「全国知事リレー講義」ライン

 2011年 4月 26日            元芦屋市長 北村 春江 氏



           「災害と小さな地方自治体〜阪神淡路大震災を経験して〜」





1. はじめに

私が芦屋市長を退職してから8年経つ。先日地方選挙が終わり、新しい市長が3期目を迎えている。記憶も遠のくが、阪神淡路大震災は突然の大震災であった。その記憶は今も被災を受けた人の間で鮮明に残っている。

誰も阪神間に震災は起こらないと思っていた。地震は東京や東北だと根拠なく信じていた。今いる皆さんは小さい時だったと思うが、経験した人も何人かいるだろう。大災害というのは50年くらい起こらないだろうと思っていたが、先日東日本大震災という大きな地震が起こった。

今日は、もう一度、地震ということについて考えてみたい。東日本の大震災でなくなられた方のご冥福を心からお祈りするとともに、避難所で大変な生活をされている方、復興に懸命に努力されている方に少しでも役に立てばと思う。

考えると、日本は本当に大きな地震に遭う国だと思う。阪神淡路大震災を経験して、何といっても最後は耐震だと思った。家の耐震や、家具の備え付けが不十分で命を落とした人が多くいると思う。そのようなことを中心に考えてきたが、東日本大震災では私達が考えられないような津波がやってきて、津波で多くの人が命を失った。

阪神淡路大震災の被害も大きかったが、東日本大震災はそれと比べ物にならないくらい大きな震災だった。震災から身を守るには耐震だけではやっていけない気が、今している。

そのような状況の中で、もう一度阪神淡路大震災を見直し、そのことによって災害から自分や家族、まちを守るということを考えようと思っている。





2.阪神淡路大震災と東日本大震災の比較


阪神淡路大震災はマグニチュード7.2だが、東日本大震災はマグニチュード9.0だった。マグニチュードが1違うだけで、力は30倍違ってくる。

阪神淡路は内陸直下型の地震だったが、東日本は海溝型の地震だった。地震も2種類に大きく分かれる。海のプレートが沈みこむのを跳ね返す作用で起こるのが今回の海溝型の地震である。そのため、海の近くに起こり、当然津波がやってくる。内陸直下型はプレートのひずみがたまり、どこかのところでひずみを跳ね返す時に起こるものである。

阪神淡路大震災では、芦屋を含め関西一円に被害が起きている。内陸でのひずみを跳ね返したためである。

海溝型と内陸直下型は被害がだいぶ違い、海溝型のほうが、被害が大きい。今までは内陸直下型で大きくてもマグニチュード7程度の地震しか経験していなかったが、海溝型はそれを越える。

マグニチュードが大きく違うため、亡くなった方も阪神淡路大震災では6,402人だったが、東日本大震災では14,358人が亡くなり、行方不明者も11,889人となっている。東北地方というと、関西から見ると人口に相当差があるが、それにもかかわらず多くの死者を出している。その大部分は津波による被害であろうと思う。負傷者の数は、阪神淡路の分は出ているが、東日本大震災の分はまだ集計が出ていないため分からない。

建物被害は阪神淡路では全半壊が240,956棟潰れている。火事も7,454棟起こった。東日本大震災の場合は、まだ火災は不明となっているが、建物損壊は53,240棟で、阪神淡路大震災の数とは全然違う。家屋が集中しているかどうかの違いだと思うが、阪神淡路の方が4倍も損壊している。

いずれにしても大きな震災である。今までの日本で一番大きな揺れ。今も多くの問題を抱え、福島の原発の問題もある。これが今後どのようになっていくかという大変な問題を抱えているのが東日本大震災の現状ではないかと思う。



  


3.これまでの大きな地震

 

日本は非常に地震の多い国である。面積に占める割合が少ないにもかかわらず、地震がよく起きる。やはり海底の問題にある。

日本近海には複数のプレートがあり、海底の地盤のずれ、その衝突、破壊が地震を起こすと言われている。

地震は忘れた頃にやってくると言う。1923年に関東大震災が起きたが、これも海溝型であった。

1944年の終戦直前に東南海地震が名古屋周辺で起きた。戦時中だったので、あまり大きく報道されることはなく、名古屋で大きな地震があったらしいという程度の報道しかされなかった。

