2007年度JASRAC寄附講座
音楽・文化産業論U
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2007.11.3


講師:渡辺俊幸(わたなべ・としゆき)先生

愛知県出身。青山学院大学入学と同時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマーとしてプロ活動に入る。「グレープ」のサポートミュージシャンを経て、さだまさしのミュージカルプロデューサー及びアレンジャーとして活躍。79年渡米。バークリー音楽院にてクラシック及びジャズのコンテンポラリーな作編曲技法を、ボストンコンサーバトリーにて指揮法を学ぶ。また、LAにてアルバート・ハリス氏に師事し、ハリウッドスタイルのオーケストレーションと映画の為の作曲技法を学ぶ。帰国後、作曲家として数々の映画、テレビドラマ、アニメーション等の音楽を担当。2003年よりオーケストラ・アンサンブル金沢のポップスディレクターに就任。指揮者としての活動も開始。最近の代表作には、東宝映画「モスラ」シリーズ、「サトラレ」、「解夏」、「UDON」、NHK大河ドラマ「毛利元就」、「利家とまつ」、NHKドラマ「大地の子」、「ハルとナツ」、「どんど晴れ」、フジテレビ「優しい時間」、純音楽的作品「交響的幻想曲 能登」、「ファンファーレ・フォー・ザ・セレブレーション」、祝典序曲「輝ける勇者たち」(防衛庁・自衛隊50周年記念曲)がある。「リング〜最終章〜」が第20回ザ・テレビジョンドラマアカデミー賞、劇中音楽賞受賞。2005年愛知万博開会式の音楽監督を担当。
洗足学園音楽大学 音楽・音響デザイン学科 客員教授。
〈公式サイト〉
http://www.toshiyuki-watanabe.com/




「私の音楽人生から見た
ポピュラー音楽の変遷と映像音楽」



はじめに


 私は大河ドラマの曲などを書いている作曲家ですが、そのようなタイプの作曲家は本来、14〜15歳くらいの頃までに作曲家を志し、芸大や音楽大学に入学して作曲家になるというケースがほとんどです。私の場合は非常にユニークで、17〜18歳の頃は作曲家になるなんてまったく考えておらず、ドラマーになりたいと思っていました。しかし、ロックやジャズをやっていたような音楽家がいつの間にかクラシカルな曲を書いている。このような経歴は、音楽家のキャリアとしては変わっているなあと、自分でも思います。

今日は、「こんな人生もあるんだ」ということがみなさんが生きる上でのヒントになればと思っています。その一方で、録音技術の進歩とともにポピュラー音楽がどのように変わっていったのか、また映像音楽をどのように作っているのかということを、実際に映像を交えながらお話したいと思います。



1.音楽人生のはじまり


私は1955年に生まれました。私の家は父が作曲家だったので、音楽的には非常に恵まれた環境でした。幼稚園の頃に自分からピアノを始めましたが、父が作曲家ということもあり、教育は非常に厳しいものでした。しかも日本のピアノ教育はドイツ式なので、練習曲自体がつまらない。バイエルとかツェルニーと言われるもので、ほとんど指の練習曲に過ぎません。しかしそれを我慢して続けた人が、小学校の高学年になってやっとショパンなどが弾けるようになる。ここに、日本のピアノ教育の問題点があると個人的には思っています。ともあれ、つまらない曲を我慢して弾かなければならないということは非常に苦痛で、私の場合も例外ではなく、音感教育だけは強制的に小学校6年生までやらされましたが、ピアノはやめてしまいました。

作曲家になるなんてことはまったく考えることなく、私は小学校の4年生になりました。1964年、ちょうど東京オリンピックが開かれた年です。その頃日本では、『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』という、ビートルズ主演の映画が公開されていました。ある日、その中の「A Hard Day’s Night」という曲がテレビで流れたんです。小学校4年生だった私はイントロを聴いただけで魅了され、それ以降ビートルズの虜になってしまいました。

自分が興味を持った楽器は、エレキギターでもボーカルでもなく、なぜかドラムでした。いわゆるグループ・サウンズという時代に向かっていく流れの中で、ドラムという楽器に惹かれながら、小学校から帰るといつも板や金物を叩いて遊んでいました。小学校の6年生のときには「絶対にドラマーになりたい」と思い、父にドラムをねだりました。しかし父からは、「エレキギターならいいけどドラムはだめだ」と言われてしまいました。

