「こども参画による未来のまちづくり」
私は関西出身で、神戸で育った。同級生が立命館大学に入ったなどのことがあり 、京都のことは身近に感じている。私は普通のサラリーマン一家に育った。
皆さんは市長や市役所を身近に感じたことはあるか。市役所に行ったことのない人もいると思う。また、下宿をしているなどで今京都市に住んでいても、地元から住民票を移していない人もいると思う。
一番市民、国民にとって身近な市役所は、子どもが生まれる前までは皆さんにとってなかなかなじみがないのではないかと思う。私は、阪神・淡路大震災のときにいかに市役所・行政が身近にかかわってくるかということがいやというほど分かった。そのときから市の行政に強い関心を持つようになった。
他の市長などは地方分権や地域主権、市民参加ということを話すと思うが、私はそれらと重ならない話をしようと思う。
子育て施策を中心に、地方分権のこともからめて話したい。
子育て施策は、もともと福祉の政策だった。放っておいても子どもが生まれ、人口が増えて増えて仕方ないという時代に、どのように今いる既存の市民を支えていくかということで、子育て施策が生まれてきたという背景がある。
今は人口が減少してきており、行政にとっては非常に苦しい時期となっている。千葉市は首都圏にあるため、まだ人口は増えているが、地方では、都市でもどれだけ努力をしても人口は減っていくようになっている。人口が減ると、過疎など様々な問題が生じてくる。
都市の活力を失わせないためには、何よりも人口減少の流れを、少しでも止めないといけない。その流れの中で、子どもを増やさないといけない。子育て施策を充実させて、働き盛りの税を納める現役で働いている世代が、来るようなまちづくりをしなければならないという生き残り施策という一面になっている。このように、子育て施策の考え方が若干変わってきている。
子どもが生まれる前後になると、家やマンションを買う。そうなると、子育てしやすいまちや、住みやすいまちをみんなインターネットなどで調べるようになっている。待機児童がないか、子どもへの補助が多いか、子どもの医療費がどの程度補助されるかといったことを調べ、住むところを選ぶ時代になっている。
そのことを意識し、その人たちに選ばれるまちづくりをしていかないといけない。子育て世代に魅力的なまちづくりを目指してということで、待機児童(保育所に預けたいが預けられない)の早期解消、近年増加している児童虐待への対応に力を入れている。
千葉市の特色は、子どもの視点に立った街づくり、すなわち子どもの参画をしようとしているということである。
子ども施策の背景である人口減少社会に関しては、日本の人口は2005年からすでに減少しはじめている。千葉市は首都圏に近いため、まだ人口は増えており、今96万人を超えている。もう少しすると、97万人まで増え、そこから減少に転じることが見込まれている。ジェットコースターのような状況になっている。
多くの自治体が、人口が減少するという局面に入っている。人口が減少するというのは戦後の日本にとって初めての経験で、長期的に人口が減ることが確実となっている社会は日本にとって初めてのことである。
そうすると、これまでの行政の常識がすべて覆されることになる。みなさんはそのような時代のリーダーとして生きていかなければならない。
少子高齢化という言葉は聞き飽きていると思う。空気のように当たり前のことだと思うだろうが、行政にとってはここからがスタートとなる。
どういうことかと言うと、今高齢化が進んでいるが、一番多い団塊の世代はまだ60代で、行政から見れば、お年寄りではなく、まだまだ元気な人である。60代の人はリタイアして街に戻ってくるが、リタイアするまでは、会社に通って、街には寝に帰ってくるだけの存在だった。ある意味で、人口として数え、税も納めてくるが、いない存在であった。リタイアすると、平日昼間からその街に生きる人となり、本当の地域の住民となる。その人たちが、地域のまちづくりに参加することで、まちづくりを支えるエネルギー、人材に変わっていく。
今は少子高齢化でありながら、手間のかからない高齢者がまちづくりを支える力となっており、その意味で、今はむしろ良い時期であると言える。
問題はこの人たちが75歳を超え、いわゆる後期高齢者に入ってからの時代で、ものすごい人口規模を持つ世代が、支えられる側に入ってしまう。介護費用がかさみ、介護施設を莫大に作る必要もあり、保健や医療といった社会保障に莫大な費用を裂く必要がある。
後期高齢者が急激に増えることが問題で、あと5〜7年程度でそのような状況が出てくる。そのときには、誰が見ても少子超高齢化によるさまざまな課題、問題等が現実のものとして見えてくる。
行政をやっている人はすでにこのインパクトに気づいており、いよいよやってくる大きな津波に早く対策を打たないともたないという危機感がある。
