2007年度JASRAC寄附講座
音楽・文化産業論U
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2007.12.8


講師:西田浩(にしだ・ひろし)先生

1963年東京生まれ。上智大学文学部新聞学科卒業。
読売新聞に入社後、静岡支局を経て、文化部に在籍。ポピュラー音楽を担当し、第1回目のフジ・ロック・フェスティバル以降、ほぼすべての洋楽系フェスティバルを取材する。
共著に『テレビ番組の40年』など

 

「ロック・フェスティバル」


はじめに


 今日は、日本におけるロック・フェスティバルの発展史について、文化論的な切り口からお話していきたいと思います。日本におけるロック・フェスティバルは、1997年に始まったフジ・ロック・フェスティバルが1つの大きな起源ですが、その以前にもロック・フェスティバルはありました。

 

1.フジ・ロック以前

 

(1)草創期のロック・フェス

 日本においてロックがよちよち歩きを始めたのは、古くは1960年代後半〜70年代初めです。当時の日本の音楽シーンは、ロックというよりもフォークが若者の音楽の中心的存在で、よりマイナージャンルの音楽として、ロックが生まれました。ちょうどその頃から、ロック・フェスティバル的なものが見受けられるようになったんです。これにかんしては記録にとどまっているだけで、実際にどのようなものだったのかということはよく分かりません。志摩のサマーフェスティバルや、河口湖のロック・イン・ハイランドなどが70年代初頭に行われていますが、ほとんどアマチュアのイベントに毛が生えたような規模だったと推測されます。
 
 ある程度エポックなイベントとして記録されているのが、1974年の郡山ワンステップ・フェスティバルです。このイベントには、サディスティック・ミカ・バンドやオノ・ヨーコさん、沢田研二さん、加納秀人さんがいた外道というバンドなどが出演していて、邦楽系では結構大きなイベントだったようです。
 
 一方、洋楽系のイベントが出てきたのは70年代後半でした。日本のロック・フェスティバルの走りとも言えるジャパン・ジャムというイベントが、1979、80年と2年連続で開かれました。初年度は神奈川県の江ノ島に作られた特設ステージで、野外で行われました。出演者は、まだデビュー2年目ぐらいだったサザンオールスターズ、60年代にビートルズのライバル格とも言われたビーチ・ボーイズ、カナダのハートなどでした。翌年もサザンオールスターズ、ハワイ出身のカラパナなどが出演しましたが、残念ながらそれ以降開かれることはありませんでした。
 
 1980年代に入ってからは、84、85年にスーパー・ロック・イン・ジャパンというフェスティバルが開かれています。84年は西武球場で、出演者はホワイトスネイク、スコーピオンズ、マイケルシェンカーグループなど、ハードロックを主体としたバンドが多く、その頃はまだ駆け出しだったボン・ジョヴィも出ていました。翌年は、舞台をお台場に移して行われました。トリはスティング。またロニー・ジェームス・ディオ率いるハードロック系のディオや、ラフカットなども出ていました。
 
 1980年代に行われたロック・フェスティバルの特徴の1つは、企業スポンサーが付きやすかったという状況です。当時はバブル時代だったので、いわゆる企業の冠イベントという形で開かれたロック・フェスティバルが、いくつか挙げられます。例えば、85年に大手眼鏡小売店が主催した冠イベント、ロック・イン・ジャパン。出演したのはカルチャークラブやスタイルカウンシルやゴー・ウェストなどで、当時のイギリスのいわゆるニューロマンティクス、ニューウェーブ系のバンドを中心とした、豪華なラインアップでした。90年には大手ビールメーカーが東京ドームでキリン・ギグズというイベントを開きます。出演者は、ホール・アンド・オーツやドゥービー・ブラザーズなど、旬というよりも昔の大物アーティストを集めたという感じの人たちでした。ちなみに、このキリン・ギグズが、私が初めて観たロック・フェスティバルです。
 