1946年に南海地震が起き、名古屋、和歌山、津が大きく揺れた。マグニチュード8.0という大きな地震だった。

1952年には東海地方地震がマグニチュード8.0で起きた。

1968年にはマグニチュード7.9の十勝沖地震が起きた。戦後我々が地震に対して恐怖を覚えだしたのは十勝沖地震からだったと思う。これらの地震は海溝型の地震で、やはり海岸線周辺の町々が大きな被害を受けている。

1943年に鳥取県地震があった。1945年に三河地震がマグニチュード6.8で起こった。頻繁に地震が起き、一般市民が地震に対する恐怖を持ち続けていた。

その後福井でマグニチュード7.1の地震が起きたが、しばらく大きな地震はなかった。

そこに突然起きたのが、マグニチュード7.2の阪神淡路大震災だった。鳥取以降4つの震災は直下型の震災で、直下型は海溝型よりマグニチュードが低いが、どこの地方で起きるか分からず、都市に起こると大きな影響が出るという特徴がある。つまり、人口が多ければ多いほど大変なことになる。関東大震災が海溝型の代表格なら、阪神淡路大震災は直下型の代表格だと思う。どちらもマグニチュード7や8ということになると、本当に恐怖を覚える。




4.阪神淡路大震災の経験

 

阪神淡路大震災の時のことを少し話したい。当日は117日で、連休続きだったため、その朝は家族が皆家にいたという良い条件ではあった。

午前5時46分に突然大きな揺れが起こった。私も気がついた時には柱を持っていた。自分が寝ているところから、気づいたら目覚めて柱を持っていたという感覚であった。次の瞬間、次の大きな揺れがやってきて、あわてて外へ飛び出そうと戸を開けようとしたが、開かなかった。別の戸へ行くと、上から何か落ちてきた。暗闇で全く外に出られなかった。このことが大きな恐怖だった。もう一度縁側に戻り、戸の鍵をやっとの思いで開け庭に飛び出した。その瞬間は、まったくこの世から音がなくなった感じがした。何の音も聞こえない。町の中なので、夜でも何らかの音はしていたが、その時は全く何も聞こえなかった。外は静まり返っていた。まもなく2階から次男が飛び出してきた。夫はなかなか出てこず、子どもが見に行こうかと言っていた時にやっと出てきた。腰が痛いということを言っていたが、まさか怪我をするとは思っていなかった。聞いてみると、タンスの前に寝ていたところ、タンスが落ちてきて腰の骨を折った。夫を秘書課長と共に、病院に搬送し、その後秘書課長と共に市役所へ向かった。

市役所には助役がすでにおり、災害対策本部を作っていた。そこから市役所の災害対策本部の動きが始まった。一人の女性職員が電話にかかりっきりになっていた。24時間そのような状況が4〜5日続くという緊迫した状況だった。

翌日、1740分の被害状況等は遺体が263体、避難者18,281人、避難所51箇所、自衛隊応援320人であった。

芦屋は大阪と神戸の中間で、交通の便が良い場所である。JR、阪神、阪急、国道が走っている。国道43号線の上には高架の道路が引かれているが、この道路が西宮で分断された。また、湾岸道路もある。気候が温暖な地域で、風光明媚な街でもある。また、別荘地ということで、明治の時代から開けていた。人口は87千人だが、面積は東西2キロ、東西9キロで非常に狭い。財政的にも非常に豊かで、平成311日の日経新聞が豊かさ度日本一という評価をした。客観的な条件が良いため、大阪や神戸で成功した人の別荘地として開けている。住宅が中心で、商業は日用品を売るもの程度しかなく、また、工場もない。

そのような街が阪神淡路大震災では丸呑みされたような感じがする。東隣の西宮市は地域が広く、被害の大きかった地域もあれば無傷の地域もたくさんあった。市域が狭く、中心に地震が起きた場合、全滅してしまうような大きな被害となる。

