「全国知事リレー講義」ライン

 2011年 6月 14日            兵庫県理事 清原 桂子 氏


           「震災復興と男女共同参画





1.はじめに

 私は、県の職員としては変わった経歴を持っていると思う。

大学院に入ってすぐに結婚し、すぐに子どもが出来た。当時は、学生という身分では基本的に保育所に入所申請ができなかったが、これはおかしいと思い、厚生省に学生でも保育所に入所させられるべきだという申請書を出しに行ったが、結局入れることはできなかった。そのため、上の子の時には2年ほど休学した。

夫の実家は東京で、夫が東京で就職するつもりだったが、兵庫県で就職してしまった。兵庫県は、私にとっても夫にとっても縁もゆかりもない土地で、親類も誰もいなかった。

東京の親類に子どもを預けて、仕事と両立するつもりだったが、それができなくなった。私の母には、夫だけ兵庫に行けば良いではないかということも言われたが、子育ては、寝返りを打つようになった、歯が生え始めた、歩くようになったという一つひとつのことが本当にかわいいものである。しかし、大変なことは大変であるため、大変な子育てを夫と分かち合わないというのはいかがなものかと思い、私も兵庫県に行った。

兵庫県に行ってすぐ第二子ができ、この時は3年ほど留年した。そして、修士課程と博士課程を10年かけて、32歳で修了した。

夫の転勤により仕事が続けられなかったという優秀な先輩も大変多くいたため、もったいないという感じがした。

博士課程を終えた後は、関西大学で教えていた。そして、39歳の時に兵庫県が県立の女性センターをつくり、所長を民間から登用するという話が出た。

仕事と子育てを両立しようと思うと、大学の教員のほうが時間の自由は利くが、県の審議会の委員として提言を行いながら、いざ自分でやってくださいとなった時に断ったのでは女が廃るかと重い、女性センターの所長として県に入った。







2.阪神・淡路大震災と兵庫県の震災復興施策


新規事業であった県立女性センターの事業を2年かけて立ち上げて、予算をとって進めていたが、そこから2年経ったところで阪神・淡路大震災に直面した。

1995年1月17日に震災が起きたが、今回の東日本大震災と異なっていたのは、兵庫県庁自身も被災したということ。今回の震災ではどの県庁も、県庁そのものは大丈夫だった。

そのような中で、女性センターは県の機関の中では最も早く123日に復旧し、その日から24時間体制で相談を受け始めた。

阪神・淡路大震災では6,343名の死者と43,792名の負傷者が出た(内10,000人が重傷)が、東日本大震災と異なるのは、ほとんどの人が潰れた家屋の下敷きになったため、重い障害を負ってその後生きていくことを余儀なくされた人々が多く出たという点にある。

神戸市の長田区などでは家が燃え、その中に家族がいて、家族を置いて逃げざるを得ないという重い心の傷を負った人も多くいた。

全半壊、焼損だけで46万世帯が被害にあった。1,152の避難所に32万人が避難した。阪神・淡路大震災は大都市直下型の地震であったため、多くの被害が出た。

応急仮設住宅を48,300戸突貫工事で建設し、8月に全戸完成させた。仮設住宅の中に、高齢者の交流の場として、「ふれあい広場」を232箇所つくった。

地域型応急仮設住宅は特別養護老人ホームの仮設住宅版といった形だが、介護が必要な人向けの仮設住宅もつくって、生活援助員の派遣も行った。

当時、住宅関係職員は寝る間もなく働いた。仮設住宅も造らないといけないが、あわせて災害復興住宅も早く造らないといけないという意識があった。そして、災害復興公営住宅を震災の9ヶ月後には完成させた。

災害復興公営住宅の入所募集では、グループ応募の形を取り、親しい人と一緒に入っていただくという配慮もした。私は生活復興局長をして、犬や猫と家族以上に心を通わせている人もたくさんいたことが初めて分かった。そのため、公営住宅としては初めて、ペット共生住宅を造った。

また、コレクティブハウジングとして、個室もあるが、みんなで集まる場もあるという住宅も造った。

これらの住宅の家賃も、知事から総理大臣に直談判して、月額家賃を6,000円に下げるという措置をとった。また、コミュニティプラザという人々が集える場もつくった。

義援金は1,793億円集まり、一見多額のように見えるが、被災世帯が多いため、一世帯あたりでは40万円となり、それほど多額を渡すことはできなかった。

125日には、義援金募集委員会兼配分委員会を作り、募集と配分を一元化して行った点がポイントである。21日には、一人あたり10万円の第一次配分を行った。

そして、38日には国・県で共同記者会見を行い、阪神・淡路大震災復興基金という仕組みをつくるということを発表した。

国に一々お伺いをたてていたのでは、現地の局面はどんどん変わっていくため、ソフト施策にリアルタイムに使っていくことは難しい。そのため、自治体が裁量で使えるお金が必要になってくる。