なぜエレキギターだったのかと後になって振り返ってみると、おそらく父は私のことを作曲家にしたかったのだと思います。ドラムはリズムしかなくハーモニーもメロディもない。しかしエレキギターだったら、作曲家に結びつくかもしれないという思いがあったんじゃないでしょうか。結局その後、自分で貯めたお金で安いドラムを買って、楽器店のドラム教室に通い始めました。中学1〜2年の頃はドラムの練習に明け暮れ、相当上手になっていたと思います。そこで、名古屋の中学校で当時一番上手なメンバーを募って、バンドを作りました。

当時、名古屋には東海ラジオという放送局がありました。森本レオさんがまだパーソナリティーをしていた時代です。その深夜番組で、オリジナル曲を応募して受かるとラジオ局のスタジオで録音してもらえるという企画がありました。中学生で自分たちの曲を録音してもらえるなんて夢のようです。私は「これはすごい!」と思い、とにかく作曲をしなければと考えました。これが、私にとって生まれて初めての作曲となりました。しかもそれは、見事に受かりました。中学生がぞろぞろとラジオ局を訪ねて行ったので驚かれましたが、そこで録音してもらった私の曲は、きちんとラジオから流れてきました。とてもきれいに録音された自分の曲が公共の電波によって聴こえてきたことは、ある種の感動と喜びがありました。そして自分の中では、どうしてもプロの音楽家、それも作曲家としてではなくドラマーになりたいという思いが強くなり、東京に行くことを決心したのです。

父はすでに東京で作曲の仕事をしていたので、上京後の私は父と暮らすことになりました。そして高校1年生のときに、渋谷にあるヤマハ音楽教室の最上級コースに入りました。半分プロの大人たちに交じっていた私は見るからに若いので目立ち、ヤマハの店長は私のことをとても可愛がってくれて、プロとして活躍し始めた大学生を紹介してくれたりしました。そして私は徐々に、東京のライブ喫茶などでも演奏するようになっていったんです。

当時私は青山学院高等部というところに通っていて、同窓生には矢野顕子さんがいました。彼女はちょうど青森から出てきて、当時はジャズピアニストを目指していました。私は彼女と出会って一緒にジャズをやったりもしましたが、彼女は高校2年生になると学校を中退してプロになってしまいました。これには私も非常に焦って、自分もプロになりたいというさらに強い憧れを持つことになりました。

高校を卒業して大学に入学した頃、ヤマハの店長から「今度『赤い鳥』というフォークグループにドラムの空きが出たから、オーディション受けてみないか」と声がかかりました。今も大活躍している村上“ポンタ”秀一さんというドラマーが抜けたというのです。「プロになるチャンスが来た!」と思いました。そしてオーディションを受け、無事入ることができました。全国どこへ行っても2000人のお客さんでコンサート会場が満員になるという恵まれた状況の中で、私のプロとしての音楽活動が突然始まったのです。


2.録音技術とポピュラー音楽の変遷


 今は多チャンネルと言われるマルチ録音の時代です。これは、楽器のそれぞれの音をいろいろなチャンネルで録音するという録音方式です。例えばドラムには、スネア、シンバル、ハイハットなどいろいろな音があるので、ドラムという1つの楽器だけでも5〜8種類のマイクを使って録音します。ひとつひとつの音を細分化されたチャンネルで録音し、後からスネアの音だけを上げたり下げたりすることが当然のように行われています。

ところが昔は、ステレオ(2チャンネル)がやっとでした。マイクは何本か立てるものの、それを別々のチャンネルに録音することはできないので同時に録音していました。そして一度録音したものは、後からドラムの音を上げたり下げたりという細かな作業などはできなかったのです。私の生まれた50年代はやっとステレオ化し始めた時代で、ボーカリストと演奏家が複数いる場合でも別々に録音する技術はなく、ボーカリストのそばには当然のようにオーケストラがいて、同時に演奏してOKを出すという録音の仕方が主流でした。

