第2章-3-3へindexへ第2章-4-2へ

 

第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(一) 「古今詩苑英華十九巻」の編纂實態

『梁書』本傳及び『隋書』經籍志によると、昭明太子の編纂した「總集」は四篇存在したという。「正序十巻」(『隋書』に記載なし)・「文章英華二十巻」(『隋書』には「三十巻」に作る)・「文選三十巻」・「古今詩苑英華十九巻」(『梁書』に記載なし)である。

この中、「正序十巻」と「文章英華二十巻」は、『梁書』にそれぞれ「古今の典誥文言」と「五言詩の善き者」を選擇編纂したものであるとの簡單な記述があるのみで、それ以上の實態を説明したものはなく、具體的な編纂情況は全く分からない【注5】

一方、『隋書』經籍志に「昭明太子撰」と明記されている「古今詩苑英華十九巻」は、不思議なことに『梁書』・『南史』の昭明太子傳には全く記載がない。しかし、遺存している『昭明太子集』中の書簡「湘東王の文集及び詩苑英華を求むるに答ふるの書」の記述に據ってその存在を確認することができるのみならず、少々その内容や編纂實態をも知ることができる。

この書簡には、少いときから「文章」・「學問」を愛好し、四季折々の自然に親しみつつ、あるいは詩文創作に勤しみ、あるいは文人・學者と古今の經書・篇籍を討論・商榷する太子自身の日常生活が記されている。

なかでも殊に「愛賢の情、時とともに篤し。駿を市ふに同じからんと冀ひ、龍を畏れるに匪ざるに庶し。子晉を追はざれども、事は洛濱の游に似、多く子桓に愧づれども、興は漳川の賞に同じ。舟を玄圃に漾ぶれば、必ず應阮の儔と集ひ、輪を博望に徐にせば、亦た龍淵の侶を招く。仁義を校覈し、源は山川に本づく。旨酒罍に盈ち、嘉肴俎に益す。曜靈既に隱るれば、之に繼ぐに朗月を以てす。高春既に夕となれば、之を申すに清夜を以てす。並びに篇を連ぬるを命じ、茲に在りて彌いよ博し。」などといった記述は、いかにも太子自身が側近とともに詩文集を編纂するに相應しい情況が描寫されている。その上、最後に『詩苑英華』の編纂について太子自身が「往年暇に因り、英華を捜採し、上下數十年の間、未だ詳悉し易からず。猶ほ遺恨有れども、其の書已に傳はる。未だ精覈を爲さざると雖も、亦た粗ぼ諷覽するに足る。」と記しているからには、太子は確實に中核的編者として實際の編纂に當たっていたと讀みとれる。
しかし、實はこの種の表現だけをとらえて、直ちに太子自身が直接實質的な選録に從事していたと即斷するのは早計に過ぎる。

なぜなら、第一には、例えば昭明太子の父武帝が自らは下命しただけで、直接實質的な編著に攜わっていない『通史』について、「我、通史を造る。此の書若し成らば、衆史廢す可し。」(『梁書』蕭子顯傳)という表現を用いている事例が存在すること。つまり、當時はたとえ自身が直接編纂工作を担當していなくとも、自ら下命した編著書に對しては、主體的に編纂したように記述するのがごく一般的な表現であったからである。

また、第二には、梁朝に生育し、成人後に隋に移り、廣く當時の文壇事情に精通していた顔之推が自著『顔氏家訓』中に於いて、「何遜の詩、實に清巧爲りて、形侶の言多し。揚都の論者、其の毎に苦辛に病み、貧寒の氣饒く、劉孝綽の雍容たるに及ばざるを恨む。然りと雖も、劉甚だ之を忌む。平生何詩を誦して云く、蘧車北闕に響くは、たる不道の車なりと。又た詩苑を撰し、止だ何の兩篇を取るのみ。時人其の廣からざるを譏る。劉孝綽、當時既に重名有り、與に讓る所無し。唯だ謝朓のみに服し、常に謝の詩を以て几案の間に置き、動靜に輒ち諷味す。」の如く、具體的な選録内容にまで言及して劉孝綽が『詩苑』を撰した事實を明記しているからである【注6】

更に、第三には、『梁書』・『南史』の昭明太子傳に太子の撰著として當然あるべきはずの『詩苑英華』が記載されていないからである。

當時の文獻が以上のような情況を提示している限り、上述のような書簡の表現だけを取り上げて、『詩苑英華』は昭明太子が主體的に編纂したものであると決めつけるわけにはいかない。むしろ、曾て父子ともに湘東王の側近として仕え、昭明太子から湘東王に送られて來た『詩苑英華』を親しく實見し、實際に選録内容まで知悉し得た顔之推によって記された記事の方がより正確に眞相を傳えていると判斷して間違いなかろう。

