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『湖北省三國關係遺跡』

  

襄陽城より西へ車で三十分。古隆中がある。諸葛亮が草盧を結んでいたと言われる所である。現在ここは「隆中風景區」に指定され、三顧堂、武侯祠など多くの建造物があるが、ほとんどが清代以降に作られたもの。躬耕田に至ってはつい最近映畫撮影用に作られたものらしい。

古隆中の牌坊 武侯祠
古隆中の牌坊(前は武侯祠と襄樊大学の関係者の方) 武侯祠

古隆中の入口に立つ牌坊は眞中に大きく"古隆中"と刻まれている。三顧堂は武侯祠の横にある四合院風の建物で諸葛亮像や詩文の石刻が竝べられている。武侯祠は明代のものとのこと、中に羽扇綸巾の孔明像がある。臥龍深處という建物には膝をかかえた孔明像、彼の友人の石廣元、崔州平、孟公威、司馬徽、徐庶らの像などがある。

私が古隆中を訪れた時はちょうど雪であった。『演義』では、劉備たちが二度目に諸葛亮の廬を訪れた時に雪が降っていた。

時値隆冬,天氣嚴寒,彤雲密布。行無數里,忽然朔風凜凜,瑞雪霏霏,山如玉簇,林似銀妝。(毛本第三十七回)
【日本語訳】時はまさに冬のさなか、寒さは嚴しく、灰色の雲がたれこめている。數里も進まぬうちに、急に北風が吹き、雪が舞いはじめた。山は玉が群れているかのよう、林は銀で裝ったかのようであった。

このあと三度目にして、ようやく會えるわけだが、正史でも劉備は諸葛亮を三度訪問している。

由是先主遂詣亮,凡三往,乃見。(『三國志・諸葛亮傳』)
【日本語訳】これにより先主は諸葛亮を訪間し、都合三度にしてようやく會えた。

「諸葛亮傳」によれば、亮はもともと徐州琅邪國陽都縣の人であった。幼くして父を亡くし、叔父の玄が揚州豫章郡の太守となったのに同行した。玄は豫章太守を免ぜられて舊知の劉表の下に身を寄せ、玄の死後亮は弟の均とともにこの地で暮らしていた。

玄卒,亮躬畊隴畝,好爲梁父吟。
(裴注)漢晉春秋曰:亮家于南陽之鄧縣,在襄陽城西二十里,號曰隆中。
(「諸葛亮傳」)
【日本語訳】玄が死ぬと、亮はみずから農耕をして暮らすようになり、「梁父吟」を歌うことを好んだ。
〔裴注〕『漢晉春秋』に曰く、亮は南陽の鄧縣に住んでいた。そこは襄陽城の西二十里にあり、隆中と呼ばれていた。

當時、南陽郡は宛縣(現在の南陽市)を中心に南端は襄陽附近であったようで、そのため"南陽"という地名が裴注に出てくるわけである。ところが河南省南陽市では現在の南陽市こそが諸葛亮の故里であると主張しており、武侯祠・三顧堂など襄樊の古隆中と同樣の建造物が、臥龍崗という場所にあるらしい。建物が一體いつの時代のものか、臥龍崗という地名がいつつけられたのか、私は行っていないのでよくわからない。しかし、もし裴注に南陽郡とあるのを根據としているのであれば、同じ文章に襄陽城の西二十里とあるのだから、やはりこの襄樊の古隆中のあたりが本物であると考える方が妥當であろう。もちろん今建物などがある場所に諸葛亮が住んでいたかどうかはわからないが。南陽市は襄陽より北へ直線距離にして約150キロ離れた所である。

襄樊市から快客でまた六時間。宜昌市は長江に面した細長い街である。宜昌は三國時代は夷陵と呼ばれた。有名な夷陵の戰いの舞臺である。關羽の弔い合戰に燃える劉備は大軍を率いて出陣。若い陸遜に指揮された呉軍と交戰。蜀軍は大敗、劉備死去の原因ともなったのである。

