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2014/4/24

No.30「私は産社で学んだからこそ、弁護士になった」
●1982年卒業:本田 里美さん

産社で「小集団教育の真髄」に触れる。
卒業論文は今でも宝物。

 出身は兵庫県の篠山です。豊かな自然に恵まれた環境ですから、子どもの頃は、毎日のように山や川で元気に遊び、まさに野と戯れるようにして育ちました。篠山は兵庫県に所在するのに「丹波篠山」というくらいですから、地理的にも文化的にも京都には近いところです。大学進学に際しても、自然と京都の学校を志す雰囲気がありました。立命館大学に入学することになったのは「ご縁」ですけどね(笑)。

 入試の日、京都市内は凍えそうなほどに寒くて。広いひろい試験場に集う人たちが、とても都会的で大人に見えるなか、私はポツンと1人。田舎から出てきた心細さもあったのでしょうが、今にして思えば、他の人たちと私で多分違いは何もなかったことでしょう(笑)。

 学部を選ぶにあたって意識したのは「間口の広さ」です。最初から何か一つに絞り込んでしまうよりも、学問的に色々な興味や関心を追求することのできる可能性を重視しました。この「間口の広さ」の追求は、実はその後の私自身の人生においてもきわめて重要テーマになっていて、何かを選択・決断する場面で、必ず確認する要件になっています。

 基礎演習(プロゼミ)の担当は中川勝雄先生でした。中川先生は「現代社会が直面する諸問題や困難を総合的に把握して解決に導いていく役割が産社そして君達には求められているんだよ」といつも仰っていて、演習では議論や対話を重ね、利害や対立を調整し、合意形成を図っていくやり方を徹底的に叩き込まれました。さらに当時は、岡節三先生や須田稔先生が産社の学びに即した独自の英語教材を作っておられ、これまた大変熱心な指導をしてくださいました。先生方の熱意に煽られてゼミ活動はとても活発でした。まさに「小集団教育の真髄」に、常に触れていることができたわけです。このことはとても幸せな経験ですね。

 3・4回生の専門演習は林堅太郎先生のゼミ。林ゼミでは、卒業論文集は学生が自分達の手で製本作業まで手がけるのが伝統。みんなで作業を分担してあれやこれや議論しながら作っていくのですが、大らかで自由主義的な雰囲気のある林先生は、その光景を、目を細めてご覧になっていました。その時私が書いた論文のテーマは「未組織労働者の組織化」。特に女性労働者の将来展望に焦点をあてたもので、80年はじめ頃は正規/アルバイト・パートの区別くらいしかなかった就労形態が、経済の発展・成長とともに多様化していく展望と、同時に生起するであろう問題が社会生活に影響を与える可能性について言及しました。4年間の学生生活の集大成とするためにとても頑張った甲斐があって、この論文は優秀論文に選抜され、学部の論文集に掲載してもらいました。とても嬉しかったですね。私はこの論文を自分の宝物だと思っていて、今でも、仕事を行ううえで相手先に提出することがあるほど(笑)。後の法科大学院入試の際にももちろん提出しました

独学で司法書士に、そして法科大学院に入学、3度目の受験で司法試験合格を手にする。

 卒業後はすぐ京都市立中学校の社会科教員に採用されました。でも若くして結婚したこともあって、2年で退職してしまいます。いくつかバイトなども経験しましたが、そのうちに組織と離れた仕事をやってみたいと思うようになり、ある日「そうだ!司法書士試験を受けてみよう」と思い立ったのです。司法書士を選んだことに実は深い動機はなくて何かしらの縁。ひょっとしたら公認会計士や税理士を目指した可能性だってあるんです(笑)。私は独学することが全然苦にならなくて、妊娠中も育児の間もコツコツと勉強していました。

