自然と規範

--ヒュームの約束論における--
Nature and Norm in Hume's Theory of Promises

伊勢俊彦(立命館大学)/ Toshihiko ISE (Ritsumeikan University)

日本科学哲学会編『科学哲学』30(1997)

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Abstract
Hume's account of how conventions establish artificial virtues is an integral part of his attempt to naturalize morality. His argument would be a failure if conventions were irreducibly normative. Hume's conventions, though, are not norms but acts of agreement that establish norms. Their basis is men's sense of interest and their ability to communicate it. No norm or rule can guarantee the success of this communication. The analysis of promises brings this to light, since no rule about forms of words can any more secure that a promise is made, if not backed by the communication of intentions.

I
 ヒュームは,道徳の成立原因と機能を,人間の自然本性の原理の経験的探究に基づいて明らかにしようとする.しかし,道徳の持つ規範的な性格を,このように自然主義的に説明する試みには,強い批判がある.その批判の主要な論点は,「である/べきである」問題であり,「自然主義の誤謬」の問題である.事実に関する言明からは,道徳的義務に関する言明は導出されない.また,道徳の規範的性格を,自然な事実に還元することはできない,と言われる.
 ヒュームにおける事実と規範の関係は,二つの方向から問題にすることができる.『人間本性論』第三巻第一部第二節で論じられている(esp. T417(1))ように,ヒュームが道徳論において主要な問題としているのは,観察者から見た行為や性格の評価であり,その評価とは実は,特定の種類の快苦を感じることである.つまり,道徳的評価とは人間の感情における事実だというのが,ヒュームの道徳論の根本命題である.この立場から,行為や性格の道徳的性質が十分説明できるか,大いに疑問とする余地があろう.他方,このような道徳感情は,共感のメカニズムを通じて,行為者の行為の原因ともなる.しかし,ヒュームが「人為的徳」と名づける,正義をはじめとする諸規則に従う行為については,それに伴う道徳感情の説明に先立って,それらの規則が拘束力を持つ原因が,それらの規則に従うことの利益の看取に基づく合意(conventions)によって説明される.つまり,人為的徳に伴う拘束力つまり責務(obligation)は,二つの側面を持つ.道徳感情による拘束力が,道徳的責務と呼ばれるのに対して,利益に基づく拘束力は,自然な責務と呼ばれる.(T498)この,自然な拘束力の説明において,ヒュームは,合意が人間本性の原理に基づいて成立し,正義他の諸規則が確立される過程を描写する.従って,ここでもまた,事実と規範の関係に関わる問題が発生する.以下では,この第二の問題に焦点を絞り,主に約束に関するヒュームの議論に即して,自然な事実と規則の拘束力の関係について考察する.
 約束における事実と規範の問題をめぐっては,サールのつぎのような議論がある.ある条件のもとでは,事実に関する言明から義務に関する言明を導出することができる.つまり,適切な文脈で「‥‥と約束する」という形式の文が発話されるという自然な事実によって,約束という発語内行為が成立し,約束に伴う義務が生ずるというのである.(2)しかし,ここで前提と結論を媒介する言語行為の規則規則自身,社会における道徳的実践の一部として成立するのであり,たんなる自然な事実ではない.(3)ここで,事実に関する言明のみから義務に関する言明を導出することは,成功していない.しかし,サールの議論は,言語行為の規則のような構成的規則(4)と,道徳的な規範との関係に注意を向ける点で,われわれの議論に重要な手がかりを与える.そのことは後に示す.