今、国で税と社会保障の一体改革が進められているが、これはまさにこのままではとても持ちこたえられないという危機感から取り組まれている。そこには、後期高齢者が増えた時に耐えられる制度にしていかないといけないという問題意識がある。耐えられる社会保障制度にしていく必要がある。
人口が減るということは、消費者が減るということで、消費者が減るということは、経済成長率も下がるということを意味する。
今、不景気だと思うだろうが、われわれからすると今の状況は不景気ではない。人口が減ると物を買う人が減り、働く人も減り、富を売り出す人も減っている。その一方で、支えられなければならない人が増えている。
このことから、どう考えても経済的に成長するはずがない。日本は移民を受け入れているわけではなく、地続きの国でもない。本当の意味で人口が減れば、経済が成長しないのは当たり前のことと言える。
不景気は風邪の状態だと思っているため景気刺激策をやっているのだろうが、現実には日本社会の老化が進んでいる状態で、老化に風邪薬を飲んでも治るはずがなく、アンチ・エイジングをしなければならない状態になっている。そこのずれがずっと続いている。そのため、私は絶対に「不景気」という言葉を使わない。リーマン・ショックの時は本当に不景気だったが、今は恒常的に日本がこのような状態に入っている。
これから経済性が低下し、社会保障費も増えていく。そのときに、我々地方が何をしないといけないかと言うと、子育て支援をすることだと思う。子育て世代が住みたいと思える街をつくることが都市の生き残りだと思う。
首都圏では、待機児童解消が必要だと言われて早5〜10年以上経つ。今どこでも保育需要を満たすため、一生懸命保育所を作っている。入所児童数は毎年増やしてきているが、待機児童数は横ばいとなっている。
首都圏の政令市すべてで、保育所の整備を進めているにもかかわらず待機児童は減っていない。それは、最近、保育比率が伸びているという背景がある。保育比率とは、就学前の子どもたちのうち、どれだけが保育所に預けようとしているかの比率をあらわす。この数字が千葉市でも毎年上がっている。子どもが生まれても働きたいという女性が増えてくると、保育所を利用したいという需要も増える。毎年女性の社会進出と保育比率が増加しているため、保育所を整備しても追いつかないという状況になっている。
生産人口が減ると、社会が成り立たなくなるが、日本では、社会で吸収できるスピードを超えて、生産人口が減っている。この分を女性の社会進出によってイーブンに持ってきている。そのため、今はぱっとみて労働者が足りなすぎるという状況にはなっていない。
保育所利用のニーズ調査アンケートを実施すると、潜在的な需要も含めて、将来の保育比率は41.0%となると見込まれている。この数字は無茶な数字ではなく、いずれ行政が目指さないといけない数字である。
新潟市等待機児童がゼロとなっている市は、保育比率が極めて高い。今の保育比率は、千葉市は23.0%、さいたま市は17.1%、横浜市は20%となっている。相模原市は比較的待機児童が少なかったが、それでも23.8%となっている。
千葉市では、待機児童解消のため、アクションプラン2010を定めた。それまでは5年先くらいを見据えて保育所を整備して、整備をした頃にはさらに保育需要が増えてまた足りなくなるという繰り返しになっていた。そのため、アクションプラン2010では、延長線上ではなく、ゴールからやっていかないといけないとして、将来の潜在的なニーズである41%を目指すためにはどういうことをしないといけないかという視点に立っている。
そうすると、16,836人分の保育所を造らないとならず、今11,456人分の保育所があるため、あと5,415人分整備すれば良いという考え方になっている。
保育所の整備は一歩間違えると危険な面もあり、子どもが減っているため、いずれ保育比率が伸びなくなり、20年後くらいには誰も入らない時期が来るかもしれない。そうすると、保育所も無駄なハコものといわれる可能性がある。
今は保育所がすごく必要なため、保育所を建てることに誰も文句を言わないが、大事なのは、20年後に仮に保育所が余るかもしれないという可能性も考慮したやり方で整備をやっていかないといけないということである。ここが、我々が他の市とは違うやり方でやっているところである。
大事なことは、新設を極力少なくするような整備の仕方をしないといけないということである。国の補助金のシステムは、例えば90人の保育所を運営しているとして、地域にまだまだ保育需要があり、定員150人の保育園に拡大しようとすると、補助金の単価が下がることになる。子ども1人を受け入れるごとに国から補助金が出るが、90人が定員の保育所と150人が定員の保育所では補助金の額が異なる。それは、150人でやるということは共通設備の固定費用部分が逓減されるため、効率的となるため補助単価が低くても良いだろうという考えに基づいている。