70年代は、多チャンネル化が始まり2チャンネルから4チャンネルへ変わった時期でもありました。歌入りのバンドの場合、通常は自分たちのギターやドラムやベースを録音するために、左右のステレオ、つまり2チャンネルが必要です。これが4チャンネルに変わったことで、残りの2チャンネルにほかの楽器やボーカルをダビングすることができるようになりました。このときに初めて、楽器とボーカルを切り離して録音することができるようになったというわけです。

私がちょうど「赤い鳥」に入った頃には、16チャンネルというマルチトラックが出現します。16チャンネルになると非常に余裕があるので、ある程度のチャンネルを使ってリズム隊を録音し、さらにその上から弦楽器をダビングすることもできる。その上からボーカルを録音することだってできる。そのような技術は、この時代から始まっていきました。

このことによって、リズム隊と呼ばれるドラム、ベース、ピアノ、ギターなどの楽器だけを別々に、そして注意深く録音することができるようになりました。当然非常にシビアになって、リズム隊の上手い人たちに注目が集まるようになっていきます。ドラムのフレーズも、単純なフレーズではなくもっと複雑なリズムに、ギターのフレーズもどんどん多様化していき、楽器を演奏する側が聴く音楽も変わっていきました。アメリカを中心とした海外から生まれたリズムセクションを中心とした新しいサウンドにプレーヤーたちが注目し、日本からも新たなミュージシャンが出現します。作曲家たちも、そういうプレーヤーを使いたがりました。

ちょうどこの頃は、リズムトラックに注目する傾向が強まりだした時期でもありました。このような音楽の最たるものを作りあげたのが、後に「ティン・パン・アレー」と呼ばれるグループの母体となった「キャラメル・ママ」というグループでした。細野晴臣さんや松任谷正隆さんなどを中心とした4人組みのグループです。リズムトラックがなんとも日本人離れしたいいサウンドでした。そのあたりから、今のJポップへとつながる流れができ始めたと言えると思います。歌謡曲と差別化するために、「ニュー・ミュージック」という言葉が生まれたのもこの時期でした。その後、わりとすぐに24トラックの時代がやってきます。

「赤い鳥」は解散し、私はアメリカのカーペンターズをお手本にしたようなバンドをつくりましたが、そのような音楽も日本においては流行の一歩手前で、あまり注目されることなく終わりました。その後私はすぐに、自分が所属していた会社のアーティストのバックバンドに転じました。その一つが「グレープ」というグループでした。「グレープ」はさだまさしさんと吉田正美さんのデュオで、ちょうど解散する直前でした。私はさだまさしさんと非常に親しい仲になり、彼からも「解散したら自分でグループをつくりたいから、一緒にやらないか」とまで言われました。ところが私は、彼は1人で大成するに違いないし、グループをつくってもまた解散することになるだろうと感じ取っていました。ならば彼が1人でデビューして、私は彼のプロデューサー兼アレンジャーとして一緒に仕事をしたほうが、お互いのためにいい結果がでるだろうと判断したのです。そして半年後に彼がデビューしてからは、彼とは二人三脚でやってきました。


3.作曲家への転機


「赤い鳥」時代にレコーディングからステージまでたずさわるにしたがって、自分は編曲家になりたいと思うようになりました。そこで、独学でさまざまな理論書を読みあさり、なんとか見よう見まねで作編曲をしていました。「赤い鳥」では、僕が書いた編曲をステージですぐに再現してもらえたので、非常にいい勉強だったと思います。

アレンジャーとは、ドラムではなくキーボードが弾けることが必須だと思い、コンサートの合間には一生懸命ピアノを練習して、2年間でぎりぎり人前で弾けるようになりました。編曲も見よう見まねでやっているので出来ることと出来ないことがあり、例えば弦の難しい部分などは、服部克久さんという巨匠の方にお願いしたりしていました。一方で自分では、編曲の中にニュー・ミュージックとしての特徴を出していきました。

その後、さだまさしさんは予想通りの大成功を収めます。1枚目のアルバムが売れて好きなことができる状況が生まれたので、アメリカにレコーディングしに行こうという話になりました。しかも、グラミー賞アレンジャーのジミー・ハスケルという素晴らしい弦を書く方に編曲を頼むことになりました。私がリズムアレンジをしたものに対して、最高峰のアレンジャーに弦を書いてもらうという夢が、2枚目のアルバムにして実現したというわけです。3枚目のアルバムにおいては自分で半分ぐらい弦をアレンジしましたが、それでもまたジミーさんにアレンジしてもらうために再度アメリカに渡りました。

