雑誌「科学主義工業』は1937(昭和12)年5月に創刊され、1945(昭和20)年の4・5月合併号まで、およそ8年にわたって刊行が続けられた。総発行号数は94号にのぼる。1937年7月の日中戦争開始の直前から、アジア・太平洋戦争の最終盤にいたるまで、戦時の渦中に発行が続けられてきたことが、まさに、この雑誌の特徴を物語っている。
また、雑誌『科学主義』は、敗戦後に1946(昭和21)年2月から翌1947年10月まで(計9号)、『科学主義工業』の後継雑誌として刊行された。では、この2つの雑誌の変遷を概観しながら、解題をすすめていきたい 1)。
創刊時の『科学主義工業』は、理研コンツェルン出版社から発行された。当初は、そのころ新興コンツェルンとして往目を集めていた理研産業団の傘下にあった各系列会社の社員間の親睦を図るための雑誌という性格を持っており、「社報」、「交友倶楽部」などの欄が設けられていた。
第1号の編集後記によれば、この雑誌が誕生したきっかけは、「理研コンツェルンの傘下に集り又は新たに生れる会社が多くなるに従って、それ等の役員、社員間の精神的、事務的に無連絡、不統一であることはコンツェルンの威力を発揮するの上に宴に不利であるので、斯かる欠陥をなからしめ」るために「社員問の親睦を図る目的の交友倶楽部が生れ、その部報を出すことが決定された」ことにあった。そこで、編集担当者が、社報と倶楽部報を合わせ「一切を揃えて」、理研コンツェルンのリーダー、大河内正敏に見せたところ、大河内が「どうも思った程原稿が集まらないね」と、より広く原稿を集めることを求めた。このとき大河内自身が、雑誌に「科学主義工業」という題名をつけたのであった。『科学主義工業』の第1号は、こうして社内報的な内容で創刊されたが、創刊の時点から、大河内正敏の指示により、その後の方向性が定められていったのであった。
雑誌『科学主義王業』を生み出した理研産業団は、理化学研究所(1917年創立)が母体となって形成された新興コンツェルンである。日本が近代国家へと歩みはじめて以来、欧米列強と伍していくためには科学技術力を育成することが不可欠であるとの声は次第に強くなっていた。1914(大正3)年には、第一次世界大戦が勃発して、各種王業製品、とりわけ医薬品のヨーロッパからの輸入が途絶えたが、これにより、国内の化学王業の育成が急務であるとの認識がいっそう強くなった。このような背景のもとで、渋沢栄一らの努力により広く財界からの寄付を得て、「産業ノ発達二資スル為、物理学及化学二関スル独創的研究ヲ為シ、且ツ其ノ成績ノ応用ヲ図ル外」「研究及発明ノ奨励」すること(斎藤 1987:56)を目的に、理化学研究所が設立された。
しかし、第一次大戦後の「戦後不況」のもとで、理化学研究所への寄付金は集まらなくなり、財政的に行き詰まってしまった。そこで、1921(大正10)年に第三代所長に推薦されたのが大河内正敏であった。彼は理化学研究所の所長に就任すると、長岡半大郎、本多光大郎、鈴木梅太郎の「三太郎」らを中心とする自由な研究体制をつくりあげ、理研を国際的な研究機関に育てあげた(朝日新聞社編 1990:313)2)。そして、理研の発明や発見を企業化するために、1927(昭和2年)の理化学興業の設立を皮切りに、次々と会社を設立し、理研産業団を形成して、自らそのリーダーとして君臨した。
理研産業団の傘下会社数は、1935年には8社だったが、36年に15社、37年に32社、38年に48社、38年には63社にまで増え、その間に払込資本金総計は、1415万円から1億1815万円にまで伸張している(斎藤:3-4)。『科学主義王業』が創刊された1937(昭和2)年は、理研産業団が著しく成長を遂げる最中であった。
【注記】
1) 雑誌「科学主義工業」の刊行のいきさつと、第3号における方向転換については、佐々木享の解説(専修大学)に詳しく書かれており、本稿は主にこの解説を参考にさせていただいた。
2) 大河内正敏の項目の執筆者は相良良介である。
【文献一覧】