芦屋は、災害をあまり経験していない。昭和13年に風水害があり、この時は山に通っている芦屋川が氾濫して大きな水害を受けた。空襲の被害も受けたが、そのくらいしか大きな災害はなかったという平穏な街だった。そのような街が400人を超える被害を受けた。怪我をした人も相当おり、全半壊率も50.9%で、半分の家が潰れたことになる。山崩れも起きたし、海のほうは液状化していた。そのような状況で、災害救助、復旧が始まった。

自治体は防災会議を開きその対応に当たるが、困ったのは人員が集まらないということだった。防災計画を各市が作っているが、それは職員が全員普通の状態でいることが前提となっている。

いざ阪神淡路大震災のような大きな震災を起こると、職員はどのくらいの割合で出勤すると思うか。防災計画は100%を想定している。私も職員全員が駆けつけると思っていたが、実際は42%だった。芦屋市の職員だけがそのような状況だったわけではなく、周辺の各自治体でも40%程度だった。

やはり、交通機関が止まると動けないというのが大きな要因だった。また、職員自身も被災者となっていた。大きな災害があっても、職員は健全な状態だという先入観を持っていたが、職員も被災したというのが実際である。

朝に地震が起きたため、家から出るに出られなかった。もし昼間に起きて、職員が全員役所にいたら100%となっただろうか。皆家のことが気になるだろうし、そのような状況で遺体収容や交通整理、消防活動ができるかといった問題がある。

予想もしなかった大きな被害が起きたため、応急的な災害対策本部もてんやわんやだった。出勤できない職員が多く、部署の割り当てをしてもその通り対策が講じられないという状況だった。

それでも出勤してきた職員は必死で対応しようとした。どこの市役所もそうだったと思うが、一週間くらい職員の記憶がつながらないという状況があった。極端に言うと、何か言われたらそれに対応し、また次言われたことに対応するという形で、防災計画に従って体系的に対応できる状況ではなかった。やはり、4割の職員では計画通りスムーズにはいかず、目の前の仕事に対応するだけという状況になる。

災害対応の時には自衛隊が応援に来ることになるが、自衛隊派遣を要請するには各市が現状を知事に報告し、知事の判断で自衛隊の派遣ということが決まる。しかし、そのような状況なので、各市の報告を集めに行くことすら全くできていなかった。目の前の仕事をしなければならないという状況で、各地の状況を知事に報告するという段取りには到底ならなかった。

芦屋市の場合は自衛隊のほうから偵察に来た。昼前に自衛隊が来て、対応すべきだという判断を自衛隊がしたため、15:30頃に自衛隊が応援に来てくれた。生き埋めの人を救い出そうとしても、人員も道具もなかったため、自衛隊員を迎えた時には涙が出る思いだった。

仮設住宅が必要だという話が出ていたが、仮設住宅を芦屋市のような狭い市域に建てるのは大変だった。避難所から出るためには仮設住宅を建てなければならず、芦屋市も2,900戸ほど仮設住宅を建てた。避難所生活にも時間の限度があり、仮設住宅を急いで建てる必要があった。

芦屋市は面積が狭いため、用地が皆無に等しかった。少しでも空いている土地を使っても、到底土地が足りなかったため、最後の決断は、中学校の校庭に仮設住宅を建てるというものだった。

伸び盛りの中学生を運動場なしで過ごさせるのは苦渋の決断だった。他の場所の仮設住宅が空いたら、学校の仮設住宅から極力他の場所の仮設住宅に移るようお願いし、念書まで書いてもらった。

しかし、結果は全くダメだった。被災してやっとの思いで仮設住宅へ入り、そこでコミュニティが出来る。その状況で、1年経ったら他の場所に移れと言っても、受け入れてもらえず、「人は物ではない」と言われた。しかし、伸び盛りの中学生が校庭なしで過ごすことは大変なマイナスになる。最後の1件は1年以上残った。