 2~3年のチャレンジの末に試験に合格。司法書士として仕事をしていくうちに、もう一段高いフィールドで力を試したくなって、司法試験にチャレンジすることを決めました。ところが今度は独学が全く通用しない。何回か試験を受けるうちに司法試験の制度が変わることになって、「これはもうお手上げ」と思い独学主義を撤回し、1期生として立命館大学の法科大学院に入学しました。私は法学未修者ですから本来的には3年修了コースになるはずですが、上述の「卒業論文」で意気込みを評価してもらえたのでしょう。2年修了コースで学ぶことになりました。でもそれからは大変。1日40時間くらい勉強しないと追いつかないという感じで、目から血が出る思いをしました。このときの経験は強烈で、今でも頻繁に悪夢にうなされるほどです(笑)。

 司法試験(新制度)は3回受験しました。ご承知のとおり受験の限度は3回まで。まさに背水の陣です。この3回目というのは受験生にとっては苛烈なプレッシャーで、精神的に追い込まれてしまい、3回目の受験自体を放棄してしまった仲間も少なからずいます。でも、私は不思議と追い込まれなかった。試験に不合格になったからといって、命が取られる訳ではない。一種の開き直りかもしれませんが、そう思うことで気持ちが楽になり集中力が高まって合格を手にすることができました。この時ばかりは自分で自分のことを大した奴だと褒めてあげました(笑)。

 弁護士の仕事は、やはり試験勉強よりはるかに大変です。クライアントの方々との折衝は、絶対に失敗が許されないこともあり、常に緊張感が張り詰めています。でも常に特別で専門的な技能が要求されるわけではありません。クライアントの方々の要望に真摯に耳を傾け、顕在・潜在しているニーズをきちんと引き出してくる。これは弁護士に限らず、全ての仕事に共通する基本事項ではないでしょうか。相手を自分の親である、あるいは子どもであると思うようにして物事を捉えると、経験上ほとんど間違いはありませんね。

産社で学ぶことの素晴らしさを、後輩のみなさんに伝えていきたい。

 基礎演習の時代、常に自論を突き通そうとする私に「社会に唯一絶対の正論はない。意見の対立はあって当たり前。そこを折り合い調整することで見出されることがあるんだよ」と、中川先生には何度も何度も諭されました。あるときには「君は『押してもだめなら引いてみな』という言葉を知っているのか」とさえ言われたこともあります。今にして思うと、先生は「社会の間口の広さ」を教えてくれていたのかもしれません。―もし学生時代、法学部に学んでいたら、私は今、絶対に弁護士にはなってはいない―私にはその確信があります。

 昨年の12月より縁があって、産社校友会の副会長を務めることになりました。私は自身の学生時代、産社には活動のエネルギー量の高い人がとても多くいて、その環境の中に身を置いていると、自ずからコミュニケーション能力が鍛えられていくように感じていたのですが、嬉しいことに今でもその風土がちゃんと息づいているように感じます。

 でも苦言も一つ。先日若い世代の産社校友の方とお話する機会があったのですが、「就職活動のとき、『産社』をどう説明したらよいかとても困った」とお話する方がいて、私はとてもショックを受けました。なぜなら、それは30年前の私たちの悩みと寸分違わぬ悩みだったからです。私は、産社はこの30年で学問の領域を更に広くかつ深め、社会に対するプレゼンスを相当に増したと思っていますし、実際にそのような評価を聞くことはとても多いです。約50年前に産社創設時のキーワードとされた社会の「現代化・総合化・共同化」は、色褪せるどころか、今の社会においてもますます重要度を高めています。現役の学生さん達をはじめ若い世代の方々には、産社での学びに誇りと自信を持って、社会に巣立っていってほしいと切に願います。

 ひょっとすると、産社校友会における私の使命とは、産社の後輩達にとってのロールモデルとなるような素敵なOB・OGの人たちに数多く集っていただくための環境づくりなのかもしれません。

●本田 里美(ほんだ さとみ)

卒業年月日 1982年3月 卒業
出 身 地 兵庫県
現 住 所 京都府
勤 務 先 すばる法律事務所所長弁護士
ゼ ミ 名 林堅太郎ゼミ
所属サークル
団 体
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