2007年度JASRAC寄附講座
音楽・文化産業論U
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2008.1.19


講師:反畑誠一(たんばた・せいいち)先生
音楽評論家・立命館大客員教授(「音楽文化・産業論」「現代メディア運営論」)。
(社)全国コンサートツアー事業者協会理事。芸術選奨推薦委員。日本レコード大賞常任実行委員。
J-popを中心にジャンルを超えて幅広い視野で評論活動を、新聞(京都新聞)・ラジオ(FM綾部)・テレビ(KBS京都)を通じて展開中。
30余年間にわたり、日本人アーティストのアジア公演に同行取材を続ける傍ら、PROMIC調査団員としてアジア各国の音楽産業事情を現地視察するなど、アジアの音楽ソフト市場の調査・分析の第一人者。




「音楽著作権・知的財産権」



はじめに


 私は音楽評論家です。Jポップを中心に評論活動を行っており、ただ今ヒットしている歌、あるいはこれからヒットしそうな楽曲やアーティストを私なりの視点でキャッチし、分析・評論しています。私は新聞のジャーナリストからスタートし、雑誌の編集者を経て現在の音楽評論家になりました。サラリーマン時代の過程で、私なりの専門分野を絞り込めたことが人生の分岐点になったと思っています。私自身はもともとエンタテインメントの世界が好きで、演劇やミュージカルなどもよく観ていました。まず私がJポップの分野へ深入りしていくきっかけとなったお話をしようと思います。


1.ダーク・ダックス


 まずはこの曲を聴いてください。

【ダーク・ダックス『アムール河のさざ波』が流れました】

 みなさんはおそらく聴いたことがない楽曲だと思います。この曲は、ロシアのポピュラーソングで、1955年に結成した慶応出身のダーク・ダックスというコーラスグループの歌声です。当時、日本にはアメリカの最新のポップスが大量に入ってきており、彼らもアメリカのポピュラー音楽の影響を受けた人たちでした。いろいろなレパートリーを持っていますが、特にロシア民謡が彼らの得意分野でした。今聴いていただいた楽曲は、題名にも使われている「アムール河」がテーマになっています。この河は、タタール海峡に注ぐ全長4,440キロメートルもの長さの雄大な河です。この楽曲が発売された当時、ロシアはソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)と言われており、15の構成国からなる多民族国家でしたが、この大国は1991年にベルリンの壁が壊れるのと同時に崩壊します。人口は2億人にも達していました。その頃はまだ日本とロシアとの国際交流は円滑ではありませんでしたが、ソ連国営コンサート公団はロシア民謡を得意としていた彼らを国内公演に招待してくれたのです。

 そのロシアがまだソ連だった1971年、彼らは16年ぶりに再び海外公演に招かれます。その際、私も誘われて一緒に行きました。その頃、私は雑誌の編集者でした。非常に忙しい日々の連続で、普通でしたら長期の海外旅行をするような暇はありません。ところが幸いにもその時期に「社長賞」というご褒美をいただくことができたので、わがままを許してもらいソ連へ行くことができたのです。彼らのコンサートツアーに私がついて回るという状態で旅をしました。ソビエトには3週間滞在しました。体制の違う国家でコンサートについて回るなんて、それは得がたい経験でした。最初のコンサートは、サンクトペテルブルグという都市で行われました。ロシア西部、フィンランド湾に面する美しい都です。

 1971年という時代は、1米ドルに対して日本円が360円という固定相場制の頃で、旅行者は外貨を自由に持ち出すことはできませんでした。さらに航空便は北回りのみでしか飛ぶことができず、サンクトペテルブルグまではアラスカにいったんトランジットしてから行かなければなりませんでした。それに私はロシア語をまったく話せません。コンサート会場は音響設備のない体育館で、まして専門のPAマンなどはいるわけもありません。旧ソ連のホテルはすべて国営で、夜の11時半になると、まだ食事中の客がいても店じまいしてしまいます。街中には外人向けのバーはあるのですが、そこも12時半になると閉店してしまいます。やむなく私たちは、お酒をホテルの部屋に持ち込み、麻雀をしながら飲んでいました。しかも料理がまたまずい。がちがちの固いパンなどは当たり前でした。食事のまずさは本当に耐えがく、日本からたくさんの非常食を持っていきました。サンクトペテルブルグは、エルミタージュという世界的に有名な美術館がある古都で、私もオフの日を利用してエルミタージュへ行きましたが、豪華絢爛、展示品も多く素晴らしかったです。すべてが初めての体験でしたが、本当にいい経験だったと思います。