 1980年代のもう1つの特徴はチャリティーコンサートです。当時、アフリカの飢餓救済を旗印に、アメリカやイギリスのトップアーティストたちが、アメリカ会場とイギリス会場に分かれてリレー方式でやった一大イベント「ライブエイド」がありました。その影響もあって、この時期はチャリティーコンサートが非常に盛んでした。そのような流れの中で、86、87年にジャパン・エイドというイベントが開かれています。ピーター・ガブリエルやハワード・ジョーンズ、リトル・スティーブンなどの社会派アーティストが集まって行われたイベントです。
 
 1994年、一風変わったグレート・ミュージック・エクスペリエンスというイベントが開かれました。会場は東大寺。大仏殿の前に特設ステージを設けて行われました。ユネスコが主催、イギリスのプロモーション会社が中心的な役割を担い、21世紀に伝える音楽文化を創造するという高邁な思想のもとで開かれました。出演者も豪華で、ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェル、ウェイン・ショーター、クイーンのドラマーであるロジャー・テイラー。日本からは喜納昌吉、布袋寅泰など、かなりのビッグネームが名を連ねていました。このコンサートでユニークだった点は、共演が原則だったということです。ちなみにボブ・ディランは、マイケル・ケイメンが指揮するフルオーケストラをバックに歌いました。ジョニー・ミッチェルはウェイン・ショーターと、布袋はロジャー・テイラーらと、共演がベースになったコンサートでした。
 
 以上のように、フジ・ロック以前にもロック・フェスティバルというものはあったのですが、フジ・ロック以降と決定的に違うのは、定着しなかったという一点に尽きると思います。その理由はいくつか考えられます。1つめは、バブル期の冠スポンサーに依存するということは、冠スポンサーの意向に左右されます。景気が悪くなれば当然「こんなのやってられない」ということになるわけです。まずそういった脆弱な構造がありました。もう1つは、チャリティー系のコンサートに出るミュージシャンの多くはギャラがないという状況だったため、開催のハードルは下がる反面、ミュージシャンの継続意識に左右されるという構造がありました。ミュージシャンのチャリティー意欲自体も、80年代のある種の熱気の中で醸成されたという部分があったので、90年代以降はどうしてもチャリティーに対する温度が下がってきた。さらに、日本においてロック・フェスティバルが必ずしも継続を前提に考えられてこなかったということも挙げられます。大きなモデルとして、ロック・フェスティバルの代名詞とも言われている、1969年のウッド・ストックも、ワンタイム・パフォーマンス、つまり1回きりのイベントという色彩が強かったので、どうしても継続性は強く意識されていませんでした。


(2)ジャズ・フェスとの比較

1970年代後半から90年代にかけて開かれた、夏の野外音楽イベントの中核的な存在を担ったのは、ジャズ・フェスティバルでした。77年に始まったライブ・アンダー・ザ・スカイは92年まで続き、当時は非常に存在感のあるフェスでした。また長野県の斑尾で、ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾というイベントが、1982〜2004(95〜97年は中止)年まで開かれていました。芝生の上の素朴なステージセットで、ロックと比べるとはるかに牧歌的な雰囲気でした。山梨県の山中湖畔で開かれていた、マウント・フジ・ジャズ・フェスティバルというイベントもあります。1980年代は、こうした3大ジャズ・フェスティバルを中心に、夏の野外=ジャズという状況がありました。
 
 しかしこの状況も1990年代半ば以降には大迷走します。斑尾でのイベントは、95〜97年はどうしても開催されず、2005年以降も開かれていません。マウント・フジも96年でいったん終りを迎えて2002年に復活したものの、04年以降は開かれていません。なぜそうなってしまったのでしょうか。ジャズ・フェスの場合もやはり、冠スポンサーへの依存度が高かったんですね。ライブ・アンダー・ザ・スカイは某タバコ会社をスポンサーとしていましたが、90年代の不況によってスポンサーの財布の紐は固くなってしまった。
 
