『湖北省三國關係遺跡』 |
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當陽の關陵 |
當陽は幹線道路が交差する町であるため、長距離バスの本數は結構多い。しかし、町自體は小さく市街バスはもちろんない。從って公共の交通手段としては三輪車しかない。南京など一般の町の三輸車はバイクと自轉車の二種類あるが、いずれにせよ二人乘りである。しかし、當陽の三輸車は八人乘り。要するにリヤカーをバイクが引っ張るようなもので、そのリヤカー部分に4人ずつ向かいあって座る。安定が惡い上に道も惡く、轉がり落ちないようずっとどこかを握っておかなければならない。當陽の街から西北へ2キロほど、この三輪車で10分ほど行ったところに關羽の墓、關陵はある。
關羽は樊城にいる曹仁を攻めていたが、曹操が徐晃を援軍として派遣してきたため退却。しかし麋(糜)芳、傅士仁が呉軍に寢返り、江陵は孫權の手に。そして
權已據江陵,盡虜羽士衆妻子,羽軍遂散。權遣將逆撃羽,斬羽及子平于臨沮。(『三國志・關羽傳』)
【日本語訳】孫權はすでに江陵を占據し、關羽の部下やその家族を捕虜にしていたので、關羽の軍勢は逃散した。孫權は將軍をつかわして、關羽を迎え撃たせ、關羽とその子の關平を臨沮において斬った。
この關陵の築かれた年代は井上以智爲氏「關羽祠廟の由來竝に變遷」(「史林」第26卷)によれば明成化3年(1467)であるという。臨沮は現在の當陽からは北西の比較的近いところなので、この地に關羽の墓があることは史實にかなっている。關羽は首を斬られ、その首は曹操のもとに送られた。
(裴注)呉歴曰:權送羽首於曹公,以諸侯禮葬其屍骸。(『三國志・關羽傳』)
【日本語訳】〔裴注〕『呉歴』に曰く、孫權は關羽の首を曹操に送り、諸侯の禮をもってその死骸を葬った。
そのためこの當陽の關陵は胴塚で、洛陽にある關林は首塚であると言われる。
關陵の碑亭 | その中の石碑 |
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入口を入った所に碑亭があり、清道光10年(1830)の"忠義紳武靈佑仁勇威顯關聖大帝漢前將軍漢壽亭侯墓道"と書かれた石碑がある。次に石坊。"漢室忠良"と字が刻まれている。もともと明嘉靖37年(1558)に建てられたものを1984年に修復したとあるが、石の古さなどから見て、少なくとも"漢室忠良"の文字の部分は古いもののように思われた。
"關陵"と書かれた門をすぎ、馬殿・拜殿・大殿・寢殿とつづく。これらの建物はみな新しく、またくずれかけの建物もまだ殘っており、一時荒れはてていたのを現在修復中であるようだ。大殿ののきに"威震華夏"と書かれた額が掲げられているが、これは清の同治帝の筆によるものだという。寢殿のうらが關羽の陵墓である。土盛りの高さは約7メートル。周圍は約50メートル。予想以上に大きいものであった。墓の前には墓碑があり、"萬暦丙子(4年・1576)夏日立、漢壽亭侯墓、勅字巡荊西道王鄧題"と刻まれている。『當陽縣志』には、
墓門有碑,書漢時官爵。(卷二・陵墓)
【日本語訳】墓の入り口の門には碑があり、漢の時の官位が記されている。
とある。
洛陽の關林より規模は小さい。しかし、入口から陵墓までの建物の數などはあまり變わらない。それに現在の洛陽關林は完全に觀光地化しており、電氣じかけの「動く關羽像」などがあり、また本來侵さざるべき土盛りの上にも登れるようになっていて(私も登ったが)、當陽の關陵の方がはるかに墓らしい雰圍氣ではあった。