第2章-3-2へindexへ第2章-4-1へ

 

第二章 『文選』編纂の實態

三、梁代の「總集」(詩文集)編纂の實態
(三) 梁代のその他の「總集」(詩文集)

昭明太子の叔父に當たる安成王蕭秀も、「當世の高才の王門に遊ぶ者、東海の王僧孺・呉郡の陸・彭城の劉孝綽・河東の裴子野なり。」(梁書巻二十二 太祖五王 安成康王秀傳)というように、多くの文人を集めて、はなはだ聲望の高かった王であったが、「類苑」という「總集」を編纂するに際しては、「術學に精意し、經記を捜集す。學士平原の劉孝標を招きて、類苑を撰せしむ。書未だ畢るに及ばざるに、已に世に行はる。」(同前)と明記されているように、やはり簡文帝や元帝と同樣、自らが中心となって編纂することはせず、わざわざ當時著名であった學士劉孝標を招いて編纂させている。

なお、劉孝標を嫌悪していた梁武帝は、この「類苑」が流布することを妨げるため、わざわざこれに對抗する「華林徧略」を作っているが、その際も、下記の通り、自身は編纂に從事せず、やはり諸學士に命じて編纂させている。

初、梁武帝招文學之士、有高才者、多被引進、擢以不次。峻率性而動、不能隨衆沈浮。武帝毎集文士策經史事、時范雲・沈約之徒皆引短推長、帝乃悦、加其賞賚。會策錦被事、咸言已罄、帝試問峻、峻時貧悴冗散、忽請紙筆、疏十餘事、坐客皆驚、帝不覺失色。自是惡之、不復引見。及峻類苑成凡一百二十巻、帝即命諸學士撰華林徧略以高之、竟不見用。乃著辨命論以寄其懷。論成、中山劉沼致書以難之、凡再反、峻並爲申析以答之。會沼卒、不見峻後報者、峻乃爲書以序。其文論並多不載。【注3】(『南史』巻四十九 劉峻傳)
初め、梁の武帝、文學の士を招き、高才有る者は、多く引進され、擢くに不次を以てする。峻、性に率ひて動き、衆の沈浮に隨ふ能はず。武帝、毎に文士を集めて、經史の事を策す。時に范雲・沈約の徒、皆、短を引き長を推す。帝乃ち悦び、其れに賞賚を加ふ。會たま錦被の事を策す。咸な言ひて已に罄くす。帝試ろみに峻に問ふ。、峻、時に貧悴冗散、忽ち紙筆を請ひ、十餘事を疏す。坐客皆驚き、帝覺えず色を失ふ。是れ自り之を惡み、復びは引見せず。峻の類苑凡そ一百二十巻成るに及ぶも、帝即ち諸學士に命じ、華林徧略を撰し、以て之を高からしめ、竟に用ひられず。乃ち辨命論を著し以て其の懷ひを寄す。論成り、中山の劉沼、書を致して以て之を難ず。凡そ再反す。峻並びに申析を爲し以て之に答ふ。會たま沼卒し、峻の後の報ずる者を見ず。峻乃ち爲に書するに序を以てす。其の文論、並びに多ければ載せず。

具體的には武帝の命を受けた徐勉が監修者となり、鍾嶼・何思澄・劉杳・顧協・徐僧權の五人が實際の選録を担當したのである。

○天監十五年、敕學士撰徧略。嶼亦預焉。(巻四十九 鍾嶸傳附載鍾嶼)
天監十五年、學士に敕して徧略を撰せしむ。嶼も亦たこれに預る。

○天監十五年、敕太子詹事徐勉擧學士入華林撰徧略、勉擧思澄等五人以應選。(巻五十 何思澄傳)
天監十五年、太子詹事徐勉に敕して學士を擧げ華林に入れて徧略を撰せしむ。勉、思澄等五人を擧げて以て選に應ず。
○詹事徐勉擧杳及顧協等五人入華林撰徧略。(巻五十 劉杳傳)
詹事徐勉、杳及び顧協等五人を擧げて華林に入れ徧略を撰せしむ。

なお『舊唐書』經籍志(巻二十六)及び『新唐書』藝文志(巻五十九)以下に於ては、「華林編略六百巻徐勉撰」と記載している。

また、「總集」ではないが、『梁書』武帝紀に「又造通史、躬製贊序、凡六百巻。」と記載され、『隋書』經籍志にも「通史四百八十巻 梁武帝撰」と明記されている『通史』は、『梁書』巻四十九呉均傳に「尋いで勅有りて召見せられ、通史を撰せしめらる。三皇より起して、齊代に訖る。均、本紀・世家を草し、功已に畢はる。唯だ列傳のみ未だ就らず。」と記されていることから明らかなように、實際の撰者は呉均などであり、武帝は「贊序」を撰したにすぎない。唐劉知幾の『史通』にもこのことは明記されている【注4】

以上の「總集」編纂の實例を見る限り、梁代の「總集」は、一般的には『梁書』や『隋書』經籍志の記載の通り、編纂を下命した帝・太子・王侯の名が記されているものの、實際の編纂に當たっては、集團の有力文人が中心となって編纂されている編著の方がより多數を占めている事實が明確になったと判定されよう。

管見の及ぶ限りでは、明確な根據を示して、帝・太子・王侯自身が中核となり、直接編纂に從事したと斷言できる「總集」は一つも見當たらない。このことから見て、梁代の「總集」は集團の聲望を高めるべく、望み得る範圍の最も有力な文人を中心に据え、集團構成員の協力の下に編纂されていたというのが一般的状況であったと斷定してよかろう。

さて、それでは昭明太子の「總集」編纂の場合はどうであったか。次にこの問題について具體的に檢討して行きたい。


次へ