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『湖北省三國關係遺跡』

  

襄樊市地圖
襄樊市地圖

武漢から快客(急行)で六時間ほどで襄樊に着く。襄樊市は漢水をはさんで南の襄陽と北の樊城が1950年に合併してできた市である。襄陽城の城壁は明代のものがほぼ完全に殘っている。襄陽はいつの時代も重要な都市であった。漢水に臨む交通の要地であることがその最も大きな要因であろう。襄陽城は東南西の三方を「護城河」つまり堀で圍まれ、北方は漢水が自然の堀となるわけだ。今でこそ襄樊漢江大橋という立派な橋がかかっているが、昔は北の樊城側から渡ってくるのは容易ではなかったろう。襄陽城の北側の城壁の上に立ち漢水、樊城を眺めると、劉備が曹操に追われて樊城より脱出する際、樊城の人民達が劉備を慕って後を追い、泣きながら川を渡ったという場面が思い起こされる。

先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其衆去。(『三國志・先主傳』)
【日本語訳】先主は樊に駐屯していて、曹操軍の急な來襲を知らず、宛まで來たところでようやく氣づき、そこで軍勢を率いて去った。
兩縣之民,齊聲大呼曰:"我等雖死,亦願隨使君!"即日號泣而行。扶老携幼,將男帶女,渡河,兩岸哭聲不絶。(『三國演義』毛本第四十一回)
【日本語訳】兩縣の民はみな大聲で、「われらはたとえ死んでも、劉使君についていきとうございます!」と叫んだ。その日のうちに泣きながら出發した。老人を助け、子供の手をひき、男も女も次々に川を渡り、兩岸には泣き聲が絶えなかった。
襄陽城の城門
襄陽城の城門

襄陽は後漢の時代には荊州の中心地。從って荊州刺史劉表もここにいたのだが、劉表の息子劉琮が降伏し曹操が襄陽城を手に入れて以後、州單位としての荊州は北半分を曹操が治め、南半分は孫權と劉備が奪いあう形となった。劉備が西川を攻める間關羽が治め、結局呉軍によって奪われた荊州の中心は、後に紹介する江陵であり、西晉の時代になって荊州は分斷されることがなくなったが、やはり中心は江陵であって、これ以降現在まで荊州と言えば江陵、ということになる。

樊城側には三國關係の遺跡はない。樊城は先ほど述べたように劉備らが一時駐屯した地であるが、關羽が曹仁を攻め于禁を捕えたのも、ここ樊城である。

(建安二十四年)是歳,羽率衆攻曹仁於樊。曹公遣于禁助仁。秋,大霖雨,漢水汎溢,禁所督七軍皆沒。禁降羽,羽又斬將軍龐悳。(『三國志・關羽傳』)
【日本語訳】この年、關羽は軍勢を率いて曹仁を樊に攻めた。曹操は于禁を曹仁の救援に派遣した。秋、かなりの長雨が續いて、漢水が氾濫し、于禁の指揮する七軍はみな水沒した。于禁は關羽に降伏し、關羽はまた將軍の龐悳を斬った。

大雨による洪水で曹軍は大敗し于禁も捕えられたのだが、『演義』では、關羽が水攻めで勝利したことになっている(毛本第七十四回「關雲長放水淹七軍」)。史實をヒントに創作されたものであろう。

襄陽城の南西に劉備馬躍檀溪遺跡がある。

劉備馬躍檀溪遺跡
劉備馬躍檀溪遺跡
(裴注)世語曰:備屯樊城,劉表禮焉,憚其爲人,不甚信用。曾請備宴會,蒯越、蔡瑁欲因會取備,備覺之,僞如廁,潛遁出。所乘馬名的盧,騎的盧走,墮襄陽城西檀溪水中,溺不得出。備急曰:「的盧,今日厄矣,可努力!」的盧乃一踊乃三丈,遂得過。(『三國志・先主傳』)
【日本語訳】〔裴注〕『世語』に曰く、劉備が樊城に駐屯していた頃、劉表は彼を禮遇していたが、その人柄を憚って、あまり信用していなかった。かつて劉備を宴會に招いた時、蒯越と蔡瑁はその席を利用して劉備を殺そうとはかった。劉備はこれに氣づき、廁へ行くと僞ってひそかに脱出した。劉備の乘馬の名は的盧といい、その的盧に乘って逃げたのだが、襄陽城の西の檀漢の水中に落ち、溺れて拔け出せなくなった。劉備はあわてて、「的盧よ、今日は厄日だ。頑張れ!」と言った。すると的盧は三丈をひととびにし、ついに通過することができた。
玄徳着慌,縱馬下溪。行不數歩,馬前蹄忽陷,浸濕衣袍。玄徳乃加鞭大呼曰"的盧,的盧!今日妨吾!"言畢,那馬忽從水中涌身而起,一躍三丈,飛上西岸,玄徳如從雲霧中起。(『演義』毛本第三十四回)
【日本語訳】玄徳はあわてて馬を川の中に飛び込ませた。數歩も進まぬうちに、馬は前脚を深みにはめて前のめりになり、着物まで濡れてしまった。玄徳は一鞭くれて叫んだ。「的盧よ、的盧!今日わしに崇ろうというのか!」その言葉が發せられるやいなや、的慮は突然水中より身を躍らせ、三丈をひととびにし、西岸に飛び上がった。玄徳はまるで雲か霧の中にいるかのような心持ちであった。

檀溪については『水經注』に詳しい。

沔水又東合檀谿水。
 (注)水出縣西柳子山下,…西去城里餘,北流注于沔。一水東南出,應劭曰:城在襄水之陽,故曰襄陽也。是水當即襄水也。
(沔水・中)
【日本語訳】沔水はまた東に流れ、檀溪水と合流する。〔注〕檀溪水は縣の西の柳子山のふもとに發する。……城の西一里餘りを北に流れて沔水に注ぐ。一本の支流が東南に流れている。應劭曰く、襄陽城は襄水の北にあるから襄陽というのである。從って、この支流がすなわち襄水であるはずだ。
「檀溪」の文字が刻まれた岩壁面 現在の檀溪
「檀溪」の文字が刻まれた岩壁面 現在の檀溪

今の檀溪は幅が狹く流れも遲い川であった。その川のそばの岩壁面に「檀溪」の二文字が刻まれている。案内してくれた人によれぱ宋代のものとのことだが、確認はできなかった。劉備が的盧にまたがり檀溪を飛び越えた後、『演義』では司馬徽と會うことになっているので、「檀溪」と書かれた岩壁の裏はどんなところかと回り込んでみると、ブルドーザーが地ならしをしており建物が建つようであった。この檀溪は襄陽城の南側を東に向かって流れているが、『水經注』には城の西一里を北へ沔水に注ぐとあるから、今とは川筋が違うらしい。『襄陽府志』(清光緒十一年・中國方志叢書三六二)には"檀溪今已乾涸。"(卷二・山川)とあり、同じ『襄陽府志』の地圖を見ると、現在の檀溪の位置に川はあるが襄渠という名がついている。そして"襄水即今襄渠。"(卷二・山川)とあり、『水經注』の中で應劭が襄水という名であるはずだと言う檀溪の支流は今の襄渠である、としているのである。どうやら現在の檀溪は比較的最近名付けられたもののようだ。

 

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