 ヒュームは,『人間本性論』第三巻第二部第五節で,約束に伴う義務の問題を論じている.約束を守ることは,自他の所有の区別等とならんで,人為的徳の一つである.しかし,約束に関しては,物の保有に関する権利義務の場合と異なる特有の問題が生ずる.物の保有に関しては,保有する権利,そしてその権利を侵さない義務は,現前する物にかかわる.しかし,約束に関しては,約束をなす者が実行する義務を負い,約束のなされた相手が実行を要求する権利を持つ対象である行為は,約束の時点では現前せず,未来に属する.約束をなす者が約束をつうじて表出できるのは,その人が現在持っている精神の働き(act of the mind心的作用)のみである.しかし,人間が現在持っている心的作用によって,未来の行為を拘束することはできない.では,約束の持つ拘束力はいかにして生ずるのか.ヒュームの解答は,他の人為的徳の場合と同様「人間の合意によって」というものであるが,注意を引くのは,その解答を与える過程で言語表現の役割が強調されていることである.ヒュームは,約束において一定の言語表現を用い,それによって互いの行為を拘束するという合意に基づいて,約束を実行する「新しい動機」が生じ,約束が拘束力を持つという.(T522)この議論は,一見,約束の拘束力を言語使用の規則に基づくものとする,サールの議論に類似している.しかし,この議論が,人間本性の原理による道徳の成立原因と機能の解明という,ヒュームの企図の一部として収まるには,この合意がいかにして成立し,機能するのかが,人間本性の原理に基づいて説明される必要がある.ヒュームによる合意の説明は,ある意味では単純明解である.約束によって互いの行為を拘束することに,社会の成員が等しく利益を感じ,その感じを互いに表出することによって,合意は成立し,約束は拘束力を持つようになる.しかし,ヒュームが一方で,約束は,いかなる自然な心的作用によって成立するのでもないと主張していること(T516f.)を想起すると,合意の成立を説明するもの,また,合意に基づいて成立する「新しい動機」といわれるものが,人間本性の原理からいかにして導かれるのか,疑問が生ずる.
 言い換えると,問題は,「‥‥と約束する」という発話にある心的作用が伴うことによって,発話の意味と,それから生ずる約束の拘束力が説明できないとすれば,それらを説明するのは,いかなる種類の事実なのかということである.このように問題を述べ直すとき,直ちに想起されるのは,ヴィトゲンシュタインにおける規則の問題に関する議論であろう.トマス・ネーゲルは,クリプキの議論に言及しながら,この種の問題が示すのは,規範的なものを,行動や,ディスポジションや,経験に関する,規範的要素を含まない事実に還元することが不可能であることだと述べている.(5)他方,サールも,最近は,構成的規則に依存する制度的事実は義務的な性格(deontic status)を持ち,この義務的な性格は,より原始的な,単純な事実に還元することができないと主張している.サールは,このような還元の試みに失敗した例として,ヒュームの名を挙げる.(6)
 ヒュームの議論は,規範的なものを自然な事実に還元する無謀な試みであり,それゆえに失敗するのが当然だったのであろうか.それほど単純にそうとは言えない.ここで言う自然な事実が,約束するものの心の内にある,決意や,欲求や,意志というような心的作用を指すとすれば,それらによって約束の拘束力が生じないことを,ヒュームはむしろ積極的に主張している.では,ヒュームは,ネーゲルやサールのように,規範を,規範自身以外のものによっては説明できないものと見なしたのであろうか.これもまたあり得ない.「いかなる行動であれ,それが有徳で道徳的に善であることができるのは,その行動を産み出す動機が人間本性のうちにあって,その動機が,行動の道徳性の感覚とは別個のものである場合だけである」ということは,ヒュームにとって「疑われることのない原則」である.(T479)約束の持つ拘束力は,道徳的規範とは別個の人間本性に関する事実によって説明されなければならないのである.このディレンマを逃れる道は,「心に関する自然な事実」という概念の再検討にある.ヒュームは,「社会を知らない人間どうしは,たとえ互いの考えを直観によって見て取ることができたとしても,互いに何らの契約を交わすこともできない」(T516)とする一方で,約束の利点は,「ほんの短い間でも社会を経験すれば,」(T522)すべての人間にとって明らかになると述べる.そして,合意の成立には,合意から生じる利益に全員が気づいていることが互いに知られるだけで十分である.「社会を知らない人間」が約束の拘束力のもとになる合意を結ぶことができないのは,合意の成立に必要な知識を持つことができないからであり,そのような人間にとって,その知識は,たとえ互いの内面にあるものを直知できたとしても得ることができない.すると,「社会を知らない人間」と,社会の成員どうしで合意を結ぶことができる人間との間では,人間本性の能力によって可能なことの範囲自体が,異なることになる.合意の成立の説明を整合的に理解するためには,ヒュームにおいて「心に関する自然な事実」にあたるものの範囲自身が,議論の文脈に応じて変化するとみなければならない.
 以下では,約束の分析に現れるさまざま心的事実の本性と相互関係を,ヒュームのテクストに即して検討する.しかし,その前に,ヒュームの自然主義ということついて,多くの読者が抱くと思われる疑問に答えておかねばならない.

