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第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(七) 『文選』編纂の時期

昭明太子の服喪があけた中大通元年以降は、史書や『文鏡祕府論』の記載及び『文選』の作品採録情況などから見て、『文選』編纂に參與していたことが確實である劉孝綽が今度は太子と交替するかのように生母の喪に服している。それ故、中大通元年からあしかけ三年間(二十七ケ月間)、劉孝綽は『文選』編纂に携わることは不可能であった。そして中大通三年三月には昭明太子自身が崩御している。
そうすると、結局『文選』の最終的な編纂は、大通元年・二年の二年間に行われたことになる。この期間、上述の通り、昭明太子は母丁貴嬪に對する服喪と武帝との間に生じた確執による心痛のため、自ら「總集」の編纂など不可能な状態にあったから、『文選』は、最終的には、當然『詩苑』同樣、太子の下命の下に、劉孝綽が中心となって整理編纂されたものと結論できよう。

なお、二年間という短期間で、夥しい量の古今の詩文を讀み、その優劣を判定して三十巻の詩文集に整理編纂できるかと案じるむきがあるかも知れないが、既に昭明太子集團においては『古今詩苑英華』及び『古今文章英華』が編纂されているから、これを基礎にすれば決して不可能なことではない。

また、劉孝標の『類苑』に對抗する爲に編纂された『華林徧略』六百二十巻という膨大な量の「總集」は、下記の史書の記載によると、天監十五年から十七年のわずか二、三年間の内に完成しているから、『文選』三十巻も二年間で編纂することは當然可能であると考えられる。

尋佐周捨撰國史。出爲臨津令、有善績、秩滿、縣人三百餘人詣闕請留、敕許焉。杳以疾陳解、還除雲麾晉安王府參軍。詹事徐勉擧杳及顧協等五人入華林撰徧略、書成、以本官兼廷尉正、又以足疾解。因著林庭賦、王僧孺見之而歎曰、郊居以後、無復此作。普通元年、復除健康正、遷尚書駕部郎。(『梁書』巻五十 劉杳傳)
尋いで周捨を佐けて國史を撰す。出でて臨津令と爲り、善績有り、秩滿つとき、縣人三百餘人闕に詣りて留まらんことを請ひ、敕ありてこれを許す。杳、疾を以て解かれんことを陳べ、還た雲麾晉安王府の參軍に除せらる。詹事徐勉、杳及び顧協等五人を擧げ華林に入りて徧略を撰せしむ。書成り、本官を以て廷尉正を兼ぬるも、又足疾を以て解かる。因て林庭賦を著はす。王僧孺之を見て歎じて曰く、郊居以後、復た此の作無からん。普通元年、復た健康正に除せられ、尚書駕部郎に遷る。【注16】


以上、本章において、執拗なまでに『文選』編纂の實態を檢討し直し、昭明太子「主持」説を否定したのは、なお殆どの研究者があまりにも昭明太子の著述から彼の文學觀を歸納することに固執し過ぎるあまり、『文選』收録作品中にある法則性を檢討する重要性を完全に忘却してしまっている現状を是正するためである。

新文選學の創建が提唱されている現在、より一層明確な『文選』の實像を究明するためには、敢えて、名譽総裁的編纂者であった昭明太子中心の究明から、實質的編纂者であった劉孝綽中心の究明へ轉換する必要があろう。『文選』の實像を正しく把握することは、『文選』自身の問題に止まらず、各時代の受容の仕樣を通じて、その時代の文學思想傾向を理解することにも連繋しているから、是非究明しておかねばならない重大な課題なのである。

次章以後、上述の編纂實態を正確に視野に入れ、『文選』收録作品の具體的分析檢討を通じ、『文選』の實質的撰者や選録規準などを追究し、その實像を究明していきたい。


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