ミュンヘン工科大学で過ごした3年半を終えて
高校のとき漠然と土木工学にあこがれ、1980年4月に京都大学に入学した。交通なる領域が今後耐えること無い営みのひとつではないかと感じて、土木工学科と教程は同一だったが、あえて文字数の多い交通土木工学科を選択した。
一般教養課程が終わり、専門課程の半ば、4回生から卒業論文のために研究室に配属される。土木施工学研究室を選んだ。大学の中にあって、比較的実践的な研究テーマを扱う研究室だった。同時に機械 工学科出身の先生のもとで、学科の枠にとらわれない目を培うことになった。
研究は機械攪拌式地盤改良がテーマとなった。製鉄を中心とした総合メーカの委託研究である。機械操業時のモニタリングデータの解釈方法に関する研究で、機械と地盤、土との相互作用が専門領域となった。卒業論文「攪拌翼による地盤強度の推定に関する研究」および修士論文「深層混合処理工法の計測施工に関する研究」を書き上げ、1986年4月に研究委託元に入社した。
入社後は、機械と地盤の相互関係の解明を中心に、新機械、新施工方法の創案や拾い出し、そしてその評価を行って開発や導入の是非について提案してきた。コンピュータや計測、制御技術についても知識を得た。商品企画においては、経済理念や市場、社会観念に対する感性も身につきはじめ、また欧州企業などとの関係で、外国を知った。そして、日本社会とアメリカ経済理念への疑問を感じ始めた。
そんな中で欧州への興味が生まれた。なにもしないという選択、良いものを評価する感性、そんなものを欧州に求めて漠然とあこがれるようになった。ドイツ企業とのプロジェクトに手をあげて参画した。京都大学時代の先生、先輩にそんな話をしているなかで、ミュンヘン工科大学の教授と知り合うことができた。
この教授は建築科でありながら、学科の枠にとらわれないところに共感を抱いた。おおいに協力をいただいて、2000年9月よりミュンヘン工科大学建築 学科に身分を得た。機械と地盤の相互作用にはこだわらず、人間を中心に置いた作業の改善策を検討するといった研究イメージを抱いていた。約14年半勤めた会社は退職した。
建築の自動化、効率化を通して、作業者のありかた、対象物との係わり方を検討のテーマとした。未来型操縦管制、フューチャー・コックピット。心地よく人が作業に関与する方法を、高層ビルの外壁清掃ロボットの検討、ビルの維持管理の方法をはじめ、効率化住宅建築など研究室でのテーマを通じて検討した。ロボット技術、遠隔操作技術、仮想空間技術、コミュニケーション通信技術などについて大学内での交流を広げ、また関連学会に参加するなどして知識を増やした。
研究や生活の中で、欧州の姿勢も感じ得た。欧州が、それぞれの国が一括りでないことも感じた。同時に日本社会、日本人が見えてきた。世界にいろいろな人が、言葉が、文化が、歴史が、考え方が、そして自然があることを、少なくとも日本にいるときよりは多く見ることができた。
京都大学時代の先輩が、食料問題に着目し、動きを起こそうとしている。これにかつての需要を失った建設の技術を適用させていくプロジェクトである。共感した。欧州での自分の役割の無さも考慮した。欧州の居心地はいまでも日本より上である。しかし役割を果たす場を考えて、2004年4月より研究の場所を日本に移すことを決断した。まずは自分の故郷である日本のために一翼を担おうと思う。
いずれまた欧州に戻りたいと思う。そのときは研究でも一翼でもなく、ただ欧州の自然をそのまま受けて、ゆっくりと流れる時間を過ごすために。
渡航歴
初めての渡航は、1988年5月にオタワで開催された学会への参加だった。翌年8月にはリオ・デ・ジャネイロの学会へ。その後しばらく渡航は無く、5年ほど後にアジア地域で数カ国へ市場調査に出向く。さらに5年たった頃から、新工法の普及とドイツ企業との共同プロジェクトをきっかけに、プロモーション、市場調査、学会、展示会への訪問などで、欧州各国およびアメリカ合衆国への渡航機会を得る。加えて私的に、数回の海外旅行を経験した。
ミュンヘンは、ドイツ企業との共同プロジェクトの提案のため、1998年9月に訪れた。初のドイツ訪問でもあった。その後、同年11月、翌年9月、2000年3月および5月の訪問の後、同年9月より2004年3月まで在住した。在住の間には、隣接国を主に、数カ国を訪問した。 日本へ移動後、中国を訪問。
いままでの訪問国;カナダ、ブラジル、インドネシア、台湾、韓国、香港、シンガポール、トルコ、エジプト、サイパン、アメリカ、イギリス、ポルトガル、スペイン、フランス、ドイツ、ハンガリー、オーストリア、イタリア、ベルギー、オランダ、スウェーデン、フィンランド、スイス、チェコ 、中国