41には、このための財団を設立し、6月には6,000億円、973月に3,000億円増額し、9,000億円の基金をつくった。

この復興基金を財源として、ソフト施策を展開していった。行政職員の力の発揮のしどころは、どのような仕組みを作って、いかに国にお伺いをたてずに、被災者によりそったソフト施策ができるかという点にある。

基金の仕組みは、金融機関から兵庫県と神戸市(政令市)が借り入れ、その資金を財団法人復興基金に無利子で貸し付けるという形になっている。金融機関は兵庫県と神戸市に対する債権を持ち、利子を兵庫県と神戸市が負担し、返済していくという形である。利子分は、国から交付税措置を受けたが、交付税措置は95%だけで、残りの5%を地元で持たないといけなかった。

財団法人復興基金には基金の利子が発生するので、復興基金はその利子分でソフト事業を行うという仕組みをとったわけである。

震災復興はスピードとの勝負で、4月早々から様々な対策を打っていった。例えば、ふれあい交流の拠点をどのように創るかということが大きな課題となっていた。まず場を造ることを最初にしないといけない。

そこで行政説明会もやれば、健康相談会もやれば、住宅の申し込み会も行った。ハードだけではだめで、その運営をどうするかも課題となり、外部ボランティアと被災者地震のボランティアを一緒に入れ、被災者自身が復興の担い手になるようにした。

このような場面では、外部ボランティアと内部ボランティアが一緒になって運営していくことが極めて重要となっている。それは、各地から集まった大学生ボランティアがなかなか大学に戻らず、被災者と共依存の関係になっていたためである。ある時期が来たら、外部ボランティアは手を引かないといけないと思う。

兵庫県の看護協会に各地に行って健康相談会をしてもらった。県費でそのマッチングを行うため、まちの保健室という取り組みを展開した。

また、心のケアも大きな課題となっていた。今は東日本大震災から3ヶ月経ったが、震災が起きてすぐは気が張っているが、3ヶ月以上経つと、気持ちが萎えてくる。その時にしっかりと寄り添うことが必要で、心のケアセンターを16箇所でつくり、被災者を雇用し、研修を行った。

これは、就職先を失った大学生の雇用の場ともなった。被災者の「今」を支援するための場と、それを運営する主体づくりが大きなテーマだった。

東北の被災地にも行ったが、被災者には、ものをもらうだけの存在から、何か一歩先に出たいと思っている人が多くいた。東北の人は辛抱強いように感じるが、もっと要望を言っていかないと心の中に屈してしまうのではないかと思った。

一方的に支援されるだけでは、生きがいを持って立ち上がることは難しい。こういった時には、支援される側にもなるが、支援する側にもなるといった仕組みが必ず必要となる。

阪神・淡路大震災の時は、「いきいき仕事塾」という小物づくりなどの講座を作り、その講座に参加することで、2,000円の受講手当を現金で渡すということをした。そのことで、避難所や仮設住宅に閉じこもりがちな被災者も外に出てくるようになった。

そこで作った小物や、栽培した花はリレーマーケットで販売し、自分で現金収入を得ていただくという工夫もした。

また、高齢者のグループに、子どもに昔の遊びを教えにいってもらって手当を渡すなどという取り組みを403回行った。この取り組みでは、グループで行ってもらい、お年寄りにも仲間を作ってもらうようにも配慮した。

詳細な情報を記したカレンダーを配布したが、書く予定がないことが辛いという意見も聞かれていた。

今回の震災では何故早く復興基金を作らないのかを疑問に思う。基金を作ると同時に、女性のための起業セミナーをしてノウハウを教えたり、高齢者のための「シニアしごと創造塾」を開いたり、大学と組んでコミュニティビジネス設立のためのゼミナールをしたりした。

県からも、コミュニティビジネスを立ち上げる時には、300万円の助成金を出した。また、NPOに2,000万円以上の資金を委託して、6箇所の生きがいしごとサポートセンターを設置した。コミュニティビジネスは完全な仕事ほどの所得は得られないが、その差を埋めるものは生きがいである。希望者とコミュニティビジネスとのマッチングを、今でもNPOに委託をして続けている。女性の起業家に対しては金融機関も厳しいため、県による500万円までの債務保証を行う制度をつくった。