II
 ネーゲルは,言語の使用における規範的要素が非規範的要素に還元できないということは,「ヒュームのである-べきであるのギャップの,まごうかたのない一例である」と述べている.(7)このように,ヒュームは,「である/べきである」問題を提起した当の人物でありながら,「である」と「べきである」のギャップを埋めようという見込みのないことを試みたとされる.「である/べきである」問題の古典的な定式化とみなされてきたのは,『人間本性論』第三巻第一部第一節末尾の叙述である.この叙述の解釈,およびその内容とヒューム自身の道徳論,とくに人為的徳論における自然な責務の説明の整合性に関しては,古くから論争があるが,(8)ここでその内容を要約する紙幅の余裕はない.そこでそのかわりに,いかなる意味でヒュームが自然主義者であるのか,私の考えを簡単に述べることによって,事実と規範の問題とヒュームの人為的徳論の関係について見通しをつけよう.
 ヒュームは,人間の学においても,自然哲学におけるのと同様の経験的な方法が用いられなければならず,経験によって知られる以上の究極的原理を明らかにすることは,外的物体について不可能であるのと同様,精神についても不可能であると主張する.そして,人間の判断力や知性についての哲学的探究が,物理的自然についての学問的探究と異なる特権的な基礎を持っていることを否定する.(Txvii)ここに,クワインの「自然化された認識論」(9)におけるのと同じ,自然主義的態度を見出すことができる.
 しかしわれわれの目下の主題にとってより問題となるのは,今日の心の哲学において,また倫理学において,自然主義という名のもとに通常理解される議論と,ヒュームの立場との関係である.今日,心の哲学に関わって,自然主義と言うときに普通に理解されるのは,存在論的には物理主義をとりながら,物理主義の世界像の中に,心的な出来事や性質を収めようとする試みであろう.しかし,心的な出来事と物理的な出来事の同一性や,心的性質の物理的性質への付随等の主張は,そのままでは,ヒュームの哲学の基本的原理に抵触する.ヒュームは,精神に現れるすべてのものは知覚,すなわち印象と観念であるとし,かつ,知覚がいかなるものであるかは,明らかに,あますところなく知られ,(T190)また,知覚は,それ自体として,他のものの存在を想定することなく,思念されうるとしている.(T207)ヒュームの立場からは,知覚が,われわれには知られないが,実は,物理的ななにものかと同一であるとか,存在として物理的なものから独立でないということを容易に認めることはできない.ヒュームの心の哲学を自然主義的なものと言い得るとしても,その場合「自然」ということは,物理主義を前提してではなく,ずっとゆるやかな意味で理解されなければならない.
 倫理学における自然主義を広く理解するなら,それを,道徳的な規範が,規範的な要素を含まない事実に何らかのしかたで由来するとする説,と言うことができるであろう.ヒュームの説を倫理的自然主義の一つの形態と考えるとすれば,その際,道徳的な規範のもととなる事実は,人間の情念である.ヒュームは,道徳が人の行動を引き起こす力を持つからには,そのもとになるのは,単なる知的な判断ではなく,情念でなければならないと主張する.(T470)「である/べきである」問題の指摘が,倫理的自然主義への批判として有効であるのは,批判の対象となる説が,事実的言明から道徳的言明を導出する推論のモデルを提出しているか,そのようなモデルに従って再構成できる場合であろう.ヒュームの議論は,事実的言明と道徳的言明の関係を,推論として示してはいない.また,そのような推論モデルに従ってヒュームの議論を再構成することが妥当だとは,私は考えない.だが,この点に関する詳しい議論は他の機会にゆずる.ともあれ,本稿の主題である約束に関するヒュームの議論に限って言うなら,そこから,約束に関わる諸事実の分析と,それらの事実から約束の拘束力がいかにして生ずるかについての因果的説明を取り出すことはできよう.これは,事実から規範への推論ではないにせよ,一種の,規範の事実への還元とであると言える.この還元が,サールの,事実から義務を導出する試みと同様に失敗しているのではないとしたら,それはなぜか.また,規範的なものの自然な事実への還元を一般的に不可能であるとする議論に対して,ヒュームの立場を,少なくとも約束の拘束力の自然な側面に関する限り,いかに擁護しうるか.それをつぎの節で明らかにしよう.それが結局,第I節で提示した,この論文の主な課題に対する解答ともなる.

