知事リレー講義
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    2008年5月29日          熊本県知事 蒲島郁夫様
 


逆境の中にこそ夢がある

 蒲島知事は、ユニークな経歴をお持ちである。高校を卒業して農協に勤めた後、農業研修でアメリカへ、そしてネブラスカ大、ハーバード大で学ばれた。帰国後は、筑波大、そして東大で教鞭をとられた。そして、今年、激戦の中で熊本県知事に就任されたのである。









T.はじめに


 私は今日のこの講義で、何を話そうか考えてみた。そして、自分の経験から最も伝えたいことを話そうと思う。それは、逆境の中にこそ夢がある、ということである。



U.高校時代〜農業研修制度で渡米まで



 私は政治学の中でも、実証的な研究に携わってきた。自分の人生を振り返った時、決して私はエリートだった訳ではない。戦後、私の父は満州から引き上げた。そして、貧乏で子沢山の家庭であった。小学生のときから、新聞配達のアルバイトをしなくてはならないほどであった。しかし、夢は三つあった。一つには、本をたくさん読んでいたので、感銘を与える小説家になるということ。二つ目は、政治家になること。そして、三つ目に阿蘇のふもとで、牛を飼いたいということ。
 高校の時はとても成績が悪く、下から数えるほうが早いくらいだった。卒業してから農協に勤めたが、これで良いのか考えた。何をやるのか考えて、三番目の夢である牧場をやろうと思った。そして、アメリカに農業研修制度があることを知ったので、牛の飼い方を知るためにと渡米した。


V.勉強の面白さとハーバードへ


 しかし、アメリカでの農業研修で農業のつらさを知った。アイダホで牛の研修をする中で、寒い朝、世話をしなくてはならないし、牧場主に使われる中で、農業のつらさを身にしみて分かるようになった。そして、研修の最後にネブラスカ大学での勉強があったが、この時、勉強の面白さに気づいて、これで生活していきたいと考えるようになった。大学側に話してみたところ、通訳として雇ってくれるということだったので、並行して勉強をしようと考えた。
 一旦、日本に戻ったのだが、ここでいくつか課題があった。一つは、旅費を稼ぐこと。これは、義兄のところで牛乳配達のバイトを半年やらせてもらい稼いだ。もう一つは、恋人の存在。アメリカから戻ったら結婚しようと思っていた。
そして、再び渡米して、通訳の仕事をしながら勉強を続けたのだが、残念ながら不合格となってしまったのである。アメリカの大学入試の英語というのは、向こうの人にとっての国語であり、とても難しかった。しかし、通訳としてついていた先生が「彼は見込みがある」といって、必死に交渉してくれたのである。とてもうれしかった。そして、半年の猶予つきということで、入学が可能になったのである。しかし、成績が悪ければ即、退学。そこで、必死に勉強した。人間、必死にやってみるものである。1学期の成績は、何とストレートA。そうなると面白いもので、学費免除や奨学金などを得ることができた。日本からも彼女を呼んで、結婚した。

 そして、ネブラスカを卒業するにあたり、どうしようかと考えた時、昔の夢が思い出された。そうだ、政治を勉強しようと。政治学ならハーバードじゃないかということで、出願した。私はネブラスカで繁殖生理学の研究をしていたが、通常、そのような勉強をしてきたものが通ることはあまりない。また、子供を二人も持っていて、実家は貧乏ということを出願で書いたが、奨学金つきで合格することができた。
 ハーバードでは、3人の指導教授についてもらった。政治システムで有名なシドニー・ヴァーバ、『文明の衝突』で有名なハンチントン、そして元駐日大使のライシャワーである。
 私は人生でプレッシャーをかけないとならない時期がある、と考えている。例えば、ヴァーバのクラスで分厚い本を誰か1週間でまとめてこないかと話があった時、私はチャレンジした。それ以来、ボストンの友人たちも認めてくれるようになったのである。そして、通常は6年かかるところを、3年9ヶ月で博士号をとった。

