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2020/10/25

No.86「お金では買えない財産を得た産社生活」
●1981年卒業:渡邉 三千彦さん

学生生活を決定した運命の出会い

 「おうにいちゃん!ちょいペンかしてくれへんけ」このフレーズから私の衣笠生活が始まった。

 1977年4月、1年間のモラトリアム期間を経て、山口の片田舎から念願叶って、第一志望の立命館大学産業社会学部に入学。入学式が終わった次の日。初めての登校、オリエンテーションの教室で、私の隣には長髪猫背の大男。彼がいきなり私にペンを貸せと。ま、快くペンを差し出す。履修手続きなど諸々のガイダンスのあと、クラス発表。「Eクラス」「おうにいちゃんはどこや?」「E」「おう一緒やんけ」この瞬間、私の学生生活が大きく動き出した。その日、彼は初対面である私の下宿に遊びに来た。同じクラスになったというだけでもう垣根も低くなり、お互いのことを深夜まで沢山語り合った。その晩彼は私のカーテンもない4畳ひと間(4畳半ではなくて)布団なしの部屋に泊まりやがった。理由は「帰るのじゃまくさい」

 彼は堺市からの通学。私と同じくブルースやジャズが好き。お互い麻雀も好き。

 かくいう私が京都に来たのはブルースだった。高校時代にはまった憂歌団やウエストロードなど関西ブルース。その渦中に身を置きたくて京都に来たかった。週末はライブハウスで過ごすのを夢見て。ほんとに在学中は拾得、磔磔、サーカス&サーカスなどに入り浸った。ただ私とは違って彼の口から出るブルースやジャズミュージシャンは本場アメリカの名も知らぬものばかり。「俺は中途半端やな」ちょいと気後れした。

 それから2、3日後、忘れもせぬ初めての授業は産業史。学生としての第一歩だ。しっかり講義を聴いて立命大生として踏み出そう。そう思って以学館に向かって意気揚々と歩いていく。ふと前を見ると見覚えのある長髪猫背と他二人。「おう。メンツ足らへんねん。丁度良かったわ。雀荘行こや。」拉致。この瞬間、私の大学生活が、生活のすべてが決まった。

 

 高校時代から、何でもかじっては次、かじっては次で、好奇心のおもむくままで生きてきた故、結果多くのことが「中途半端」だった私。どちらかといえば自分に自信の持てない、ハンパ少年の典型だった。ただ中途半端な好奇心も、たまにだが広く浅い知識に繋がることがある。いろんなことに手を出していたおかげで、幅広くなんとなく知識だけある。「中途半端」だけど。

「中途半端」ここに極まれり!

 時は過ぎ「1年の終わり頃、車折(くるまざき:地名)に新築で安い下宿ができるから、4人で入らないか」という誘いが来た。4人。そう麻雀のメンツである。誘いに乗って引っ越した。ちなみに引っ越したその夕方銭湯が火事。なんてこった。

 で、夜毎囲まれる雀卓。暗くなると、どこかの部屋で「宴」が繰り広げられていた。麻雀ノートが作られて、卓を囲む日は日替わり当番で誰かが結果と所見を書いた。勉強もそのくらい熱心にやればいいものを。だがここまで麻雀に明け暮れた大学生活みたいに書いてきたけど、いかんせんそれも「中途半端」。麻雀もそう。だからいつも負ける。好不調が顔にも出るらしい。あんまり向いてないみたいだ。で、気分のおもむくままバンドもやり、車もやり、その他諸々。どれひとつ徹底してやれてない「中途半端」。

 車折の下宿には、なぜか多くの友達が集まった。なかには「帰るのじゃまくさい」といって数日逗留するものもいた。自分で言うのもなんだけど居心地はそこそこ良かった。四畳半一間、風呂なし共同トイレ。でもここにいると誰かがいる。プライベートがないのははなから当たり前。

