第10回 2008年6月14日 「ビートルズ・日本・イギリス」


講師: 石坂 敬一 (いしざか・けいいち) 先生

昭和20年8月25日生まれ
昭和43年、慶應義塾大学経済学部卒業
東芝音楽工業(現 東芝EMI)入社
洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当
昭和56年、同社 邦楽本部において、BOOWY、松任谷由実、長渕剛、矢沢永吉を担当
平成3年、 常務取締役 就任
平成6年、 ポリグラム株式会社(現 ユニバーサル ミュージック株式会社)入社、代表取締役社長 就任
平成11年、ユニバーサル ミュージック株式会社 入社、代表取締役社長 就任
平成13年、同社 代表取締役社長兼CEO 就任
平成18年、同社 代表取締役会長兼CEO 就任
平成19年7月より、社団法人日本レコード協会会長 を務める

「ビートルズ・日本・イギリス」


1.ビートルズ以前のイギリスの音楽史の特徴

 20世紀は「パクス・アメリカーナ」、つまりアメリカの力による平和と言われていますが、19世紀は「パクス・ブリタニカ」といって、イギリスが世界の7つの海を制して国力世界一を誇っていました。そのイギリスの近世近代500年の歴史を辿ると、世界一の強国だったことが分かります。しかしそのイギリスにも強いものと弱いものがあり、その特色もはなはだ激しいものがあります。

 芸術分野におけるイギリスの得意分野は、文学と演劇です。文学はシェイクスピアに端を発し、演劇でもシェイクスピア劇場を持つ有名な劇団があります。歴史的にもイギリスはこの500年間、世界の演劇を常にリードしてきました。また彫刻も得意です。紀元前1世紀頃にイギリス北東のバースという都市をローマ軍が制圧し、そのときローマ軍が街中に彫像や彫刻を建てたことが、その後のイギリス国民に大きな芸術的影響を与えました。

 弱い部分は何かというと、歴史的には音楽、絵画、近世では映画が弱く、音楽では教科書に載るような歴史的音楽家が非常に少ない。1人はパーセルという後期ルネッサンス期の作曲家で、イギリスでは有名ですが鼻歌で口ずさむような作品はありません。次いでホルストは19〜20世紀初頭の作曲家で「惑星」を作ったことで有名ですが、ヨーロッパの重鎮に比べるには力が足りません。それから「威風堂々」という行進曲で有名なエルガー。さほど大物ではありませんが、近代の作曲家のなかではイギリスはエルガーのことを誇りに思っています。

 なぜイギリスはこのような歴史の特色を刻み込んだかというと、1つには近世近代の音楽におけるスーパースターの不在を挙げることができます。また新しいジャンルやトレンドを生んでいない。これがどういうことなのか、まずは歴史的に振り返ってみたいと思います。

 芸術、音楽、絵画、建築などの分野においては、ヨーロッパは過去1,000年の間、常に世界的潮流の源流を作ってきました。例えば、4世紀頃からグレゴリオ聖歌というキリスト教会音楽がありましたし、ビザンチン帝国、つまり東ローマ帝国から起こった文化の1つにビザンチン音楽があります。それからオットー朝。これは900年代〜1000年代までの100年間にドイツ神聖ローマ皇帝であるオットー1世が作ったザクセン公国における、非常に威圧的な建築を得意とする文化です。その後の11〜12世紀には南フランスでロマネスクが起こり、17〜18世紀にはフランスでバロックが起こります。1720年代〜19世紀初頭は、ウィーンの古典派。このなかにはハイドンやモーツァルト、中期までのベートーヴェンなどが入ります。古典派はクラシック音楽ではもっとも中枢部分を占めますが、源流はフランス、ドイツ、ウィーンです。19世紀初頭に、ロマン派。これはドイツ、フランス、イタリアが中心で、シューベルト、リスト、メンデルスゾーン、ショパンなどが入ります。その後、画家モネの「印象」という絵が1874年に「印象派」という流れを作りました。源流はフランス。

