した多數の詩を殘している」という通りであった。序文の一部を右に引いた「病中詩十五首」はそうした所詠中の作品群である。その序には先の引用に續き、

余早に心を釋梵に棲ませ、跡を老莊に浪りにす。疾に因りて身を觀じ、果して得る所有り。何となれば則ち形骸を外にし而して内に憂患を忘れ、禪觀を先にして而して後に醫治に順へばなり。旬月より以還(このかた)、厥(そ)の疾少しく間(い)ゆ。門を杜ぢ枕を高くし、澹然安閑たり。吟諷の興來り、亦遏むること能はず。因りて十五首を成し、題して病中詩と爲す。

という一節がある。白居易はかねてより佛教に歸依し、老莊思想に心を遊ばせていた。病氣を契機として吾が身の修養をみつめると、果たして得るところがあった。なぜならば肉體を氣にかけず心のうちに憂いを忘れ、先に座禪を組んで靜かに觀想をしてから醫法の治療に從ったからである。「觀身」は『老子』の「身を以て身を觀る」に基づくが、また「觀」は後文の「禪觀」の觀にも通じよう。「形骸を外にす」は『莊子』大宗師に基づく言葉であって【注8】、前の句の「跡を老莊に浪にす」に呼應している。「禪觀」はいうまでもなく「釋梵」を承けての措辭である。「憂患」とは老病の憂いであり、その先にある死への憂いであろうが、そうした憂いを道佛の教えによって忘れて安らぎを得たため、「醫治」の效果も上がった。そのおかげで一月ほどたつと小康が得られ、「澹然安閑として」靜養するうちに、詩作の興趣が押さえがたく湧いて詠じられたのが「病中詩」という總題の附された15首であった。そのうちの「恬然として動かざる處、虚白胸中に在り」という「初病風」(3408)や、「皓氣自ら能く靜室に充ち、驚飆何ぞ必ずしも虚舟を蕩かさん」といい、「若し樂天に病苦を憂ふるかと問はば、樂天は命を知りて了に憂ひ無し」と詠じ收める「枕上作」(3409)には、佛教と老莊を支えに彼が病氣を克服していったありさまが詠われている。

さらに「病中五絶句」其一(3411)では、70歳近くなっての病氣ならば、ありがたく思わなければならないといい、「正に是れ安閑好病の時」と結ぶ其二(3412)では、病氣を却って閑適の好機と思っている。また其三(3413)では、年長の李建が卒して19年經ち、また年下なのに元稹が先立って8年になるが、二親友に比べれば今頃になって病氣した自分は「多幸」だから、治す必要があるのか分からないという。樂天的な心の持し方で苦難を乘り越えてゆく強靭な白居易の精神力は、68歳の大患においても健全であった。

「病中詩十五首」の主題はすべてが病氣ではない。「賣駱馬」(3418)と「別柳枝」(3419)は、風疾の後で手放すことにした鍾愛のものに惜別の情を向けた七絶である。後者の「柳枝」は「楊柳枝」の歌がすばらしかった家妓の樊素を指す【注9】。白居易はよほど駱馬と樊素との別れを惜しんだと見えて、「不能忘情吟」(卷70・3610)と題する長短句の歌も作っている。その序に、

樂天既に老い、又風を病む。乃ち家事を録し、經費を會し、長物を去る。妓に樊素なる者有り。年廿餘にして、綽綽として歌舞の態有り。善く楊柳枝を唱ふ。人多く曲名を以て之に名づく。是より名洛下に聞こゆ。籍は經費の外に在り。將に之を放たんとす。馬に駱(黒いたてがみをもつ白馬)なる者有り。駔壯にして駿穩、之に乘ること亦た年有り。籍は長物の中に在り。將に之を鬻がんとす【注10】

という。病後に家財の整理を行うため、必要經費外のものと無駄なものとを書き出したところ、樊素と駱馬の名があがったのである。それで白居易は樊素に暇をやり、駱馬を賣りに出すことにした。ところが、さて屋敷を出て行くという段になると彼は情にほだされ、ひとまず女と馬を引き返させている。そして樊素に酒を賜い、自らも一杯飮んで「快吟數十聲」に及び、「不能忘情吟」の歌が生まれた。乘り心地のよい駿馬と洛陽で評判の家妓との別れに際し、それぞれに詩を詠じ、さらに序を附した「二百三十五言」【注11】から成る歌吟まで作っているのは、兩者に對する愛情が一通りではなかったことを思わせるに足る。これほどのものを家計節約のために處分するというのは全くの口實に違いない。恐らく愛するがゆえに、白居易は生あるうちにそれらの落ち着く先をしっかりと見屆けたかったから、敢えて手放すことにしたのであろう【注12】