最初が肝心というけれど、最初が最初だった私は、昼前に目が覚めて、気が向くならば嵐電に乗って大学へ。友達を見つけて、近くのサ店。たまに学而館に行っても教室に行くのは希で談話室でダラダラ。授業を必死で聴いた記憶は殆どない「中途半端」ここに極まれり。

 

 今になって時々考える。彼らに出会わなかったら、いやオリエンテーションの時猫背長髪と隣合わせにならなかったら、初めての授業産業史に普通に出席していたんだろう。当たり前だ。初めての大学での講義なんだから。さすれば俺の大学生活は全然違ったものになっていた、かも。きっとあのまま真面目に授業にでる学生だった、と思う。

 しかし、還暦をちょっと前に過ぎて、今もって毎日のようにLINEでバカなことばかりやり取りしてる仲間が沢山いる。

 初めてのクラスで、かわいいので女子かと思ったら、何かにつけ「やることの早い」男だったやつ。

 クラスの自己紹介で黒板に自分の家までの地図をかいた男。

 十勝出身だからか、大雪の日にTシャツにセーターだけで「京都てあったかいからいいよな」と真顔で言うたやつ。

 「ちょっと成田空港行ってくる」てカーキ色のジャケット着て、投げてはいけないものを警官隊に投げつけてきたやつ。

 フレディーマーキュリーの真似して裸にタイツで歌ってたやつ。タイツ透けとるやん…

 あ、これら全部、仕事でネタにさせてもらってますけどね。

 みな還暦はとうに過ぎたのに、LINEに書いてくることは二十歳の頃と変わらない。

感謝しかない

 今立ち止まって考える。

 アナウンサーとして、ラジオテレビ番組の制作者として、40年近く現場に立たせてもらっている。ふと思いを巡らせるあの頃。衣笠で、授業も出ずに中途半端にしていても、やはり産社の、学而館の、あの空気は、私の細胞ひとつひとつに染み込んでると感じる。なんでか。やっぱり人。友人なんだな。彼らと話したこと、一緒に見た事体験したこと、それらが今も原動力となって、マイクの前で喋らせている。

 そう、今も、金がなくても、病気しても、仕事で辛いことが多くても、あいつらが励ましてくれるし、相変わらずくっだらないLINEくれる。何よりの財産。お金では買えない。

 彼らがいるから頑張れてる気がする。

 立命産社で出会った友達には感謝しかない。

 あの日、長髪猫背にペンを貸して本当に良かった。勉強しなかった反省が大きいぶん、余計にそう思う、ことにしている。

 およそ1年前のある日、同級のLINEが長髪猫背の突然の訃報を知らせてくれた。あの頃の彼の口癖や姿や動きがしばし頭の中に滲み出てきた。

 なんだよ!道半ばで幕をおろしてんじゃないよ。結局お前さんが一番「中途半端」やないか! と心で思った。

 

追記。今から10年位前のこと。久しぶりに衣笠に行ってみた。中央グラウンドがなくなっていたり、変わったとこも多いけど、東門を抜けたとこに「くれたけ」があった。ランチタイムなので入ってみた。なぜかガラガラ。お店にはおばあちゃんがひとり。そうだ。あの満席の店内で学生に怒鳴った威勢のいい、くれたけのおばちゃんだ。歳取られたなあ。「僕30年くらい前よく通ってたんですよ」「ああそうでしたか。その節はありがとうございました。」腰を曲げて礼をされた。

「にいちゃんはメンチカツ定食な、ほいであんたはっ?」半分怒られながら注文したあの頃が甦ってきて泣きそうになりながら、メンチカツを食べた。

※「くれたけ」は現在閉店しております。

●渡邉 三千彦(わたなべ みちひこ)

卒業年月日 1981年3月 卒業
出 身 地 山口県
現 住 所 山口県
勤 務 先 山口放送株式会社
ゼ ミ 名 須藤 泰秀ゼミ
所属サークル
団 体
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