2007年度JASRAC寄附講座
音楽・文化産業論U
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2007.12.1


講師:亀山千広(かめやま・ちひろ)先生

1956年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。
1980年、株式会社フジテレビジョン入社、編成部配属。
編成制作局編成部長、編成制作局長、映画事業局長、執行役員などを歴任し、2007年6月より執行役員常務 映画事業局長。
〈主なプロデュース作品〉
TVドラマに「教師びんびん物語」(88)、「あすなろ白書」(93)、「若者のすべて」(94)、
「ロングバケーション」(96)、「ビーチボーイズ」(96)、「踊る大捜査線」(97)、「眠れる森」(97)など。

映画に「踊る大捜査線 THE MOVIE」(98)、「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」(03)、「海猿」(04)、「ローレライ」(05)、「交渉人 真下正義」(05)、「容疑者 室井慎次」(05)、
「THE 有頂天ホテル」(06)、「LIMIT OF LOVE 海猿」(06)、「大奥」(06)、「西遊記」(07)、「HERO」(07)など。




「私的プロデュース論」



1.プロデューサーとは



 僕が皆さんぐらいの頃は、映画監督になりたいと思っていました。自分なりに脚本を書いたりもしましたが、応募したこともなければ最後まで書き上げたことすらありません。社会人になって会社に入ると、まわりにはシナリオコンクールで入選した人たちなんかが一緒に入社していて、映画監督に必要な仕事は、僕よりも年下の人間にとられてしまいました。僕は挫折しましたが、そこでさまざまな才能を持った人たちと出会ったわけです。

プロデューサーのいいところは、そういう才能を使って自分の見たいものを作ってもらえるということ。僕に才能があるとすれば、いわば「詐欺師」の才能だけです。「この監督いいなあ」と思えば、誘い出して彼に自分の映画の構想を説明して、口説く。自分の見たいものを彼に作らせることができるんです。しかも自分の好きな注文までつけることができます。ただその作品は、多くの人に観られるという前提で作られているので、自分が付けた注文の責任は背負います。その責任さえ背負えれば、プロデューサーという仕事は誰にでもできると思います。プロデューサーのやり方は人それぞれで、ものすごくクリエイティブでイマジネーションが強くても、監督やカメラマンや役者を駒として選ぶプロデューサーもいますし、反対におぼろげながらの才能しかなくても、才能のある人間を集めてまとめることができるような、プレゼンテーションが非常にうまいプロデューサーもいます。

僕の最初の「プロデュース」は、僕がまだ大学生のときでした。その頃インベーダーゲームがはやっていました。学生街のたいていの喫茶店にはインベーダーゲームが置いてあって、どこの喫茶店でも客寄せのために、ゲームで最高得点を出せば1週間コーヒーが無料になるというサービスをしていました。そこで僕はゲームのうまい友達に2,000円を渡し、「このお金でゲームをしてもいいから最高点を出してくれ。そのかわりタダになったコーヒーは俺のだぞ」と言いました。店の人も承諾してくれたのでさっそく実行にうつすと、彼は700円で最高点を出してしまいました。僕は1週間コーヒーがタダになって、しかも1,300円のおつりまできたんです。これがプロデューサーです。僕は30年経った今もこれと同じ事をやっています。友達は、人のお金で大好きなゲームを何時間もやって、新記録を取ったという名誉まで手にしました。これは会社のお金で映画を作った映画監督が、賞をとって名誉を手に入れることと同じです。このときの「1週間コーヒーをタダにしたい」というきもちが、僕のビジネスとなりました。僕の最初のプロデュースです。

皆さんも普段の生活のなかでプロデューサーと同じことをやっているはずです。ただその規模が小さいか大きいかというだけの違い。だから、まだプロデューサーなんか志望しないでください。プロデューサーになんてすぐになれますから。普段皆さんがやっていることは、もうすでにプロデュースなんですから。