 その後バルト3国へと移動します。バルト3国とは、エストニア、ラトビア、リトアニアの3カ国を指しています。目と鼻の先にはワルシャワがあり、直ぐにも行ける距離なのですが、自由に行動することは絶対許されないので、指定されたルートだけを回ることしかできませんでした。ツアーの途中、私がPAの仕事をやらざるを得ない状況などもありました。英語はもちろん通じないので、ロシア語で伝えなければなりません。覚えたてのロシア語でPAへ指示していると、怪しまれてしまい公安に後を付けられたりもしました。ウクライナの古都、キエフへも行きました。チェルノブイリの原発事故が起こったのはこの都市の近くです。最後は首都モスクワへ戻りました。ソ連ツアーを終えた後は、北欧のフィンランドからデンマークへ行き、スペインへと抜けました。ソ連ツアーはサービスの「サ」の字もない重苦しい旅でした。

 私は、幸いにも様々な人間ドラマに遭遇してきました。モスクワでは、女優の岡田嘉子さんとお会いする機会に恵まれたのです。彼女は1937年、演出家の杉本良吉さんとソ連に亡命した方です。今日だったら超ビッグなニュースですね。私たちがソ連へ行った70年代当時には、杉本さんも亡くなられてしまい、岡田さんはモスクワでひとり暮らしでした。彼女はダーク・ダックスのファンでもあったので、コンサートへは欠かさず見えていました。そのようなご縁で、私も岡田さんの自宅に招いていただきました。当時ソ連では自宅に外国人を招き入れてはいけないという規制がありましたので、その際私が撮った写真は日本で大スクープになりました。ビッグチャンスに巡り合うことは、人間関係が大切だと思います。

 この時のソビエト旅行は、私にとって貴重な人生経験になりました。音楽という娯楽の分野であっても、カルチャーという観点からも、東西冷戦の象徴だった共産主義体制の不自由な国での暮らしは有意義な体験でした。たった3週間の旅でしたが、私の人生では大きなエネルギーの源泉になりました。


2.小田島雄志さん


 時を同じくしてアングラを含めた小劇場運動の一環で、小田島雄志先生が訳したシェイクスピアの戯曲をすべて上演しようという東大生が中心の演劇集団がありました。小田島先生は、坪内逍遥さんに続いてシェイクスピアの全作品を翻訳した学者で、演劇を観た後は必ず一緒に飲みに行くほどの付き合いでした。そのようなご縁で、上演の度に私は観に行かなければならず、翻訳が仕上がる度に作品を渡され、読まされました。ちなみにその時、学生役者だった方が、昨年この講座に講師として来られた田代冬彦先生です。

 翌年には小田島さんが訳したシェイクスピアの戯曲集第一巻が出ました。小田島さんと私は、「イギリスに行ったこともないのにシェイクスピアを翻訳するのはどのようなものか」という話しになり、その年のクリスマスに、冬のボーナスをポケットに詰め込んでイギリスへ旅立ちました。ロンドンのナショナルシアターで64年ぶりに上演された「ハムレット」のノーカット版を鑑賞したのです。ノーカットだけに、上演時間は3時間を越えるほど長かったです。この旅ではアーノルド・ウェスカーという有名な劇作家の方とお会いする機会もありました。彼は「お正月はどのレストランもクローズしているからうちへ来ないか」と、1月1日の夜に自宅へ招待してくださったのです。この旅でも様々な出会いがありじつに珍道中でした。外国に行けばいいという訳ではありませんが、ポジティブな体験は人生に必要だと思います。