例えば90人定員の時は1人あたり10万円だった補助金が、150人定員にすると9万円や8万円で良いですね、ということになってしまう。経営的には安定的な収入ではなくなってしまう。そのため、90人の保育所をそのままにしておいて、さらに近くに60人の別の保育所を同じ人が違う経営母体だということで、造ってしまう。そうすることで、さらに補助金が高くもらえる。また、新設にあたっても結構手厚い補助金が出る。トータルで考えて、90人の保育所を150人に規模拡大するより、90人と60人の保育所別々にするほうが、良い場合が多い。そのため、新設が増えるという構造がある。
そうすると、保育所が余った時代に、保育所ごと潰さないといけなくなってくる。保育所自体を潰すということは、150人の保育所を90人の保育所に規模縮小するよりもっと難しいことになる。60人の増加に対応するため、新たに共通設備を整備することは、社会全体から見れば大変もったいないことが起きてしまう。規模拡大で対応すれば良く、新設をすることは、もったいないし、後で後悔する可能性がある。
千葉市では、国が補助金の単価を下げるのであれば、運営費の補助単価差額の一部でも市が単独で補助するなどして、定員を増やしたり分園にしたりという形で、既存施設の活用へとシフトするようにしている。もしくは、新設ではなく、改修をした場合に市で補助を出すといったことをしている。
考えれば分かることだが、保育所は足りなくなっても子どもの数は一定であるため、保育需要が増えるということは、幼稚園に入る子どもがすごく減っているということになる。千葉市でも、幼稚園の定員のうちの25%が空いている。
保育所が足りないと言っている一方で、昔からある幼稚園はがらがらで、潰れて廃園がどんどん増えている。これは社会全体からすれば本当にもったいないことである。無駄な投資をしているということで、皆さん方の税金があまり効率の良い使われ方がされていないと言える。
そのため、既存の幼稚園で預かり保育をすることに対して市として単独で補助を出すという取り組みをしている。これにより、3歳以上の子どもたちが保育所に流れるのをある一定程度防ぐことができる。親たちにしても、幼児教育のため幼稚園で勉強させたいという思いも強いため、これは非常に好評で、昨年度は100人この仕組みで吸収した。今年度はこれを150人に拡大する予定である。
既存で投資された施設を活用するというのが我々の考え方となっている。国でも、子ども・子育て新システムをめぐる議論の中で、幼稚園と保育所の所管が別となっているという点が問題となっている。この問題のせいでどうにもいかないということで、一体的に補助制度も含めて考えていこうというのが国の考え方となっている。
我々がなぜこのようなことをできたかと言うと、昨年4月に「子ども未来局」をつくり、千葉市の子どもたちに関することは一体的に取り組んでいるためである。今まで保育所は保健福祉局が担当していて、幼稚園は教育委員会が担当していた。国と同じように、市でも部署が分かれていた。子ども未来局として、千葉市の子どもに関する事柄はすべて一体的にやるということで、このような施策ができるようになった。
保育ルームの拡充にも取り組んでいる。認可保育所以外でも子どもたちを預かる保育ルームがあるが、このようなものも含めて活用し、単に保育所の新設だけではなく。いろいろな手段で、後の保育需要に柔軟に対応できるようにしようとしている。
これは他の公共施設にもいえることで、これからもまだいろいろな公共施設を造るかもしれないが、その時に大事なことは、昔は人口が増え続けていたため、今必要なものは、将来もっと必要となるものだった。そのため、今必要なものは造っておけば間違いないという状況だったが、今は、施設を造る時に、必ず20年後30年後の需要がどうなるかということを常に考えておかないといけないということである。
行政が難しいところに、一回始めたものはなかなかやめることができないという点がある。公共施設を造ると、それをやめたり、なくしたりすることは地域が絶対に許さない。
行政は10年スパンで物事を考えないといけない。民間は1~2年のスパンで物事を考え、ユーザーを選ぶこともできるが、行政はユーザーを選べないという難しさがある。保育園があるためその場所に土地を買ったという人にとっては、保育園はもういらなくなったからやめるということを言えない。それを言うには5年、10年といった時間がかかる。