 以上、これほど多くの芸術学派があるのに、イギリスは1つとしてオリジネーターにはなっていません。

 なぜかというと、イギリスは世界の中でも最も多く戦争をしてきた国であるからということ。つまり年中戦争をしてきたために、文化を強く育む暇がなかったのではないかということが言われています。歴史的に見ると、薔薇戦争、百年戦争に続いて、ヘンリー8世が行った1536年の宗教改革では、修道院の破壊・解散が行われました。カソリックを破壊してその財産のすべてをイギリス国教に入れたので、イギリスは非常に豊かになりました。しかしこのことによって、教会音楽がイギリスから消えてしまった。あるいは歪曲化されてヨーロッパ諸国に追いつかなくなってしまった。またイギリスは鑑賞を好み、諸外国の芸術家を集めるのがとくに大好きです。多くの芸術家を呼んで芸術を奨励したことは、間違いなくイギリス文化国家の証でしょう。しかし大衆文化はほとんど育ちませんでした。ただ、11〜13世紀にフランスで起こったトルバドゥールと呼ばれる吟遊詩人たちは、イギリスの大衆文化にも影響をあたえました。吟遊詩人は北フランスではトルバドゥールと呼ばれ、貴婦人の恋を歌い、南フランスではトルヴェールと呼ばれ、騎士の戦いの勇壮さを称え歌いました。15世紀頃になると吟遊詩人はイギリスにも入ってきて、珍しくイギリスの大衆文化を育てました。「グリーンスリーブス」や「三羽のカラス」などの有名なイギリス民謡を歌いました。みなさんも知っているスコットランド民謡の「アニーローリー」や「蛍の光」、アイルランド民謡の「ダニーボーイ」は、トルバドゥールにまつわるフォークソングです。とはいえイギリスにはほとんど大衆文化がなく、ビートルズが登場する以前は、輝かしい音楽の歴史を持っているとは言えませんでした。


2.ビートルズ出現をもたらした1950年代のイギリス

 ビートルズが出現する1960年以前のイギリスのポップスは実際にどのようなものだったのか、まずは実際に曲を聴いてください。1950年末〜60年代に活躍したローカルなスーパースター、ヘレン・シャピロの「悲しき片想い」です。彼女は当時最も人気を誇ったシンガーで、この曲はたまたま日本でも当たりましたが、アメリカではまったく相手にされませんでした。次いでジョニージョン・レイトンの「霧の中のジョニー」です。1961年の歌で、イギリスで1位を獲得しました。今から約50年前の歌ですが、良い曲です。日本人にも共通する、どこかセンチメンタルで物寂しげな感じがあり、この曲が日本で当たったのも分かる気がします。日本では、ヘレン・シャピロを弘田三枝子が、「霧の中のジョニー」は鹿内孝がカバーしていて、日本語の歌としても当たりました。しかしアメリカではハズレ。イギリスからスターを出そうと一生懸命になった1950年代でしたが、世界には全然通用しませんでした。
 
 1950年代のイギリスの特色はどのようなものだったのでしょうか。イギリスは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方で戦勝国となりますが、戦勝国の中で一番貧乏になったのもイギリスでした。日本はというと、第一次世界大戦はイギリスの呼びかけで参戦しているので戦勝国ですが、第二次世界大戦では敗戦国。しかし敗戦後の昭和30年頃から日本はものすごい高度成長期に入り、イギリスよりも豊かになった。一方のイギリスは、戦争には勝つものの国力を低下させるという国になってしまいました。このことによってイギリスでは失業が多く生まれ、労働者階級を圧迫してしまった。これが、1940年代末〜50年代頃のイギリスの状況です。

 戦後、アメリカ軍はイギリスに駐留しましたが、特に駐留した場所はリバプールでした。リバプールでは米軍放送が始まり、米兵はリズム&ブルースを含めたニューオリンズ・ジャズばかりを聴いた。これが、リバプールに住む人々に大きな影響を与えたんですね。

 歴史的にリバプールを見ると、獅子心王リチャードの弟であるジョン王が12世紀にリバプールを特別地区に指定し、リバプールは港湾都市としての発展を遂げていくことになります。18世紀以降は米国奴隷貿易の中継港として栄えます。奴隷貿易は1807年に禁止されましたが、1800年代初頭には1年間に5万人の北アフリカ奴隷をアメリカに運んだといいますので、今から考えるととてもひどいことをしていました。第二次世界大戦後は先ほども述べた労働者の解雇や住宅の取り壊しなどで、リバプールは労働者階級の荒廃した街になり、人口は約45万人ほどしかいませんでした。ビートルズの歴史について本を書いたハンター・デイビスはリバプールを称して、「リバプールはまさに冴えない街で、若者に夢を与えるのはサッカー、喧嘩、そしてコメディしかない」と言っています。「ロンドンに次ぐイギリス第2の港湾都市でありながら、あまりにもみじめなところだ」と。そのさなかに、米軍基地や貿易船の船乗りなどを通じてアメリカのロック&ロールやリズム&ブルースが入ってきたんです。労働者階級が多くて失業率が高く貧しいリバプールには人種差別感があまりなかったので、黒人音楽を摂取することに対する意識も、アメリカ人のホワイトほど高くありませんでした。そしてリバプールには黒人音楽が徐々に根ざしていきます。