 もう1つの理由は、ジャズという音楽そのもののパワーダウンです。ジャズ・フェスが生まれた頃はフュージョン・ブームが華やかで、今の日本の音楽シーンでは考えられませんが、渡辺貞夫や日野皓正など、いわゆるインスゥルメンタル系のアルバムが、何十万も売れるという時代でした。ジャズは若者にも高く支持されていたので、集客は比較的容易でした。ところが1980年代半ば以降、ジャズは古典回帰的な傾向を示すようになり、電気楽器を取り入れたフュージョンスタイルが下火になってきました。それに伴い、若者のジャズ離れが進み、衰退していったというわけです。

 以上、冠スポンサーへの強い依存はイベントを開催しやすいという利点があるものの、イベントの継続性にかんしては非常にリスキーであるという教訓を、ジャズ・フェスティバルは残したと言えるでしょう。

 

2.フジ・ロック・フェスティバル


(1)1997年の第1回

 フジ・ロック・フェスティバルは、今の日本のロック・フェスティバルのプロットタイプになったことは、疑う余地はないと思います。1997年に始まり直近の2007年は11回目にあたりますが、その間途切れることなく継続しているという意味では、それ以前とは明確に一線を引くことができるフェスティバルと言えます。主催者であるスマッシュというプロモーターの日高正博社長によると、94年あたりから開催を考えていたそうです。開催前年の96年に会場を山梨県天神山スキー場とおおむね決定し、97年の2月には第1回フジ・ロック・フェスティバルの開催を発表しています。当初から継続することは明言されていたという意味において、洋楽系としては実質的に初の大型ロック・フェスティバルだろうと思います。ただ、開催ノウハウはほとんどありませんでした。イギリスのグラストンベリー・フェスティバルをモデルとしていますが、社会環境の違いなどが大きいので、そのまま日本にあてはめるのは無理があります。とくに、会場にかんしてはそうでした。それまでのロック・フェスは球場、あるいは都心に近い平地を会場として利用することが一般的でしたが、フジ・ロックの場合は「大自然の中のロック・フェスティバル」というコンセプトを最初から導入していました。しかし、都心からのアクセスが困難な場所に、何万という人を動員することが可能なのかという懸念はありましたし、会場の中のキャンプサイトで寝泊りができるという開催モデルもありませんでした。私も日高社長にお会いして、何度かこういった話を伺ったのですが、氏は「その点にかんしては手探りだった」とおっしゃっていました。
 
 記念すべき第1回は、7月26、27日の2日間の日程で開催されました。出演者はレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、フー・ファイターズ、ハイロウズ、イエローモンキーなどでした。会場の駐車場には制限があったので事前に駐車券を販売し、幹線道路からスキー場に向かう交差点でそれをチェックするというスタイルをとりました。しかしチケットを持っていない車が強行突破したり、同じ方向にある別荘地に行くと偽ってチケットを買っていない車が進入したりして、狭い山道に違法駐車の車が並び、交通をさまたげ、ひどい渋滞がおきるという状況で、中には仕方なしに10キロの道のりを歩いているという人もいました。しかも初日は台風が関東地方を直撃するという不運にも見舞われました。午後になると雨の勢いはますます凄まじくなって、まさにバケツをひっくり返したような状態でした。

 会場内はというと、ステージの前にはすごい量の私物やゴミが投げ込まれていました(写真1)。関係者の話によると、早めに着いたお客さんが場所取りのためにステージ前に置いておいた荷物を、後から入ってきたお客さんがステージの柵の中に投げ込んだということでした。観客側も慣れていなかったんですね。それまでロック・フェスが続いたためしがなかったので、こんなステージを観れるのは一生に一度だろうという悲壮感が漂っていましたし、かなり殺気立って現在とはまったく異なる空気でした。ステージ前は本当に壮絶な状況で、気分が悪くなったり倒れたりする事態も頻発しました。しかも前のほうになると、鮨詰め状態で意識を失っても倒れることすらできない。セキュリティ班も客の中に入っていくこともできないので、手の届かない範囲で人が倒れたら、手の届く範囲まで頭の上で転がしてもらうという光景も頻繁に見られました。救急場所は、まるで野戦病院状態でした。