人口が減少している社会では、行政の考え方の根本がすべて変わってしまうという時代になっている。人口を増やさないといけないと述べたが、それなら通常は人口を増やすための部署が存在する。しかし、どこの自治体もそうだと思うが、人口増やすための部署は存在しない。今まで行政は放っておいても人口が増えてきたため、増えた人口のために学校や保育所、図書館を造っており、そのための部署は存在しているが、人口を取ってくる部署は存在せず、ユーザーを増やすという視点がない。
民間企業では基本となる、ユーザーを増やすという根本的なところが、行政には欠落していることが多い。既存ユーザーを対象としてこれまでは政策展開が行われてきたという点とのずれを、どのように行政が直していけるかがこれからの大きな課題となる。皆さんの中では人口減少ということは当たり前かもしれないが、40歳以上の人は人口が増えて増えて仕方ないという急増期を知ってしまっているため、いまさら意識を変えるのは結構難しい。皆さん方の感性は企業でも行政でも大変重要になってくると思う。
OECDが2003年に行った15歳を対象とした意識調査で、子どもが孤独を感じることがあると答えた比率が、日本は29.8%で、突出して高かった。日本の子どもたちは、ひとりで、孤独で、社会とつながっていないという認識が圧倒的となっている。2位アイスランドは10.3%なので、日本とは3倍近くの差となっている。
また、30歳になった時に、どのような仕事に就いていると思うかという調査に対しても、特別な技能を必要としない仕事に就いていると答えた子どもの割合も、50.3%で突出して高かった。
何をやりたいか分からないという子どもたちが多い。もしくは、やりたいことはあるが、それになれるとは思っていない。
この調査結果から、日本の子どもの向上心の低さが顕著にあらわれた。他のテストで、「私は価値のある人間だと思う。」という質問に対して、アメリカでは57.2%がそう思うと答えている。中国でも42.2%がそう思うと解答している。しかし、日本は、7.5%となっている。日本人が謙虚だからというのもあるが、それを抜いても異常な結果である。
また、「私は自分に満足している」という質問に対しては、アメリカでは41.6%、中国では21.9%が満足していると答えているが、日本は3.9%しかない。自己肯定感が全く持てていない。「自分はだめな人間だと思う。」という質問に対しては、日本では20%を超える人がだめな人間だと思うと解答している。
「21世紀は希望に満ちている。」という質問に対しても、希望に満ちていると思うと答えた割合が日本は突出して低い。このように、今の日本の若者は、将来に夢を持てなくなっている。
これは、ひとつ理由がある。国とか大人とか行政が若者を向いた施策をやっていないのは事実で、70歳以上の人はものすごく投票に行くという背景がある。70歳以上の人は約7割が投票に行くが、20歳代の人は約20%しか投票に行かない。70歳以上の層は人口が多く、数が多くて投票率が高いという状況になっている。
若い人は、人口が少ない上に投票率も低い。政治家は、どうしてもユーザーを投票率の高いほうに認識してしまう。これからは若い人がますます減るため、若い人たちを向くように主張する人が減っていくことになる。そのため、放っておくと、さらに若者のほうを向かなくなってしまう。若い人が変えていかないと、もっと悪循環に陥ってしまう。
行政の反省として、今まで子育て世代(子どもを持っている親たち)に優しいまちを目指していたが、そもそも、子どもたちがどう考えているかは別であるという点がある。親にとって子育てしやすいまちでも、そこが子どもにとって住みやすいまちでもあるかというと、二アリーイコールかもしれないが、イコールではない。そのため、子ども本人がどう考えているかというところまで、いずれ考えないとならない。
そうすると、子ども自身がまちづくりに関与する仕組みづくりが必要となってくる。子ども自身も、守り育てられることに安住してしまい、お客さん状態となっていた。子どもたち自身が地域やまちづくりに対して、一人称で考える仕掛けが必要となる。
立命館大学に通っているみなさんは、立命館大学に対してお客さんになっている可能性がある。立命館大学の運営に学生として運営に携わるということを考える人はあまりいないのではないか。小学校、中学校でも生徒会に携わっていた人は少ないと思う。そのような意味では、自分の居場所について一人称で考える機会がなかったと思う。それを変えなければならない。
20歳になってから投票に行きましょうと言っても仕方ない。民主主義は政治だけではない。自分たちの居場所を良くするために、代表者を送り込んで、その人に代表として意見を言ってもらうというのが民主制の基本である。
成長していくなかで、最初にデモクラシーを体験する場所は、学校である。生徒会は、学生の意見を反映して、その居場所を自分たちにとってより良いものにするために代表者を選ぶというシステムとして存在している。