白居易は70歳近くなって風疾に罹ったのである。「樂天は命を知りて了に憂ひ無し」と詠じはしても、死期が迫ったと意識して當然であろう。現にそのことを示す詩がのこされている。發病の翌年に作られた左の「老病相仍以詩自解」(卷68・3440)である。

老病相仍以詩自解 (老病相仍り詩を以て自ら解く)

 榮枯憂喜與彭殤  
榮枯憂喜と彭殤とは

 都似人間戲一場  
都べて人間の戲の一場に似たり

 蟲臂鼠肝猶不怪  
蟲臂鼠肝すら猶ほ怪しまず

 鷄膚鶴髮復何傷  
鷄膚鶴髮は復た何ぞ傷まん

 昨因風癈甘長往  
昨に風癈に因り長往に甘んずるも

 今遇陽和又少康  
今は陽和に遇ひて又少しく康し

 還似遠行裝束了  
還た遠行の裝束了はるに似たり

 遲迴且住亦無妨  
遲迴して且く住まるも亦た妨ぐる無し

白居易は、榮枯盛衰、憂愁歡喜、そして長壽夭折のいずれもがこの世を舞台とした芝居の一幕のようなものと喝破する。死ねば「蟲臂鼠肝」のような取るに足りないものに變わること【注13】でさえ疑わないから、鷄の皮のように膚に皺がよろうとも、髮が鶴のように白くなろうとも悲しむことがなかった。先頃、中風で體が利かなくなった時には死を甘んじて受けとめようとしたが、いま春を迎え小康が續く(第6句末に「春暖來り風痺稍々退く」との自注がある)。遙かな旅の準備を終えたも同然であるから、出發を遲らせて少しのあいだ足止まっていても差し支えないと詠じ、死出の旅路に出る心構えが整っていることを表わした。

白居易が開成4年10月の風疾によって死を覺悟したことは、この詩の第5句の「昨因風癈甘長往」がはっきりと物語っている。また第7句の「還似遠行裝束了」には、老いと病が重なって死が迫り來たことに對し、前半で詠う達觀的な心境に立ち得、死を安んじて受け入れる心の準備ができたことが示されている。死出の支度は、身邊の整理の手筈が整ったことも意味していよう。その一つが愛馬・愛妓の處分であった。さらに作品集のほうは發病前の2月に67卷本としてすでに編し、ゆかりの三箇寺に奉納していた。理想とした閑適の生活は洛陽閑居を通して滿喫し、その喜びを「醉吟先生」に託して自傳も記し終えていた。「遠行の裝束」はほとんど完了していたのである。こうした時期に墓誌銘が自撰されることは極めて自然な行爲といえまいか。そこで思い出されるのが『管見抄』の「墓誌」である。その題下には「開成四年、中風疾後作」という注記を見る。「遠行の裝束」をより完全ならしめるためには、生前に墓誌銘を用意しておく必要もあろう。そして「醉吟先生傳」を記したのに合わせ、それを白居易自身が撰してもなんら不思議ではないし、自注を附記することもあったと考えられる。

「墓誌」は、「其の生や浮雲然として、其の死や委蛻然たり。來ること何にか因り、去ること何にか縁る。吾が性動かず、吾が形屡々遷る。已んぬるかな已んぬるかな。吾安くに往くとして可ならざらん。又何ぞ其の間に厭戀するに足らん」と文が結ばれている。「其の生や浮雲然」は『莊子』刻意の「其の生は浮べるが若く、其の死は休むが若し」に基づく。また「浮雲」は白居易がよく用いる語で、一例に開成5年(840)の「老病幽獨偶吟所懷」詩(卷68・3461)に「已に心を將て浮雲の外に出だし、猶ほ形を逆旅の中に寄す」とある。これには「維摩經に云ふ、是の身は浮雲の如し」という自注を附すが、それは方便品の「是の身は浮雲の如く、須臾にして變滅す」からの引用である。「其の死や委蛻然」の「委蛻」も『莊子』の知北游に「孫子は汝の有には非ず。是れ天地の委蛻なり」とあるのに據っており、この句は蝉の脱皮に譬え、死は一つの過程に過ぎない、と言わんとしている。白居易が佛教と老莊思想に依據して大患を乘り越えようとしたことを先に述べたが、それと同樣に道佛の説くところに從った死生觀をもって、變化に任せ泰然として死に向かう心境がこの「墓誌」末尾に表わされている。