ちょうどそのアメリカ滞在中の話です。レコーディングも終了し、映画でも見ようということになりました。当時ハリウッドでは『スターウォーズ』と『未知との遭遇』が上映されていたのですが、アメリカのコーディネーターの方に『未知との遭遇』をすすめられたので、そっちを見ることになりました。この映画は、宇宙人と地球人が遭遇するというストーリーなのですが、宇宙人と地球人が交信するためには、言葉ではなく5音階のメロディが使われるという設定で、音楽が一種のキーワードになっています。私たちは特設会場と思われる一番いい劇場で見たのですが、一番驚いたことは、劇場のまん前に特大のスピーカーが置いてあって、通常の劇場のスピーカーは使わずにそのスピーカーを使って音を出していたということです。さすがスピルバーグ監督だなあと思いました。

この映画は円盤が飛んでくる不協和音とともに始まりますが、その音はとても小さなピアニッシモで始まりだんだんクレッシェンドして、最後に爆発するような音がフルオーケストラで奏でられます。その最後の爆発音がお腹にズドーンときて、私は思わず「うわあっ」と飛び上がってしまいました。そのくらい大きな音だった。今の日本のデジタルドルビーでも、あんな音は感じることはできないと思います。同じ会場にいたアメリカ人たちも、その瞬間には「ワオッ!」と叫びあがるくらいの音でした。

私はそれまでも映画音楽に感動するということはありましたが、その映画の場合は特別で、ジョン・ウィリアムズが書いた音楽には本当に圧倒されました。そして、こんな音楽を自分も書けるようになりたいと思ってしまった。初めて、管弦楽を使った映画音楽を書きたいと強く思ったんです。しかしそこには、複雑な現代音楽やフルオーケストラも使用されていて、これはとても独学では間に合わないと思いました。

当時の私は印税収入もあって非常に恵まれた環境にもあったし、さだまさしさんとも非常に深い友情関係で結ばれていて、彼のために自分は必要なのだという気持ちがあったので悩みました。しかもまだ23歳です。それでもなんとかして作曲家になりたいという気持ちは膨れ上がるばかり。日本で芸大に入り仕事を続けながら勉強していくという道も当然考えられたのですが、日本人が書いた映画音楽に惹かれたわけではなかった自分は、ジャズの名門であるバークリー音楽院に行ってみたいという気持ちが強くなっていったのです。どうしようもなくなってさださんに相談したところ、彼は「行ってこい」と言ってくれました。私はうまくいっていた仕事をすべて中断し、アメリカに渡りました。英語もあまりできませんでしたが、なんとかなるだろうという非常に無謀な留学だったと思います。


4.生の音


初めてボストンに渡ったときの話です。買い物がてらデパートに行くと、売り場の女性の方が「昨日のイブニング・シンフォニーを見た?」と僕に話しかけてきました。「イブニング・シンフォニー」とは日本でいう「N響アワー」で、ボストン交響楽団をライブ中継するというテレビ番組です。偶然にも私が前の晩にホテルで見ていたのは「イブニング・シンフォニー」だったので、「見ましたよ」と答えました。するとその方は「昨日のセイジ・オザワは素晴らしかったわね!」と言ってきたんです。日本を代表する世界的指揮者の小澤征爾さんが、たまたまこのボストンで活躍されていたわけですが、この出来事は、見知らぬ僕にいきなり話しかけてくるほどボストンではクラシックが愛好されているということ、また僕が偶然にも日本人だったからこそ、その方が話しかけてくれたことなど、いろいろな意味で本当にびっくりした出来事でした。

僕はそれまで、テレビやレコードでしかクラシックを観たり聴いたりしたことはありませんでした。その背景には、僕がビートルズを大好きだったことがあると思います。当時、ビートルズのような音楽は不良の音楽だと言われていて、その音楽を愛好している=ダメ人間だと扱われるくらい偏見がありました。あれほどいい音楽なのになぜ否定するのだろうかという強い憤りを、僕は若い頃ずっと持っていたし、そのために学校教育=クラシックは聴くものかという反抗心を持つ、ロック的な人間だったんです。