III
 ヒュームの議論は,「約束において一定の言語表現を用い,それによって互いの行為を拘束するという合意に基づいて,約束を実行する「新しい動機」が生じ,約束が拘束力を持つ」というかたちに要約できる.このとき,ヒュームの見解は,約束の拘束力を言語使用の規則に基づくものとする,サールの見解に非常に近いものに見える.また,ヒュームが合意の働きによって埋めようとしているのは自然な事実と規範との間のギャップだと,ある意味では言える.しかし,そのギャップは,サールが「「である」から「べきである」の導出」において,発語内行為の規則によって埋めようとしたギャップと同じものではない.サールが埋めようとしたのは,言語表現の発話という言語使用のレヴェルの事実と,約束に伴う義務の間にあるギャップであった.ヒュームが埋めようとしているギャップは,約束において表出される決意という心的作用と,約束から生ずる新しい動機の間にある.

「決意は,約束が表出する精神の自然な作用である.しかし,この場合に決意しか存在しないとすれば,約束は,われわれがすでに持っている動機を公にするだけであり,新しい動機や責務を作り出さないことになるであろう.新しい動機を作り出すのは,人間の合意である.」(T522)

ここでは,あたかも,決意が先に存在して,それに,合意に基づく新しい動機が付け加わるかのように述べられている.しかし,実際には,合意に基づく約束の拘束力があるからこそ,約束された行為を実行しようという決意が生ずるのである.この叙述の意味するところは,約束に際して成立している諸事実を分析すると,その一つに決意があるが,決意だけで約束の拘束力が生ずるとは考えられないから,約束の拘束力の原理は,他に,すなわち合意に求められねばならない,ということである.
 合意の出発点は,利益の期待である.特別な思いやりをもたない他人どうしが助け合おうとするのはなぜか.それは,自分が相手の手助けをすることから,つぎに相手の助けを得るという利益が期待されるからである.このような期待ができる理由は,相手にとっても,他人と助け合う関係を保つことが利益にかない,自分の期待を裏切ることがかえって不利益になることが理解されるからである.(T521)このような利益を各人が感じ,その感じを社会の他の成員に向かって表出することにより,社会の全成員が同じ利益を感じていることが理解されると,ただちに,約束の拘束力の原理である合意が成立する.(T522f.)また,「ほんの短い間でも,社会を経験すれば,これらの帰結や利点は,すべての人間にとって明らかになる.」(T522)こう述べられるとき,合意は,人間本性の原理に基づいて簡単に説明できるかのようである.しかし,ここで,ヒュームが,「社会を知らない人間どうしは,たとえ互いの考えを直観によって見て取ることができたとしても,互いに何らの契約を交わすこともできない」(T516)と述べていたことを思い出さなければならない.社会に属する人間どうしの間では,容易に形成されうる合意が,「社会を知らない人間」にとってまったく不可能なのはなぜか.
 約束をはじめ,合意に支えられる行動の持つ道徳的性質は,自然ではなく,人為的であるといわれる.これは,その行為の動機が,他人もまた同じ規則に従って行動すべく拘束されていることを条件として生ずるからである.合意に基づく行動は,他人の行動を事実として予期することに条件づけられているだけでなく,他人の行動が,自分の行動同様,合意に基づいて拘束されていることに条件づけられている.「社会を知らない人間」であっても,「互いの考えを直観によって見て取ることができた」とすれば,他人の行動の予想に基づいて,自分の行動の動機を形成することができる.この人間にできないのは,合意によって互いの行動を拘束し,みずからもまたそれに従って行動することである.他人の行動を事実として予期することと,合意によって互いの行動を拘束することの間のギャップは,いかにして埋められるのか.この問いに答えるためには,精神の働きの表出(expression)というものの含む問題を検討する必要がある.
 精神の働きが表出されるという場合に,二つのしかたが考えられる.一つは,意図せずして精神の働きが表に現れる場合であり,例としては,顔の表情や身体の動きによって強い情念が表出される場合があげられる.もう一つは,意図的な表出であり,例として,言語による表出があげられる.グライスにしたがえば,この二つの表出を,それぞれ,「自然」,「非自然」と特徴づけることができよう.(10)しかし,意図しない表情や身体の動きは,精神の働きの外的な徴候に過ぎない.これに対して,意図的な表出においては,言葉や標は,精神の働きと外的に結びついているのではなく,精神の働きを表出することは,それらの本来的なあり方である.このことには注意が必要である.
 何度も述べているとおり,ヒュームは,最初に,約束において表出される精神の働きが何であるか検討し結局,約束においては,合意に依存せずに成立するようないかなる精神の働きも表出されていないと結論する.「社会を知らない人間」に言及されるのも,この文脈でである.(T516f.)つまり,「社会を知らない人間」にとって,他人の心的作用として理解可能なものは,合意に依存せずに成立する心的作用のみであるが,そのような心的作用の理解は,約束の拘束力を説明し得ない.では,約束の拘束力を可能にするのは,他人の心に関する,いかなる種類の理解なのか.ヒュームは,こう述べている.