ただし、こうした死生觀は、決して「墓誌」自撰のころに始まったわけではない。たとえば元和10年(815)44歳の所詠「贈杓直」(卷6・0270)に「早年には身世を以て、直に逍遙の篇に付く。近歳には心地を將て、迴て南宗禪に向かふ。……形を老少の外に委ね、懷ひを生死の間に忘る」とある。しかし開成4年の風疾以降の白居易は死を直視せざるを得なくなったであろうから、今まで以上に深く道佛の死生觀を受けとめたと思われる。「墓誌」の自撰は、甘んじて死に從う覺悟のできた白居易が埋葬の準備として記したものであるが、また自分自身の墓誌銘を書き表わすことによって、死を客觀的に捉え、死の恐れから解放が求められるという效果もあったようだ。先に引用した「老病相仍以詩自解」詩の「詩を以て自ら解く」という題が示すごとく、老いと病が同時に押し寄せたことを詩に詠い、それによって憂苦を解消できたのに等しいものが「墓誌」自撰にも感ぜられはしまいか【注14】




三 風疾後の佛教信仰

白居易が佛教と老莊を心のよりどころにして病氣を克服し、また死を達觀したことを前章に述べたが、大患の翌年の開成5年(840)になると佛教的傾向を深め、居士としての立場をはっきりと取るようになっている。いうまでもなくそれは風疾を患い死をみつめたことに起因していよう。そこで、この年に重ねて行われた佛教關連の事跡をたどれば、晩年の病氣が白居易の精神面にいかに大きな影響をもたらしたかをより以上に理解でき、ひいては「墓誌」自撰の動機を今一度確認できると思われるので、次にこのことを論じてゆきたい。

病後の白居易が佛教信者として手初めに行った大きな事業は、「俸錢三萬」【注15】を喜捨して西方極樂淨土を畫幅に描かしめ、功徳が一切衆生のための廻向になることを願ったことである。その掛け軸に記した「畫西方幀記」(卷70・3605)の一節には、

(官銜を略す)白居易、衰暮の歳に當たって風痺の疾に中たる。乃ち俸錢三萬を捨し、工人杜宗に命じ、敬して阿彌陀・無量壽の二經を按じて、西方世界一部を畫かしむ。……弟子居易、香を焚き稽首し、佛前に跪いて、慈悲の心を起こし、弘誓の願ひを發す。願はくは此の功徳、一切衆生に迴施せんことを。一切衆生の中に我の如く老いたる者有り、我の如く病みたる者有らば、皆願はくは苦を離れて樂を得、惡を斷って善を修め、南部(唐の國)を越えずして、便ち西方を覩んことを。

と述べられており、淨土繪を作成した白居易の意圖が「衰暮の歳」に罹った「風痺の疾」、すなわち「老病相仍る」苦しみから逃れ、安樂を求めるためであったことが分かる。またこの文においては、「願はくは此の功徳、一切衆生に迴施せんことを」といった後で、功徳を受ける對象を「我の如く老いたる者」と「我の如く病みたる者」とに限定している點を見落としてはならない。白居易がこのように同じ苦しみをもつ人々の救濟を願ったのは、「慈悲の心」や「弘誓の願ひ」もさることながら、自分が高齡で風疾を患い苦しんでいるだけに、他人の老病のつらさが身にしみて分かったからであろう。

この「畫西方幀記」は開成5年3月15日の日附をもつが、さらに同じ月、兜率天の彌勒の内衆を描いた佛畫も作り、「畫彌勒上生幀記」(卷70・3606)を記している【注16】。それには「南贍部洲大唐國、東の王都の香山寺の居士、太原の人、白樂天、年老いて風を病み、身に苦しみ有るに因って、遍く一切の惡趣衆生を念ひ、願はくは我が身に同じく、苦を離れ樂を得んことを」と書き起こす。彌勒上生の掛け軸は、6年前の大和8年(834)に僧侶・優婆塞140人と共に捨財して作ったことがあったが(卷61・2943「畫彌勒上生幀讚并序」)、今回は獨力で改めて描かしめるに至ったのである。發願はひとえに老いて風疾の苦しみを受けたがためであった。これは「畫西方幀記」と全く制作の動機が等しい。また「我の若く老病もて苦しむ者、皆本願の如きことを得ん」という記述があるが、これも「畫西方幀記」と共通する内容である。このように趣旨を同じくして佛畫を二本も作り祈願をこめたところに、白居易の深い老病の苦しみが容易に想像できよう。