当時ハローワークは機関委任事務で、県の機関となっていた。労働部の中にハローワークは所管されていたため、通常のハローワークではなく、仮設と災害復興住宅を全戸まわり、どのような仕事をしたいか聞いて周り、それを基に求人を探していくというやり方をとった。

また、雇用を守るため、阪神・淡路の時も一時的に給与は下げても、解雇はしないように各企業に要請し、県と企業と労働組合の三者で雇用対策三者会議を立ち上げて、合意書を交わした。

被災者の支援と雇用を同時に考えるためには、被災者自身を雇用することが一番早い。そのために、生活支援アドバイザーを、応急仮設住宅用に149名、災害復興公営住宅用に165名、被災者を採用した。

行政機関が定期的に研修を行っていかないと、相談員自身が追い詰められて参ってしまうということがある。被災者に寄り添いながら、寄り添い過ぎないようにする必要がある。生活支援相談員は5年間置いた。

これらの相談員、ハローワーク、保健師、自治体の住宅担当者がグループを組んでチームで対応していくことが必要となり、生活を丸ごと応援するためには、パッケージで行わないとならない。

LSA(ライフ・サポート・アドバイザー:生活相談員)はシルバーハウジングに国基準の人数しか置けなかったため、県独自にSCS(高齢世帯生活援助員)という造語を作って、シルバーハウジング以外の高齢者施設に配置し、LSAと同じ役割を担ってもらった。

最も被災が大変だったところの情報は上がってこず、最も遅れるため、こっちから押しかけていかないといけない。そのため、県職員2名、県警3名、パトカー1台の班を、100班体制で震災3日目から1,153の避難所をすべて毎日回った。毎日報告を県で集約し、翌日にはパトカーが県の施策を伝えに行くという形になっていた。

この時には、行政情報と民間情報をパッケージで渡すことが必要で、例えば行政は人の支援で手一杯で、動物のことまで気が回らない。また、薬のことにもなかなか気が回らないが、動物愛護団体や薬剤師会がいち早く立ち上がってくれた。

民間の情報と行政の情報を一緒に出すということは、通常の行政のルールではなかったことで、民間情報は責任を負いきれないという考え方だったが、どれが民間の情報でどれは行政の情報かを明示して、自分で判断してもらうようにした。

また、情報提供のために、すべての避難所にファックスとパソコンを置いた。途中からインターネットが広がり、インターネットの活用もしたが、インターネットのようなニューメディアだけではなく、回覧板やファックスといったオールドメディアの重要性も改めて感じた。

県外に出て行った被災者の情報登録の仕組みが用意されていなかったため、後から各都道府県に問い合わせて登録制度を作らざるを得なかった。どうしても被災地を離れると孤立してしまうため、県独自に、被災者の方々に全国の避難所を訪れてもらい、語り合ってもうらという「ふるさとひょうごキャラバン隊」という取り組みも行った。

民間の専門家と県の決定権を持つ担当課長が共同で、被災者復興支援会議を立ち上げ、現地に出かけて、直ちに行政にも被災者にも対応できるようにした。

制度化すべきものは制度化し、被災者自身に自治会を作るなどして解決してもらうべきものは、被災者にも物申すということをした。実行部隊として「生活復興県民ネット」というものも作り、NPOの情報プラザを作った。被災者自身にも復興の担い手になってもらった。

震災から3ヶ月ほど経つと、それぞれの被災者の復興スピードにも差が出てくるが、そのような差を埋めるため、一人ひとりを戸別に救済していく仕組みも作った。復興住宅はどうしても今まで住んでいた場所から離れるため、復興住宅マップづくりもした。

そのような時に、現場で積極的に動いてくれたのは女性たちだった。今回の東日本大震災でも、ただちに粉ミルクは届いたが、哺乳瓶や煮沸消毒のための用品の確保などに難点があった。

いろいろな震災同居が起こり、仕切りを付けるなどの配慮をしたが、「自分のコミュニティはみんな仲が良いため仕切りなどいらない」と言う男性がいたが、男性はそうでも女性はそうではない。また、嫁姑関係の悪化などの相談も寄せられた。仮設住宅では男性たちの閉じこもりが見られた。

男性たちがあまりにも仕事イコール自分となっているため、仕事を失った自分の存在意義を認められず、妻に対するドメスティック・バイオレンスでその鬱憤を晴らすというケースが多数見られた。震災の時には家族を守ってくれると思っていた夫が、真っ先にパソコンのほうを守りに走ったり、夫が勝手に配給のおにぎりを多く食べたりしたなどのことで問題が起こったように、それまでの夫と妻の関係が危機の時には問われる。