阪神淡路大震災の被害は、電気、ガス、水道、交通機関、電話すべてが通じない状況になった。電話がかからないのは大変だし、水が出ないというのも大変な負担となる。

被災者の方々の避難している学校でも水が出ないため、芦屋川の水をトイレに入れるなどといったこともしていた。ガスは4月半ば、電気はわりと早くに復旧したが、水道は長く出なかった。下水道も詰まったし、生活にとって非常なマイナスとなっていた。

交通機関は長く不通になっていたが、阪急電車は割合早く復旧したため、阪急を拠点に人々が通勤していた。

芦屋市では合計で404人が亡くなり、遺体が収容された。遺体が収容されていた中学校の教室へ行くと、顔見知りがボランティアで遺体収容をしていた。検視は必要なので、一人ずつ検視を行った。お手伝いをしているボランティアも大変だったと思う。市民がお手伝いをしていたように、震災の時、市民の人々が優しくなっていったと思う。傷ついた人同士が助け合うという心が出ていたのではないかと思う。

阪神淡路大震災では「ボランティア元年」という言葉が出来た。若い学生が続々とボランティアとして奉仕をした。芦屋市では全部で27,555人のボランティアの方々が応援に来てくれた。1日平均141人が来ていた。ピーク時には700人を超える人がお手伝いに来ていた。

落ち着いてきても、水で大変困った。2月半ばになって通水をしたと思うが、それまでは各所に水道施設があり、そこへ汲みに行って使っていた。マンションでは水汲み場からマンションへ持ち帰り階段を上がるということは大変なことだった。このようなことをボランティアが率先して手伝っていた。

避難所での暮らしは大変な生活で、その中から得られる助け合いも人間の暖かさが詰まっているものだと思う。

私は3月31日まで市役所へ泊り込み、4月1日にやっと家に戻れた。家も被災していたため、しばらく親戚のマンションに住んでいた。そのうちに復旧の状況に入っていった。

2月7日には仮設住宅第1号の鍵渡しを行った。復旧期になると、住まいが重要な問題となってくる。その後、災害公営住宅の建設に進んだ。

東日本大震災でも出ていたと思うが、危険度判定というものがある。芦屋市の場合、緑は安全、赤は危険、中間は黄色という区分で一件ずつ市が判定していった。家が全壊すれば税法の優遇措置などがある。潰れかけの家では危険と判定された方がプラスとなるため、なぜ我が家を判定してくれないなどということを言われたりもした。人が足りないため、建築士協会の協力を得て、一件ずつプロの目で判定をしてもらった。

義援金や弔慰金、貸付金の問題も起こってきた。弔慰金は、所帯の責任者が亡くなった場合500万円が出るが、所帯の責任者かどうかの判定がなかなかしにくいという点、相続人の調査が大変という問題があった。その点に関しては大阪弁護士会に依頼し、相続人を確定させてもらうのが一番早いだろうと思い、お願いをした。職員も足らず、各市からの応援もいただいてなんとか乗り切ることができた。

家が潰れ廃棄する場所や方法もまた一つの問題となった。東日本の大震災でも建物の除去について新聞にとり立たされているが、大きな仕事である。

6月にはいると、芦屋市はほこりまみれとなり、みんなマスクをして歩いていた。早く除去せねばならず、費用と手間を要した。芦屋市には県が埋立地を作っていたため、そこへ運んで焼却してもらった。

復興段階は、災害に強い街を作るためにどうするかということを考えないとならないため、区画整理事業が重要になってくる。被害が大きかったのは密集した地域であった。芦屋市には3箇所そのような地域があった。

区画整理には土地を収用するため、強い反発があった。災害に強い街を作るということには同意するが、土地収用される割合が高いとなると反発が強かった。区画整理が最後の復興の焦点だった。猛烈な反対はこれからの住宅行政について考えなければならない問題だと思う。

大きな災害を経験すると、財政負担が重くのしかかってくる。芦屋市は地方交付税の不交付団体だったが、今は交付団体になっている。現在の市長の2期・3期目の任期中はこの復興の費用の返済に努力していた。大きな災害は大きな負担を残すものである。




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