白居易は「畫彌勒上生幀記」に「香山寺の居士」と自稱しているが、同じ開成5年の作に「在家出家」(卷68・3463)と題する七律がある。那波本では前後に夏秋の交の詩が配列されているので、この詩も同じ頃の所詠と思われる。この年の秋、彼は大和6年(831)に元稹の墓誌文で得た潤筆料を捨施して重修した香山寺に經藏堂を建立した。落成した9月25日に「香山寺新修經藏堂記」(卷70・3607)が著わされている。そこには「道場主の佛弟子香山居士樂天」と記している。白居易の「香山居士」の號はこの時に始まると思われる。これも佛教信仰が本格化した表われであろう。

 

四 香山寺奉納『白氏洛中集』の序文

11月になって、白居易は新修なった香山寺の經藏に『白氏洛中集』を納めた。奉納に際して著わした「香山寺白氏洛中集記」(卷70・3608)の冒頭に「白氏洛中集なる者は、樂天洛に在って著はす所の書なり。大和3年春、樂天始めて太子賓客を以て東都に分司し、茲に及びて十有二年なり。其の間格律詩を賦すること凡そ八百首、合はせて十卷と爲す」とその編集を説明している。この度も「今生世俗の文字の業、狂言綺語の過ちを以て、轉じて將來世々讚佛乘の因、轉法輪の縁と爲らんことを」祈願しての奉納であった。この發願は風疾前に『文集』67卷を蘇州南禪院に納めた時と變わらない。異なるのは、「嘻(ああ)、垂老の年、筆を此に絶たん」と老いのために吟詠の終結を迎えることを豫期した言葉を加える點である。ここにも前年の大患が契機となって死期の近いことを悟った白居易の胸中が窺われる。

ところで『白氏洛中集』は、大和8年(甲寅、834)に在洛5年間の432首を編集した「洛詩」にその後の作を増補し、大和3年(829)春以來の12年間の洛陽生活で詠まれた詩を總合したものであったが、その詩軸に附された序文も大和8年の「洛詩」のそれに手を加えたものであったようだ。大和8年の「洛詩」の序は先に言及した「序洛詩」であるが、『管見抄』本はその末尾が諸本の如く「集而序之、以俟夫採詩者、甲寅歳七月十日云爾」となっておらず、「集而序之、藏唐龍門香山寺院、以俟夫採詩者、時開成五年冬、樂天自序云爾」に作っている。このことから「序洛詩」を今回の序文に用いたことが推測できる。

ただし『管見抄』ではかように文末を異にするが、それ以外の字句においては概ね那波本などの諸本と等しい。ところが文末に「藏唐(?)龍門香山寺院」「開成五年冬樂天自序」という校語を加える尊經閣文庫所藏の天海舊藏那波本(以下、天海本と稱す)では、異文の注記はこれに止まらず、「自三年春、至八年夏、在洛凡五周歳、作詩四百三十二首」という部分において、「三年」には「大和」、「八年」には「開成五年冬」、「四百三十二」には「十卷合八百五十五首」と右傍に書き入れが見られる。これに據れば『白氏洛中集』の序が「序洛詩」を用いた修補の文であったことが一層よく分かるであろう。

しかし殘念ながら、風疾を經た開成5年冬の状況をすべて反映した修補が天海本の校語に確認できるわけではなく、その時點からすれば改めるべきなのに、校語が加えられていないところが散見する。例えば「在洛凡五周歳」に「周」字がない旨の校語が加えられているものの、開成5年までの在洛期間である12年の實數には改められていない。また開成5年當時の職位である太子少傅に言及されておらず、「亦欲知皇唐大和歳、有理世安樂之音、集而序之」という末尾でも開成の年を加えない【注17】。こうした不十分さは蓬左文庫本の那波本(以下、蓬左本と稱す)の書き入れも同樣だが、この本には天海本にも見られない重要な異文が見られるので、次に紹介しておきたい。

蓬左本の注目すべきは、先に第一章で「序洛詩」の後半の一節として引用した部分のうち、「斯二樂也」から「茲又以重吾樂也」までを左記の通りに改修することが示された校語の存在である。なおこれは上層に書き入れたうえに、改めて附箋に記されている。

此所以爲樂二也、大凡詩之作也、切於理者其詞質、適於意者其韻逸、質近俗逸近狂、然則苟決吾心、苟樂吾道、俗狂之誚、安敢逃之、噫亦猶罪丘知丘皆以春秋耳【注18】(逗點は原本による)