しかし、今の生徒会の選挙はほとんど信任投票となっている。そのように、一番初めに考えるデモクラシーが形骸化しているなかで育ってきた人たちが、その延長線上である自分のまちや地域や国の代表者を選ぶことに積極的になれるわけがない。
原点をしっかりしていかないといけない。投票率を上げるといったときに、自分たちの地域に対してお客さんでいるのではなく、そこの運営にたいして考えるきっかけがなければ、投票率が上がるわけがない。
しかし、残念ながら日本の社会教育は、公民の授業でも、衆議院や参議院のことは教えるが、自分のまちがどのように成り立っているかということは授業では教えない。未だに授業が地方分権に動いていない。授業の中で、市政や市議会のことは勉強していないと思う。自分の住んでいるまちの国会議員の名前は言えても、市議会議員の名前は言えないのではないか。
一人暮らしをしている人は、自治会費を払っていない人も多いと思うが、道についている街灯は行政ではなく自治会によって設置されている。電気の契約者も、地元の自治会となっている。言ってみれば、自治会費を払っていないと自分の家のまわりの街灯の下を歩いてはならない。自治会費は、例えば街灯という形でみなさんの生活にしっかりかかわっている。
ゴミを捨てるときにしても、ゴミ捨て場の維持管理をしているのも行政ではなく、地元の自治会である。地域のことを分かってもらった上で、まちづくりを考えていかないとならない。そこには、子どもたちも入れる必要がある。
小学生、中学生、高校生は大体が地元に住んでいる。そのような人たちが、地元のまちの運営や成り立ちについて、まったく関心を持たないというのでは無理である。それでは、地域主権も地方分権も何もなくなってしまう。その点をきちんとしないといけない。
市民参加という言葉は多くの人が聞いたことがあると思うが、それは市民の声をまちづくりに生かすということである。
これからはその先にいく必要があり、子どもたち自身にまちづくりを考えてもらわないとならない。例えば、自転車を使う人が、どこに駐輪場が必要か、道に危ないところはないかということを真剣に考えないといけない。
子どもの声を聞き入れてまちづくりを行うと何が起きるかというと、本当の意味で子どもを市民として取り入れることになる。子どもの声を意識することは、自動的に行政を運営する上でも10年後、20年後を考えることにつながる。
今の年配の人の意見を聞くと、目先のことをどうするかということに意識がとらわれがちとなるが、子どもたちの意見を聞くことで、われわれも先のことを本気で考えるようにならなければいけないということになる。大人自身が意識改革をする必要がある。子どもたちの意見は聞いても仕方ないと考えている人は多くいるため、そこの意識から変えていかないといけない。
結局のところ、子どもが変わらない限り、大人は変わらない。先ほどの調査の数字が低いのも、子どもに何とかしろと言っても無理で、大人社会がこれをどのように解消するかということを真剣に考えないと、変わらない。
それを変えるために、私は政治家になっている。社会の考え方を誰かが変えないとならない。選挙のことだけを考えれば、子どものことは考えず、お年寄りの好む政策をしていれば、選挙には通ることができる。子どもにいくらお金をかけても、子どもは投票権がないため、どんどん立場が悪くなっていってしまう。
そのため、政治家も行政もお年寄りのほうを向いてしまう。加えて、若い人は投票に行かない。投票に行かないということは、無言の了承をしているということになり、若い人たちのところへはお金が行かないということになる。
投票に行かないのは自由だが、それは、自分たちのことは考えなくて結構ですと言っていることと同じことである。若い世代は人口が少なく、お年寄りの倍投票に行かないと、勝てない。みなさんは人一倍声をあげないといけない。
私は成人式などでよく「絶対に行政に直接声を届けてください」と言う。しかし、投票に行っても一票はあまり関係ない。伝えたいことがあれば、政治家に直接メッセージを送るべきだと思う。メールでもかまわないが、絶対にやったほうが良い。みなさん方が思っている以上に、政治や行政は一人の意見に左右される。みなさん方が欠席裁判でいる状態を変えないといけない。
千葉市では子どもの参画をいろいろ進めており、子どもの声を集める仕組みをつくっている。例えば、「こどものまち」というものがあり、これは子どもたちが企画運営をするまちがある。今いろいろなまちで、子どもが仕事体験をするテーマパーク的な「こどものくに」が増えてきているが、千葉市でも小学生がそれぞれの役割をもって、一週間程度にわたってある会場を使ってまちをつくる。