 また50年代のリバプールを特色づけるのが、1920年代のアメリカ南部の黒人と同様、金がない故に、自宅にある金だらいと洗濯板、そして安物のギターだけで音楽を奏でるようになったことです。黒人のジャグ・バンドと同じですが、イギリスでは1950年代初頭から、若者が金をかけずに作った楽器で演奏する「スキッフル」と呼ばれる音楽を作りました。これがその後の、クリームやレッド・ツェッペリンに至るイギリスのブルース・ロックの源流になります。スキッフルに関心がある人は、ロニー・ドネガンの「ロック・アイランド・ライン」などをインターネットで取り寄せることができます。スキッフルの大立者です。

 このようなイギリスの音楽を考えていくと、50年代のイギリスは、今聴いたような物悲しいセンチメンタルな音楽が多く、世界で流行った音楽はほとんどありませんでした。あってもワンショットばかり。例えばミスター・アッカービルクの「Stranger On The Shore」や、ローリー・ロンドンの黒人霊歌「He's Got The Whole World In His Hands」などです。


3.アジアで唯一、ビートルズの受容が進んだ日本
 ―それを可能にした歴史的/文化的条件の一考察―

 ビートルズは、南米大陸や中近東、アフリカやヨーロッパの半分くらいにおいても当たりましたが、ちょっとだけでした。ビートルズが最も聴かれ、売れ続け、そして研究されたのは、イギリス、アメリカ、ドイツ、そして日本です。イギリスとアメリカはアングロサクソンの国、ドイツはゲルマン民族の国で、ヨーロッパ史においては混交して一緒になるくらい近いですが、日本は異色で距離も離れている。文明の構造も違えば、歴史も文化も民族も違う。ところがこの4国は、世界を圧倒するくらいビートルズを支持して研究しました。なぜ日本においてビートルズが、盛大に、深く理解・受容されたのでしょうか。

(1)文化の民度が高い

 日本の音楽はもともと神道系の古代民族音楽を源流としていますが、5〜8世紀に中国から唐楽(とうがく)、朝鮮半島からは三韓楽と呼ばれた高麗楽(こまがく)・百済楽(くだらがく)・新羅楽(しらぎがく)、インドからは林邑楽(りんゆうがく)など、外国音楽を取り入れていきました。国家レベルで、輸入音楽を促進して取り入れたんです。このことによって、伝統儀式を重んずる農耕民族の古代日本民族音楽と、外国音楽が混じり合いました。

 また大宝元年(701)、文武天皇により大宝律令が制定されました。彼は政府に対して「雅楽寮」を作るように命じ、そこに200人を超える雅人と、50人ほどの役人を置きました。そして唐楽や三韓楽を管理するように命じたんです。ここには1つの特色が現れています。つまり日本では、古代の終わりにすでに音楽の管理が始められていたということです。これは非常に重要です。歴史学などで「日本音楽は得体が知れない」とか「歴史的には中国の音楽を輸入しているだけだから中国のほうが偉い」と言う学者がいますが、それは違う。日本は中国の音楽を確かに取り入れましたが、三韓楽も林邑楽も同時に入り、これを政策的に管理・維持・発展させたのは、まぎれもない日本の力です。一方の中国では、伝統的な雅楽の源は近世において消滅している。つまり中国は音楽を提供してくれましたが、管理はできなかった。日本は音楽を提供してもらったけれども、管理ができた。雅楽寮は、今の東京芸術大学の前身である、音楽取調掛(明治12年設立)と東京音楽学校(明治20年設立)に至っています。大宝元年につくられた音楽管理の役所が、形を変え、役割を変えながら、現代にも生きている音楽の歴史を保ってきたんです。

 その間、日本には声明もあります。声明とは、日本の声楽の元祖です。また平家物語によって枇杷が盛んになったり、後白河法皇が好んだ越天楽の今様も、平安時代末期には大衆化していきます。その後も曲舞、田楽、猿楽などが盛んになり、大名の時代には武将が幸若舞や能楽を好みました。このあたりから、観阿弥や世阿弥が14〜15世紀に出てきます。