(章武)二年春正月,先主軍還秭歸,將軍呉班、陳式水軍屯夷陵,夾江東西岸。……夏六月,黄氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。(『三園志・先主傳』)
【日本語訳】章武二年春正月、先主の軍は秭歸へ歸還し、將軍の呉班・陳式の水軍は夷陵に駐屯し、長江をはさんで東西の岸に陣をはった。……夏六月、黄色い氣が秭歸から十里餘りのところにあらわれ、その廣さは數十丈にわたった。それから十日餘り後、陸議は猇亭において先主の軍を大いに破り、將軍の馮習・張南らはみな戰死した。

陸議は陸遜の本名、猇亭は現在の宜昌市のやや下流らしい。

中國觀光の目玉の一つ、三峽下りの船は今は重慶から武漢までが主流だが、かつては宜昌までのものが多かった。朝まだ暗いうちに重慶を出航。蜀軍の呉遠征の氣分を味わいながら川下り。翌日の早朝から瞿塘峽・巫峽・西陵峽の三峽を過ぎれば、宜昌はもうすぐそこである。宜昌市に入る直前に葛州壩水利工程がある。水力發電などのため作られた、長江の流れを完全に堰きとめる巨大なダムである。ダムの前後で水の高さが違うので、船はロックゲートに入り、この中で下りの場合は水を拔き、上りの場合は水を加えて高さを合わせてから通過していく。水を拔かれて船がどんどん下がっていくという不思議な感覺が乘船客に大いに喜ばれるわけだが、この葛州壩の少し上流の岸壁に三遊洞という洞窟がある。唐の白居易・白行簡・元稹がここに遊び詩を詠んだという古跡である。この三遊洞の上、長江を見下ろす崖っぷちに張飛擂鼓臺がある。張飛がここで水軍を訓練したということらしく、張飛の石像や"漢張飛擂鼓臺"と記された石碑(どちらも近年のもの)がある。『宜昌府志』(清同治三年・中國方志叢書一〇二)には、

張飛擂鼓臺と長江
張飛擂鼓臺と長江(右にあるのが石像)
張飛擂鼓臺在三遊洞頂。土人傳,飛守郡日督兵於此。今故壘猶存。(卷二・彊域)
【日本語訳】張飛擂鼓墓は三遊洞の頂にある。土地の傳説では、張飛がこの地を治めていたときに、いつもここで兵士を訓練していたという。今は古いとりでが殘っている。

とある。張飛は一時宜都太守となっている。

先主既定江南,以飛爲宜都太守、征虜將軍,封新亭侯,後轉在南郡。(『三國志・張飛傳』)
【日本語訳】先主は江南を平定すると、張飛を宜都太守・征虜將軍に任命し、新亭侯に封じた。のち南郡に移った。

當時の宜都郡は現在の宜昌も含んでいたようなので、確かにその當時張飛がここで指揮をしたかも知れないが、この種の擂鼓臺、點將臺などは各地にあり、根據のあるものはあまり多くない。

また、擂鼓臺の少し上に建築中の建物があり、案内してくれた人に尋ねると劉封の館を復元しているのだという。『宜昌府志』には、

劉封城在府西北二十里、三遊洞頂。漢昭烈帝章武初封守宜都郡所築。(卷二・彊域)
【日本語訳】劉封城は府の西北二十里、三遊洞の頂にある。漢昭烈帝の章武年問の初めに、劉封が宜都郡を守備していたときに築かれたものである。

とあるが、「劉封傳」によれば劉封は宜都郡からは北西にあたる上庸に孟達とともに駐留していたけれども、現在の宜昌附近にいたという記載はない。劉封の出身については「劉封傳」に、

劉封者,本羅侯寇氏之子,長沙劉氏之甥也。先主至荊州,以未有繼嗣,養封爲子。
【日本語訳】劉封はもとは羅侯の寇氏の子で、長沙の劉氏の甥である。先主が荊州に來たときに、まだ世繼ぎがいなかったので、封を養子にしたのである。

とある。この荊州は襄陽のことであるので宜昌とは關係ない。また『演義』でも樊城で養子にしたことになっている(毛本第三十六回)。どうも劉封は宜昌とはあまり關係なさそうである。ちなみに劉封を養子にしたのは「劉封傳」では阿斗の生前だが、『演義』では阿斗の生後であるため關羽が「すでに世嗣がいるのに」と諫める。後に劉封が關羽を裏切る伏線のための創作かも知れない。

 

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