市役所、ハローワーク、地元の企業に協力してもらい、そこで仕事をし、お給料をもらい、そしてカフェへ行ったりするという架空のまちを運営している。そのまちの運営自体も、選挙で選ばれた子ども市長を中心に、全部自分たちで決めてもらっている。こども市長とこども運営委員会で物事が決定され、こども市長には、一年間の任期がある。一年間の任期の中で、われわれが例えば子ども施策を考えるときに、児童福祉審議会で話し合うが、特別参考委員として、こども市長に出席してもらっている。
われわれの考える施策が、子どもから見たらどうなのかということを聞いている。この市長がいろいろな子どもたちをまとめて、いろいろな意見を代表して言う。例えば、子どもが集まるような場所では携帯電話をあまり使うなと大人は言うが、子どもが集まる場所にはそもそも公衆電話がなく、いざというときに親とも連絡がとれないという指摘が出た。それを受けて、子どもが集まる場所には公衆電話を置くなど、いろいろなことを今やっている。とにかく自分で運営するような機会を増やしている。そこで選んだことをお飾りにせず、実際に通年でいろいろなところに参加する主体となってもらっている。
「子ども議会」という、小学生から中学生を集めて、グループに分けて話し合う取り組みも行っている。公園をきれいにする、自転車の走行環境を良くするといったことを常任委員会で議論してもらい、本会議場で実際に議論をしてもらう。このような形で、今年度も7月29日に子ども議会をやるが、これには私も出席し、それは確かにそうかもしれないが、このような事情があってできないということを話し、これをやりたければこのような点を改善しなければいけないということを話す。
子どもたちに提案してもらうときに私が必ず言っているのは、絶対に自分たちがそれを担うという考えの下でやってほしいということである。行政に自分勝手な要望をぶつけるのではなく、自分たちがやる側になったらどうかということを考えて議論してもらっている。
「こどもの力ワークショップ」という取り組みでは、例えば児童虐待など、子どもたちを取り巻く問題について、子どもたち自身で議論してもらっている。
他にも市役所の職場を実際に見てもらったりもしている。このようなことは戦略的にやる必要がある。子どもたちへの施策をやっているというアピールでやるケースが多いが、しっかりシステマチックにやらないといけない。
まさにこのようなことを考える「こども環境学会」というのがあり、そこと包括的な連携協定を結んでいる。彼らにとっても実践の場として千葉市を使ってもらう。
この話は、あまり日本ではやっていないが、ヨーロッパでは主流の考え方で、一番有名なのはドイツのミュンヘンだが、子どもたちが主役を置いて進めている。これは、子どもたちの要望を何でも受け入れることではなく、子どもたちの目線でまちが本来どうあったほうが良いかということを考えるためのものである。最終的には、子どもたちにまちの一員としての自覚を持って成長してもらいたいという願いがある。
この点が、保護者に対するわれわれのPRポイントでもある。子どもたちに社会とのつながりを持たせる機会を、千葉市は他の市よりも多く用意をしている。
実際に、アンケートで「孤独を感じる」と答える子どもの数を、数値として改善させることで、千葉市の取り組みには効果があって、千葉市で子育てをすると孤独を感じる子どもが少なくなる、子どもの教育上良いというPRになる。何よりも、子どもたちがお客さんにとどまっている現状を変えなければならないという現状認識の下で、このような施策をやっている。
みなさんは政治家と話をしたことがあるか。私も政治家なので本当に思うが、例えば市長になっても、私が年間にもらうメールは500〜1,000通程度しかない。ということは、そのうちの一人になれば、500分の1の影響力があることになる。
投票行動も大事だが、大事なことはどうしても直接言ってくる意見に左右される。そのため、絶対に直接意見を言ってほしいと思う。私も、「若い人と話をしても無駄だ」と言う政治家を見てきた。みなさん方のためのまちづくりをするためには、みなさん方が本当に参画をしないとまずい。
今30代の市長が全国的に増えているのは、われわれなりの危機感があるためである。国会議員になるのではなく、市長になるのは、予算をとらないといけないためである。赤じゅうたんを踏みたい、名誉がほしいというのであれば国会議員になれば良い。そうではなく、地元の自治体を若い世代がとって、市民福祉をお年寄り偏重主義から一定程度若者のほうへシフトさせないと、本当にこの国はだめになるという危機感を持っているため、若い世代がなんとか市長になろうとがんばっている。
それだけ、行政の中では若者に対する目線が少ないということを常に痛感している。是非本当にみなさんにも政治家になっていただきたい。