(写真1) 第1回フジ・ロック。舞台前にはゴミの山が


 (写真2) 第1回フジ・ロックは2日目が中止に。.会場には放置ゴミが散乱する

2日目は晴れましたが、結果的には中止でした。2日目の入場券の売上は3万枚。そのうちの2万枚が初日との共通券ということで、初日で疲れきった人たちが夏の炎天下にさらされるのは非常に危険だという判断があったためです。また、芝は剥がれてぐちゃぐちゃで、ただでさえ滑りやすくなっていたうえに、スキー場ということで斜面もかなり急だった。そういった状況を考えると、2日目の開催は危険だということになったようです。会場には放置ゴミが散乱(写真2)し、その量はなんと20トンでした。
 
 日本は結果責任を厳しく追及しますし、相当な批判が出たのも事実でした。実際に当時のホームページの書き込みには、ひどい目にあった、いったい主催者はどうなっているんだという観客の怒り、激烈な書き込みもあったようです。しかし、天気予報で明らかに雨が降るということが分かっていたにもかかわらず、Tシャツ短パン姿の人たちも相当数いて、観客サイドの不備・無謀さもあったと思います。


(2)第2回・第3回

 初回を見た身としては、第2回目ははたしてあるのだろうかという疑問がありましたが、とりあえず開かれました。天神山スキー場は初回の混乱や、芝がほとんど剥がれてしまったことが問題視されたことが原因で借りられなかったのですが、それでも日高氏は「大自然の中でのフェスティバル」を試行錯誤したそうです。しかし結局2回目には間に合わず、都心の広大な空地にステージを組んで開催されました。アクセスの利便性、あるいは観客が怪我をしたときに病院に搬送しやすいということも含め、比較的条件の良い開催でした。
 
 またこの年は酷暑に見舞われました。僕はこの年から舞台前のカメラマンスペースに入って写真を撮るようになりましたが、このときは熱中症で意識混濁の客が次から次に降ってくるという状況で、熱中症その他13人が救急車で運ばれるという騒動になりました。東京消防庁がマスコミに広報した関係もあり、当時はかなりの騒ぎになったようです。
 初回と2回目の経験によると、天候が1つの大きな問題だということがわかります。まず、日本の夏は暑い。それに台風などの不確定要素も抱えています。観客側の「見逃してなるものか」というメンタリティを含め、日本でロック・フェスが定着するのは難しいだろうという感想を持ちました。これがガラリと変わったのが、翌年です。
 
 第3回の1999年から、現在の苗場スキー場に会場が定着しました。初めて成功と言える開催だったと思います。一番変わったことは、お客さんの雰囲気でした。1回目と2回目は熱狂的な雰囲気が漂っていましたが、3回目は急にクールダウンしたんです。(写真3)おそらく多くの人が、これからも開かれるという確信を持てたのではないかと思います。それが会場の空気に如実に反映していました。また、過去2回で考えられる限りのトラブルが出尽くしたことで運営ノウハウが蓄積され、手厚いケアができるようになったことも大きかったと思います。フジ・ロックの基本形は、ここで固まったと言えます。


(写真3) フジ・ロックの第3回以降は苗場に定着。グリーンステージの様子


(3)進化への節目

 その後のフジ・ロックですが、2001年には「ロック遊園地」というコンセプトが明確になりました。例えば、夜になるとテントの下で「サーカス・オブ・ホラー」というサーカス団のイベントが夜通し行われたり、メリーゴーラウンドなどの遊園地スペースもできました。マッサージテントやカジノカフェもありました。すべて今に受け継がれているわけではありませんが、この年から「音楽以外で楽しませる」という試みが意図的にされるようになりました(写真4)。


