■20世紀をいかに越えるか―多言語・多文化主義を手がかりにして |
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著者・編者: |
西川 長夫,姜 尚中
西 成彦 |
出版社: |
平凡社 |
発行年: |
2000/06 |
定価: |
¥3,570 |
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目次 |
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序 歴史的徴候としての多言語・多文化主義 |
西川 長夫 |
(3) |
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多言語・多文化主義をアジアから問う |
西川 長夫 |
(15) |
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I 越境と記憶―問われる共同性 |
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共同体という幻想――多文化主義をはばむもの
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姜 尚 中 |
(72) |
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「インターナショナリズム」は<饅頭(マントウ)問題>を越えられたか ―日本プロレタリア文化運動のなかの朝鮮
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林 淑美 |
(88) |
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「日系アメリカ人」の創造―渡米者(在米日本人)の越境と帰属 |
米山 裕 |
(120) |
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多国籍民族共同体の模索―転換期の韓国ナショナリズムの変容とその行方 |
玄 武 岩 |
(144) |
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出来事の「歴史記述」,抵抗としての「歴史記述」―「サバルタン研究」をめぐるひとつの試論/私論 |
崎山 政毅 |
(175) |
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「ここではない場所」への想像力―ブロツキーあるいは都市への不可能な帰郷 |
今福 龍太 |
(203) |
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II テキスト,そして歴史を読みなおす |
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鼠坂殺人事件/複数の胸騒ぎをかきたてるための読書 |
西 成彦 |
(220) |
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漱石の二○世紀―動く肖像写真 |
中川 成美 |
(243) |
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デカンショ節再考―日本のある地方都市の記憶をめぐって |
細見 和之 |
(274) |
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私,「私」,「「私」」……M/other('s) Tongue(s) |
岡 真理 |
(322) |
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III 植民地主義の彼方へ |
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もうひとつ別の近代―植民地主義,ナショナリズム,インドという理念 |
ギヤン・プラカーシュ |
(356) |
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ポストコロニアル・フェミニストの映像テクスト―ビョン・ヨンジュとトリン・T・ミンハを中心に |
池内 靖子 |
(386) |
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超越と内在―『息づかい』(「ナヌムの家」III)の試写会に参加して |
細見 和之 |
(411) |
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「周縁」からみた「歴史」―ヨン・スン・ミンの芸術 |
レベッカ・ジェニスン |
(415) |
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日本はクレオール性の零度か?―新しい精神の三角貿易のために |
三浦 信孝 |
(437) |
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編者からのレスポンス |
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1 共同体再考――国民の基体と鬼胎 |
姜 尚 中 |
(469) |
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2 ことば,あるいは歌 |
西 成彦 |
(478) |
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3 二つの世紀転換期の間で |
西川 長夫 |
(484) |
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執筆者紹介 |
(495) |
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