そんな思いは、ボストンですべて崩れました。こんなにも日常的にクラシックを語ると知って、クラシックの権威や敷居の高さがなくなり、僕はやっとクラシックを聴いてみようという気持ちを持つことができた。そして小澤征爾さんという日本を代表する指揮者の姿も見てみたいと思い、生のクラシックを聴きに行ったんです。生まれて初めて聴いた生のオーケストラ。しかも世界的なボストン交響楽団。世界でも5本の指に入るくらい音響の優れたボストン・シンフォニー・ホール。その日、小澤さんの指揮によって奏でられた音は、ステージから直接私のところまで、天空を舞うように美しく響いてきました。

僕もそれまで録音などいろいろな形で弦楽器にかかわってきましたが、スタジオという空間では、残念ながら弦楽器には響きがありません。この教室もそうですが、言葉がはっきりと伝わるけれども残響がない。そして残響のない空間においては、弦楽器は非常に寂しい音になってしまう。僕たちが行う通常のレコーディングでは、残響のない寂しい音を録音して、その録音した音に後でリバーブ(擬似的に残響音を作り出すこと)をかけるということがしばしば行われています。ストリングスにリバーブをかけると非常にふくよかな音になるからです。クラシック専用のホールでは、パンと手を叩くだけで2〜3秒の残響が残る。当然マイクなどを使用せずに演奏者が奏でた音が奏者のいるところから直接自分の耳に飛び込んでくるんです。いつもヘッドフォンやスピーカー越しに聴いている音が、生のままでもこんなにきれいに響く。それは自分が経験してきたレコードの音よりもずっときれいな音で、「生でしか体験できない音」に、僕はものすごく深い感動を覚えました。生の音楽を聴いて欲しいということは、今の若い方たちにくどいくらいに言っておきたいことです。ポップスオケでもいいので、生のオーケストラを一度聴いてみて欲しい。このときに僕の中に芽生えた感動は、映画音楽を飛び越えてクラシック音楽に対する深い興味に変わりました。「生の音」にこだわりたい、と。自分の生涯をかけてオーケストラという形態で作曲したいという強い決意も、そこで生まれました。

その後、世の中はどんどんマルチトラックの方向へと進みます。テープの時代は終わり、現在ではハードディスクの時代を迎えました。どれだけ速いスピードで動くテープでも、もう一度あたまから聴くときには巻き戻す時間、つまり待つ時間が必要です。ところがハードディスクは、即座にあたまから聴くことができる。それに最初は2チャンネルだった録音技術も、4チャンネルになり、8、16、24、48……と増え続けて、今は無限になってしまいました。コンピュータのメモリの容量さえ増やせば、何チャンネルでも使えるというわけです。ということは、無限にボーカルをダビングすることができる。自分が納得するまでテイクを録り続けて、出来栄えのいい小節を細かく貼り合わせることも出来る。またハードディスクでは音程も調整することが出来ます。ピッチの悪い音程が1音でもあれば、正確なピッチに直せる。歌の下手なボーカリストがいても、自動ピッチ補正である程度の修正もできます。現在世の中に出ている音源は、修正版で出来上がった音源だとも言えるんです。しかし昔と比べると今は、細かく編集をすることで音楽家が理想とするよりよいものを作れるようになりました。

その裏で、デジタル技術の発達の恩恵によってコピーも簡単にできるようになりました。それが原因のひとつとなって、CDの売り上げも落ちています。われわれ音楽家にとってそれは非常に困る現象です。なぜなら、売れないので音楽予算もあまりかけられなくなるからです。ミュージシャンを雇うとしても、お金がかからないようにリズムだけを雇う。生のストリングスは高くて無理なので、シンセサイザーで入れることになる。そうすると、音響的に貧しいものになります。このような問題は実際に起きているので、皆さんも音楽家擁護のためにコピーはせずにCDを買っていただけると助かります。

また楽譜でも同様です。コピーするのは簡単だし、ある特定の部分だけをコピーすることもできるので非常に便利です。しかしやはり楽譜も買って欲しい。でなければ楽譜の出版社がつぶれて、その楽譜が手に入らなくなってしまうからです。