はじめの「此れ樂しみを爲す所以の二なり」は前文を結ぶ句である。以下の「大凡そ詩の作や、理に切なる者は、其の詞は質にして、意に適する者は、其の韻は逸なり。質は俗に近く、逸は狂に近し。然らば則ち苟くも吾が心を決し、苟くも吾が道を樂しまば、俗狂の誚り、安んぞ敢へて之を逃れんや。噫(ああ)、亦猶ほ丘を罪し丘を知るは、皆春秋を以てするがごときのみ」という文は、白居易の詩に關する考えが示されていて甚だ貴重である。説理に即した詩は言葉が質朴となる。また心のままに詠めば情趣は奔放となる。質朴さは「俗」に近くなり、奔放さは「狂」に近づく。しかしながら、そうした詩を心によしと決め、詩を詠むことを我が進むべき道であると樂しんでいさえすれば、「俗狂」の詩であるとの非難も甘んじて受けよう、と彼は自分の詩作に大きな誇りをもった。「俗狂の誚り」は後世のいわゆる「白俗」を暗に自覺しているようで興味深い。

引用部の結びは、『孟子』滕文公下の「我を知る者は、其れ惟だ春秋か。我を罪する者は、其れ惟だ春秋か」という孔子の言葉に基づく。その言わんとするところは、非難も理解も詠じた詩を通して起こるものであるが、自分の眞情はすべてこの詩集に表出しているのだという自負を表わしたものと解釋できるようだ。これと同樣に孔子の『春秋』になぞらえた表現は「香山寺白氏洛中集記」の終わりにも見え、「嘻(ああ)、垂老の年、筆を此に絶たん。我を知る者有れば、亦た隱すこと無からん」と述べられている。「隱すこと無し」は『論語』述而の「子曰く、二三子、我を以て隱すと爲すか。吾は隱すこと無きのみ」を典故とする。この一節は、老い先短い老人の身ゆえに、これにて絶筆になるだろうが、自分のすべてが如實に表わされたこの『白氏洛中集』を理解者の手に委ねたい、という白居易の願いを述べたものであろう。

上に引いた蓬左本「序洛詩」の校語や「香山寺白氏洛中集記」に窺われるように、白居易は己のすべてを物語るものは作品集であるという信念を抱いていた。ここで「墓誌」に目を向けると、その中ほどに「凡そ平生の慕ふ所、感ずる所、得る所、喪ふ所、經る所、逼る所、通ずる所、一事一物已上は布(あまね)く文集中に在り。卷を開いて盡く知る可きなり。故に備さには書かず」とある。これは正に彼のかかる信念と一致していよう。白居易の身世はこれまでの作品に盡く見られると表明するからには、それについて詳しく墓誌銘に記す必要はない。また彼獨自の文學性を具えた墓誌銘を書くこともない。自撰「墓誌」はありきたりでよかったのである【注19】

さらに「墓誌」と白居易の他の作品との共通點を附け加えるならば、「慕ふ所、感ずる所、云々」という疊み掛けた言い回しは、「君の爲、臣の爲、民の爲、物の爲、事の爲にして作る」という「新樂府」序(卷3・0124)を彷彿たらしむるし、先に言及したごとく「墓誌」の銘文に述べられた死生觀は、風疾後の詩にも見られた。また「墓誌」の「外は儒行を以て其の身を修め、中は釋教を以て其の心を治め、旁ら山水・風月・歌詩・琴酒を以て其の志を樂しましむ」という記述は、白居易の處世をよく表わしたものといえよう。「醉吟先生傳」にも「性、酒を嗜み、琴に耽り、詩に淫す。凡そ酒琴詩客、多く之と游ぶ。游ぶの外には、心を釋氏に栖ましめ、小中大乘法を通學す」といい、「空門の友」と「詩友」に併せて「山水の友」を擧げ、洛陽内外の道觀・佛寺・丘墅で「泉石花竹有らば、游ばざるということ靡し」と述べられている。「序洛詩」にも「之を文るに觴詠絃歌を以てし、之を飾るに山水風月を以てす」と記されていた。

岑仲勉氏は「《白集・醉吟先生墓誌銘》存疑」において、10條の疑點を擧げて「墓誌」の僞作を主張した。岑氏が指摘した疑點は殆ど白居易の事跡に關する部分に向けられていたが、拙稿「白居易『醉吟先生墓誌銘』の眞僞」で論じたとおり、それは開成4年の風疾後の制作を示す自注をもつ『管見抄』本「墓誌」が利用できなかった資料的制約が生んだ謬見であり、現行の「墓誌」に加えられた後人の妄改や補筆を判斷できなかったことに起因する誤解であった。また小論に上述したごとく、「墓誌」に窺われる處世、死生觀、文集に對する見解のすべては、開成4年前後の白居易のものとして何ら矛盾するところがない。「墓誌」は白居易によって自撰せられたと考えてよく、『管見抄』の題注も白氏自身のものと判斷して間違いなかろう。