プロデューサーには2種類のプロデューサーがいます。一つはエグゼクティブ・プロデューサーと呼ばれる人たち。プロジェクト全体をコーディネートする人たちのことです。一方で、ひとつの作品を預かりそれを完成させて納品するという現場のプロデューサーもいます。後者のプロデューサーは、例えば「この予算で『月曜9時』を作れ」と使命されるので、どんなキャスティングにしようかとか、あるいはどんな内容にしようか、ということを考えながら企画をします。ドラマの場合は1年間で1月、4月、7月、10月という4クールがあるので、そのうちの1クールを担当し、さらに「月曜9時」という曜日・時間帯にも特化して、番組がより高い数字をとれるようにつくります。



2.テレビと映画



(1)テレビ

僕が「月曜9時」を任されたときはドラマが圧倒的に強い時代だったので、「裏」があまり気になりませんでした。逆に強い番組の裏を自分が作るときは、強い番組を一生懸命研究します。僕が編成局長をやっていた6、7年前は、フジテレビにとって「火曜7時」という時間帯がどうしても苦手でした。その裏で、日本テレビの「伊東家の食卓」という番組が30%近い視聴率をとっていました。そんな状況で「火曜7時」を作るときは、「伊東家の食卓」を徹底的に研究しなければなりません。現場のプロデューサーならば自分の作る番組に特化すればいいのですが、編成局長=エグゼクティブ・プロデューサーは全体を計算し、局地戦ではなく、1日全体の視聴率をアップさせることを命題にしなければなりません。となると、強い番組をつぶすということも仕事になってきます。そこで何をやるのかというと、「伊東家の食卓」を徹底的に研究したうえで、同じような番組を作るんです。そしてその番組を真裏でぶつけるのではなく、直前のニュースで一足先に放送してしまう。それを毎週続けているうちに、「伊東家の食卓」の価値が下がってきます。

皆さんもテレビを見ていて感じたことがあると思いますが、新しいブームができると、どこの局も同じような番組を放送し始めます。これは数字を取るだけの戦略ではなく、飛びぬけた番組をつぶすための戦略でもあるんです。エグゼクティブ・プロデューサーはそういったことも考慮しながら、テレビ局が全体として1位をとれるように持っていかなければなりません。そういう意味において、エグゼクティブ・プロデューサーとはプロジェクトの親分でもあります。その下にはクリエイターと呼ばれる人たち、監督、脚本家、カメラマンなどが存在していて、それぞれ専門の技術を使って番組を作ってくれています。

ここで分かるように、テレビとは視聴率を取り合うという前提のもとで成り立っています。視聴率の分母は100。つまり100以上にも100以下にもならないので、100人のお客さんを、いろいろな局で取り合うという仕組みになっているんです。商店街に100人のお客さんがいるとすれば、その商店街にあるさまざまな店が100人のお客さんを取り合っている。仮に自分の店に3人のお客さんしかいなくても、ほかの店に50人いればいつかその人たちを自分の店に連れてくることもできます。しかし、あくまでお客さんの取り合いにすぎません。

また民放のテレビ局にはスポンサーが付いていますが、このスポンサーがくせものです。彼らは僕らの番組を買っているわけではなく、「枠」を買っています。「月曜9時」という枠を買っているだけで、「ロングバケーション」という番組を買っているわけではないんです。しかも、枠にはちゃんとした棲み分けがあるので、単純に「視聴率が多い=スポンサーが喜ぶ」とは限りません。事実、高齢者が多く見ているような番組をスポンサーは喜びません。なぜならこのターゲット層は、あまりお財布からお金を出したがらないからです。だからいくら数字を取ってもスポンサーは喜べない。そのくらいメインターゲットは重要です。

テレビのCMを見ていると、どんなメインターゲットに向けたCMなのかだいたい分かります。ニュース番組の枠には、生命保険や不動産、車のCMなどが多い。車のCMでも小さな車ではなく、ラグジュアリーな車をPRしています。世帯主あたりの視聴者をターゲットにしているからです。皆さんも一度、テレビを朝から晩まで見てみてください。一週間見続ければ、だいたいの棲み分けが分かるはずです。似た番組同士のせめぎ合いも、見えてくると思います。


