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第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(六) 『文選』編纂時に於ける昭明太子の情況

普通七年には昭明太子の生母丁貴嬪が病没している。太子は、母の看病に續く服喪のため、心身ともに疲労困憊しており、側近たちと宴坐を開く餘裕はもとより、自ら「總集」を編纂することすら困難であったと推測される。

(普通)七年十一月、貴嬪有疾、太子還永福省、朝夕侍疾、衣不解帶。及薨、歩從喪還宮。至殯、水漿不入口、毎哭輒慟絶。高祖遣中書舍人顧協宣旨曰、毀不滅性、聖人之制。禮、不勝喪比於不孝。有我在、那得自毀如此。可即強進飲食。太子奉勅、乃進數合。自是至葬、日進麥鬻一升。高祖又勅曰、聞汝所進過少、轉就贏瘵。我比更無餘病、正爲汝如此、胸中亦圯塞成疾。故應強加饘鬻、不使我恒爾懸心。雖屡奉勅勸逼、日止一溢、不嘗菜果之味。體素壯、腰帶十圍、至是減削過半。毎入朝、士庶見者莫不下泣。(『梁書』巻八 昭明太子傳)
(普通)七年十一月、貴嬪疾有り、太子永福省に還り、朝夕に疾に侍し、衣、帶を解かず。薨ずるに及び、歩みて喪に從ひ宮に還る。殯に至り、水漿口に入れず、哭する毎に輒ち慟絶す。高祖、中書舍人顧協を遣わして宣旨して曰く、毀つも性を滅せざる、聖人の制なり。禮、喪に勝へざるは不孝に比す。我の在す有れば、那んぞ自ら毀つこと此くの如きを得んや。即ち強いて飲食を進む可しと。太子勅を奉じ、乃ち數合を進む。是れ自り葬に至るまで、日に麥鬻一升を進む。高祖又勅して曰く、聞くに汝の進む所過少にして、轉た贏瘵に就くと。我比ろ更に餘病無きも、正に汝の此くの如き爲に、胸中亦圯塞して疾を成す。故さら應に強いて饘鬻を加え、我をして恒に爾く心を懸けしめざるべしと。屡しば勅を奉じて勸め逼ると雖も、日に一溢に止まり、菜果の味を嘗めず。體、素より壯にして、腰帶は十圍なるも、是に至り減削すること半ばを過ぐ。朝に入る毎に、士庶の見る者、泣を下さざるもの莫し。

また太子は生母の墓陵の件に關して父武帝の怒りを買い、非常に心痛していたもようであるから、たとえ側近文人が列席可能であったとしても、到底宴坐を開いて古今の篇籍を討論・商榷したり、詩文を作ったりする餘裕はなかったであろう。もし太子がよほど強靭な精神力の持ち主で、その餘裕があったとしても、服喪中の身であってみれば、宴坐を開くことなど許容されるはずがなかった。

初、丁貴嬪薨、太子遺人求得善墓地。將斬草、有賣地者因閹人兪三副求市、若得三百萬、許以百萬與之。三副密啓武帝、言太子所得地不如今所得地於帝吉、帝末年多忌、便命市之。葬畢、有道士善圖墓、地不利長子、若厭伏或可申延。乃爲蠟鵞及諸物埋墓側長子位。有宮監鮑邈之、魏雅者、二人初並爲太子所愛、邈之晩見疎於雅、密啓武帝云、雅爲太子厭禱。帝密遣檢掘、果得鵞等物。大驚、將窮其事。徐勉固諫得止、於是唯誅道士、由是太子迄終以此慚慨、故其嗣不立。後邵陵王臨丹陽郡、因邈之與郷人爭婢、議以爲誘略之罪牒宮、簡文追感太子寃、揮涙誅之。邈之兄子僧隆爲宮直、前未知鮑之姪、即日驅出。(『南史』巻五十三 昭明太子傳)
初め、丁貴嬪薨じしとき、太子、人を遣はして求めしめ善き墓地を得る。將に草を斬らんとせしとき、地を賣る者有り、閹人兪三副に因り市らんことを求め、若し三百萬を得ば、許すに百萬を以て之に與えんとす。三副密かに武帝に啓し、太子の得し所の地は今得んとする所の地の帝に吉なるに如かずと言ふ。帝末年忌み多し、便ち命じて之を市はしむ。葬畢はり、道士の善く墓を圖るもの有り、地は長子に利あらず、若し厭伏すれば、或いは申延す可しと。乃ち蠟鵞及び諸物を爲り墓側の長子の位に埋む。宮監の鮑邈之、魏雅なる者有り、二人初め並びに太子の愛する所爲りしが、邈之晩に雅より疎んぜらるれば、密かに武帝に啓して云ふ、雅、太子の爲に厭禱す。帝密かに檢掘せしむれば、果して鵞等の物を得る。大いに驚き、將に其の事を窮めんとす。徐勉固く諫め止むを得る。是に於いて唯だ道士を誅すのみ。是れ由り太子終りに迄るまで此を以て慚慨す。故に其の嗣立たず。後、邵陵王、丹陽郡に臨みしとき、邈之と郷人と婢を爭ふに因り、議して以て誘略の罪を爲し宮に牒す。簡文、太子の寃を追感し、涙を揮って之を誅す。邈之の兄の子の僧隆、宮直爲り、前に未だ鮑之の姪なるを知らず、即日驅げ出づ。

