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常総市の伝統方言継承に関するアンケート調査報告

佐々木冠(札幌学院大学)

以下は前任校(札幌学院大学)時代に行った調査の報告書です。肩書きは当時のままにしてあります。レイアウトは基本的に変更していませんが、スマートフォンでも読めるコマンドを埋め込みました。
設置:2019/05/11
2009年12月3日アップロード
2009年12月15日:「暫定版」を外す。

2.3. 地理的分布に規定された複雑な音韻現象

 常総市の伝統方言は、アクセントの区別がなく、無アクセント方言に分類されます。このため、アクセント研究を中心に発展してきた日本語方言の音韻・音声(平たく言うと発音の特徴)の研究ではあまり注目されてきませんでした。しかし、アクセント以外の面に視点を移してみると、常総市の伝統方言には興味深い現象が見られます。

 常総市の伝統方言を構成する音は基本的には東京や埼玉などの関東地方のそれと同じです。東北地方に典型的な前鼻音(軽い「ん」が前に置かれるように発音する濁音、~b, ~dなど)はありません。その一方で、音の変化には東北地方の方言と共通の特徴があります。語中のカ行音とタ行音が有声化して濁音で発音される(「頭」が「あだま」、「書く」が「かぐ」と発音される)点や「ジビズブ」が無声化によって「チピツプ」になる(「座布団」が「ざぷとん」、「わずか」が「わつか」と発音される)点は、東北地方の方言と共通しています。

 「座布団」が「ざぷとん」になる点で東北地方の方言と共通していると前の段落に書きましたが、正確にいうと常総市の伝統方言と東北方言では少し違う点があります。東北地方の方言では「座布団」が無声化した語形は「ざぷとん」です(前鼻音の前半部分は上付きの「」で表すことにします)。関東の方言の濁音に対応する東北方言の音は前鼻音(この場合「ぶ」)です。「ぶ」の部分は無声化で「ぷ」になるのですが、その前にある「」が残っています。これに対し、常総市の伝統方言は前鼻音がないため、「」が前にない「ぷ」を含む「ざぷとん」になるわけです。

 「ざぷとん」か「ざぷとん」か、という発音の違いは、「ぷ」の前に「」があるかどうかの違いですから、小さな違いに思えるかもしれません。しかし、方言の音の体系全体から見ると小さな違いとはいえません。

 日本語のハ行音(ha, hi, hu, he, ho)は、上代(奈良時代以前)のパ行音(pa, pi, pu, pe, po)に由来します。つまり、pがhになる変化を通して生じたのがハ行音なのです。pを排除する規則は歴史的な変化を引き起こしただけではありません。現代語においても「ん」と「っ」の後ろ以外の位置のpは排除される傾向にあります。pを含む単語はごく少数です。和語にはほとんどありませんし、漢語では、「散歩」[sampo]のように「ん」の後ろや「切符」[kippu]のように「っ」の後ろにだけ現れます。外来語の場合は「パスタ」「スパゲッティ」のようにpを含む単語がありますが、外来語は言語体系の中では周辺的な位置づけの単語ですので、pが排除される傾向は現在もあると言えます。

 pを排除する傾向があるのは、常総市の伝統方言も同様です。それにも関らず、無声化でbから生じたpはそのまま残ります。「座布団」は「ざぷとん」とはなっても「ざふとん」とはなりません。東北方言のように前鼻音があるならば「『ざぷとん』は『ぷ』のまえに『』があるから『ぷ』が『ふ』にならない」ということもできるかもしれません。しかし、常総市の伝統方言のように前鼻音がない方言の場合、このような説明はできそうにありません。常総市の伝統方言で「ざぷとん」の「ぷ」が「ふ」にならないことを説明するためには、pを排除する規則は無声化が適用される前の段階でだけ有効であるというふうに規則の間に順序付けがあることにしなければなりません。

 ある規則が、それより後で適用されうる規則の結果にだけ適用されない現象は、現代の言語学では音韻的不透明性の一種とみなされています。音韻的不透明性は読んで字の如く文法を複雑にします。「ざぷとん」に見られる複雑な音韻現象の相互作用は、常総市の伝統方言が関東的な文法特徴と東北的な文法特徴をあわせもっていることによって生じているものと考えられます(この地方の方言で見られる音韻的不透明性の言語学的な意義については拙論Sasaki 2008で展開しております)。

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 このように常総市の伝統方言は、格助詞に関して世界的に見ても貴重な文法特徴を持っているだけでなく、音の面でも言語学的に重要な特徴を含んでいます。このような方言は、人間言語についての理解を含める上で貢献するところが大であると考えられます。このような特徴を持つ常総市の伝統方言が現在どれだけ継承されているかを明らかにすることが今回のアンケート調査の目的です。アンケート調査の概要と調査結果を次節以降に示します。