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『湖北省三國關係遺跡』

  

當陽縣は列車でもバスでも宜昌から襄樊の方向へ約2時間のところにある。當陽と言えば當陽長坂の戰いが有名である。

曹公以江陵有軍實,恐先主據之,乃釋輜重,輕軍到襄陽。聞先主已過,曹公將精騎五千急追之,一日二夜行三百餘里,及於當陽之長坂。先主棄妻子,與諸葛亮、張飛、趙雲等數十騎走,曹公大獲其人衆輜重。(『三國志・先主傳』)
【日本語訳】曹操は江陵には軍の兵器や食糧があるので、劉備がここをおさえることを恐れ、物資輸送の部隊をとどめて、身輕な軍勢で襄陽に到った。先主がすでに襄陽を通過したと聞くと、曹操は精鋭の騎兵五千を率いて劉備の軍を急追し、一晝夜で三百餘里を驅けぬけ、當陽の長坂で追いついた。先主は妻子を棄てて、諸葛亮、張飛、趙雲ら數十騎とともに逃げ、曹操は多數の民衆や兵器、兵糧をわがものとした。
及先主爲曹公所追於當陽長阪,棄妻子南走,雲身抱弱子,即後主也,保護甘夫人,即後主母也,皆得免難。(『三國志・趙雲傳』)
(長坂は長阪ともいい、『三國志』でも混用されている)
【日本語訳】先主は當陽の長阪で曹操に追いつかれた時、妻子を棄てて南へ逃げたが、趙雲は幼子、すなわち後の後主を胸に抱き、甘夫人、すなわち後主の母を保護したので、みな難を逃れることができた。
當陽縣地圖
當陽縣地圖

『演義』の長坂の戰いでも趙雲は大活躍する。趙雲は劉備の家族を保護する役目であったが、曹軍の襲撃を受けて家族を見失う。亂軍の中を驅け回り甘夫人を發見。さらに糜竺を救出し、甘夫人と糜竺を長坂橋の張飛に送り屆け、再び糜夫人の搜索に向かう。途中曹操の寶劍を奪い、ようやく糜夫人を發見する。傷ついていた糜夫人は阿斗を趙雲にあずけ、枯井戸に飛び込み死ぬ。趙雲は阿斗を抱き、血路をひらいて長坂橋へ逃げ戻る(毛本第四十一回、四十二回)。

當陽を訪れる前は、長坂の戰いと言ってもこのあたりで大昔に戰鬪が行なわれただけだし、地元の人も全くそのようなことを知らないのではないか、長坂坡の場所を確認することもできないのではないか、とほとんど全く期待していなかったのだが、當陽の長途汽車站(長距離バス驛)から外に出るとすぐ目の前に、槍を持った騎兵の大きな石像が臺座の上に立っていた。これが阿斗を抱いた趙雲の石像だったのである。これには大きな驚きと感動を覺えた。もちろん作られたのはごく最近ではあるが。

長坂坡公園の石碑
長坂坡公園の石碑

その汽車站の隣りに長坂坡公園なるものがあった。中に入ると「長阪雄風」と書かれた石碑、阿斗を抱いた趙雲の石像(コンクリートか?)などがある、あまり廣くない公園であった。公園は民國23年(1934)に作られ荒れていたのを1979年に整備したものとのことだが、「長阪雄風」の石碑はもともと明萬暦10年(1582)に立てられたもので、『當陽縣志』(清同治五年・中國地志叢書二一六)の「縣城垣圖」にもこの石碑ははっきり描かれている。但し日中戰爭期に行方不明となり、民國36年(1947)に復元したものだという。私が訪れたのはちょうど元宵節(舊暦1月15日)の日で表通りはにぎやかだったが、この公園を訪れる人はまばらだった。公園の一角の魔術團のテントにだけ人が群がっていた。

阿斗を抱き命からがら戻ってきた趙雲を長坂橋で迎えた張飛は、あとは任せろとばかりただ一騎で橋上に立つ。曹操の大軍は橋までやってくるが、張飛の迫力と伏兵がいるのではないかという疑いから攻め寄せて來れない。そして「わしと一戰交える者はおらんのか!」という一喝に驚き、曹操軍は總くずれとなって退却する(『演義』毛本第四十二回)。この「張翼徳大鬧長坂橋」も長坂の戰いの、というより『演義』の見せ場の一つと言えよう。『三國志』にも、

先主聞曹公卒至,棄妻子走,使飛將二十騎拒後。飛據水斷橋,瞋目横矛曰:「身是張益徳也,可來共決死!」敵皆無敢近者,故遂得免。(「張飛傳」)
【日本語訳】先主は曹操の不意の襲來を聞くと、妻子を棄てて逃げ、張飛に二十騎を率いて追っ手を防がせた。張飛は川をよりどころとして橋を切り落とし、目をいからせ、矛をかかえて、「われこそは張翼徳なり。死を覺悟で鬪おうというものは、やってくるがよいぞ!」と叫んだ。敵には敢えて近付こうとするものはおらず、そのため先主らは助かったのである。

とある。ここに掲げた當陽縣地圖は、當陽訪問後に入手した『長坂坡』(湖北人民出版杜、1986)というガイドブックの説明圖を、正確な地圖にあてはめて私が作成したものである。この本をあらかじめ持っていれば長坂橋を見に行ったのだが、地圖もなく、人に聞いたり勘に頼って歩いたので、石かコンクリート製の橋は見たが、まさかこれではあるまいと思い引き返してきた。これがどうも地圖にある現在の當陽橋(説明によれば當陽橋の俗稱が長坂橋なのだという)だったようで、そのさらに先に昔の當陽橋(いつの時代のものか不明)だという木の橋があり、そのそばに「張翼徳横矛處」と記された石碑が殘っているという。『當陽縣志』には、

横矛處在治東北五里名官橋。乾隆二十四年邑令苗肇岱重修立石。(卷二・古蹟)
【日本語訳】横矛處は役所の東北五里の官橋というところにある。乾隆二十四年に邑令〔村長〕の苗肇岱が修理して石をたてた。

とある。

 

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