 このように日本の音楽は、朝廷、大名、武将、そして吉原などの大衆的な娯楽場を拠点に流行りました。ヨーロッパとは少し違って、日本の音楽は上流階級にも大衆階級にも、いろいろなかたちで明治まで続いてきました。日本にはこのような音楽の素養があり、大衆にまで教養娯楽が浸透していたんです。また寺子屋によって日本の識字率は非常に高かった。江戸時代の日本人はほとんど文字が読めましたが、その頃のイギリス人のほとんどが文字を読めませんでした。これが、私がいう文化の民度の高さです。

(2)文明立国

 1955年頃、日本は敗戦国の中でも突出した速さで国際モーターショーを開きました。戦勝国であれば当たり前ですが、日本は敗戦国であるにも関わらず、文明の利器の最高峰である自動車を、敗戦後10年で早くも復興させたんです。

(3)ヒットソングの歴史が古い

 まだレコードがなかった明治22年の時点で、日本にはすでにヒットソングが存在していました。こんな国はほかにはありません。その曲は「オッペケペー節」、川上音二郎の劇団が使ったテーマソングです。レコード最初のヒット曲は、大正4年に松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」です。その後1930年頃から、日本は流行歌全盛の時代に入っていきます。その頃には自宅でレコードのシングル盤を楽しめるようになっていたほど、日本は音楽文化を楽しむインフラストラクチャーを持っていたというわけです。

(4)親アメリカ主義国

 戦後、日本にはアメリカの文物がどんどん入ってきました。戦前は「鬼畜米英」、つまりアメリカ人は機会さえあれば日本人を殺したり奴隷にしたりすると言われていましたが、実際のアメリカ人は、チョコレートはくれるしチューインガムはくれる。ずいぶん優しいじゃないかということで、親アメリカ主義は一気に広がっていきました。生活にアメリカのものが入り込んでいく中、1951年に江利チエミの「テネシーワルツ」が大ヒットし、アメリカ音楽がだんだんと好意的に受け入れられていく素地を作っていきました。

(5)「平凡パンチ」文化

 アメリカ文化がだんだんと受容され日本の国民所得が増えてくると、昭和30年代に通産省は「もはや戦後ではない」という経済白書を出しました。昭和35年からはトヨタや日産の乗用車の生産が一気に跳ね上がり、日本はいよいよ高度成長期に入ります。それとともに、それまで丹頂ポマードや柳屋ポマードくらいしか付けたことがなかった男性たちは、一気にファッションに目覚めました。それを促進させたのが、平凡出版(のちのマガジンハウス)から出た『平凡パンチ』でした。1964年、ここにおいて初めて、ファッション誌らしきものが日本で登場したんです。1966年には集英社から『週刊プレイボーイ』がライバル誌として登場しました。男性の若者向けに、非常に国際的視点でかっこいいことを紹介する雑誌ができたことで、ファッションが若者の間に広まっていきました。女性のほうも『ソレイユ』や『ジュニア・ソレイユ』というファッション誌、『主婦と生活』のようなヤングママ用の雑誌が、随分とファッションを取り入れました。1960年代末になると『アンアン』とか『ノンノ』などの雑誌が出てきて、日本は戦後最初のファッション隆盛時代を迎えることになります。ファッションとは着る物だけではなく、ライフスタイルも入ってきます。その中には音楽も映画もあり、出版物も観光地もあります。ファッションが若者に初めて受容された1960年代に、ビートルズは登場します。

(6)東京オリンピック

 1964年、東京オリンピックが開催されます。このための準備は1950年代末から始まっていて、GDPが増え、国民の気持ちも敗戦から脱して明るくなり、日本が復興してきたというイメージを非常に好ましく与えました。いい音楽を聴こうという余裕がこの頃に出てきたのも事実です。

 アジアあるいはヨーロッパの一部、中南米などには見られない日本の受容の土台があったからこそ、ビートルズは日本で当たるべくして当たったと言えます。つまり日本には、アメリカ文化の素養が昭和20年の敗戦からすでにあった。また日本の音楽文化の連綿たる歴史の強さが、新しい音楽受容を平然かつ熱狂的に受け入れられる教養と民度を持っていた。この2点が非常に大きいと思います。商品を買えないと流行らないという意味においては、国民所得も高かった。