(2)映画

映画は「分母=100」ではありません。100人から200人、300人……と、どんどん増えていく可能性を持っています。今日本には、3,200スクリーンがあると言われています。1つのスクリーンにだいたい200人の人が入れるとしましょう。映画1本=2時間として、1日にだいたい4回まわせます。以上を計算すると、1本の映画には1日250万人の人が座れるだけの席が用意されているということになります。テレビは視聴するためにお金は必要ないものの、映画は鑑賞料が要るうえに、250万の席があらかじめ用意されているんです。もし1年間毎日250万人の人が入ると、約2億人がその映画を観られるという計算になり、約1兆円の興行収入が入ります。

ところが、ここ2、3年は2,000億円を行ったり来たりしているのが現状です。これを逆算してみると、200人の小屋に35〜40人しか入っていないという計算になります。そのくらい日本人は劇場に映画を観に行かない。4年ほど前の電通のデータによると、日本人で1年間に1本も劇場で映画を観ない人は、実に70%以上でした。ということは、上に挙げた2,000億円は、何度も劇場に足を運ぶ人で成り立っているということが分かります。映画産業が大きくなるためには、劇場に行かない人にも行ってもらえるようにすることが必要なんです。

映画にはあらかじめ用意されている椅子があるのだから、人を増やすことが可能です。人を増やすために椅子を作る必要はないので、努力次第でビジネスは成立します。そうすると2,000億円の興行収入は3,000億円になり、DVDなどの二次利用を含めるとどんどん増えていきます。つまり産業になる。産業になるということは、それに従事する人が増えるということです。だからこそ、1人でも多くの人を椅子に座らせたい。テレビ局は、本当にコアな映画ファンが観る映画よりも、たまには家族で観に行きたくなるような映画を作らなければならないんです。



3.メディアとの距離感



 僕はずっとメディアにかかわってきましたが、その中で気付いたのは、人とメディアとの距離感は、@3ミリ、A30センチ、B3メートル、C30メートルの4つがあるということです。

3ミリのメディアは携帯電話です。これは圧倒的な1対1の、パーソナルな「コミュニケーション」です。30センチはパソコンや本。自分の時間を使って自分が知りたい情報を調べるという意味において、非常に「インタラクティブ」です。3メートルは、テレビ。点けた瞬間に圧倒的な情報を垂れ流す「マスコミュニケーション」です。皆さんも時計代わりにテレビを見ることもあるだろうし、能動的に見るケースもあると思いますが、点けていれば興味がない情報でも勝手に入ってきますよね。30メートルは映画、「イベント」です。映画でなくても、舞台やサッカーの試合、コンサートなども30メートルのメディアですね。ただ、この30メートルのメディアだけは、残念ながら向こうから人がやってきてくれません。つまりメディア側から行くしかない。そこで僕は、30メートルに行かせるために、いかに@〜Bを使うかということを考えています。

まず、3メートル=テレビでタイトルを刷り込ませます。テレビは点けてさえいれば情報が勝手に入ってくるので、映画のタイトルを連呼する、あるいは何度も映すんです。少しでも興味を持った人には、30センチのメディアでいろいろなことを調べさせます。ネットや新聞には劇場の情報が載っていますし、雑誌に書くこともできます。この段階で「面白そうだけど1人で観に行くのはちょっと……」という人に、3ミリ=携帯電話で友達を誘わせます。ここで重要なのは、1人よりも3人で観に来てくれたほうが、映画館側としてもうれしいということです。例えば5枚の映画のチケットがあるとします。1人で5回観に行く人もいますが、テレビ局が作る映画は、1人1回でいいから5人に観て欲しい映画なんです。回数自体は変わらないので収入は一緒なのですが、観客動員数が1人と5人では、席が埋まる数が違います。そしてその埋まっている席を見ると、人々はその映画が当たっていると思ってしまうから、観なければいけないという気持ちになるんです。とにかく映画は観てもらわないと話になりません。

