第12回 2008年7月5日 
「イ ンディーズ創世記
後藤先生

講師: 後藤 由多加 (ごとう・ゆたか) 先生

早稲田大学在学中の1971年にユイ音楽工房を 設立、吉田拓郎、かぐや姫、長渕剛、BOØWYらを手がける一方、75年に井上陽水、泉谷しげる、小室等、吉田拓郎らとフォーライフレコード(現フォーラ イフミュージックエンタテイメント)を設立、82年から社長に。
アーティストの著作隣接権擁護のため、86年に(社)音楽制作者連盟を設立、理事長として様々な権利等の問題に取り組む。
また、アジアの音楽文化交流を目 的とする(財)音楽産業・文化振興財団(PROMIC)を93年に設立、副理事長として多くのイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。


「インディーズ創世記」


はじめに

 今日は、私が30年間この業界でやってきた色々なことや、個人的な意見、時代の変化や著作権などについてもお話したいと思っています。みなさんがこの講座に何らかの刺激を受け、日本の音楽あるいは映像文化のなかに新しい息吹を吹き込むきっかけになれば、非常に素晴らしいと思います。
 
 私は、70年安保という時代に青春時代を送りました。ご多分に漏れずバンド活動などもしていましたが、10代後半の頃はまだフォークやロックなどの音楽には興味を持っていませんでした。1960年代末は、学生のクラブ活動資金を集めるためにダンスパーティーを開いたりしていた時代で、いわゆる「パー券」を売ってダンスホールを借り、バンドを呼んで収益を上げるという流れが主流でした。しかし1970年を過ぎると、自分たちが好きなシンガーソングライターやロック系のアーティストを呼んでコンサートをやろうという時代になりました。その頃は欧米でも芸能界的な音楽よりもシンガーソングライター的な音楽、例えばボブ・ディラン、ジャニス・ジョプリン、ビートルズなどを筆頭にした音楽が台頭していて、日本でも自分たちの意思で発言していこうという音楽が増えてきた時代でもあったんです。はじめ僕はジャズ系のバンドをやっていましたが、当時付き合っていた女の子がフォーク・クルセダーズという京都出身のバンドのファンで、それがきっかけでフォークと出会い、フォークのバンドを始めました。

 しかしプロフェッショナルとしてやっていくだけの才能がないことは感じていて、その頃から舞台の構成やステージの台本を書いたりする方向に行こうと思いアルバイトを始めました。僕は大学に7年間通って結果的に卒業はしませんでしたが、学生の頃にはすでにプロモーションのようなことを始めていました。

 そのような中で、吉田拓郎というアーティストと知り合いました。彼の名前はみなさんもご存知だと思います。1970年代前半の彼のエンタテインメント的才能、存在感はすでにもの凄くて、僕が最初にこの世界で仕事をしたいと思ったのも、彼の「イメージの詩」がきっかけでした。「イメージの詩」の1小節目には、「これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか」という歌詞があります。当時21歳くらいだった僕は、こんな言葉をはっきりと歌にする彼の凄さを感じて、彼はきっとこの音楽で世界を席巻するだろうと思ったんです。その頃は、僕がアマチュアからプロとして仕事をしていこうという思いが固まった時期でもありました。


1.夏フェスの原点 ―ウッドストック・フェスティバル―

 1969年に、ニューヨークの郊外ウッドストックで、40万人を超える人が集まった史上最大の音楽イベントが開かれました。これが、現在の夏フェスの原点となったイベントです。僕はこのフェスティバルには行っていませんが、1974年にウッドストックを訪れました。当時僕は吉田拓郎のマネジメントをしていて、ボブ・ディランのバックバンドで演奏をしていたザ・バンドと吉田拓郎で一緒にコンサートツアーとレコーディングをやりたいと思っていました。そのザ・バンドやボブ・ディランのマネジメントをやっていたアルバート・グロスマンというユダヤ人の方が、自分のレーベルを持ってウッドストックに住んでいたんです。そこで僕は無謀にも、彼を訪ねてウッドストックへ行きました。吉田拓郎とザ・バンドの共演は叶いませんでしたが、史上最大の音楽イベントが行われた地で僕は、色々なことを学びました。そして自分たちのレーベルを持つということが、アメリカではどういう仕組みで成り立っているのかということも知り、そのことは僕の数十年間のキャリアにおいても、非常に大きなものになっていると思います。
ここであるDVDをお見せしたいと思います。