 以上、古代から明治時代、そして敗戦後の日本を経て、アジアで唯一ビートルズを受容し、高みに持ち上げた日本の状況が、ある程度お分かりになったと思います。


4.ビートルズ以前の日本におけるポピュラー音楽受容の流れを押さえる

 アメリカ音楽の影響を受けながらビートルズ登場の伏線部分を作っていったのは、春日八郎、三橋美智也、島倉千代子や美空ひばりなどの演歌・歌謡曲のスターではなかった。まずは、西洋の影響を受けた日本第1号のシンガーソングライターの歌を聴いてください。平尾昌晃さんの「ミヨちゃん」(1958)です。平尾さんは今も大活躍している作曲家で、「ミヨちゃん」は平尾さんの第2弾シングルヒットです。続いて水原弘の「黒い花びら」(1959)です。この年、日本では初めての日本レコード大賞がつくられ、その第1号レコード大賞を獲ったのがこの曲でした。新人のデビュー作で、この歌はいわば和製ポップスの第1号として大ヒットしました。

 平尾昌晃さんはミッキー・カーチス、山下敬二郎とともに、ロカビリー3人男としてデビューしました。お手本にしていたのは、エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリー、リッキー・ネルソン、ポール・アンカなどです。いまやアメリカ音楽界で国宝扱いの名前ばかりですが、平尾さんらもそういう人たちに強く影響を受け、日本感覚のロカビリー「日劇ウエスタンカーニバル」で人気を博しました。

 実は当時のイギリスにおいても、日本と同じ現象が起こっていました。エルヴィス・プレスリー、エディ・コクラン、ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャード、チャック・ベリーなど本家ロカビリーのキングたちは、クリフ・リチャード、ヘレン・シャピロ、ジョン・レイトン、トミー・スティールなどロカビリーのエピゴーネン=模倣者を生みました。1958〜60年はイギリスと日本の両国において、同じ傾向のアメリカの歌手を模倣していたんです。ロカビリーに洗礼を受けたこの頃、日本とイギリスはともにローカルスターを押し出してアメリカ音楽のコピーをやりました。日本ではロカビリー3人男のほか、鹿内孝がプレスリーの歌を歌ったり、弘田三枝子はブレンダ・リーというアメリカのスターの歌を歌ったりしていました。クリフ・リチャードやトミー・スティールらは百科事典に載るくらい有名ですが、あくまでプレスリー以下のモノマネに過ぎませんでした。

 以上のように、1958〜60年の間日本とイギリスは同じような音楽の傾向を持っていながら、その後イギリスはビートルズに至り、日本ではエピゴーネンからカバー・ポップス、つまり翻訳ポップスが隆盛になります。弘田三枝子、パラダイスキング、鹿内孝、飯田久彦などのアイドルが登場し、アメリカ原曲の歌を日本語の詩で歌ったりしていました。原曲はアメリカ、詩・歌唱は日本のアイドルという過程を経ていくうち、日本の音楽界はだんだんと芸能界化していきます。その頃フジテレビが「ザ・ヒットパレード」という番組を始めました。この番組が日本の翻訳ポップスを中心としたヒットチャートを作り、坂本九や森山加代子、弘田三枝子やパラダイスキングらが次々と出てきて歌い、ヒットチャートを賑わしました。完全にテレビ芸能界の世界に発展していったんです。

 その頃のイギリスでは、クリフ・リチャードやトミー・スティール、シャドウズなどの優等生芸能人に反感を持った大学生が出てきていました。彼らの文化は「カウンターカルチャー」と呼ばれました。メインストリーム・カルチャーは、クリフ・リチャードやヘレン・シャピロなどで、それなりにいい歌を歌いますがお人形みたいですね。カウンターカルチャー派はというと、アメリカで抑圧されていた黒人音楽に志向を強く持っていました。この頃のリズム&ブルース界には、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、B.B.キング、ジョン・リー・フッカーなどがいて、このあたりの黒人音楽はアメリカで「レイス・ミュージック」と呼ばれ、差別の対象でした。その後、ローリング・ストーンズとビートルズによって紹介されて世界で芸術家の高みに持ち上げられることになるマディ・ウォーターズでさえ、当時レコードは売れない、出るところもない、ただ居酒屋のそばで1人ギターを弾いていたという有様だったんです。芸能ポップスに辟易していたイギリスのカウンターカルチャー派の学生たちはサークルを作り、アンチ・テーゼとして、「アメリカの黒人、打ちひしがれた人々を呼ぼう」「マディ・ウォーターズやジョン・リー・フッカーを呼ぼう」と、1960年にナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバルを開催します。そのなかにはローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズや、アレクシス・コーナーというブルースの運動家、ジョン・メイオールというブルースの専門家、ミック・ジャガー、エリック・クラプトンなどもいました。