 

お わ り に

白居易は「墓誌」に臨終の場面を想像して、妻と姪【注20】に與えた次のような言葉を記している。

吾の幸ひなるや、壽は七十を過ぎ【注21】官は二品に至る。世に名有るも、人に益無し。襃優の禮、宜しく自ら貶損すべし。我歿せば、當に斂するに衣一襲を以てし、送るに車一乘を以てすべし。鹵簿を用ひて葬むること無く、血食を以て祭ること無かれ。太常に諡を請ふこと無く、神道碑を建つること無かれ。但だ墓前に於いて一石を立て、吾が醉吟先生傳一本を刻するのみにして可なり。

これは白居易が薄葬を命じた遺言である。唐代の墓誌を博渉した中砂明徳氏の「唐代の墓葬と墓誌」(1993年京都大學人文科學研究所『中國中世の文物』)によると、墓誌の中に遺言が「しばしば現われるようになるのは唐中期以降と言ってよ」く、また「薄葬への言及は700年を境にした邊りからとりわけ目立つようになる」という。それゆえ白居易の時代に薄葬を遺言することは特殊な例ではないが、彼より先に卒した友人のひとりの令狐楚も行っていることは注目すべきであろう。もっとも令狐楚の場合は自撰の墓誌銘に記したものではないけれども、彼が次に取り上げる裴度と同樣に、白居易晩年の「詩友」(「醉吟先生傳」)であった劉禹錫を媒介にして共に吟詠の樂しみをもった人物であったので、その薄葬を傳える遺命が白居易に影響したと考えられなくはない。さらに兩者の遺言に相似たところが見られることは、かかる推測をいささか確かにするようだ。『舊唐書』令狐楚傳に據ると、開成2年(837)彼は死を前にし、次のごとく息子に言い遺したという。

吾が生は人に益無し。諡號を請ふこと勿れ。葬日は鼓吹を請ふこと勿れ。唯だ布車一乘を以てし、餘は飾を加ふること勿れ。銘誌は但だ宗門を志すのみにして、筆を秉る者は高位を擇ぶこと無かれ【注22】

冒頭とほとんど等しい句が白居易にもあったことに直ぐ氣附かされる(原文 令狐「吾生無益於人」、白「無益於人」)。葬儀の手筈を具體的に命じた以下の部分では、これ程の一致は見られない。ただし、およそ高官の薄葬は同樣にならざるを得ないのかもしれないが、内容的には近いものを感ずる。

いまひとり白居易の「墓誌」との關連で附言しておきたい人物がいる。その人は中唐の政治史に大きく名をのこす裴度である。彼も白居易としばしば唱和を樂しんだ人として知られている。白居易は開成3年(838)に裴度から馬を贈られた際に、「愛妾換馬」の古歌に基づき愛妾と交換したいと冗談も寄せられるほどの親密な交際を續けていた(卷67・3346「酬裴令公贈馬相戲」)。裴度は開成4年3月に薨去したが、歳暮、白居易は彼を梁の孝王に、自分を枚乘になぞらえ、「梁王館を捐てし後、枚叟門を過ぎる時。感有りて人は還た泣き、情無くして雪は知らず」、とその死を偲んだ「雪後過集賢裴令公舊宅有感」(卷68・3424)を詠じている。

かように白居易晩年の重要な友人であった裴度が墓誌銘を自撰したと傳えられている。裴度の自撰墓誌は北宋後期の王讜の『唐語林』卷二に、

裴晉公自ら誌銘を爲りて曰く、裴子の子爲るの道は家牒に備はり、臣爲るの道は國史に備はる。

と録されている。周勲初氏『唐語林校證』(1987年 北京 中華書局)によれば、この條は出處未詳とのことであるが、上の引用に續き杜牧・顏眞卿と共に白居易の墓誌銘の自撰にも言及しており、極めて貴重な資料といえる。ただし裴度の自撰墓誌銘の全文は現存しておらず、上引の隻句しか見られない。しかしながら、孝の道を盡くした私人、また臣下の道を全うした公人としての全貌は家牒と國史に完備しているという裴度の誌文は、平生の思いや經歴等、すべて文集中にあるから「備さには書かず」と記していた白居易の「墓誌」の一節を思い出させる。墓誌銘の自撰といい、その内容といい、白居易の「墓誌」自撰の背景には、親密に交際した裴度の影響もあったように思われる。




