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第二章 『文選』編纂の實態

三、梁代の「總集」(詩文集)編纂の實態
(二) 梁簡文帝編纂の「總集」(詩文集)

簡文帝編纂の「總集」は一書も現存していないが、下記の『南史』庾肩吾傳の記述を見ると、晉安王時代から既に「總集」編纂に力を入れ、相當の成果を擧げていたようである。しかし、實際の編纂は、多くの場合、側近の庾肩吾・徐摛を始めとする「高齊學士」に委任していたもようである。

初爲晉安王國常侍、王毎徙鎭、肩吾常隨府。在雍州被命與劉孝威・江伯揺・孔敬通・申子悦・徐防・徐摛・王囿・孔鑠・鮑至等十人抄撰衆籍、豐其果饌、號高齊學士。
初め晉安王の國常侍と爲り、王の鎭を徙す毎に、肩吾、常に府に隨ふ。雍州に在りしとき、命を被り劉孝威・江伯揺・孔敬通・申子悦・徐防・徐摛・王囿・孔鑠・鮑至等十人と衆籍を抄撰し、其の果饌を豐かにし、高齊學士と號せらる。

例えば、『梁書』簡文帝紀に「著わす所の昭明太子集五巻・諸王傳三十巻・禮大義二十巻・老子義二十巻・荘子義二十巻・長春義記一百巻・法寶連璧三百巻、並びに世に行はる。」(巻四)と記載されている『法寶連璧三百巻』は、『南史』には「初め簡文雍州に在りしとき、法寶聯璧を撰す。罩と群賢と並びに抄掇區分すること數歳、湘東王に命じて序を爲らしむ。其の作者に侍中祭酒の南蘭陵の蕭子顯等三十人有り、以て王象・劉邵の皇覽に比す。」(巻四十八陸罩傳)と記されている通り、實際の選録には、簡文帝蕭綱自身は加わっておらず、蕭子顯以下三十名(實數は三十七名)の文人によって「抄纂」がなされている。このことは、遺存する湘東王蕭繹の「梁簡文帝法寶聯璧序」(廣弘明集巻二十)に、更に具體的に各編纂者の官職・姓名・年齢まで擧げて、明記されている。

毎至鶴關旦啓、黄綺之儔朝集、魚灯夕朗、陳呉之徒晩侍、皆仰禀神規、躬承睿旨、爰錫嘉名、謂之聯璧、聯含珠而可擬、璧與日而方升、以今歳次攝提、星在監徳、百法明門、於茲總備、千金不刊、獨高斯典、合二百二十巻、號曰法寶聯璧。雖玉杯繁露、若倚蒹葭、金臺鑿楹、似呑雲夢。繹自伏櫪西河、攝官南國、十迴鳳琯、一奉龍光。筆削未勤、徒榮卜商之序、稽古盛則、文慚安國之製。謹抄纂爵位、陳諸左方。(梁元帝「梁簡文帝法寶聯璧序」)
鶴關旦に啓き、黄綺の儔の朝に集ひ、魚灯夕に朗かにして、陳呉の徒の晩に侍するに至る毎に、皆仰いで神規を禀け、躬ら睿旨を承け、爰に嘉名を錫はり、之を聯璧と謂ふ。聯は珠を含んで擬す可く、璧は日とともに方に升る。今、歳攝提に次り、星は監徳に在るを以て、百法の明門、茲に於いて總て備はり、千金の不刊、獨り斯典に高し。合せて二百二十巻、號して法寶聯璧と曰ふ。玉杯の繁露と雖も、蒹葭に倚るが若く、金臺の鑿楹は、雲夢を呑むに似たり。繹、西河に伏櫪し、南國に攝官して自り、十たび鳳琯を迴し、一たび龍光を奉じ、筆削未だ勤めず、徒らに卜商の序を榮とす。古の盛則を稽へば、文は安國の製に慚づ。謹んで抄纂の爵位は、諸れを左方に陳ぬ。

ここに「抄纂」に加わった「爵位」の者として記録されている三十七名の構成を見ると、徐摛・庾肩吾といった側近文人の外に、皇太子(晉安王時代を含む)蕭綱に仕えたことのない蕭子顯を筆頭とする「南蘭陵の蕭氏」の八名や明らかに蕭綱の思想と對立的な關係にあった「古體派」の劉顯及び「謝靈運派」の王籍等も編纂に加わっている【注2】

これは「總集」編纂に際しては、必ずしも集團主の思想を中核として編纂されるとは限らず、むしろ出來るだけ有力な文人に委任されていたことを物語っているものと言えよう。

もし集團主の意向や思想を中核にして「總集」を編纂しようと企圖したものであるならば、對立的な思想を持つ有力文人の參加は、阻害にこそなれ、有効に作用することはないから、彼らを編者に加えることはあり得ない。

また『隋書』經籍志に「長春義記一百巻 梁簡文帝撰」と記されている『長春義記一百巻』も、『南史』巻六十許懋傳に「皇太子(簡文帝を指す)召して諸儒と長春義記を録せしむ。」と記されている如く、實際は太子蕭綱が許懋を招聘して、諸儒と選録させたものである。

齊・梁代においては、『梁書』巻四十九庾於陵傳に「齊の隨王子隆、荊州爲りしとき、召して主簿と爲し、謝朓・宗夬とともに羣書を抄撰せしむ。」とあることからも分かるように、その方面の有力者を招聘し、幕僚の文人とともに羣書を抄撰せしめることが多かったのである。

以上のように『梁書』や『隋書』經籍志に「簡文帝撰」と記載されている二篇の「總集」は、實際はともに當時の有力文人が中心となって選録したものであり、簡文帝は決して中核的な編者として重要な役割を果たしていたわけではないのである。


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