「人があることを「約束する」と言うとき,この人は,実のところ,そのことを実行する決意を表出しているのだが,それと共に,この言語表現を用いることによって,それを実行しない場合には決して再び信頼されることがないという罰に,自ら服しているのである.」(T522,強調原文)

ここでは,決意の表出が,言語表現による意図的な表出であることが決定的な意味を持っている.ある人の心に実際に決意が生じ,それが直観や「自然な」外的徴候によって他の人に知られたとしても,それだけでは責務は生じない.これに対して,言語表現によって決意が表出される場合は,表出されているはずの決意が実際には生じていないこともあり得る.にもかかわらず,決意の表出を含意する約束の言語表現の使用からは,同じように責務が生ずる.

「明らかに,意志がそれだけで責務の原因となると想定されはしないのであって,意志が誰かに束縛を課すためには,言葉や標によって表出されなければならない.(中略)ある人が,言葉で約束を与えながら,密かに異なった方向の意図を抱き,決意も,責務を負う意志も取り消したとしても,課された拘束が減ずるわけではない.」(T523)

 ここで,決意と「責務を負う意志」といわれるものとの関係について,少し説明が必要であろう.約束において表され,約束の拘束力の原理となる心的作用は,約束した行動を行おうとする決意でも,欲求でも,意志でもない.そして,約束が以上のいずれを表すのもないとすれば,約束が表すのは,「約束から生ずる責務意志することでなければならない.」(T516,強調原文)しかし,このような意志の存在を想定することは,明らかに不合理である.(T516f.)しかし,約束における言語表現の役割を説明するに際しては,約束が表現するのは,まさに,約束によって責務を負おうとする意志であるとされる.ヒュームの議論は,一見,理解困難である.しかし,責務を負おうとする意志の存在の否定は,合意の導入に先立つ段階についてのみ,あてはまる.ヒュームの論点は,合意に先立って,人間が内心に抱くだけで,約束の拘束力を生じさせるような神秘的な心的作用は存在しないということである.だから,合意の導入以前の議論の段階では,約束が決意を表すことを否定しながら,約束を成り立たせる合意を説明する段階では,「決意は,約束が表出する精神の自然な作用である」(T522)とも言うことができる.決意という種類の心的作用は,「社会を知らない人間」にとっても可能な,自然なものであるが,合意に先立っては,それによって約束の拘束力を成立させることはできない.決意に代わって約束の拘束力の原理となるはずの,責務を負う意志は,合意以前には存在し得ない.これに対し,約束という行動のしくみを導入する合意を前提とすれば,言語表現による決意の表明によって,決意の対象である行動を実行する責務が生ずる.このとき,責務を負おうとする意志とは,その表明によって責務が生ずるものであるから,それが何らかの不可解で神秘的な心的作用でない限りは,それは,合意の成立を前提として形成された決意に他ならないだろう.この意志が,言語表現を介して表出され,理解されるとき,約束がなされる.聞き手によるこの意志の理解は,直観や自然な外的徴候によるものではない.「言葉が意志の完全な表現である」(T524)ということによってヒュームが意味しているのは,意志の表出が,それを表出しようとする意図を伴い,聞き手が,意図が表出されていることを理解すると同時に,その表出自体が意図的になされていることを理解するという,意図的な表出に特有の条件の成立である.
 約束における心的作用の表出の構造の,以上の分析は,ヒュームの人為的徳論全体の理解にとって,重要な意義を持つ.個々の約束においてだけでなく,約束による拘束という行動の枠組みを成立させる合意においても,また,約束の責務以外の人為的な徳を成立させる合意においても,同様の構造をもった,相互の意図の表出が必要であるからである.これらすべての場合において,意図の表出は,表出をなそうとする意図自体が表出され,理解されることに支えられている.個々の約束は,意図の表明による行為の相互拘束という,公的社会を成立させる本源的な合意と同型の状況に社会の成員を投げ返し,その都度,本源的な合意の構造をかいま見せるのである.
 もちろん,合意は約束とは異なる.(T490)筆者はこの区別を無視しようとしているのではない.約束は合意によって成立する規則に依存して成立するが,合意はそれに先立って存在する規則に依存することはできない.この点については,以下でさらに論ずる.なお,この際,つぎの点を確認しておく.conventionという語は,現代の読者に,規則と類縁の概念である規約や慣習を連想させるかもしれない.しかし,この語は,ヒュームにおいては,一貫して,正義その他の諸規則を成立させる合意を意味しており,規則そのものを意味してはいない.(T533他)この点もまた,人為的徳と規則の関係を論ずる上で重要である.