【「WOOD STOCK〜1975年つま恋」のDVDが上映されました。】

 見ていただいたのは、1969年に開催された史上最大のイベント、ウッドストック・フェスティバルの映像と、1975年に静岡県で開催された吉田拓郎とかぐや姫の「コンサートインつま恋」の映像です。現在は非常に盛んに行われている夏フェスですが、当時このようなイベントを開催するのは本当に大変で、地域住民や行政、PTA、警察などから、ことごとく反対されました。アメリカでさえ最初は場所が見つからなかったそうで、ウッドストック・フェスティバルの開催地は個人の農場でした。つま恋でのコンサートの最終的な開催地も、ヤマハの川上源一さんが賛同して自分の持っているリゾート地を貸そうと言ってくださった。場所を借りたあと、チケットを6万枚ほど売ったのですが、売ったあとで警察から中止勧告が出たりもしました。これも川上源一さんがなんとかしてくれました。音楽を理解してくれる人の助けがあったからこそ、無事開催することができたんです。コンサートには6万人の人が2日間に分けて来たので受け入れるほうも大変でしたが、このような流れの中で、日本のビッグ・フェスティバルというものがだんだん日常化してきました。現在の夏フェスは「ビッグ・コンサート」、つまりある種の予定調和で進んでいきますが、この時代は本当に様々な要素がありました。アメリカのウッドストック・フェスティバルも、イベンターやプロモーターがビジネスとして開催したのではなく、カウンターカルチャーという60〜70年代という時代が持っていた、「ラブ&ピース」文化に影響を受けた若者たちが、音楽を通じて大きなことを起こそう、時代を変えよう、ということがコンサートを開催したエネルギーの原点になっています。この精神性はすごく重要です。今の人たちからすればアメリカに対する憧れは薄いかもしれませんが、当時は1ドル360円の時代で、ニューヨークに行きたくても直行便などありません。そんな時代もあってアメリカの文化に対する憧れが強く、アメリカを乗り越えていけるようなことをしたいとみんなが思っていました。つま恋コンサートの開催も、マスコミ含め反対されて協力的な部分は少なかったので、われわれとしては意地でもやろうじゃないか、とやることができました。
 
 当時の音楽はあまりご存じないかもしれませんので、ウッドストック・フェスティバルに出演した代表的なアーティストの音を実際に聴いていただきたいと思います。

【「WOOD STOCK出演アーティストの代表曲集」の一部が流れました。以下、曲目】
・「風に吹かれて」 ジョーン・バエズ
・「ブラック・マジック・ウーマン」 サンタナ
・「ジャニスの祈り/Move Over」 ジャニス・ジョプリン
・「雨を見たかい?」 CCR
・「ティーチ・ユア・チルドレン」 CSN&Y
・「あなただけを/Somebody to Love」 ジェファーソン・エアプレーン
・「紫のけむり」 ジミ・ヘンドリックス


 1969年暮れには、ローリング・ストーンズ主催のイベントがサンフランシスコ郊外で行われました。暴走族みたいな人たちをストーンズ側が雇ったので警備も非常に荒っぽく、死者が4人も出て悲惨な結果に終わったイベントでした。このイベントは、ウッドストックの「ラブ&ピース」とは相対色の強いものでした。

 夏フェスは、現在はコンサートホールの大きなイベントとしても皆さんが楽しめるような形になってきていますが、出発点には若者の強いエネルギーがあったということを、みなさんの記憶にとどめておいて欲しいと思います。

 ウッドストックから日本に帰って来た私は、その2年後に吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、小室等らと一緒にフォーライフレコードという会社を設立します。この4人はそれぞれ自分達が所属していた所を辞めて来たので、そういった様々な問題も含めて、当初はレコード店にレコードを流通させられるような状態ではありませんでしたが、その後きちんとレコードを流通させる仕組みをつくることができました。やり方は現在のインディーズのレコード流通と同じで、既存のディストリビューションを持っているところにお願いをして、ある一定のコミッションを落としてレコード店に流通させるという仕組みです。現在はそれが一般化しています。


2.時代の変化に大きく関わる若者・学生の特権

 音楽や映画などの文化は、それぞれの時代を担った若い人たちによって変化してきました。カウンターカルチャーという文化がありますね。これは、強いものや既得権あるいは自分たちの前に立ちはだかるルールなどに、カウンターを当てていこうという文化です。世の中を席巻している様々なものに対して、「そんなものよりも、自分たちでなんとかしよう」という、メジャーへのアンチテーゼですね。そのような文化によって時代は変わってきました。当時はまだ、カウンターカルチャーという言葉や意識はなかったと思いますが、自分たちが信じているものがありました。僕の場合は吉田拓郎で、彼ならメディアの力を使わなくても世の中に理解されると本気で思っていました。現在も世の中で起こっていることに対して疑問を持つことは、皆さんのような若者の特権であると思うんです。だから皆さんはもう少し大人を怖がらせないといけない。従順なだけでは、世の中は何ら変わっていかないと思います。カウンターカルチャーが明確な形でその時代に存在し、それが何かのエネルギーとなり、次の時代を作っていく。僕がやったことは結果的にはそうだったかもしれないし、僕がまたその次の世代に乗り越えられていく。これが繰り返されることによって、文化は成熟して大きくなっていくのだと思います。