母子保健では、母乳の出が悪くなるという問題があった。授乳スペースをとるよう要望したが、非常に気を遣う問題である。そういった問題は女性が言うしかないため、女性たちが復興に対して物を言っていかないといけないと思った。

震災から1ヵ月後の2月には、「男女共生のまちづくり推進会議」を立ち上げ、各地でフォーラムを開催した。その成果を5月に提言として発表し7月に策定される復興計画に提言を反映させるために、取り組んでいった。

生活の中で実際に復興を担っているのは女性だが、なかなか復興局面では女性の意見が反映されないという問題があった。女性は日々の暮らしを担う生活者で、女性は男性とは違い肩書きにとらわれないため、知事や市長に堂々と物事を言える。

また、女性は、議論の堂々巡りより、まず行動をする。例えば、400名いる避難所に200枚の毛布が配られたという場合、この毛布をどうするかについて会議を開く。今配ると不公平になるため、400枚揃うまで隠しておくべきではないかという意見や、高齢者から先に配れば良いのではないかという議論が延遠と続くが、そこに女性が一人いると、まず200枚を配り、自分も欲しいという意見が出たらその人と相談すれば良いだけだという風に、生活実感を大事にして行動する。

このような場面では会議をしがちだが、スピードを要求される復興にはまず行動をする必要がある。女性は行動力があるため、復興委員に女性を入れたり、仮設住宅に女性リーダーを入れたりしていくといったことも当然必要となる。

関西広域連合は兵庫県の井戸知事が広域連合長を務めており、今回の東日本大震災では府県ごとに相手を決めて支援している。


  


3.男女共同参画

 

男が仕事をして、妻は専業主婦という夫婦の形は、伝統的な夫婦の形であったわけではない。

歴史的に見ても、明治時代は9割が農民だった。農業社会は男女関係なくみんな働いてきた。それが、明治の半ばから大正時代にかけて、サラリーマン社会になってきた。わが国でも工業化が起こり、工場労働者同士で結婚するということが起きる。農業であれば子どもの近くで作業できるが、工場労働者ではそういうわけにはいかない。子どもが生まれるのをきっかけに専業主婦になるというケースが増えた。

世界史で見て、最も早く専業主婦が生まれたのは、わが国より早く産業革命を起こしたイギリスだった。日本では、第二次世界大戦前は、多数派は農業だったが、多数派がサラリーマンとなったのは、高度経済成長の時期からである。昭和30年に初めて、農業世帯とサラリーマン世帯が同数になった。そこから15年経った昭和45年には、サラリーマン世帯が総世帯の8割を占めるようになった。

専業主婦は工業化が起きなければ生まれてこなかったと言える。

サラリーマン社会化が進むと同時に、出生数の減少が起こっていった。また、未婚率も上がり、夫婦の子どもの数もどんどん減少し、合計特殊出生率がどんどん減っていくという状況になった。

兵庫県の出生数を見ても、1970年代前半が、団塊ジュニア世代が生まれた年だが、その頃は兵庫県では年間10万人近い子どもが生まれていたが、今では5万人程度に半減している。人口減少社会がどんどん進み、総人口が今世紀半ばには3割減ることが見込まれている。

そのくらい減っても構わないという学者もいるが、これは二つの意味で間違っている。一つは、9,000万人に減った人口は、そこで減少が止まらないという点である。戦後の9,000万人の人口の内には、15歳以下の子どもが3割いたが、今では子どもは13%にまで減っており、今世紀半ばには8%にまで減ると見込まれている。また、高度経済成長の頃は、65歳以上の人口は5%程度しかいなかったが、今は23%まで増え、今世紀半ばには4割を超えると見込まれている。国の統計は常に楽観的なため、このような状況は前倒しで起こってくると思わなければならない。子どもは10人に1人もいなくて、2人に1人は高齢者という社会が目前まで来ている。

そこまで減っている子どもにもかかわらず、児童虐待が兵庫県だけで1年間で2,298件起きている。兵庫県でも、児童養護施設と乳児院で1,700人の子どもを預かっている。里親過程に100人と合わせて、合計で1,800人の子どもが親元から離れて暮らしている。