 さて,本源的合意において決定的な役割を果たす,心的作用を表出しようとする意図は,いかなる心的作用であり,いかにして表出され,理解されるのか.問題は特に,そのような意図の形成が,それ自体が合意に基づく公的社会の成立を前提としてはいないかということである.確かに,こうした意図の形成は,「社会を知らない人間」にとっては不可能であろう.しかし,この意図の働きによって,合意の成立を説明しようとすることは,循環論法ではない.それはつぎの理由による.合意を基盤とする,所有,所有の移転,約束の遵守等の権利義務は,構成的規則によってそれらの権利義務として認定されると考えることができる.しかし,本源的な合意を成立させる意図の表出自体をそれとして認定する構成的規則は考えることができない
 「社会を知らない人間」は,理論的仮構であり,実際には,社会の一員であることが人間の自然なあり方であると,ヒュームは考えている.ただし,ヒュームが「社会」というとき,それは正義をはじめとする「自然法」(T484)の確立した公的社会のみを意味するのではない.自然な欲求が「男女を結びつけ,結合を維持する.そしてやがて,二人の間に生まれた子供に対する関心というところに,新しい絆が生じる.この新しい関心がまた,両親と子供の結合の原理となり,さらに多くの人間からなる社会を形成する」(T486)とヒュームが述べるとき,この「社会」とは,人間が生物として持つ必要に基づいて行う共同生活の単位である.このような共同社会の中で,合意に必要な心的能力が形成され,その後に,合意に基づく公的社会が成立するのだと,私は理解する.
 合意の成立は,自然な情念の働きに基づく共同社会から権利義務に関する人為的な規則の確立した公的社会への移行を特徴づける.そして,これらの権利や義務は,構成的規則によって成立すると考えることができるが,この構成的規則を確立する合意自身の成立は,構成的規則によるとは考えられない.合意のもととなる意図の表出がなされたかどうかを定める構成的規則は,作ることができないからである.このことを確認するために,約束に関するヒュームの議論へと立ち返ろう.
 約束が拘束力を持つためには,言葉や標による表出が必要である.そこで,ある言語表現を導入し,その表現の使用を約束と認めるという規則を立てるとしよう.この規則を構成的規則とみなすことは可能であろう.しかし,「表現は,大半の場合に約束を構成するすべてであるが,常にそうであるわけではない.」(T523)すでに述べた意味で,「言葉が意志の完全な表現」でなければならないのである.このことを,規則によって保証することは不可能である.仮に,「言葉が意志の完全な表現である」ことを示す標として,「‥‥と約束する」と述べた後に,「本気で」と付け加えるという規則を立てたとしよう.このとき,「本気で」という言葉が適切な意味理解と意図を伴って用いられていることは,いかにして保証できるだろうか.意味理解と意図の存在を保証しようとしてこのような規則をいかに多く立てようとも,われわれが一歩も前進することのできないのは明らかである.結局,約束に関する構成的規則の効力の土台である意味理解と意図自身は,構成的規則によって成立するのではなく,共同社会の中に生まれる生き物としての人間に,自然に備わった心的能力から生じているものとして,仮定される以外にない.同じことは,共同社会から公的社会への移行をもたらす本源的合意における意図の表出と理解にも,そのままあてはまる.(11)
 結論として,約束において表出される決意という心的作用と,約束から生ずる新しい動機の間のギャップについて,われわれはつぎのように言うことができる.約束に伴っている心的作用には,決意が含まれる.決意という一般的な種類に属する心的作用は,約束と独立にも成立しうる.しかし,約束の対象になる個々の行動は,約束の前提になる行動の枠組みなしには,決意の対象とはなり得ない.約束された行動を実行する決意が形成されるためには,行動の枠組みから生ずる利益の考慮が必要である.この利益の感じが互いに表出され,理解されるとき,約束を支える合意が成立する.すると,約束の新しい動機とは,合意された枠組みに従って決意を形成する心的作用である.この心的作用を支えるのは,人間が,相互の意図を,言葉や標によって表出し,理解する能力であり,その能力の基礎は,表出をなそうとする意図を形成,表出,理解する能力である.このような意図の形成は,人間の自然な状態として,社会からまったく孤立した状態を想定した場合には,不可解なものとなる.しかし,自然な欲求を原理として形成される共同生活こそ,人間の自然な状態である.共同生活が人間にとって自然であるのと同じ意味で,意図の表出と理解もまた,人間にとって自然である.ヒュームの約束論を,道徳の自然化の試みの一部とみなしうるとしても,その場合の自然は,理論的に仮構された「社会を知らない人間」の心的能力にまで還元できるとは考えられない.ヒュームの議論は,群れの中に生まれ,その中で心的能力を形成するという,人間の自然なあり方を抜きにして,約束の拘束力が理解不可能であることを示している.