以上、30メートルに誘導するために、3メートル→30センチ→3ミリという順番でメディアを利用するというわけです。コアな映画ファンからすると、テレビ局の作るマス向けの映画は、文化的・芸術的に疑問に思う方もいるかもしれません。しかし僕らは、映画を文化にするというよりもむしろ産業にしたい。それに産業にしないと、テレビが映画に進出した意味がありません。事業としての展開が必要なんですね。そのためには、一度も劇場に来たことのないお客さんを呼び込む必要があるんです。



4.記録と記憶、記憶の「捏造」



 僕が学生時代に見ていた映画は、ゴダールやATG系のアートものばかりで、そういう映画を観て分かったフリをしていたし、それが自分のスタイルだと思っていました。だけどテレビ局に入った瞬間に、鍵をかけて封印したんです。そしていざ自分が好きなものを作れるポジションになって、その箱を出して鍵を開けようとしましたが、鍵が見つかりません。自分の中にあった「見せたい欲求」はいつの間にかなくなって、皆さんが見たい欲求に対して自分の知恵をどれだけ使えるか、ということばかり考えるようになっていたんです。「見せたい欲求」はアーティストの欲求です。プロデューサーは、「お客さんの見たい欲求に応える」ということです。そのとき、自分が体験してきた記憶を引き出すんです。

最近クリエイターの人たちに言うことは、「携帯電話で写メールを撮って満足するな」ということ。「記録」することは確かに大切なのですが、クリエイティブな作業で大事なのは、記録ではなく「記憶」です。美しい風景に出会ったとき、それを写真に収めてしまうことは記録です。記録として残されると、安心してしまいます。するとそこにあった自分の心の動きを忘れてしまう。もう一度その写真を見てそのときの気持ちを思い出すことは、なかなかできません。なぜなら気持ちというものは、次から次へ更新されていくからです。決して「写真を撮るな」と言いたいわけではなく、記憶をもっと大切にしてほしい。誰かの話を聞くときでも、覚えているフレーズだけを確実に覚えて欲しい。そして自分の記憶の中で、自分の理論で、自分の言葉として、勝手に話して欲しいんです。それを聞いている人が少しでも感動すれば、皆さんは完璧なクリエイターです。単に写真を記録して見せるのは、クリエイティブの仕事ではありません。記憶が重要なんです。

記憶は、どんどん「捏造」されていきます。恋愛を主題にしたドラマを作るときは、自分の学生時代の恋愛を思い出します。僕は学生時代に彼女を妊娠させたこともないし、恋人が死んだという経験もありません。それでもそういう物語を作れと言われれば、あの頃を思い出すしかない。そして当時の彼女のことを思い出して、「新垣結衣に似てたなあ」と思い込む。実際は似ていなくても、そう思い込むんです。