 以上のように、1960年頃は日本では「ザ・ヒットパレード」というテレビ文化を作り上げた和製ポップス=翻訳ポップスが隆盛になり、同時期にイギリスのロンドンでは、主張が強く熱狂的な音楽地下活動が勃興していました。イギリスのカウンターカルチャーは反クリフ・リチャード、ヘレン・シャピロ、流行音楽、そして親ブルースだった。その一派が、リバプールではザ・ビートルズであり、リッチモンドではローリング・ストーンズであり、ニューキャッスルではアニマルズであり、トッテナムではデイブ・クラークファイブでした。イギリスの中都市でこのような動きが学生を中心に起こり、それを支持するミュージシャンが一気に増えて、ビートルズはリバプールで跳ね上がってトップに立ちました。こうしたリバプールサウンドあるいはブリティッシュサウンドの躍進によって、ビートルズは1963年からイギリス全土を席巻し、1964年には世界の頂点に一気に立つというわけです。

 日本では、「ザ・ヒットパレード」を中心としたテレビ芸能文化と共生・繁栄してきた和製ポップスは、イギリスのビートルズ旋風に巻き込まれてまた少し変質化し、グループ・サウンズへと発展していきます。1965〜70年頃の日本はグループ・サウンズの全盛期ですが、それもきわめて芸能的なものでした。またアメリカのボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーを中心としたフォーク勢の影響を受けて、両立した形でフォーク・ブームが来ますが、これはカレッジポップスに発展します。


5.ビートルズが音楽産業/音楽文化に与えたインパクト

 テッド・ヒースという有名な貴族のオーケストラリーダーは、「どんなにいい音楽でも、大衆化しなければ価値がない」と言いました。ビートルズも大衆化していなければ価値がありません。大衆化することで、文化になり、歴史に残ります。「大衆化こそがすべてだ」とは日本人にとっては抵抗のある言い方かもしれませんが、一理あると言えます。ビートルズが中途半端な当たりだったら、どんなにいい音楽でも評価はされず、ましてや歴史上の1ページに残ることもないと思います。

 ビートルズは何を、イギリスや日本や世界に与えたのでしょうか。

 まず1つめは、ビートルズはイギリスに若者文化の覇権を歴史上初めてもたらしたことです。だいたいにおいて、音楽の創造力、創作力を生むのは若い世代ですし、聴くのもある程度若い世代です。しかしイギリスはここ500年の歴史において、ほとんどスーパースターを生んでいませんし、若者がヘゲモニーを握るような音楽文化もありませんでした。ところがビートルズやローリング・ストーンズは、アメリカの若者の誇りだったビーチボーイズをはるかに超えて、イギリスの若者文化が世界の若者文化として初めて認められました。

 2つめは、ロック・ミュージックに芸術性を与えたこと。そもそもロックは映画で有名になりました。ビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、映画『暴力教室』の主題歌として使われました。あるいは俳優ジェームス・ディーン。ジェームス・ディーン主演の『Rebel Without a Cause/理由なき反抗』ではチキンゲームという乱暴な遊びが話題になって、ジェームス・ディーンは不良少年のアイドルになりました。ロック&ロールは、中流家庭のホワイトファミリーではとにかく「聴くな、見るな、行くな」と言われる対象で、「エルビス・プレスリーは下品だ」とか「子供に絶対見せてはいけない」などというプロテスタントの家庭は非常に多かったんです。ビートルズはこれに、全然違う角度から高度の芸術性を与えました。のちにジョン・レノンが「アイドルのポップミュージックをやりたかったし、実際にやった。しかし65年の『ラバー・ソウル』から、俺たちはシリアスなミュージシャンだ」と言ったように、65年の『ラバー・ソウル』、66年の『リボルバー』、67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』は、確かにエルビスからはとても考えられない音楽ストーリーであり、トータルコンセプトであり、アートでした。