(写真4) フジ・ロック会場には子供の遊び場も

 2004年にはそれまで1日券と通し券の2本立てだったチケットが、なんと3日間の通し券に一本化されました。日高社長の説明によると、1日だけではイベントの全貌は分からないし、素晴らしい会場を隅々まで味わうことができないから、3日間で完結するというイベントとして定着したいということからの試みだったようです。
 翌2005年には、1日ごとの入場が可能な方式に戻りました。わけを聞いてみると、たまたま新潟で震災が起こったので、地元復興のために協力を要請され、動員しやすい以前の方法に戻したということでした。しかし日高社長曰く、将来は必ず3日間通し券の一本化をするそうです。さらに氏の理想は、その上で出演者の発表を直前までしないこと。それはつまり主催者と観客が全面的な信頼で結ばれ、出演者の顔ぶれに関係なく毎年いってみようと思わせるようなフェスティバルということです。 
 フジ・ロックの出演者には、ベック、プロディジー、ほぼ常連のケミカルブラザーズ、ニールヤング、アラニス・モリセット、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ジェーンズ・アディック、コールド・プレイなど、さまざまなミュージシャンがいます。


(4)フジ・ロックとは

 フジ・ロックとは、イギリスのグラストンベリー・フェスティバルをモデルとした、「大自然の中のフェスティバル」という明確な理念を持っています。また、日本におけるロック・フェスティバルの原型を築きました。とくに苗場に会場を移してからは、環境への配慮をいち早く打ち出しました。そして、日高社長の理想主義的なフェスティバルであるということ。大自然との共生や、3日間通し券、直前まで出演者を発表しないことなどは、日高社長の理想主義的考え抜きには語れないだろうと思います。


3.サマーソニック


 フジ・ロックに続き夏のロック・フェスティバルに参入してきたのが、クリエイティブマンというプロモーターが主催するサマーソニックです。まず、後発のメリットを最大限に生かし、今に至るまで非常にスマートな運営がされていると思います。主催者のクリエイティブマンは、1997年の第1回フジ・ロックに協力という形で加わっています。部分的な参画とは言え、第1回目の混乱を目の当たりにしたことは、少なからず開催ノウハウの蓄積にはなったはずです。
 
 クリエイティブマンは1999年に、2日間メインステージ一本だけというスタイルのロックイベント、ビューティフル・モンスターズ・ツアーを開催しています。全体に小規模のサマーソニックといった雰囲気ですが、私の感想では、もっと宣伝活動をしてもいいんじゃないかと思えるほど地味な開催でした。その翌年、サマーソニックが華々しく開かれました。場所は山梨県の富士急ハイランドで、前年のビューティフル・モンスターズ・ツアーと同じ会場です。そのときに打ち出された理念は「都市型」。またサマーソニックは、東京と大阪の2会場をたすきがけするという編成で行われ、初回から非常に効率的な運営がされていました。
 
 出演者は、昨年亡くなってしまったソウル界のゴッド・ファザー、ジェームス・ブラウンや、90年代に成功を収めたヒップホップ・グループ、アレステッド・デベロップメント、そしてジョン・スペンサー、グリーンデイなどでした。全体的に、90年代以降に飛躍したオルタナティブロックのミュージシャンと、ブラック・ミュージックを中心としています。
 
 第2回の東京会場は、千葉マリンスタジアムと幕張メッセでした。名実ともに都市型となり、今年に至るまでこの会場で開催されています。幕張メッセはいわゆるコンベンション施設ですが、そこにいくつかのステージを設置するという基本形がこのとき確立しました。第2回目の出演者は、マリリン・マンソン、ゼブラヘッドなど。この年は完全に90年代以降のロックの潮流に焦点が当てられていました。コンセプトの試行錯誤があったのだろうと思います。
 
 第3回は、ガンズ・アンド・ローゼズ、スージー・アンド・ザ・バンシーズ、フィンランド出身のハノイ・ロックスなどが出演していました。彼らはみな十数年ぶりの出演など久々の顔ぶればかりで、それ以降はこういった、意外性を狙った仕掛けがサマーソニックのアクセントとして引き継がれることになります。サマーソニックの1つの魅力ですね。
 