5.映像音楽


2002年に「利家とまつ」というNHKの大河ドラマがあり、僕は音楽を担当しました。テーマ音楽はNHK交響楽団による演奏で、だいたい2分40秒と決まっています。映像音楽と普通の音楽は何が大きく違うかというと、時間のくくりがあるということですね。大河ドラマのメインテーマはおよそ2分40秒。2分42〜3秒がOKでも、45秒になるとだめというくらい厳しい。私たち作曲家は、その枠に収まるように楽曲を構成しなくてはならないので、作曲する能力と、決められた時間の中でまとめあげる能力が必要になってきます。これが映像音楽の特徴です。

ほかに、劇中のいろいろな場面に付けていく「中の音楽」も作曲家が書いています。違うCDから持ってきた音楽だと思われる方もいますが、そうではありません。また「中の音楽」の付け方もさまざまです。日本の連続ドラマの場合はほとんどが選曲方式に近いかたちで進むので、あらかじめ打ち合わせや脚本の段階で「メニュー」というものをもらってから作るというやり方が多い。例えば「利家とまつ」が選曲方式で録音されていたとします。その場合は「利家のテーマ」、「信長のテーマ」、「まつのテーマ」と、それぞれの人物キャラクターに応じたテーマ曲を書きます。

「信長のテーマ」と言ってもこのドラマをご覧になっていない方もいると思うので、どんな曲なのかを少しお聴かせします。ホルンで勇壮に始まるメロディのあたまの部分に、信長の特徴があります。


【CD『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』の「信長のテーマ」が
流れました】

NHKの音響の打ち合わせの現場には、NHKの人、演出家、音響デザインの人などがいます。NHKの場合は、あらかじめどこのシーンからどこのシーンまで音楽が欲しいということが決められています。そのためにも、事前に脚本を読んで行かなければなりません。打ち合わせでは、ビデオを見ながら「○分○秒○フレーム目から、○分○秒○フレーム目まで音楽を書いてください」と言われます。一回の大河ドラマはだいたい44分ですが、ビデオの端にはタイムコードが入っていて、細かく時間が刻まれています。作曲家は決められたシーンの起伏にしたがって、音楽的にどう盛り上げていこうかということを考えるんです。

ここで実際に映像を見ていただきます。まずは打ち合わせの段階で見る、音響効果の入っていないものを見ていただきましょう。このシーンは、これから利家が桶狭間の戦いに赴くという場面です。そこに利家の父親が現れて、父親としての思いを訴えます。その後、戦場に向かう信長のシーンに変わります。

【音響効果の入っていない「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の映像が流れました】


この段階では音楽はおろか、雨の音や雷の音すらありません。この映像に音楽が入るとどのようになるのでしょうか。音楽をつけるときは、シーンの変わり目も意識します。最初の利家と父親のシーンは、温かく心の交流が叙情的な場面です。そういうシーンでは、音は台詞を邪魔しないように抑え、静かに温かい音楽を奏でる。その後に信長が出てきますが、どのポイントで「信長のテーマ」を強調するかなども考えながら、実際に曲を構成していきます。映像の端に刻まれているタイムコードを見て、始まりのフレームから終わりのフレームまでの間の時間を事前に計算します。また曲のテンポを決めて、その曲の何小節何拍目がそのシーンの変わり目に来るのかということも計算します。そしてその結果に従って曲を構成していくのが、映像音楽の作曲の仕方です。

これから音響効果の入った映像を見ていただきます。ポイントは、利家が父親と話しているシーンで使われているコール・アングレという楽器の音色。またその後に、まつを象徴するフルートに変わります。父親とのシーンの終盤はクレッシェンド。直後に信長が登場するので、音がだんだん大きくなっていくことで高揚感を煽り立て、次のシーンを予期させます。信長が振り向く場面では、「信長のテーマ」で信長を強調します。以上のようなポイントに注意しながら、映像を見てください。音楽の効果を感じていただけるでしょうか。