 さらに私の人生での歴史的な体験の中に、ベルリンの壁が崩壊する瞬間に居合わせたということがあります。2年連続して東欧のチェコを訪れる機会がありました。2回目は有名な「プラハの春の音楽祭」がありました。その時のプラハは、最初に訪れたときとはまったく違う環境でした。最初に訪れたときはドイツが東西に分断されており、西ドイツからベルリンの壁を越えるときには、車のシャーシーからシートの下まで検査されました。実際にそういうところに隠れて国境を越えようとする人たちがいたのです。東ドイツ側の列車内では度々公安官がやってきて厳しい検閲の連続でした。ところが列車が国境を越えて、チェコ側に入ると、一瞬にして空気が変わりました。自由のある国と自由がない国の両方を体験できたのも、非常に貴重な体験だったと思っています。


4.著作権について


(1)学習目的と活用法

 著作権は、現代メディア運営の基本です。音楽著作権を管理する代表的な団体には、社団法人日本音楽著作権協会と、社団法人音楽出版社協会の二つがあります。前者が、この講座運営のために寄付してくださっているJASRACです。JASRACは仲介業務法という法律によって認可されている協会の一つです。著作権を管理する団体はもともとJASRACの一つしかありませんでした。ところが2000年に規制緩和され、イーライセンスなどの数社が新たに参入してきました。また音楽著作権の管理業務には、信託・徴収・分配の三つがあります。コンサートなどで使用した楽曲に対してJASRACに支払われた使用料の一昨年の実績は、なんと8億6千万円に達しました。今年はおそらく9億円を超えるでしょう。このように支払われた使用料はどこへ分配されたかというと、著作権者に分配されるのです。JASRACは会員制で、作詞・作曲者と彼らの著作権を預かっている音楽出版社も会員です。その会員が会費を活用して行われている文化事業の一環がこの寄附講座です。

 著作権は実に複数の権利が束になって構成されています。その権利の一つ一つを、支分権と言います。著作権には著作者の権利はもちろん、実演家の権利、レコード製作者の権利、放送事業者の権利、有線放送事業者の権利などさまざまな権利が存在しており、著作者以外の上記4者(実演家・レコード製作者・放送事業者・有線放送事業者)を著作隣接者と言います。今日注目すべきは有線放送事業者です。有線をもとに、IPマルチキャストをはじめとしたさまざまな権利ビジネスが企業間で発生しているからです。ブローバンド時代がもたらした動画配信など、非常に興味深いビジネスがどんどん生まれつつあります。今や誰もが著作権者になれる時代です。


(2)著作権とは何か

 著作権とは、文学・映画・音楽・美術といった作品の創作者が持つ、その作品がどう利用されるかを決定できる権利のことです。著作権の最大の存在理由は、芸術文化活動が活発に行われる土壌をつくることです。なぜなら、芸術文化は私たちの社会に必要なものだからです。人間が人間であるために必要な芸術文化を自ら創り出すことが出来る。維持していくことが出来る。これが、私たち人間の素晴らしい知恵だと思います。著作権を、その目的に沿うように使ったり、設計することは、私たちに課せられた課題です。(福井健策著『著作権とは何か』より一部抜粋)


(3)著作権をめぐる様々な動き

 著作権は「著作者の権利」と「著作隣接権」に分かれています。「著作者の権利」はさらに著作人格権と著作権(財産権)に分かれていて、その保護期間は死後50年です。現在、この保護期間を延長しようという動きがあります。全世界のおよそ90の国は、保護期間を70年に移行しつつあります。一方で、一定の期間が経てば誰でも自由に著作物を使ってもいいのではないかという意見もあります。日本ではまだ結論が出ていません。著名な弁護士の中にも50年論者がいます。50年経てば、みんなが自由にその著作物を使えるようにする。そのほうが、その国の文化が発展していきやすいのではないかという考え方です。