「あすなろ白書」というテレビドラマでは、僕は自分をドラマに投影させました。実際に自分を投影させたのは、木村拓哉が演じる取手君という男の子でした。なぜならあのグループの中で、僕は彼と同じ役回りだったんです。それも僕の記憶です。どういうシーンで投影したかというと、女の子に告白をするシーンです。「あすなろ白書」の中では、掛居君という男の子になるみちゃんという女の子が恋をしています。しかし掛居君はなるみちゃんに冷たい。彼はなるみちゃんのことが好きなのに、うまく表現できないんです。その2人をずっと傍で見ている気の弱そうな男の子が、取手君です。取手君はなるみちゃんに恋をして、三角関係になってしまいます。そこでドラマの前半に、取手君がなるみちゃんに告白をするシーンがあるんです。そのときの取手君の台詞は最初、「君が掛居を好きなことは知っている。掛居は悪いやつじゃないけれど、なるみが辛いのを見ていられないんだ」みたいな台詞でした。脚本家の北川悦吏子さんは素晴らしい脚本を書く方ですが、女性なので、男性の告白なのに言い訳っぽいんです。でも僕は男だから、脚本を読んでいて嫌になる。「なんで人のことを好きになるのに、こんなに言い訳をしなきゃいけないんだ」と。それを北川さんに言うと「じゃあ何て言うの?」と言われました。そこでとっさに浮かんだ言葉は「俺じゃだめか?」という一言だけでした。北川さんはびっくりして、「それじゃ何も伝わらないじゃない」と言われてしまいました。でも余計なことを言えば言うほど真実がなくなってしまうし、演じている人間がいるんだから伝わるはずだと思ったんです。そこでまだデビューしたての木村君に2つの台本を見せて、本人に選んでもらおうと思ったんです。正直どきどきしましたが、木村君は僕の台詞のほうを選んでくれました。しかし次は、どんな状況でその台詞を言うのかということが問題になりました。北川さんの脚本のなかには、「なるみちゃんの背後から取手君が問いかけるように」というイメージがあったので、面と向かって言うということは考えられません。そこで屋内ではなく、屋外で言わせることになりました。最終的には、公園でブランコに乗っていたなるみちゃんに取手君が後ろから抱きしめるというシーンになったのですが、これはいろいろな人の「記憶」の産物です。ブランコに乗っていて後ろから抱きしめられるのは、おそらく北川さんの記憶でしょう。「俺じゃだめか?」という台詞は僕の記憶です。木村君にとっての記憶は、このシーンを演じたということです。僕たちの記憶は、そんなにかっこいい話じゃなかったはずなんです。だけど自分の世界の中では、あのドラマのシーンが自分の記憶になってしまっている。
 
 ドラマ「若者のすべて」の主題歌も記憶の産物です。主題歌にはミスチルの「Tomorrow never knows」という曲を使用しましたが、これは打ち合わせでデモテープを聴いた瞬間に何のダメ出しもなく決定した、最初で最後の曲でした。そのくらい完璧だった。この曲はもともと「フィラデルフィア」という映画の主題歌を聴いた僕が、「こんな感じにしたい」と言って小林武史さんにお願いして、小林さんも「これからの僕らの音楽性に非常に近い」と言って作ってくれた曲でした。この曲は、僕が当時聴いていた音楽の記憶と今求めている音楽、そして小林武史さんの音楽の記憶やこれからの方向性が1つになって出来た曲です。

そうやって記憶は、自分の引き出しになっていきます。「踊る大捜査線」で有名な「青島コート」がありますが、本来は織田裕二君にはステンカラーコートを着てもらう予定でした。「東京ラブストーリー」のカンチが着ていたものをもう一度着て欲しかったんです。しかし本人はどうしても嫌がりました。そこで織田君本人が持ってきたのが、あの「青島コート」です。そのコートを織田君が着た瞬間、「踊る大捜査線」の青島君のキャラクターイメージが一気に湧いて出てきました。刑事役にコートは必需品ですが、そのコートが一人歩きするようになればそのドラマは当たります。「踊る大捜査線」に必要なコートは、ステンカラーコートじゃなかったんですね。あのとき役者が持ってきてくれたおかげで、青島君のイメージが決まった。プロデューサーとは、相手を触発してアイデアを出させていくことが仕事だと思いますが、そのためにはやはり引き出しが必要だと思います。

自分の中の記憶は、「捏造」されていきます。記憶を捏造することは罪ではないので、それをクリエイティブにぶつけていくことで、ビジネスになっていく可能性はあると思います。だから皆さんもいろいろなことを覚えてください。書き留めることも必要ですが、記憶が、「引き出し」になるはずです。社会人になると自分の好きなことができなくなります。だから、今のうちに自分の好きなことをしてください。その記憶は、必ず引き出しになるはずですから。



以下、質疑応答

Q.TVと映画の違いは?

A.まず画面の大きさが違う時点で、作り方が同じでも作る側の気持ちも変わってくる。映画はお金を取る、あるいは観に来てもらうという意味においても、スタイルが全然違う。


Q.原作をドラマ化することは大変?