【注1】 『文苑英華』卷九四五は宋版を佚する。影明版は「銘曰」の2字が多いが、靜嘉堂文庫所藏明鈔本はこの2字がなく、紹興本と同樣に凡て549字から成る。

【注2】 「歴史語言研究所集刊」第九本。また『岑仲勉史學論文集』(1990年 北京 中華書局)所收。

【注3】 以下、白居易の詩文は那波本に據って卷次を示し、花房英樹氏『白氏文集の批判的研究』が定める作品番號を附記した。また引用に際しては特に斷らない限り那波本を底本とした。そして影印金澤文庫本、『管見抄』、蓬左文庫所藏那波本、尊經閣文庫所藏天海舊藏那波本、影印紹興本、平岡武夫・今井清校定『白氏文集』をもって參訂したが、校勘の結果を明記しないこともある。

【注4】 引用は『管見抄』に據る。ただし「觴詠」の「觴」字を「獨」に作るのを那波本・紹興本に從い改めた。『管見抄』は「獨」字の右傍に「觸」と校注を加えるが、これは恐らく「觴」字の筆誤であろう。なお那波本・紹興本・馬元調本には「大和三年」の「大和」二字、「斯二樂也」の「二」字がない。前者の場合、大意に問題はないが、後者の異同は無視できない。紹興本に據る顧學頡氏校點『白居易集』や馬元調本に據る朱金城氏『白居易集箋校』は、「斯樂也」の前に句點を打ち、この三字を下文に屬せしめる。立野春節訓點本は「斯」字の下に「ノ」と假名を附し、川合康三氏「白居易閑適詩攷」(本文前掲論文)は「斯の樂や、實に云々」と訓じ、やはり下に續ける。しかし、それでは下文の「茲又以重吾樂也」の「又」が意味をなさない。前文の「一樂」にさらにまた重ねる「吾が樂しみ」が「實本之於省分知足」以下の事柄であるからには、「一樂」に重ね加わる「樂」がその前になければならない。それが在洛の作詩をいう「自大和三年春」から「蓋亦發中而形外耳」までを指すことは明らかであるから、その結句には「二樂」とあるべきだ。すなわちこの句は「斯二樂也」に作る『管見抄』が正しく、上文に屬せしめて解するのがよい。

【注5】 白居易墓前の碑については拙稿「李商隱の『白公墓碑銘』」(1997年2月20日「學林」第26號 中國藝文研究會)の注2を參照されたい。

【注6】 「狂言綺語」の「狂言」を諸本「放言」に作る。今『管見抄』に從った。尊經閣文庫の天海舊藏那波本の書き入れ(卷61末に梶原性全の識語の移録あり)にも「狂言」とする本の存在が示されている。「狂言綺語」は佛教で説く十惡のうちの妄語(僞り)と綺語(戲れ言)に相當する。なお花房英樹氏『白居易研究』(1971年 世界思想社)の第三章に「『狂言綺語』の自覺」という一節がある。

【注7】 開成5年春の「臥疾來早晩」詩(卷68・3436)に「酒甕全く醭(かび)を生じ、歌筵半ば塵に委ぬ」という。ただし全面的に酒を斷ったわけではないことは今井氏前掲論文に言及されている。なお埋田重夫氏「白居易の詠病詩の考察」(1987年6月「中國詩文論叢」第6集)に白居易の病氣と飮酒の關連が論じられている。

【注8】 子桑戸・孟子反・子琴張の三人は莫逆の友であった。子桑戸が亡くなると、他の二人は埋葬せずに琴を鼓して歌うなどしていた。子貢が孔子の命を承けて弔問からもどってなした報告の言葉に、「彼は何人なる者ぞや。修行有ること无くして、其の形骸を外にし、尸に臨んで歌ひ、顏色變ぜず。以て之に命くる无し」とある。成玄英の疏は「其の形骸を外にす」を「形骸を忘外し、生死を混同す」と解釋している。また白居易の元和5年(810)の「和答詩十首」の序(卷2・0100)にも「語は相勉めて方寸を保ち、形骸を外にするに過ぎざるのみ」と用いられている。

【注9】
 樊素と白居易との關わりは橘英範氏「白居易と樊素」(1994年12月「廣島大學文學部紀要」54卷)に詳しい。

【注10】 『管見抄』に據る。ただし「善」字は『管見抄』が「若」に作るのを那波本・紹興本に從い改めた。

【注11】 朱金城氏『白居易集箋校』は「宋本・那波本作『二百三十五言』、馬本作『二百五十五言』、倶誤」といい、盧文弨『群書拾補』の校勘に從い「二百三十四言」にしている。なるほど宋本・那波本の「不能忘情吟」本文の字數は234字であるが、『管見抄』は諸本と少しく文字の異同があって236字から成る。ただし序では「二百三十五言」に作る。