(1) 以下,慣例に従い,'T'につづく数字は,David Hume, A Treatise of Human Nature, edited by L. A. Selby-Bigge, Second edition, revised by P. H. Nidditch, Oxford University Press, 1978のページ数を示すものとする.
(2) John R. Searle, 'How to Derive 'Ought' from 'Is',' Philosophical Review, 73, 1964.
(3) e. g. R. M. Hare, 'The Promising Game,' Revue Internationale de Philosophie, 70, 1964.
(4) 構成的規則とは,一般的に「文脈CにおいてXはYと認められる」という形を取った規則である.このとき,XはYを成立させる規約的な手段であり,Yの存在は,構成的規則に依存し,規約的である.サールの議論における構成的規則の役割はきわめて広範である.詳しくは以下を参照.Searle, Speech Acts, Cambridge University Press, 1969, and The Construction of Social Reality, Free Press, 1995.
(5) Thomas Nagel, The Last Word, Oxford University Press, 1997, pp. 45f. Cf. Saul A. Kripke, Wittgenstein on Rules and Private Language, Harvard University Press, 1982, pp. 22f.
(6) The Construction of Social Reality, p. 70.
(7) Nagel, ibid.
(8) この論争はA. C. MacIntyre, 'Hume on 'Is' and 'Ought',' Philosophical Review, 68, 1959にはじまると思われる.論争を構成する論文のいくつかは,V. C. Chappell (ed.), Hume, Anchor Books, 1966やStanley Tweyman (ed.), David Hume: Critical Assessments, Vol. 4, Routledge, 1995に再録されている.
(9) W. V. Quine, 'Epistemology Naturalized,' in his Ontological Relativity and other essays, Columbia University Press, 1969.
(10) H. P. Grice. 'Meaning,' Philosophical Review, 66, 1957, repr. in his Studies in the Way of Words, Harvard University Press, 1989.
(11) ヒュームにおいては,言語の形成もまた合意によるのであるから,(T490)合意が言語という規約的手段に依存し,従って構成的規則に依存するという議論は成立しない.グライスの場合も,非自然的意味が規約的手段によるものに限られるわけではない.Studies in the Way of Words, p. 215.

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