 3つめは、ファッションとポップアートの隆盛です。ポップアートは無機質で工場あるいは産業のようなデザインで、1950年代初頭にイギリスで起こり50年代後期からニューヨークで開花しました。アメリカではヴェルヴェット・アンダーグラウンドの育ての親であるアンディ・ウォーホルや、リヒテンシュタインなどが最も有名です。しかしポップアートを生んだのはイギリスです。アメリカほど大物ではありませんが、イギリスにもリチャード・ハミルトンやピーター・ブレイク、アレン・ジョーンズなどがいます。またビートルズの影響下で生まれたアラン・オールドウィッチのポップアートなどは、日本でも横尾忠則、宇野亜喜良、及川正通などに大きな影響を与えました。これはビートルズの波及効果の一環と言えます。

 4つめは、職業作家によるヒット工場システムの崩壊です。コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ジミー・ヴァン・ヒューゼン、ジョージ・ガーシュインなどの有名なアメリカの作曲家・作詞家たちは、ニューヨークの音楽街の一角、ティン・パン・アレーと呼ばれる場所に音楽出版社とともに行き交っていました。いい歌手を見つけると、プロデューサーとレコード会社とマネージャーが、ティン・パン・アレーにふさわしい歌を依頼して作品を作り、夢のようなアイドルが登場する。それが、かつてはフランク・シナトラであり、50年代はリッキー・ネルソンだったとういわけです。しかしこのような分業体制によるニューヨークの音楽のエスプリと制度を、ビートルズはぶち壊しました。ビートルズは全部自分でやってしまった。ボーカルもやれば、音楽出版権も自分たちでとる。プロデュースもジョージ・マーティンと一緒にやる。これは、アメリカでは考えられないことでした。

 5つめは、黒人音楽の再評価。これはいうまでもなく、リズム&ブルースと本格的なブルース音楽の再考を、ビートルズとローリング・ストーンズが成し遂げたことです。ビートルズはリズム&ブルース、とくにモータウン、チェス、それからスペシャルティというレイス・レーベルを盛り上げました。ローリング・ストーンズは、フォークウェイズやチェスのレーベルの本格的なヘビー・ディープ・ブルースを盛り上げました。一番有名なのは、ハウリング・ウルフ、チャック・ベリー、ボー・ディドゥリー、マディ・ウォーターズなどです。彼らはローリング・ストーンズがいなかったら、発見されなかったかもしれません。

 6つめは、印税ビジネスと権利ビジネスの確立。日本においては、日本音楽著作権協会が歴然と存在感を発揮しているので、法的整備が非常に行き届いています。日本音楽著作権協会ができたのは昭和14年なので、この時点ですでに日本では音楽著作権のビジネスができていたことになります。印税あるいは権利ビジネスの確立は、日本は早いほうですが、それでもアーティスト、プロデューサー、マネージャー、デザイナー各々の権利はどうなっているのかということに関しては曖昧でした。しかしビートルズが音楽産業史上初めて、あらゆる創作活動に携わる人間の権利をきちんと分けたんです。これはビートルズというよりも、ブライアン・エプスタインの力が大きい。今は当たり前のように、レコードの裏には「produced by ○○」とか「engineered by ○○」とか「Thanks to ○○」と書いてありますが、これが最初に行われたのがビートルズだった。それまでは、プレスリーのレコードを見ても「managed by Tom Parker」と書いてあるだけで、それ以外のクレジットはほとんどない。ビートルズはクレジットをきちんと確保し、権利ビジネスを明快に行うようになったんです。

 7つめは、レコード産業の巨大化です。ビートルズ以前は、コンサートやレコードの売れ方の規模はそれほど大きなものではありませんでしたので、1964年に彼らがニューヨークのシェアスタジアムでコンサートを行ったときは、まだPA(パブリック・アドレス)システムなどありませんでした。だからビートルズは、館内放送のスピーカーとイギリスから特注で持ち込んだボックスのアンプリファイアを使って、生音でコンサートをしました。それがだんだんと改良されていきPAシステムが発展しました。野外球場の5万人コンサートビジネスも発展し、世界で1,000万枚売れるレコードのビジネスモデルもできました。

 そして最後に、ビートルズがイギリスにおいて及ぼした社会的な影響。今もそうですが、イギリスは階層固定社会です。一番上がウィンザー公、その次が旧貴族、そして中産階級、最後が労働者階級です。ビートルズは1960年代に失業に喘ぐイギリスで登場し、そのような階層固定社会のなかにおける若者の社会階層移動を可能にしました。それまでイギリスの若者たちは、職業と身分の高さで階層が分かれるイギリス社会の後塵を拝した存在だった。しかしビートルズとローリング・ストーンズの登場以降、「リバプール出身の若者」あるいは「ニューキャッスル出身の若者」というと、大人には負けない、上流階級には関係ないという自信や希望が与えられるようになりました。50年代末〜60年代初頭に、フランスではヌーヴェル・バーグが起こりましたが、イギリスではビートルズとローリング・ストーンズが音楽でヌーヴェル・バーグを起こしたんです。これによってイギリスの若者は、上流階級コンプレックスが大分解消されました。これはビートルズがイギリスの若者に対して与えた、大きなメリットだと思います。


