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2023/11/25

No.100 第100回記念特集号 vol.2
●2010年博士後期課程修了:藪 耕太郎さん

祝!第44回「サントリー学芸賞(社会・風俗部門)」受賞
校友 藪 耕太郎さんへの受賞記念インタビュー

 

からの続き---------»
―藪先生は、学部は産社でなく文学部に入学・卒業されました。立命館を選ばれたきっかけや大学院で社会学研究科を選択されたきっかけなどを教えてください。

 小さいころから本が好きで、文学少年から青年へと成長したこともあり、学部は文学部に進もうと決めていましたが、もう一つ、自宅から離れて一人暮らしをすることが絶対的な目標でした。私は自宅が兵庫県の西宮にありまして、京阪神の大学はたいてい通学できてしまいます。しかし、立命館の文学部は所在地が衣笠ということもあり、交通の便などを理由に一人暮らしの必然性を正当化できることから、もはや一択でした(笑)。

 念願の一人暮らしが叶い、大学生活は大いに謳歌しましたね。本読みはもちろん、バンド活動にも没頭しました。楽器ができないのでボーカルを務め、オジー・オズボーンのような有名なロックバンドのコピーからオリジナルのパンク調の曲まで演奏していましたね。そうそう、頭もモヒカンにしていたんですよ(笑)。ちょうど2002年日韓ワールドカップの時期でデビッド・ベッカム選手のソフトモヒカンが社会を席巻していましたが、私はその数か月前からモヒカンにしていました。私はベッカムのフォロワーでなく、ベッカムが私のフォロワーなのだと周囲に嘯いていましたね(笑)。

 生活面は充実していましたが、学業面では文学部の環境がしっくりこなくて・・・。あわよくば小説家かコピーライターになりたいと考えていた自分の計画(野望)と文学部での学びは、うまくマッチングしなかったんですね。そんなときに受講した『産業社会論』の授業が面白くて。確か、京都女子大学から出講されていた常松洋先生(現在同大学名誉教授)がご自身で執筆された『大衆消費社会の登場』(山川出版社・世界史リブレット)をテキストに授業を開講されていたはずですが、その講義を通じて、大衆消費社会なる社会が成立した理由や背景に興味を抱くようになりました。また、ここでの学びは『柔術狂時代』のテーマにも繋がっています。

 文学部卒業後、一般企業に就職したものの、その翌年には大学院進学という形で大学に舞い戻ることになり、といっても、要はモラトリアムの延長のようなもので、むしろあわよくば小説で一山充てようと密かに目論んでいたのですが(笑)、ひょっとしたら社会学で何かやりたいことが見つかるかもという期待もあり、社会学研究科を選んだのです。

 

―社会学研究科(社研)時代のお話をお聞かせください。

 当時の社研の院生仲間には個性的な人がたくさんいました。ストレートマスター(学部卒業後大学院に進学した学生)はもちろん、それなりの年数社会人生活を経験してから大学院に進学した大人たち、私のようなモラトリアム族まで多士済々。学而館の院生部屋を根城に、日中は読書会を開き、その延長戦をわら天神の居酒屋さんで繰り広げたり、さらには酔っ払った勢いで北野白梅町あたりまで出張って怪気炎を上げたり・・・。非常に濃密なかけがえのない時間を過ごしました。

 加えて、有賀先生に指導を受けていた門下生については、ひときわユニークな面々がいまして。栄えある立命館プロレス同好会の繫栄を支えた人材も複数いました。彼らと私は時に悪ふざけをすることもありまして・・・。当時(2003~2004年頃)、とある有名小説が原作の医療系ドラマが大流行していたのですが、先生が研究室から授業に向かわれるとき、「有賀教授の総回診~」と仲間内で囁きながら、有賀先生の背後を鋲付きの革ジャンを着た複数人の院ゼミ生でしずしずとついて行ったりしたことも。(勇気がなくて)正面から見たことがないのでわかりませんが、きっと先生は表面的には厳しい表情を浮かべつつ、内心は笑っていたんじゃないでしょうか。呆れていた可能性もありますが(笑)。

 ともあれ、先に述べた南米旅行をきっかけに私は、海外における武道の受容の歴史とその背景という、今に至る研究テーマに出会うことができました。

 日本にいても、研究を進めるための資料等はありませんから海外・南米への渡航が必須です。そこで割りの良いアルバイトとして、週末には着ぐるみに入って資金を稼ぎました。そして、スペイン語もロクにできないのに南米の街に飛び込んでいったのです。最初はなんのつてもなく、ヒヤリとすることもたびたびでしたが、現地の方々のおかげで不思議なほど人脈ができていって、思いがけず貴重な資料等に巡りあったりすることで、ますます研究に没頭していきました。

 

―指導を受けた先生方から研究者として影響を受けたことはありますか?

 私は文学少年・青年であったことも影響(災い?)して、研究論文であっても物語調に、饒舌に書いてしまう悪癖がありました(今もあります・・・)。これについては有賀先生から「論文は簡潔かつ明瞭に書くように」、と随分戒められました。それを含めて、スポーツ史の大家である有賀先生からの教えとして、私が常に胸においていることが2つあります。

 1つは、「実証に基づき、筆者ではなく資料に歴史を語らせること」、もう1つは、「有名無名を問わず、人々の無数の生の営みの積み重ねとして歴史をみること」、です。要は、「冷静かつ実直に、しかし同時に情熱的に、生きた歴史に臨め」、ということですね。今回の著書でそれが十分に反映できているかどうかはわかりませんが、これからも真摯に研究に取り組んでいきたいと考えています。

 私の博士論文(博士学位申請論文)の主査は有賀先生、副査は学内からは山下高行先生が務めてくださいました。山下先生は話題が豊富でトークも面白く、授業よりむしろ先生を交えての昼食や夕食の際の雑談から、大事なことを学んだように思います。

 学外からの副査は、大阪大学や京都大学、甲南女子大学で教鞭を執られ日本社会学会会長を歴任された井上俊先生(大阪大学名誉教授)が務めてくださいました。スポーツや武道に関する研究でも名高い日本の社会学界の泰斗が、当時面識の無かった私の博士論文の副査を引き受けてくださったこと自体、大変光栄であり、その機会を作ってくださった有賀先生のお力添えには感謝してもしきれないくらいです。おそらくは博士学位取得後の、就職のことまで想定されていたのでしょうね。当時も今も、私のような歴史社会学系の研究者の大学教員への就職は総じて狭き門ですが、先生方のおかげで私は学位取得後、ほどなく現在の勤務校に着任することができました。

―最後に、産社や社研への思いをお聞かせください。

 社会学という学問そのもののありようかもしれませんが、産社や社研での学びとは、「人と人とのつながりや学び合い、集団としての成長」を探究するものなのではないかと考えています。一言で表すと「協同(心を合わせて事にあたる)」という言葉になるのかもしれません。産社や社研で学ぶ人/学んだ人は、他者への優しさを含んだまなざしを大切にしてほしいと考えています。

 

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●藪 耕太郎(やぶ こうたろう)

修了年月日 2010年3月
博士後期課程修了
出 身 地 兵庫県
現 住 所 宮城県
勤 務 先 仙台大学 准教授
指 導 教 員 有賀郁敏先生
所属サークル
団 体
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