 そうとは言っても、今の時代でそういうことをする必要があるのか、と思うことも事実です。例えば、現在われわれにとっての大きな弊害はランキングです。1位になれば、みんながその歌に注目する。1位になったものを買っていれば、安心する。音楽に限らずそうだと思いますが、こういうことに対してカウンターを当てていくことは、今の時代は非常にしづらい。このことが、次の価値観を創造していくことに対する大きな壁となっているのではないでしょうか。当然われわれもプロフェッショナルとして音楽ビジネスをしているので、そういう時代に打ち勝てるものを作っていかなくてはなりません。しかしわれわれよりも、ここにいる皆さんの問題でもある。もう少し若者の無軌道さを出していってもいいのではないかと思います。そしてどんどん外に出て行って欲しい。外国じゃなくてもいい。違う価値観を知るということが大切なのであって、そのことは皆さんの将来に必ずつながっていくだろうと思います。皆さんのような若い人たちの特権意識をぜひ生かして欲しい。30を過ぎるとどうせ丸くなるんですから、若いうちは若いなりに尖がっていかないともったいないですね。


3.ロックバンドBOØWYの時代性

 1980年代に入って僕は、BOØWYというロックバンドに出会いました。「BOØWYというバンドがすごい」という話を色々な人たちから聞き、今もある新宿のロフトというライブハウスに何度も足を運んで彼らと契約をしました。彼らには、敵に向かってぶち当たっていこうという、ストイックでざらついたイメージがありましたし、氷室京介は実際にストイックな男で、自分が言ったことは曲げないという精神を持っていた。そしてそういう意識を持ったロックバンドが、初めてメジャーという形で出てきて世の中を席巻したのが、このBOØWYでした。日本には数多くのロックバンドが存在していますが、ロックとはサウンドだけではなくスピリチュアルな部分も必要だと思います。そういう意味においてBOØWYは数少ないロックバンドで、時代を変えていくというところで、吉田拓郎の音楽を聴いたときと同じような衝撃と感動を受けました。彼らは非常に早く解散をしてしまいましたが、BOØWYを継ぐロックバンドを早く見たいと思っています。サウンド面で優れているバンドはたくさんいますが、「俺たちが世の中を変えるんだ」と言い切れる精神性を持ったバンドでなければならない。そういう姿勢で自分たちのことを世の中にアピールできる人たちこそ、本質的なシンガーソングライターであり、ロックであると僕は思います。


4.(社)音楽制作者連盟設立

 僕は音楽制作者連盟の理事もしているのですが、この団体ができたきっかけは貸しレコードです。貸しレコード店は、1980年代のはじめに東京の三鷹で第1号店がオープンしたことが始まりです。しかし借りたレコードをコピーして音楽を楽しむことは、そのレコードを買うことと同じ満足度を、聴く人に与えます。そこでわれわれは、きちんとお金を請求すべきだと考えました。なぜなら、このままだと著作物のお金はアーティストに一切回らなくなってしまうからです。われわれはこのことにかなりのエネルギーを費やし、貸しレコードが大きなビジネスになることを前提として、音制連を設立しました。

 余談ですが、レコードを作る際にソロで演奏する人もいますが、バックミュージシャンやオーケストラなどが参加してレコードをつくる場合もあります。貸しレコード店ができた頃の話ですが、バックミュージシャンたちは、レコード1枚貸すごとに100円のインカムがあるとすれば、そのうちの75円はバックミュージシャンたちで、歌っている人の利益は残りの25円だと主張していました。僕はそのことに怒り心頭でした。バックミュージシャンの名前を見てレコードを買う人はどれだけいるのか。でも、彼らは数の論理で言う。話し合いの結果、67:33でフィーチャードアーティストがその音楽の権利をコントロールしていくということに決まりました。つまり33%はバックミュージシャンの権利になった。そのことに対して僕は今でも不満を持っています。なぜならバックミュージシャンは、演奏に参加してレコーディングするとそこでギャラが発生しますが、歌い手は印税しか収入がないからです。そういう意味において、バックミュージシャンは日本が一番優遇されているし、僕はバックミュージシャンの権利を10%くらいにまで下げてもいいと思います。