 2004年の第5回で感じたのは、時代への感度です。この年はアメリカの大統領選があった年でもありました。再選を目指すブッシュと、民主党のケリーが争ったことは記憶に新しいと思います。この年はロック界も「反ブッシュ」の声が高まっていた。出演者のグリーン・デイは「アメリカン・イディオット」、つまりブッシュを「アメリカの愚か者」として戯画化して描いたアルバムを出しましたし、ビースティ・ボーイズは「トゥ・ザ・5ボロウズ」という、これまた強烈な政権批判のアルバムを出したのですが、この2組が並んで出演するということは、時代の感度を感じさせるブッキングでした。ほかには、カサビアンやナイン・インチ・ネイルズ、ミューズ、ブラック・アイド・ピーズなどが出演しています。(写真5)


(写真5) サマーソニック出演者=グリーン・デイ

サマーソニックとは、イギリスではグラストンベリー・フェスティバルと並んで2大フェスティバルとされているレディング・フェスティバルをモデルにしています。レディング・フェスは都市近郊で行われるフェスです。また最初からフジ・ロックとの差別化を意識せざるをえなかった。フジ・ロックは1つのブランドになっていたので、その中でロック・フェスを立ち上げるためには差別化が不可欠ですね。試行錯誤の末に出てきたのが、「意外性」と「時代への感度」です。また何となく大ざっぱにではありますが、年ごとのテーマというものも意識してブッキング、構成されているように思います。
 
 洋楽系では以上の2つが2大ロック・フェスティバルと言えるでしょう。次は第3のフェスティバルを見てみましょう。


4.ウドー系のフェスティバル


 ロックの老舗プロモーター、ウドー音楽事務所が主催する一連のフェスティバルがあります。1997年にフジ・ロックの開催が発表されると、「黙ってられない」という形で、ロック・アラウンド・ザ・ベイというフェスティバルが開催されました。ステージは1つ、出演は3組という非常に小規模で、かなり急ごしらえの開催でした。出演はモトリー・クルー、スティーブ・ヴァイ、ザック・ワイルド。非常にウドーらしいハードロック主体のラインアップですが、小粒であるという印象は否めません。最近では音楽業界でも大半の人がこのフェスのことを覚えていないほど存在感が希薄なイベントで、翌年以降も開かれることはなく、ウドーがロック・フェスの世界に戻ってくるのは実に7年後のことです。
 
 2004年、民放テレビと組んで、洋楽・邦楽ともスター主義的なラインアップで開催されたロック・オデッセイ。このイベントにはエアロスミス、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ザ・フー、ミッシェル・ブランチ、邦楽では矢沢永吉、ラルクアンシエルなどが出ていました。やはりメインステージは1つ。結果的に洋楽と邦楽が混在するという流れの悪さも感じました。このロック・オデッセイも、翌年は開かれていません。理由については諸説ありますが、公式コメントによると市街地近辺の開催だったために長時間の騒音が問題となったということでした。
 
 2006年にはウドー・ミュージック・フェスティバルが開催されています。このイベントは、60〜70年代から活躍する大御所を中心に、古典ロック指向を強めたものでした。40代以上の中高年をターゲットにして、来場者の平均年齢も高かった。出演者は、70年代に活躍したアメリカンロックの代名詞的、ドゥービー・ブラザーズなど。サンタナの舞台ではジェフ・ベックが飛び入りで共演し、オールドファンにとっては涙モノのシーンも見られました。中高年がターゲットという独自性はあったものの、動員は伸び悩みました。個人的には、地方開催がマイナスに作用したことが最大の要因と思っています。開催の在り方を再検討した結果、今年は開かれませんでした。
 