全国では、40,000人以上の子どもが施設か里親家庭で暮らしている。子どもたちが被害者、加害者になる事件も増えており、大変厳しい状況となっている。児童相談所は親から子どもを引き離す権限を持っており、この権限を持っているのは県と政令市だけだが、兵庫県内のそれ以外の市町で受けている虐待に関する相談も年間4,000件以上あるという状況となっている。虐待では、実の母による虐待が7割を超えている。

また、65歳以上の一人暮らし世帯が、総世帯数の10件に1件あるという状況になっている。今世紀半ばには5件に1件まで増えると見込まれている。さらに、75歳以上の後期高齢者の一人暮らし世帯が、今は総世帯数の20件に1件だが、今世紀半ばには6件に1件まで増えると見込まれている。

そのような中で、介護する人、される人のどちらも7割以上が女性となっている。また、高齢者虐待の加害者も8割が女性となっている。

自殺者を見ると、平成10年に激増して、その後ずっと高止まりしているという厳しい状況となっている。人口10万人あたりの自殺死亡率を見ると、介護保険のおかげで年を追うごとに高齢者の自殺は減ってきている。

しかし、男性の場合は、働き盛り層の男性の自殺が増えている。そのような社会で、どのように持続可能な社会を創っていくかを考えると、少子高齢化が大変な勢いで進んでいくため、男女共の活躍支援をし、女性でも社会の担い手として活躍したいという人には活躍してもらわないといけない。

そうしないと、社会そのものが持続可能なものとなっていかない。子育ての負担感でも、共働き世帯より専業主婦家庭のほうが、負担感が1.5倍高いという状況となっている。今、さまざまな子育て支援政策が行われており、例えば保育所と幼稚園の壁を取っ払う、認定こども園制度の導入も進んでいる。

兵庫県では、仕事と生活の両立(ワーク・ライフ・バランス)を進めるため、「仕事と生活センター」というものを立ち上げ、一旦離職した人を再雇用した事業主に50万円、育児休業の人のかわりの人を雇った事業主に100万円を渡すという取り組みもしている。

家族の中で分かち合うだけではなく、家族そのものが地域の人々と一緒にやっていくということをしていかないといけない。そうしないと、子育ても介護も孤立してしまう。そのため、「ひょうごおやじネットワーク」の立ち上げや、「まちの子育てひろば」の開催などの取り組みもしている。

阪神・淡路大震災では、倒壊家屋に埋もれた人の8割以上は近所の人に助けられたが、それはお互いに近所の居住者を把握していたためだった。その時に、意外と存在が知られていなかったのが、大学生や若いOL・サラリーマンだった。日ごろから近所から浮いていると、震災などの時に情報が回ってこない。高齢者が情報弱者になるというわけではなかった。

今兵庫県が特に力を入れているのは、「ひょうご縁結びプロジェクト」という結婚支援の取り組みで、屋外ハイキングなどのイベントをしているが、現時点で234組が成婚している。また、県庁の率先行動計画として、県庁への女性職員の登用も進めている。「井戸はた学校」と称して、課長クラス手前の女性職員を対象とした勤務時間外の勉強会も行っている。




4.おわりに

 

公務員としてやっていこうと思う人がいたら、やりがいのある職場なので検討してもらえれば嬉しく思う。少子高齢社会が進む中で、男女が共に社会を担う仕組みをどのようにつくっていくのかということで、行政も正念場に来ており、そのような問題意識を持って今後も取り組んでいきたい。

 



 質疑応答

問 なぜ男尊女卑の思想が出てきたのか。

答 昔から男が上で、決定の場は男ばかりの社会だったかというと、必ずしもそうではない。夫のほうが通い婚をしていた時代もずっとあった。時代劇を見ると、江戸時代は女性が虐げられていたのではないかと思うかもしれないが、そうではなく、わりと決定の場にも女性は参加していたし、相続もきちんとしていたという研究も最近出てきている。 

建前上、男性が社会を仕切るという思想が強固に出てきたのは明治時代以降ではないか。

実際の社会を回してきたのは、江戸時代の経済を見ても7~8割は女性のおかげでもっていたという研究もある。建前としてどうだったかということと、実際はどうだったかということは異なり、男性が決定の場を占めるようになったのはそんなに昔のことではないと思う。

最近では、高齢化が進む中で、女性消防団員も増えてきている。これは男女共同参画の現れというわけではなく、小規模集落化が進む中で、戸主の男性だけで消防団を構成するのでは持続できなくなったということの現れである。

やむを得ず女性にも消防団員を担ってもらわないと社会がまわらなくなったということがあるように、社会のニーズに合わせて変わっていかないといけない。このようなことを、いろいろな角度から知っていってもらいたい。

 



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