 以上のように音制連は現在、実演家の権利をさらに拡大していこう、そして音楽製作者や音楽プロダクションの権利を大きくしていこうと頑張っています。


5.現代音楽レーベル事情

 今の日本の音楽レーベルやレコード会社では、女性が頑張っています。それにプロモーターとして男の子が行くよりも、かわいい女の子が行ったほうがメディア側もちやほやしてくれます。ちょっと下品な話をしますね。テレビやラジオで「この曲かけてください」と、かわいい女の子がお願いすれば、「しょうがないなあ、かけてあげよう」となりますが、男がお願いしてもかけてくれない。しかも男はスケベな生き物なので、「飲みに行こうよ」と女の子を誘います。もしも男だったらこっちがお金を払わなければいけないけれど、女の子だったら向こうが払ってくれるので、お金もかかりません。僕はうちの会社の女の子に、「断り上手になれ」と言っています。食事だけしたら真っ直ぐ帰って来いと。そういう意味で、女の子がすごく頑張っている。しかし女性は、30歳を越えると結婚や出産、育児などで、壁がなかなか乗り越えられない場合が多い。うちの会社にも優秀な女性の宣伝マンがいました。彼女は、「結婚して子どもを出産しても必ず1年後に戻ってくるので籍を残しておいて欲しい」と言っていましたが、子どもへの愛情と、現実に日本には子どもを預かってくれるようなインフラがなさすぎるので、結局家庭に入ってしまいました。そういったインフラがもっと日本にできればいいのになぁと思います。男の子はどうでしょうか。レコード業界に男性ディレクターはたくさんいますが、ヒット曲を出すのはみんな30歳を超えてからです。今の日本のレコード業界で、20代でミリオンセールスをつくった人はほとんどいないでしょう。なぜなら、そこまで階段を上がっていくという訓練があるからです。いろんな音楽とぶつかり合って、自分の価値観が具現化していくまでに、少し時間がかかるのではないかと思うんです。男の子と女の子の差は、そういうところで出てきますね。
 
 また個人的に、モバイルや着うたの弊害を感じています。パッケージの場合、CDに2曲しか入っていないのに1,000円って、すごく高いですよね。でも、高いからみんなレコード店で視聴したり、友達に借りて聴いたり、貸しレコード店で借りて聴いたりします。そうやってだんだんそのアーティストを自分の内面で育てていって、結果的には強固なファンになります。そうなればコンサートにも行くし、アルバムも買ってくれます。ところが着うたの場合、「あの人が着うたにしているから私もしよう」みたいに、100円とか300円払っただけでその音楽を知ったような気になってしまいます。最近のアーティストは、最初のアルバムが50万枚売れても次のアルバムになると下がっていくことが多いのですが、これも着うたが反映していると思います。つまり自分の気持ちでその音楽を評価していないから、飽きるのも早い。われわれは現在、着うたや着うたフルである程度の利益を得ていますが、そういうところにも打ち勝っていけるような音楽を作っていく必要があると思っています。


さいごに

 今日はどんな話をしようかと、この1週間すごく迷いました。こんな話をするのは、僕のキャリアの中で最初で最後になるだろうと思います。みなさんの若さが持っている価値観は、数ある様々な価値観のなかでも燦然と輝く価値観です。しかしそれは、時が経つにつれてだんだん古くなっていきます。だからこそ、今の価値観を生かして欲しいし、その価値観によってみなさんの青春時代を1ページでも彩ってもらえれば素晴らしいと思います。どうぞこれからも頑張ってください。みなさんとまた身近なところでお会いできるのを楽しみにしています。最後に、うちの会社でやっている音楽の一部を紹介します。ご清聴ありがとうございました。

【「BENNIE K〜DOUBLE〜Hi-Fi CAMP〜阿部芙蓉美」のPVが上映されました。】



―以下、質疑応答―

Q.今の学生たちは「カウンターカルチャー」というものに対してさらなるカウンターをかけなければいけないと思うが。

A.カウンターカルチャーとは、時代を席巻すればマジョリティを持ち、カウンターカルチャーではなくなってしまう。カウンターカルチャーにさらなるカウンターをかけるということは、前に存在するカウンターカルチャーがすでに世の中を席巻し、ひとつの既得の価値観になっているということになるのではないか。だとすれば当然、そのカルチャーを超える新しい文化や価値観の創造をしていくべきだと思う。