6.ビートルズが日本に与えた社会的影響

 日本では、ビートルズの想定するビジネスモデルを積極的に採用し、権利意識の高揚に至りました。その後70〜80年代に至るまで、ビートルズが発明したり新たに作ったビジネスシステムモデルが、日本でもアメリカでもイギリスでもヨーロッパでも使われました。また権利意識のビジネスも成立し、マネジメントの意識も高揚した。日本で吉田拓郎や井上陽水らがフォーライフ・レコードを設立したのは、1970年代半ばですが、この発端はビートルズが作ったアップルという会社です。その3年前、ビートルズが「古くて大きな会社は嫌だ。自分たちの意思が通ずる会社を作りたい」と、1967年にアップルを作ったんです。これは現在のアップルコンピュータの源流にもなっています。直接の関係はありませんが、スティーブ・ジョブズがアップルに名前を使わせてくれと申し込んだという話があります。そのくらいアップルという名、ビートルズは若者文化の象徴であり、若者パワーの集結体だった。それが日本のフォーライフ・レコードや、ファンハウス・レコードを生みました。

 またビートルズは、イギリスの諸相に対する関心の向上を日本人にもたらしました。当時はイギリスと言ってもあまり身近な国ではありませんでした。まず遠いし、イギリスのイメージと言えば、霧のロンドン、シャーロック・ホームズ、薄暗い街にガス灯、煉瓦造りの家、羊毛くらいでしょう。ケインズなんて言うと、もう分からなくなってしまう。しかしビートルズが出てきてから、カーナビーストリート、モッズファッションなど、あらゆることが大衆化していきました。

 また多くの音楽的エピゴーネンを生むようになった。日本でもビートルズを教科書として模倣し、そのなかで優れたものが日本のグループ・サウンズ歌謡を形成しました。

 ロック楽器の大衆化と普及も大きな影響でした。ビートルズの4人は各用の楽器を持って日本に来たので、その楽器メーカーが一気に有名になった。ドラムのラディッグ、ベースのカールヘフナー、ギターのグレッチ、リッケンバッカーなどです。

 インドやイビザなど秘境への関心も高まりました。ジョージ・ハリスンは、1960年代半ばにラビ・シャンカールのシタールを学んだことがきっかけで、その後インド神秘学にのめりこんでいきます。とくにジョージとジョンの2人は、様々なインドの諸相を勉強しました。これがファンにも移って、インド旅行が増えました。もともとインドはイギリスの被植民地だったので、イギリス人はインド好きですが、このことでインドは一気に神秘的な憧れの土地になった。同様に、ヨーロッパではイビザも注目されるようになりました。イビザとは大西洋に突出しているスペイン領の島で、面積が572平方キロメートル、人口約5万人の島です。イビザは宗教的巡礼をロックでやるようなところで少々怪しさもありますが、ビートルズとピンク・フロイドはここに神秘主義を持ち込むような形で非常に褒め称えた。こうしてジョン・レノンやピンク・フロイドが秘境への関心を喚起しました。

 それからビートルズは、アンダーグラウンド・カルチャーを刺激しました。日本におけるアンダーグラウンド・カルチャーとはある程度サブカルチャーとしての世界で、例えば横尾忠則、宇野亜喜良、あるいは寺山修司の天井桟敷、土方巽の暗黒舞踏などがあります。ビートルズだけが影響を与えたとは言いませんが、どこかエニグマティックで謎めいた価値観を、舞踊あるいはポスターなどで創作するとき、イギリスで起こったヌーヴェル・バーグの勃興を支えたビートルズやローリング・ストーンズ、さらにはピンク・フロイドやキングクリムゾンあたりのいろいろな事跡は、強く影響を与えたようです。

 以上、「ビートルズ・日本・イギリス」という結びつきがどういう形になるかということについて、主観的な捉え方ですが歴史的視点から捉えてお話しました。ご清聴ありがとうございました。

 





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石坂先生