民主制の国は、基本的に政治の意思決定に全員が参加しないとならないという仕組みになっている。これが民主制というデモクラシーの根本的な考え方。しかし、全員が政治家になるのは不可能なため、代表者を選び、その人に自分の要望を伝え、代表の場で発言してもらう仕組みとなっている。
全員が選挙に出なければならない人であるが、仕方ないから代わりにお願いをしているのである。どうもこの国は、その民主制の基本をきちんと教えていないと思う。そのため、みんな自分は関係ないと思ってしまう。自分の居場所を、会社員になるまで本気で考えたことが日本の国民は一度もない。会社に入るといきなり、「お客さんでは困る。そろそろ一度一人称でものごとを考えろ」と必ず先輩に言われる。そこで初めて、一人称で考えるように変わる。
そこにギャップが出て、うつ病になったりする人も結構出る。大事なのは、社会に出るまでに、自分のことなのだから一人称で意見を言うようにするということである。意見を伝えることで、自分のまわりの環境を自分にとってより良いものに変えるのが、大事だと思う。私がこれを言うのは、どうしても人々は行政に対して要望を言うが、それが本当に良いことかどうかの全体的なことは考えられていないためである。
例えば、みなさんもゴミを捨てると思う。ゴミを捨てるが、ゴミの処理に一体どれだけかかっているかを考えることがあるか。千葉市のケースでは、一人あたり年間15,000円程度かかっており、全体で年間150~160億円程度かかっている。
千葉市の一般会計は3,000億円程度だが、そのうちの150~160億円程度がゴミの処理にかかっている。ということは、ゴミの処理費用が一割安くなれば15億円別のことに使えるようになる。みなさんは分別をしっかりしているか。
千葉市で今進めているのは、燃やすゴミの3分の1の削減の取り組みである。千葉市には3つの清掃工場でゴミを燃やしているが、そのうちの一つが老朽化しており、それを建て替えないとならないが、建て替えたくない。ゴミの清掃工場を一つ建て替えるのには、約180億円かかるが、180億円あればいろいろ他のことができる。ゴミを3分の1減らせば、建て替えなくて済むようになる。ゴミの出す量を減らし、分別へまわす量を増やすことで、ゴミの量を減らすことができる。例えば、紙を絶対に燃やすゴミに捨てずに、資源ゴミとして回収に出すなどを積み重ねることで、ゴミの量を減らすことができる。
また、ゴミの清掃工場を一つ運営するのにランニング・コストが年間10億円程度かかる。これを20年間やれば200億円になる。このお金があれば、さまざまな市民サービスを増やすことができる。
さらに、清掃工場で燃やした焼却灰を最終処分場へ持っていくが、最終処分場を造るのにも200億円程度かかる。今は地元の反対運動があり、最終処分場をなかなか造ることができない。
ということは、灰の量も減らさないとならない。ゴミを減らすことは、下手な施策を打つよりも市へ与えるインパクトは最も大きい。企業を誘致するよりも、ゴミを減らすほうがよっぽどお金が浮く。市民一人ひとりがきちんと分別をするかしないかは、みなさん方一人ひとりの死活問題となる。
行政の人はよく「ゴミを3分の1減らしてください。ご協力お願いします。」ということを言う。それをやめろと私は言っている。「ゴミを減らしたほうが良いですよ。」というアドバイスの形式にしたほうが良い。行政にしてみれば、ゴミが減ろうが減るまいが関係ない。市民にいくサービスの量が減るだけのことである。
ただ、われわれプロフェッショナルとしては、減らしたほうがあなたがたにとっても良いと思うという提案をするにすぎない。行政が「お願いします」と言うものだから、なんとなく市民も行政に協力している気分になって、やらされている感を持つようになってしまう。
そうではなく、みなさん方にとっての話であるということを分かってもらわないとならない。これまでは市民をお客様扱いしていて、市民もしょうがなくやっている気持ちになっていた。そうではなく、みなさん方のために一番効率的にやるために、このようにしたほうが良いですよということを行政がアドバイスしているだけという立場に立っている。
私は市民の方々に、「あなた方のためだから」ということをよく言っている。自分が住んでいる家の前のドブ掃除や落ち葉拾いは自治会の人たちがやっていた。今はだんだん地元の人がやらなくなり、行政を呼ぶようになってきた。ドブも道路も管理者は市であるため、やれと言われれば行政にはやる責任がある。しかし、それをやるとどういうことが起きるかというと、行政の高い公務員がゴミ拾いやドブ掃除をやることになる。それだけのお金があるのならば、他のところに使ったほうが市民にとっては良いのに、裏側の仕組みが見えていないため、無料のほうが良いというように思ってしまう。