 以上、ウドー系の3つのフェスティバルの課題と可能性を総括してみましょう。まず、中高年をターゲットにした古典ロック指向は、間違った選択ではないと思います。とくに少子化が進めば、音楽業界自体もポスト団塊世代をターゲットにせざるを得なくなる宿命を背負っているからです。しかしこのコンセプトが徹底されているとは言い難い若者向けのバンドを混在させ、少々中途半端なラインアップになったことはいただけなかった。もう1つはやはり、開催地です。中高年を対象とする以上、多少はアクセスのいい場所での開催が必須だろうと思います。方向性はそれほど間違っていないので、適正な開催が行われれば定着していく可能性はあるのではないでしょうか。


5.ロック・フェスティバルの功績


 最後に、ロック・フェスティバルの功績を挙げてみましょう。例えばフジ・ロックには約200組が出演し、努力次第では1日10組以上は観ることができます。そういう意味において、ロック・フェスは観客と未知のバンドとの出会いの場として有効ですし、ロックファンとしての経験値も上がります。また、すべての出演者を観ることは当然不可能なので、プログラムそのものを観る人が決めることになります。つまり受け身ではなく能動的に参加できる方式を、フジ・ロックなどは確立したと言えるだろうと思います。
 
 ビジネス面でも、単独公演が難しい新人や無名のバンドの来日を促すことができます。高い動員数が望めるバンドとくっつけることにより、個々の採算性はさほど問われませんし、フェスティバルでの反応が良ければ、単独の来日公演につなげやすい。非常にマーケティング的な機能もありますね。実際、フェスティバルが行われるようになった97年以降は、新人や若手などのバンド来日は飛躍的に増えました。総体として、日本におけるロックの裾野拡大には間違いなく貢献していると言えるのではないでしょうか。



以下、質疑応答

Q.これからのロック・フェスはどのような方向に進んでいくのか?

A.邦楽系のフェスティバルには、いわゆる地方発のフェスティバルがいくつも見られる。これからは、よりセグメント化された地方発の中小規模ロック・フェスが出てくるのではないか。しかし巨大イベントに関しては、ウドーフェスが苦戦しているように飽和状態という気もする。


Q.新聞記者という職に就いたときから、ロック・フェスを追いかけたいと思っていたのか。またどんな記者にもそのようなチャンスはあるのか。

A.新聞記者は入社すると、地方に5〜6年赴任した後に本社で各取材部に振り分けられる。新聞記者になった以上、天下国家の動向にかかわる仕事に対するモチベーションがなかったわけではないが、最終的には文化部の記者を志望して、文化部に入ったのは90年のとき。その結果として今に至るので、最初から明確にロックを追いかけようと思ったわけではない。どんな記者にもそのようなチャンスがあるかのと聞かれると、僕はたまたまなれたが、希望が叶わない人もいると思う。ただ新聞社において、文化部は決して陽の当たる部署ではないので、希望し続ければ何とかなるかもしれない。


Q.CDが売れない時代にあっても、ロックフェスの増加・チケットが取れないなどの現状がある。なぜそのような現象が起きていると思うか?

A.90年代、いわゆる音楽バブルと言われていた時代があった。ただ、その時代というのは、必ずしも音楽のコアファンではないグレーゾーンに属する人々による売り上げが大きかった。ロック・フェス、あるいはコンサートに行く人たちはコアなファンに近いので、そこでの温度差は明確に生じていると思う。


Q.先生が思う理想的なロック・フェスは?

A.フジ・ロックは日高社長の理想主義が貫かれていて、それを否定はしないし、理念を持って文化的なビジネスをすることは大切なことだと思う。ただ3日間通し券のみ、あるいは直前まで出演者の発表はしないなどといったことにかんしては、必ずしも万人にとっていいとは思わない。なぜなら中には予算や仕事の都合で1日しか行けない人もいるだろうから。しかし理念や哲学を持つということは非常に大切で、そういったものに彩られるフェスティバルは魅力的だと思う。


―参考文献・ホームページ―
『ロック・フェスティバル』(西田浩著、新潮社)
フジ・ロック・フェスティバルHP(スマッシュ)
サマーソニックHP(クリエイティブマン)
ウドーHP



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