2017/12/21
1976年にさんしゃへ入学した私は、物事を多面的に考え、かつ自由な学部の雰囲気に驚きました。高校演劇の延長線上で、劇団立命芸術劇場の扉を叩き体験入部したのです。大道具係を拝命したものの、生来不器用な私は、トンカチで自分の手を打ってしまい、痛さで即刻辞めてしまいました。結局学生時代は何もせず、徒爾に明け暮れました。ただ皆さんお書きですが、さんしゃでは、様々な意見を否定せず、話し合いを繰り返すというムードが当たり前で、私も実践したつもりです。1980年に藤田観光に入社し、京都のホテル勤務となりましたが、ホテルマンは忙しく、趣味の演劇も忘れた20年間でした。
ところが1999年、初転勤は故郷の札幌だったのです。そこで部下がチケット購入を依頼してきたのは、過去に私が上演経験のある舞台でした。むろんプロではなく、アマチュア芝居ですが、一気にアフターバーナーに火が点きました。ここから1年半、札幌のアマのステージを、一番多く観た男と言われることになります。
それは2001年、秋田に転勤しても衰えません。学生劇団も含めて各アマ劇団を鑑賞後、当時の秋田としては、とんでもない考えに行き着きます。劇団員の数や、今までの経緯、主宰の考えなどにより、どうしても舞台の規模が小さくなっている現状は、私には、お客さまに満足を与えていないのでは?という疑問がありました。この解決としては、私が自らプロデューサーになり、オフィス玉手箱(浦嶋だから)というカンパニーを結成し、あちらこちらの劇団から、キャスト、スタッフを選りすぐり、ユニット公演を実現するしかないと。私は秋田人ではなく、コネもカネもありません。初めて会う代表達と論議を重ね、私のイズムの理解を求めました。イズムとは、年齢相応の配役、役者と裏方の兼任禁止、コラボレーション(共同作業)による火花のスパークなどです。新しい発想ですから、喧嘩めいたことにもなりましたが、翌年の第1回目の舞台「検察側の証人」は、3回公演で1,000名近くの観客を動員、成功裏に終わります。役者同士、あるいは役者と裏方とのコラボ、座組全体は客席とコラボし、理想のステージとなりました。
私は転勤族ですから、転々としますが、このユニットは、メンバーを変え、その後現在まで16年間続いています。本年10月の第7回公演「猫の恋、昴は天にのぼりつめ」は、毎月会費を納めると公演が5~6回観られるという秋田演劇鑑賞会の例会にエントリーされました。まさに前代未聞、他の例会は、青年座や俳優座などプロばかり。その中で私以外は全員秋田人で上演しましたが、予想もしないカーテンコールを頂きました(演劇鑑賞会としては異例)。私は今、東京在住で、たまに秋田に行きますが、各種トラブルもありました。でも長続きしているのは、さんしゃのムードのお陰ではないかと思います。一方仕事では、10月から福井県永平寺とコラボし、門前の宿泊施設を運営するという初のプロジェクトに携わることになり、夢ある仕事に胸がときめいています。
●浦嶋 幸一(うらしま こういち)
卒業年月日 | 1980年3月 卒業 |
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出 身 地 | 北海道 |
現 住 所 | 東京都 |
勤 務 先 | 藤田観光㈱ |
ゼ ミ 名 | 小林幸男ゼミ |
所属サークル 団 体 |
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