自分たちの居場所がどのように運営されているのかということを、行政がしっかり説明して、市民の皆さんに自分たちのことだと思わせる必要がある。それが本当の意味での市民参加で、デモクラシーの第一歩となる。市民や国民も問題だが、そのようにやることを考えてこなかった行政の責任もある。そこを変えない限り、無駄な、非効率な運営が行われてしまう。
問 子どもたちから何か学ばされた経験があれば教えてほしい。
答 一番その通りだなと思ったのは、行政が子どもたちのことについて考えるときに、子どもたちの考えることの8割方はわれわれが既にやっているが、それが子どもたちに届いていなかったということを指摘されたときである。
大事なことは、子どもたちは市の施策を知らず、「私たちのところへ届くように何かやっていたのか」と言われると、確かに行政は市政だよりやホームページでやったことにはなっているが、肝心の子どもたちに届くようなやり方ではやっていなかったと思う。
子どもたちに関与してほしければ、子どもたちが情報をとれるような情報発信の仕方をしないといけない。行政にしてみれば、若者にすら情報発信ができていない中で、子どもへの情報発信はもっとできていなかった。このことを実感したということがあった。
問 今の若者は、1960年代の学生運動をやっていた頃の学生よりも、政治に対して不満を持っていても声をあげない。市長から見て、それはなぜだと思うか。
答 生い立ちが大きいと思う。みなさん方の親は、政治に対する関心や、自治会活動への関心もあまり積極的ではない世代で、社会や家庭がそのような雰囲気にある影響は大きいと思う。
安保や学生運動を頑張ってきた人が生まれ育った頃は、地域の自治組織の活動が盛んだったため、自分の居場所のことに対して声をあげるのはそれほど珍しい話ではなかった。今の人たちは、そうではない世代のため、そもそも声をあげるという発想がない人が多い。
また、子どもたちの人数が減ることによって、自動的に若い人たちの意見が取り入れられにくくなっている。それによって若者のほうを向かない行政や政治になっていき、それに対する無力感が大きいと思う。安保闘争をやっていた世代は、あの世代が中心だった。数が多く、発言力が大きかった。そのため、自分たちの声が強いということを本能的に感じているため、行動に移る。世代の数が決定的に大きいと思う。
問 最近の子どもたちは向上心がないとのことだったが、これを伸ばすにはどのような政策が必要だと思うか。
答 向上心を伸ばすことは大変難しく、社会全体の話となる。われわれが子ども施策をやるのは、若い人たちが必要とされているということを実感してもらうためである。今、学校教育の中でもキャリア教育をやっているが、必要とされていることを実感してもらうことが大事である。
向上心がないというのは、必要とされていないという基本認識を持ってしまっているということがある。世代の数が少ないということは、発言量としては不利な状況に置かれる。
しかし、数が少ないということは貴重であるということでもある。社会を維持していくためには一定の労働者が必要だが、人数が少ないということは、一人あたりにかかる役割が大きいということになる。今は昔に比べればやりたいことがやりやすい時代となっている。自分の役割を得やすい時代となっている。ある種、非常に良い世代だが、なかなか伝わっていない。それを、われわれはきちんと伝える。
問 市長は神戸市出身だが、なぜ千葉市長になったのか。
答 私は神戸に高校3年生まで住んでいて、その後千葉へ行った。千葉は浦安のディズニーランドが有名だが、千葉市には色がない。しかし、住んでみると分かるが、海もあり、緑もあり、先進的なまちもあり、便利だが、それらがまちのカラーとして伝わっていなかった。要するに、千葉市はまだできるまちだった。高校までは神戸で育ったが、大人として思い入れのあるまちで行政をやりたいと思った。また、政令指定都市は行政の中で一番重要な位置を占める。その中で、千葉市を全国にしっかりとPRできる市にしていかないといけない。いろいろな考えがあり、千葉市長をしている。
問 これからの千葉市の展望はどのようなものか。
答 千葉市は東京から近く、通勤圏内だが、土地がまだある。自然に囲まれていて、食事もおいしく、プロサッカーチームやプロ野球チームもあり、若い世代にとって魅力的なまちである。
いかにすべての資源を集中させて、子どもを育てるには千葉市だと思ってもらうかが重要である。また、幕張新都心に代表されるような、多国籍企業が並ぶ国際都市に対して、行政としてどのようにフォローしていくか、企業をどのようにより多く誘致していくか、世界に開かれた大都市としてどのように変えていくのかということを考えている。
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