『古今詩苑英華』はやはり他の梁代の「總集」と同じく、昭明太子が下命して、實際には劉孝綽が中核となって編纂に當たったものなのである。勿論、「二紀」に亙り昭明太子の側近であった劉孝綽は、日常的に太子の詩酒の會に參加し、あるいはともに詩文を作り、あるいはともに古今の典籍を討論・商榷していたのであるから、常に太子の意向を推察承知した上で編纂に當たっていたことは言うまでもない。その意味においては當然「撰者」昭明太子の意向も尊重されていたと言える。

一方、昭明太子の方も、『梁書』本傳に記されている通り、實際に自己の「文集」(『昭明太子集』)の編纂を劉孝綽一人に委任しているほどであるから、幼少より薫陶を受けた劉孝綽によほどの信頼感を持っていたのであろう。それ故、昭明太子集團の「總集」である『古今詩苑英華』の實際的編纂に際して、劉孝綽に下命して委任することも至極當然のことと思われる。これが恐らく『隋書』經籍志に「古今詩苑英華十九巻 梁昭明太子撰」と記載されていることの内實であろう。

なお、また一部に『顔氏家訓』中の『詩苑』は『隋書』記載の『古今詩苑英華』とは別物であると考える見方も存在しているようであるが、次の諸點より判斷して、やはり同一「總集」と見るのが妥當である。

『隋書』經籍志は、梁代に存在していた書籍は、たとえ『隋書』編纂時に散佚していたとしても、例えば「梁有雜詩鈔五巻、謝朏撰、亡」の如く、「梁有某書某巻、某撰、亡」と注記している。ところが『隋書』經籍志總集部には「古今詩苑英華十九巻 昭明太子撰。」と記載されているものの、確實に梁代に存在していたはずの劉孝綽撰『詩苑』は注記の形でさえ記載されていない。この事象は劉孝綽撰『詩苑』と『古今詩苑英華』とが同一總集であることを示唆しているに外ならない。

また劉孝綽は昭明太子の最も信頼する側近文人であったのだから、敢えて太子の編纂したものと「同名」に類する總集を「編纂」する道理はない。その上、『梁書』に據ると、數度に亙る免職の結果、劉孝綽の位階は終生高くなかったので、太子の下命でなければ、到底獨力で「總集」を編纂するだけの財力も地位も持ち合わせていなかったであろう。

更に『顔氏家訓』中では、例えば『黄帝龍首經』を『龍首』と記しているように、書名は一般に二字の略稱を用いて記述されている。それ故、『詩苑』も當然『詩苑英華』の略稱であると見られる。昭明太子自身も湘東王への返信には正式名の『古今詩苑英華』を略して『詩苑英華』と記している程であるから、一般には『詩苑』で通用していたのであろう【注7】

ひるがえって「文選序」を見ると、ここににおいてもやはり「答湘東王求文集及詩苑英華書」の記述と同樣、確かに太子自身が實際の選録に當たったと受け取れる表現がなされている。

余監撫餘閑、居多暇日。歴觀文囿、泛覽詞林、未嘗不心遊目想、移晷忘倦。自姫漢以來、眇焉悠邈、時更七代、數逾千祀。詞人才子、則名溢於縹嚢、飛文染翰、則巻盈乎緗帙。自非略其蕪穢、集其清英、蓋欲兼功、大半難矣。

しかし、これだけでは上述の『詩苑英華』の實例がそうであったと同樣の理由で、昭明太子自身が主體的に實際の選録に當たっていたと決定する根據とはなり得ない。

そこで次に昭明太子の『文選』編纂に對する關與の實態を究明するために、當時の昭明太子集團及び太子自身の具體的生活情況について稍しく詳細に檢討してみることにしたい。

從來、多くの論者は『梁書』に見られる太子の性格・才能・生活態度から考えて、昭明太子は確乎とした文學觀を保持した文人であるのだから、總集の編纂を他人に委任するはずがない。だから『文選』は勿論この昭明太子自身の「主持」の下、彼の文學觀によって編纂されたものに違いないと主張してきている【注8】。しかし、昭明太子は「總集」の編纂を委任するはずがないと判定する肝腎の根據については、殆ど『梁書』・『南史』昭明太子傳に見られる太子の性格・才能・生活態度の記述をそのまま取り出して來て、太子は傑出した文人であるという事實を擧げるだけに終始している。これだけでは到底昭明太子が「總集」編纂を他人に委任せず、自らが中核となって主體的に編纂した事實を立證したことにはならない。もっと廣く梁代の時代情況を考慮した上で、當時の帝王の性格・才能・生活態度と「總集」編纂實態との比較檢討を行ってこそ、より正確な『文選』編纂の具體的情況が究明されるというものである。そこで次に昭明太子集團及び太子自身の具體的生活面からのアプローチを試みてみることにする。


次へ