A.とにかく大変。原作者側のイメージやそれを読んだ人のイメージがあるし、それらを裏切りたくはないけれど多少は裏切らないと面白くないだろうという気持ちもある。ちなみに僕がプロデューサーとして関った作品で原作があるものは「あすなろ白書」だけだが、原作者の柴門ふみさんは非常にご理解のある方だったので、原作どおりじゃなくても許してくれた。映画「ローレライ」も、はじめから映画化するという予定で原作を書いてもらったのに、出来上がった原作は400ページぐらいある分厚いものだった。もちろん2時間の映画にまとめられるわけがないので、これは本当に大変だった。イメージが広がったから良かったものの、どこを切り取ってどこをフィーチャリングするかということに、ものすごく苦労した。原作もののドラマ化で大変なのは、とにかく原作者とちゃんと向き合うということだと思う。自分の作りたいイメージと原作者のイメージが真逆であることも少なくない。僕はできればオリジナルがいい。


Q.どうしてオリジナルの映画が少なくなってきたと思うか。

A.これは間違いなく才能のある脚本家が少なくなってきたから。才能のあるプロデューサーは、自分のイメージを上手に説明して構築してもらうことが出来るはずだが、今の若いプロデューサーに一番多いのは、分厚い本を持ってきて「これがやりたいです」と言う人たち。自分の好きな本を持ってくることなんて、皆さんにだってできる。それを会社で給料をもらっているプロデューサーがやるのだから参る。そこには本人の意図なんてないし、そういう人にオリジナルは絶対に作れない。オリジナルが作れるのは、本を読んだときに自分の好きなエッセンスを「パクれる」人。つまり、いい意味で引用ができる人。そのためにも、たくさんの映画を観ることは大切だと思う。たくさんの映画を観ると、いつの間にか複数の映画が混合し、つながって1つの映画になっていることがある。これは自分のオリジナルである。その上で細かい構築をして才能のある人間を集めれば、きちんとした映画ができる。僕はそんな才能のあるプロデューサーを育てたいし、オリジナルの映画をどんどん作っていきたい。


Q.織田さんと柳葉さんの不仲説は本当?

A.不仲ではないが芝居の質が違いすぎるので、どうしてもリズムが合わないところがある。でも撮影が終わったあとは一緒にお酒も飲むし、決して不仲ではない。芝居の質の違いを挙げると、鈴木保奈美なんかもっと織田君とは合わなかった。反対に「ロングバケーション」の木村君と山口智子ちゃんは非常に合った。合いすぎて台本通りに進まないくらいだったので、「この台詞だけは言ってくれないと困る」と言って、頼んでやってもらったこともあるぐらい。最終回の最後のシーンでは、2人がお互いの名前を叫び合うシーンがあるが、あんなの台本には書いていない。「ハイって言わないとチュウするよ」という展開も、全部2人のオリジナル。要するに、役者のリズムが合えば次々に新しい展開が生まれるけれど、そうでない場合は演出家が警戒しながら進めていかなければならない。でもリズムが合わないからと言って製作ができないというわけではない。


Q.知的財産の保護がより重要な課題だと思うが、特許とは異なり無審査・無登録で権利が発生する著作権に基づいて、刑事罰を与える、あるいは重罰化されるということについてどう思うか?

A.確かに著作権は重要な課題なので、さきほどの「パクる」という発言は危ないかもしれない。しかし僕は、著作物の営業を妨害するということが問題だと思う。知的財産とは、それを商品にすることを生業にしている人たちがいるからこそ、その営業を妨害する可能性に対して著作権法が存在しているのだと、僕は解釈している。


Q.亀山先生がプロデュースした映画はドラマから映画化されたものが多いが、どんな要素が映画化の決め手になるのか。

A.僕がドラマから映画にする最大の決め手は、ストーリーではなくキャラクター。重要なのはキャラクターがきちんと存在していること。そしてそのキャラクターに映画的な冒険をさせられるかとういことが、僕の一つの基準。


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