W.日本へ戻ってから


日本へ戻って、二つの大学からオファーがあった。筑波大学とある名門私大からである。そして、後者で働こうとしたところ、何と教授会の3分の2の賛成が集まらなかったために、採用が通らないということが起こってしまった。そこで、一度は断ってしまった筑波大学に再度、雇ってくれないかと申し入れをしたのである。筑波大学には、本当に感謝している。
 筑波大学には17年いたが、1997年に東京大学に声をかけていただいた。この頃、とてもマスコミの取材を受けたのを覚えている。それまでは、東大で授業など受け持ったことがないので非常に不安であったが、何と最後の授業で拍手をもらったのである。それ以来、東大の学生が非常に好きになった。



X.知事選への立候補

そして、2007年の12月に熊本県の前知事が再出馬しないことを表明。この時に、立候補しないかと声をかけられた。それまで私は二大政党制を主張してきたのだが、自民・民主の両党がのってくれるのなら受けるとした。かなり批判されたが、立候補者として当選確率を高めようと思ったからである。
ところが、民主党は降りるといってきた。そして、何と自民党は、私の返事を聞く前に出馬を発表してしまったのである。これは負け戦になるかな、合理的ではないかなとは思
思いつつも、自民党の熱意、苦悩をみて、立候補を決意した。
 ただし、立候補の会見では、自民党の推薦を受けずに無所属でいくことを伝えた。それは、ダウンズ・モデルを参考にしたからである。自民党の推薦を受けないことで、自分をリベラルな位置に置くことでほかの候補者よりも有利になるのではないか、と考えたからである。実質、2ヶ月しかなかったものの、無事に当選できた。
 私が熊本県知事として取り組もうとしていることには、三つの難題がある。一つは、財政再建。二つ目は、水俣病の問題。そして、三つ目は川辺ダムの問題。これらを解決して、夢のある政治をやりたいと思っている。それは、今日のような出前のゼミが可能になる夢のある教育であり、また本日お配りした「KANSAI戦略」のように熊本を稼げる県にすることである。




Y.最後に

最後に、結びとして、次の言葉を贈る。それは、"Above the Expectation"ということである。これは、「期待値を超えて」という意味。人生には、さまざまな舞台がある。ある舞台で周りの人たちの期待を超えることで、次の舞台が用意されている。そして、それを超えるとまた次の舞台がある。たとえ、小さな舞台であったとしても、その期待を超えていくことで次の舞台が用意されているのではないだろうか。そして、その舞台を一つ一つ実現していくことが人生なのではないだろうか。


質疑応答


 会場の学生より、二つの質問があった。
@ハンチントン氏の『文明の衝突』で日本は一つの文明として位置づけられているが、蒲島知事はどのように考えておられるか。
→ハンチントンによれば、発展には二つの経路しかないと言った。一つはテクノクラティク・モデルで、もう一つはパーティシィペーション・モデル。前者は、政治参加を抑えて経済を発展させる。そして、経済が落ちてきたところでまた参加を抑えるという、その繰り返し。後者は、政治参加を高めて経済を発展させ、経済が下がってきたらまた参加を高める。しかし、クーデターや革命が起こる可能性がある。
 しかし、私はその二つだけじゃないと考えた。日本では、自民党が地方の政治参加を高め、経済も安定させた。それが自民党の安定をもたらし、うまくまわった。ハンチントンは、これを調和モデルと呼んでいる。
 日本の方向性として考えられるのは、日本は自らのモデルを世界に伝えていけること。今は過渡期の部分もあるが、それを踏まえて、さらに民主主義国家として発展していけるとよい。

A政治家になるビジョンはあったのか。それとも、一つ一つの舞台を越える中であったのか。
→振り返ってみると、昔からあったように思う。一つはハーバードへ行ったのも、政治への興味からであり、また昔、一度だけ熊本県知事への立候補のお誘いを受けたことがある。しかし、当時はまだ学問に対してやることがあった。今回、このように熊本県知事に就いたわけだが、ほぼ金権的でない、理想的な選挙がやれてとても良かったと思っている。






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