梁初にはなお喪禮が規定通り遵守されないことが多かったようである。しかし、普通六年に徐勉が各學士に『五禮儀注』を修訂させ、武帝に奉上して以來、禮の規定は整備され、嚴守することが要求されていた【注13】

その結果、普通七年の生母の崩御に對して、昭明太子は凶禮の規定どおりに服喪する必要があったであろう。『儀禮』喪服に據ると、「父在すとき、母の爲にする」服喪は、齊衰杖期ということであるから、父武帝がなお在世中であった昭明太子は當然これに從い、齊衰杖期の服喪を實行していたはずである。この齊衰杖期というのは、一年間の服喪ということになっている。しかし、實は『儀禮』喪服の傳に「何以期也。屈也。至尊在、不敢伸其私尊也。父必三年然後娶、達子之志也。」と注釋されていることから明らかなように、本來母の爲には三年服喪するところを、子が父に屈して三年にしないだけのことである。つまり至尊なる父が在世中であれば、父に遠慮して、敢てその私尊なる母に對する気持を伸ばさないため、齊衰・杖・期(一年間の喪)に服するのである。しかし、國事などの朝廷の公式行事以外の私的生活に於いては、當然「心喪三年」である。つまり私的生活の場に於いては、母のために「三年の喪」に服する必要があったのである【注14】

始興王憺の薨去に際しても、敢えて東宮儀記の規定を改めさせてまで「情」を重んじた昭明太子が生母の薨去に際して、單に一年間の服喪で濟ませるわけはなく、當然、齊衰杖期の本來の精神である「心喪三年」に從ったはずである【注15】

古來、母の服喪に際しては、『禮記』檀弓(上)に「穆公之母卒。使人問於曾子曰、如之何。對曰、申也聞諸申之父。曰、哭泣之哀、齊斬之情、饘鬻之食、自天子達。」とある如く、天子から庶人に至るまで尊卑皆同じく、殊に哀切極まりなく、その心痛は甚だしいものが存したのである。その上、天子であれ、皇太子であれ、父母の喪の場合は、規律が嚴しく、『禮記』喪大記に、

◎父母之喪、居倚廬不塗、寝苫枕、非喪事不言。君爲廬宮之。大夫士襢之。
父母の喪、倚廬に居りて塗らず、苫に寝ねてに枕し、喪事に非ずんば言はず。君は廬を爲り之を宮す。大夫士は之を襢す。

◎既葬與人立、君言王事、不言國事。大夫士言公事、不言家事。
既に葬りて人と立つときに、君は王事を言ひ、國事を言はず。大夫・士は公事を言ひ、家事を言はず。

と記されているように、王事や公事は話しても、國事や家事などの話はしない、つまり極端に言えば喪に關することのほかは話さないという嚴格なものであった。だから、服喪中に宴坐を開いて「總集」編纂の「主持」をすることなどは以っての外で、到底許容されることではなかった。

實際、梁の武帝は特に父母の服喪に對して嚴格に守ることを要求していたようである。『顔氏家訓』に、除服後の謁見の際に、顔色がよく、悲哀の表情に乏しい臣下に對しては、以後一切信任しなかったと記されている。

