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第一章  『文選』全體像の概觀

一、收録作品の統計による『文選』全體像把握の必要性

現存の『文選』六十巻には、紀元前五世紀の東周の「毛詩序」(卜子夏撰)から、紀元五世紀の梁朝中期の「廣絶交論」(劉孝標撰)に至る、130餘名の作家の481篇762首の詩文が收録されている【注1】

これは『文選』の撰者が、周漢以來創作され、集積されてきた夥しい詩文の中から、「其の蕪穢を略し、其の清英を集め」(「文選序」)た結晶であると言える。『文選』の撰者は、これによって梁代初期の「王公搢紳の士を觀るに、毎に博論の餘に、何ぞ嘗て詩を以て口實と爲さざらん。其の嗜欲に隨ひて、商榷同じからず、淄澠並び泛れ、朱紫相奪ひ、喧議競ひ起こり、準的依る無し」(「詩品序」)といった「淆亂」した詩壇や「京師の文體を見るに、懦鈍なること常に殊なり、競ひて浮疎を學び、爭ひて闡緩を爲す」(「與湘東王書」)といった規準なき文壇に對して依據すべき規範を明示しようと志したものである。それ故、『文選』には本來、各文體にそれぞれ撰者の主張に沿った一定の選録規準や傾向性が存在しているはずである。

從來の『文選』研究では、この規準や傾向性を究明するに際して、762首の全收録作品の詩文を一々丁寧に分析檢討して歸納・演繹する方法は全く顧慮されず、常に先に撰者昭明太子自身の文學觀や「文選序」の文學思想を中核的規準として据えて、『文選』全體の性質の分析檢討を行うという比較的簡便な方法が採用されてきた。その結果、結局、『文選』は「文質彬彬」たる詩文を收録した「古典的」詞華集であるとずっと規定されてきている。

しかし、この規定は「文質」・「古典」の凾義が曖昧な上、例えば、内實は修飾性過多の文章が中核を占めているという事象が存在している點からも分かるように、實際の『文選』收録作品が内包する規準や傾向性とは齟齬矛盾する點が多々あり、いまだなお殆ど措信できる定論にはなり得ていない。

これはやはり昭明太子の文學觀を中核的規準として全面に据えて、『文選』の全體像を究明しようとする方法にもともと無理があったのである。『文選』は、後述するように、決して昭明太子一人が編纂したものではなく、有力な近臣の協力によって完成したものである。それ故、本來、實質的撰者の特定もせず、單に太子の文學觀のみに依據して安易に『文選』の性質を分析檢討しているようでは到底措信できる結論が得られるはずはないのである。

先ず「宏觀的」手法で『文選』收録作品の内容を分析檢討し、そこに存在する選録規準や傾向性を大まかに把握する。その後、更に「微觀的」手法により逐一「撰者の特定」や各文體ごとの「選録規準の究明」等といった諸問題の詳細な檢討を實施する。そして、そこで得られた各結論を有機的に關聯づけ、全體的、総合的に考察する。これら一連の究明を通じてこそ、はじめて『文選』の全體像を解明し得るのである。この方法が現在のところ最も有効で正當な『文選』實像の究明法であると考えられる。

從來の研究は、確かに『文選』收録作品の一部を詳細に分析檢討した結果、部分的な眞相を究明し得て、相當の成果を擧げ、進展してきたと言える。しかし、その殆どが各部分に分斷限定された問題の分析檢討に腐心し過ぎたあまり、各問題を有機的に關聯づけ、総合的に究明するという大事を閑却にしてしまっている傾向が強かった。あたかも「木を見て森を見ず」の如き状態に陷り、圖らずも『文選』の全體像を見誤る結果となっているのである。分斷限定された土地の情況をいくら詳細に分析研究したところで、廣い宇宙的視野をもって全體を分析檢討しない限り、實際に自轉公轉する球形の姿をした地球という全體像は見えて來ない。

こうした從來の研究の實情に鑑み、先ず壓倒的に高い傳統的な『文選』評價に先入觀を持つことなく、その全體像を俯瞰し、『文選』が如何なる規準や傾向性を有する詞華集であるかという大枠を外面からできるだけ客觀的に把握しておくことが肝要なのである。

そこで、煩を厭わずに、以下にまず『文選』の全收録作品の標題と作者名とを時代順に並べ換えて列擧し、その大まかな全體像を示しておく。これを外面から通觀し、『文選』は具體的に如何なる時代の、如何なる作家の、如何なる作品をどの程度選録しているかを分析考察し、『文選』全體の大體の性質を把握しておきたい。

もっともこの『文選』收録の撰人130餘家を時代順に列擧し、各家の下に收録作品を分隸して表示するという方法は、清朝の汪師韓が發明し、自著『文選理學權輿』において既に採用している方法である。しかし、汪氏はあくまで「檢觀」の便利に供するという目的だけに限定しており、これによって詞華集である『文選』全體の性質を分析し、大まかに把握しておこうとする意圖は全く見られない。

民國の駱鴻凱も『文選學』第五章「撰人」において、汪氏の誤謬箇所を訂正した後、この方法をそのまま踏襲している。しかし、駱氏もわずかに古樂府・古詩の撰者名や司馬長卿「長門賦」、李少卿「與蘇武詩」・蘇子卿「古詩」、李少卿「答蘇武書」の僞託問題に關する先人の議論を列擧した後、この二問題に關する自らの見解を稍しく記述するのみに止まり、やはり『文選』全體の性質を把握しておこうとする視點は少しも見られない【注2】

また、近年の我が國における諸種の『文選』注釋書においても、また、この方法が採用されてはいるが、遺憾なことには、依然としてこれを用いて『文選』全體像の解明に努めようとする姿勢は全く認められない【注3】

古來リンゴが木から落ちるという現象はずっと存續しているが、ただ漫然と見ているだけでは「萬有引力」は決して發見できない。觀點を變えず、感覺だけに頼っていては、なお依然として太陽は地球を囘っている。廬山の眞面目は、廬山中にずっと籠もっていては決して見えない。あるいは側面より、あるいは縱面より、自由無碍に見てこそ、初めて見えてくるという。たとえ同じ方法であったとしても、異なった視點からもう一度見直してみることは學問研究の進展にとって是非必要なことなのである。


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