【注12】 入谷仙介氏「白居易と女性たち」(1993年4月「中國文化論叢」2號)は「白居易は自分の餘命が長くないことを悟り、若い樊素が、眄眄のように、自分に義理立てをして、その身を埋もれさせることになることを恐れ、家産整理に事寄せて彼女を解放し、家から出したものに違いない」と論ずる。なお「眄眄」とは白居易「燕子樓」(卷15・0860〜62)に詠われた、主人の死後も操を守って舊居を離れず小樓に侘び住まいした妓女をいう。

【注13】 『莊子』大宗師に、死を迎えようとする莫逆の友、子來を見舞った子犁が「偉なるかな造化。又た將に奚くにか汝を以て爲さんとする。將に奚くにか汝を以て適かしめんとする。汝を以て鼠の肝と爲さんか。汝を以て蟲の臂と爲さんか」といったとある。

【注14】 「題詩屏風絶句」の序(卷17・1046)にも「鬱鬱として相念ひ、多く吟詠を以て自ら解く」という。

【注15】 『唐會要』卷91・内外官料錢の貞元4年(788)の條に從えば、當時、白居易は太子少傅であったので、月俸は一百貫文(十萬錢)を受けていた。

【注16】 尊經閣文庫所藏天海本の那波本には文末の「開成五年三月日記」の「月日」の間の右傍に「十五」の2字が補記されている。これに據れば兩「幀記」は同日の作となる。

【注17】 なお「今壽過耳順、幸無病苦、……此一樂也」という部分では、「病苦」の「病」字に「憂」と注するのみである。これでは風疾以降しばしば老病を訴える實情と合致しないようだ。しかし「病中詩」に見られるごとく佛教や老莊を心の支えとして老病を乘り越え、「樂天は命を知りて了に憂ひ無し」という意識が白居易には強かったので、ここの文意を改めることがなかったのであろう。

【注18】 岡山大學池田家文庫所藏那波本にも同樣の校語が上層に書き入れられているが、いささか譌脱があり、「此所以爲樂二也、大凡詩之作也、功(當作切)扚(當作於)理者、其詞(下空五格)適於意者、其韻逸、(脱質近俗逸四字)近狂然則苟決吾心、苟樂吾道、俗狂之誚、安敢逃之、意(當作噫)猶罪丘(脱知丘二字)皆以春秋耳、(逗點は原本のまま)」と記す。なお、この本には篇末「甲寅歳」の「甲」字の上に墨圈を加え、上層に「開成五年冬樂天謹(天海本・蓬左本作自)序」「或本作此九ケ字」の書き入れも見られる外、蓬左本とほぼ同じ校語が録されている。

【注19】
 白居易の「墓誌」がありふれた墓誌銘であったことは、川合康三氏『中國の自傳文學』に「ふつうの墓誌銘としての性格は、當人の名前、家系、家族、官歴についての記述がかたちを備えていること。しかしそれら墓誌銘として要求される要素はすべて最小限の記載だけで、特徴は死に對する心の態度が念入りに書かれていることで、それは一般の自撰墓誌が備える特徴である」と指摘されている。また中砂明徳氏「唐代の墓葬と墓誌」によれば、「唐全般を通じて言うと1,000字を越えるものはやはり少數派であって、普通は500〜600字程度である」とのことなので、549字からなる白居易の「墓誌」は篇幅の上でも普通であった。

【注20】 この場面より前に「墓誌」には姪孫(正しくは姪−おい−)の阿新(白居易の兄幼文の次子景受)の名が見えるが、臨終に登場させた姪は恐らくこの者ではなく、白居易が晩年にわが子のように目をかけ、後に75卷の文集をも託した弟行簡の子龜郎を指すであろう。

【注21】
 70の年齡は、後人が白居易の實際の卒年に合わせて改めたようだが、どうもこれは、もと「近」に作っていたのを「過」に改めたものと思われる。なお『文苑英華』は「過」に作り、下に「一作登」の校注を附す(靜嘉堂文庫所藏明鈔本同じ)。

【注22】
 『册府元龜』卷907・總録部・薄葬にも彼の遺誡は「吾生何益於人、無請諡號、無受軍府賵贈、葬以布車一乘、無或加飾、無用鼓吹、銘誌能敍事者則爲之、無擇高位」と記されている。冒頭の句は反語表現を取るが、もとより文意に『舊唐書』との違いはない。なお『新唐書』令狐楚傳は「吾生無益於時、無請諡、勿求鼓吹、以布車一乘葬、銘誌無擇高位」と刪修する。




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