【音響効果の入っている「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」の映像が
流れました。】


さいごに


 普段はドラマを見ていても、音楽に耳がいくということはなくて当然です。私も音楽を意識してはいますが台詞を中心に聞いているので、台詞と音楽を同時に注意して聴くということは非常に難しい。しかし今見ていただいてお分かりになったと思いますが、雷の音なども含めた細かい音響効果が、高揚感に結びつくんですね。そうすると、同じ映像でもずいぶん変わって見えます。これが映像音楽の面白いところでもあり、醍醐味だと思います。皆さんもこれから映画などを観るときは、ちょっとでも音楽に耳を傾けて観たり聴いたりすると、作品に対する面白みが広がるのではないでしょうか。



以下、質疑応答

Q.先生は作曲をする際、まずは映像でイメージを膨らませていると思うが、映像などもない自分のオリジナルを作ろうとしたとき、どういう場所、またどういうイメージのもとで作っているのか。

A.愛のテーマや悲しみのテーマは、自分の感情を移入すればいいだけなので意外に簡単だが、「何でもいいので曲を書いてください」という場合は、どこにテーマ性を持っていくかというところから考えないといけないので難しい。2005年の愛知万博では開会式のために「愛・未来」というテーマ曲を頼まれたが、こういったテーマは抽象的なので、机やキーボードに向かっていてもなかなか出てこない。こういう時は、歩いていたりお風呂に入っているときなど、音楽と何も関係のないことをしているときに突然ひらめくことが多い。音楽には理論を積み重ねていく勉強も必要だが、インスピレーションが大きい。それは教えようのないもので、ふっと湧いてくるという意味では、発明や発見と似ているかもしれない。もちろんそれまでの音楽的蓄積や理論、あるいは聴いてきた音楽などが無意識に組み合わされているのだろうが、新しいものが生まれるということにかんしては殊にそう。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、何かを真似してできた音楽とは違う。どうしてこういうハーモニーを思いついたんだろうと感心するが、やはりインスピレーションだと思う。そういう創造力がどこにあるのかは分からないが、音楽はそういった不思議な領域とつながっているのかもしれない。


Q.民族音楽などの音楽は、どのようにして作っているのか。またそれに関するおすすめのソフト等があれば教えて欲しい。

A.民族楽器などの音をサンプリングし、キーボードでその楽器の音を出すということは90年代くらいから行われているが、今はさらに進化してコンピュータの中で頻繁に使われている。もちろん自分で収録している人も多く、アメリカの映画音楽家は、オーケストラを自分で借り切って自分だけの音源を作ったりする。またアフリカの楽器の音が欲しかったら、ハリウッドにはいろんな楽器奏者がいるので簡単に手に入る。日本ではいい音だと思っても手に入らないこともあるが、日本国内でもそのような楽器奏者を探すといった努力も必要なのではないか。



Q.私はずっと吹奏楽でトランペットをしてきたが、オーケストラのような大人数では意見の対立が起こることも多い。そういうことに関してどう思われるか?

A.大人数の中では、対立はつねに生まれがちなこと。現実のオーケストラでもみんな一匹狼だし、指揮者に対する思いもさまざまなので、指揮者VSオケのような対立関係が生じることも少なくない。そんなオケをボストンで一度見た。汗だくになって指揮する指揮者を、奏者は誰も見ていない。小澤さんが振っているときには食い入るような眼で見ていたティンパニー奏者も、そのときは指揮とまったく違う方向を向いてティンパニーを叩いていた。指揮者が技術的に劣っているというわけではなく、おそらく意見の食い違いや、人格的な齟齬でボイコットが起こったのかもしれない。集団になると、そのくらい音楽と無関係の難しさが出てくる。

しかしこれも、人間関係を乗り越えていくという面白みがある。どんな社会でも必ず輪を作り、いい人間関係を作っていくことは必要。しかも音楽とはハーモニー、調和なのだから、それに気付けばもっと素晴らしい音楽を作ろうというところにまとまっていくはず。だから僕は、対立するということも貴重なことだと思う。人間は仕事をするためだけに生きているのではなく、心を磨くために生きていると思うから。自分の心をどれだけ豊かにできるか、あるいは他人をどれだけ思いやれるか。そこに人生の意味があると僕は思う。嫌な場面に出くわしたときも、自分がどう振舞うかということも一つの勉強だと思えば、乗り越えていけるんじゃないか。



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