Q.もうじき夏フェスの時期だが、あれだけ大勢の人たちが集まるので何かできないかと個人的に考えている。現在は商業中心の夏フェスが主流になっているとおっしゃったが、社会貢献型のロックフェスは可能だと思うか。

A.可能だと思うし、やるべきだと思うが、そのときに何をやるかが重要。また厚生省がエイズのためにキャンペーンをやろうと言っているが、役所から言われてやるのは嫌だなという意識が僕にはある。とはいえ日本のアーティストは基本的に、ポリティカルな発言をしたり社会貢献に対する意識を高めようとはしないので、音楽が持つフリースペースのなかで何がやれるのかということを、もう少し考える必要があるのではないか。しかし日本の場合は社会貢献をすると、やれ偽善だ売名だと言われかねない。日本人の生きてきた歴史のせいもあるかもしれないが、そういう部分こそを打ち破っていくべき。最近は少しずつ変わってきていて、小林武史さんのap bankなどは非常に素晴らしい。またわれわれ企業ではなくても、みなさんが何かをやることも十分に実現可能だと思う。

Q.今の日本におけるインディーズシーンの傾向はどのようなものか。またインディーズとしてCDデビューするにはどうすればいいのか。

A.当時まだインディーズという言葉はなかったが、僕は「インディペンデント」という意識を持ってフォーライフレコードを作った。現在はインディーズのことをメジャー予備軍として捉えている人が多いのではないか。おそらく実際に、メジャー予備軍としてのインディーズは8〜9割くらいいるだろう。しかし本来は、メジャールールやビジネスルールに関係なく自分たちのスタイルでやっていくということにこそ、本質的なインディーズの精神がある。例えば個人を中傷・差別したり、凶悪犯罪を示唆するような歌はレコ倫でカットされるが、これらは発言の自由につながっていて、インディーズはそういうことも含有しながら存在している。決してメジャー予備軍ではない。その一方で、レコード協会にも加盟しているし、オーディションも頻繁に行っているようなインディーズの会社もある。メジャー的な意味でのインディーズに興味があれば、どんどんそういう会社と接点を作っていくべきだろうし、本来のインディーズ精神でやっていきたいのであれば、自分たちでCDを作って売るのがいいかもしれない。そうして評価が定まってくれば、アーティストとしての力も大きくなる。

Q.僕はインディーズで活動をしていてCDも出しているが、反応や評価はとくに感じていない。オリコンで1位になりたいなどは考えないが、若者の潜在的なカウンターカルチャーを顕在化させるために、具体的に何かやれることがあればアドバイスをお願いしたい。

A.優秀なディレクターの人たちは基本的に、楽曲もまあまあ、詩もまあまあ、ルックスもまあまあというアベレージのアーティストは最初にカットする。ディレクターの目に留まるのは、人と違うアーティスト。「こいつの詩はめちゃくちゃだな、こんなのよく書けるな」というアーティストに興味を持つ。テレビを見て勉強したような「これは売れそう」といったマーケティング音楽は絶対にだめで、もう一歩上を行く必要がある。つまり世の中に出て行く気持ちを持ちつつも時代に迎合せず、今の時代が飽き足りている価値観の次にみんなが欲しているものを自分が表現できるというしたたかさを持つこと。また音楽の普遍性を踏まえること。例えばギリシャ神話の時代から、男と女の愛憎は普遍的な出来事。それを踏まえたうえで表現していくパッケージングが必要。そしてオリジナリティという才能と、リアリティという時代性。この2つがなければだめ。ポピュラリティという商品価値はあとから付いてくる。自分が持っているオリジナリティとリアリティとは何なのかということを、音楽に限らず、したたかに考えて欲しい。

Q.著作権についてのアドバイスがあれば教えて欲しい。

A.著作権には、著作者の権利と著作隣接権の2つがあって、基本的にこの2つの権利が、すべての音楽ビジネスの基盤を作っている。これがなければサイクルしなくなるので、アーティストにもお金は渡らない。また日本ではJASRAC、イーライセンス、JRC(ジャパン・ライツ・クリアランス)などの団体が著作権を管理していて、アジアのなかでは非常にしっかりした形で保護されている。最近の一番新しい権利は、送信可能化権。例えば僕がその権利を持っていれば「これはモバイルに流したくない。流すのであればこれだけのお金をちょうだい」と言える権利なので非常に重要。つまり拒否することができる権利が送信可能化権で、通信の枠組み。一方で放送という枠組みのなかにある報酬請求権は、拒否できない。この報酬請求権や送信可能化権を含め、貸与権や演奏権などのたくさんの権利が著作権には入っている。




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