 音楽エンタテインメントには著作権がつきものです。たとえば私たちが音楽機器を購入する際、その価格にはすでに使用料が含まれています。これは「私的録音録画補償金制度」という名称の制度です。私たちが買うハードウェアにはあらかじめ著作権使用料が上乗せされているのです。CDやMDレコーダーは当然その対象ですが、なぜかiPodは対象外です。パソコンも多目的なので対象外です。パソコンこそが複製の大元になっているのですが、制度の対象外なのです。この私的録音録画補償金制度は、芸術の振興やアーティストの助成を趣旨としており、ヨーロッパやアメリカでも施行されています。

 以上、著作権の保護期間が50年から70年に延長されるか、そして私的録音録画補償金制度の新たな改正がされるか。この2つがこれからの法整備の注目すべき点です。


3.さだまさしさん


 観た方もいると思いますが、クリスマスに小田和正さんが多くのアーティストたちとコラボレートした映像が昨日放送されました。私は売れない頃の小田和正さんも見てきましたし、オフコース(1970年4月、小田和正と鈴木康博が作ったグループ)が1982年、日本武道館で前人未到の10日間連続ライブを行った際のパンフレットに、「オフコースの歩み」を書かせて貰ったこともあります。また飛鳥涼さんと小田和正さんとでオリジナル曲を作ってもらったこともあります。彼らとはそれ以来付かず離れずの交流があります。互いにリスペクトしあえる間柄で、評論家とアーティストという厳しさを超えた信頼関係があると思っています。そんな小田さんは今年、さだまさしさんと一緒に曲を作りました。さだまさしさんも優秀なシンガーソングライターですね。さだまさしさんはグレープという男性フォークデュオでデビューしました。その頃のグレープは、ザ・ピーナッツという超人気姉妹デュオのコンサートの前座で出演したことがありました。まだグレープの存在を誰も知らない時です。初日は名古屋でしたが、さだまさしさんが「精霊流し」のイントロをバイオリンで弾いたとたん会場がどよめいたのです。それがきっかけでグレープの存在が全国的に知れ渡っていきました。

 グレープのさだまさしさんとオフコースの小田和正さんは、現在ソロで活動しており、今回2人は一緒にテレビに出演しました。シンガーソングライターが意気投合し、コラボレートして一緒に曲を作るということ自体は何の問題もありません。ところがこれをパッケージ化してCD発売することは非常に大変な手続きが必要です。なぜならそれぞれ異なるレコード会社と専属契約をしているので、勝手にパッケージ化して発売してはいけないという契約があるからです。パッケージ化するときは、それぞれが契約しているレコード会社から出すのが原則です。アーティストとレコード会社の間で交わされる契約書には、膨大な量の細目と制約が盛り込まれています。印税の契約、その契約を解除する場合でも、他社とは特定の期間契約をしてはいけません。

 ではここで、小田和正さんとさだまさしさんが2人でつくった曲のメーキングCD-Rを鑑賞していただきましょう。

【小田和正さんとさだまさしさんのCD-Rが上映されました】

 この映像はTBSの服部隆司プロデューサーからお借りしたもので、勝手に複製や販売したりできません。この映像をCD化あるいはDVD化しようとすると、さまざまな権利関係が発生してきます。パッケージ化を望んでいる方もたくさんいるので、早く世の中に出てほしいと思います。


さいごに


 私がいつも自問自答している言葉があります。シェイクスピアの「ハムレット」の台詞ですが、私は個人的には小田島雄志さんの訳が好きなので、それをみなさんに紹介しようと思います。

To be or not to be, that is the question.
このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。


 これを自問自答できるうちは、進化があると信じています。
 また先ほどの貴重な映像を手に入れることができたのも、彼らの音楽が生まれたのも、すべては人間関係だと思っています。みなさんもどうぞ人間関係を大切にしてください。

 みなさんとはこの半年間一緒に勉強をしてきました。来年もこの講座が開講されますが、また違うテーマで講義を進める予定ですので、再びみなさんに会えたらと思っています。半年間どうもありがとうございました。



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