江左朝臣子孫初釋服、朝見二宮、皆當泣涕。二宮爲之改容。頗有膚色充澤無哀感者、梁武薄其爲人、多被抑退。裴政出服、問訊武帝、貶痩枯槁、涕泗滂沱。武帝目送之曰、裴之禮不死也。(風操篇)
江左の朝臣の子孫、初めて釋服し、朝に二宮に見ゆるときは、皆當に泣涕すべし。二宮、之が爲に容を改む。頗る膚色の充澤し哀感無き者有れば、梁武、其の人と爲りを薄しとし、多く抑退す。裴政、服を出で、武帝に問訊せしとき、貶痩枯槁し、涕泗滂沱たり。武帝、之を目送して曰く、裴之禮死なざる也と。

また一方、孝心厚い臣下の方も、亡き父母を追悼する念が強く、一生悲哀の気持ちを決して忘却することなかったという。

◎二親既没、所居齊寝、子與婦弗忍入焉。北朝頓丘李構、母劉氏夫人亡後、所住之堂、終身鏁閉、弗忍開入也。夫人宋廣州刺史纂之孫女、故構猶染江南風教。(中略)
◎呉郡陸襄、父閑被刑、襄終身布衣蔬飯、雖薑菜有切割、皆不忍食、居家唯以掐摘供廚。江陵姚子篤、母以燒死、終身不忍噉炙。豫章熊康、父以醉而爲奴所殺、終身不復嘗酒。
(同前)
◎二親既に没し、居る所の齊寝、子と婦とこれに入るに忍びず。北朝の頓丘の李構、母の劉氏夫人亡き後、住む所の堂、終身鏁閉し、開き入るに忍びざる也。夫人の宋は廣州刺史纂之の孫女なり、故に構は猶ほ江南の風教に染む。(中略)
◎呉郡の陸襄、父の閑、刑せらるれば、襄、終身布衣蔬飯して、薑菜の切割有ると雖も、皆食ふに忍びず、家に居れば唯だ掐摘を以て廚に供す。江陵の姚子篤は、母の燒死するを以て、終身炙を噉ふに忍びず。豫章の熊康は、父の醉いて奴の爲に殺さるるを以て、終身復び酒を嘗めず。

更には元帝蕭繹は生母阮修容が薨去して以後、誕生日に常例となっていた「おとき」の會食を一切取りやめ、元帝の臣下顔之推は服喪中の爲、父の「別集」を整理編纂することもできなかったと告白している。このことから分かるように、梁代においては、父母の服喪の際には酒宴や會食は勿論のこと、「別集」編纂のような仕事さえ差し控えられたていたのである。

◎梁孝元帝、年少之時、毎八月六日、載誕之辰、常設齊講。自阮修容薨歿之後、此事亦絶。(同前)
◎吾家世文章甚爲典正、不從流俗。梁孝元在蕃邸時、撰西府新文
(紀)、無一篇見録者。亦以不偶於世、無鄭衛之音故也。有詩賦銘誄書表啓疏二十巻。吾兄弟始在草土。並未得編次。(草土、謂在苫之中也。)便遭火盪盡、竟不傳於世。銜酷茹恨、徹於心髓。操行見於梁史文士傳及孝元懷舊志。(文章篇)
◎梁の孝元帝、年少の時、毎八月六日、載ち誕の辰には、常に齊講を設く。阮修容の薨歿せしより後は、此の事も亦た絶ゆ。
◎吾家は世々文章甚だ典正爲りて、流俗に從はず。梁の孝元、蕃邸に在りし時、西府新文を撰せしに、一篇の録せらる者無きは、亦た世に偶はず、鄭衛の音無き故を以て也。詩賦銘誄書表啓疏二十巻有りしも、吾が兄弟、始め草土に在れば、並びに未だ編次するを得ず。
(草土とは、苫の中に在るを謂ふ也。)便ち火に遭ひ盪盡し、竟に世に傳はらず。酷を銜み恨を茹ひて、心髓に徹す。操行は梁史の文士傳及び孝元の懷舊志に見ゆ。

以上の梁代の状況から判斷して、生母丁貴嬪に對する服喪期間中に、昭明太子が自ら「主持」して『文選』を編纂することは到底許容され難いことであったと思われる。
『梁書』本傳は普通七年以後、大通元年・二年・中大通元年の三年間、昭明太子の事蹟を記載していない。これは、恐らくこの間昭明太子が服喪(齊衰杖期・心喪三年)期間中であったから公的行動を差し控えていた結果であろう。


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